『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』/戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎(その1)

『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』/戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎

大東亜戦争における諸作戦――ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦――の失敗を、「組織としての日本軍」の失敗として改めて考察し、それらを反面教師とすることで、現代のさまざまな公的/私的組織のために役立てていこう…というのが本書の主な主張である。近代国家における軍隊というのは、合理的で階層的な官僚制組織の最たるものであるわけだけれど、にも関わらず、大東亜戦争における日本軍は、諸作戦においてしばしばその非合理性/非効率性を露わにしていた。なぜ、そのような誤ちや失敗が発生するに至ったのか?また、そういった失敗の原因として求められるであろう日本軍の組織的特性、組織的欠陥とはいったいどのようなものであったのか??これらの疑問に答えるべく、著者らは失敗した作戦の分析を行い、そこから読み取ることのできる日本軍組織の内在的論理を明らかにしていこうとする。

そういうわけで、本書のなかでは、各作戦の失敗の原因というやつがそれはもう事細かに記されているわけだけれど、ここでは各作戦に共通していたとされる性質について、メモを取っておくことにする。

  • 短期決戦志向
  • 日本軍は、長期的な戦争戦略、グランド・ストラテジーを確立することのないまま開戦に踏み切っていたため、必然的に短期志向の戦略展開を続けていくことになってしまった。著者らは、日本軍の長期的な展望というのは、「ある程度の人的、物的損害を与え南方資源地帯を確保して長期戦に持ち込めば、米国の戦意喪失、その結果としての講話がなされようという漠然たるもの」であった、などと述べている。まあ、そもそも、そのようなあいまいな展望しか描けないほど無謀な戦争だった、ということであるのかもしれない。

  • 防御、情報、諜報に対する関心の低さ
  • 短期決戦志向は、海軍における艦隊決戦志向、陸軍における兵力の逐次投入といった戦略展開に如実に反映されていたけれど、それに加えて、補給や兵站の軽視や兵器(空母や戦闘機など)の防御が軽視されたり、諜報/情報担当者の役割が蔑ろにされたり、偵察・索敵が不十分なまま戦闘に突入していたり、などといったところにまで根を伸ばしていた。たとえ必要な場合であっても、長期持久戦はどういうわけか回避され、急進論者による総攻撃が声高に主張される…という状況が各所で発生していた。

  • 戦略策定における、精神論や人情論の過度の重用
  • また、合理性や効率性ではなく、情緒や空気によって戦略が策定されてしまう傾向があった。本書で何度も例が挙げられているけれど、「必勝の信念」だとか、「誰々たっての希望」だとか、「全般の空気」などといったものが、軍議における理性的な判断を弾き飛ばし、コンティンジェンシー・プランをまったく持たないまま、実際のところ誰もが成功不可能だと感じるような、きわめて主観的で楽観的、実現可能性の低い作戦の実施に踏み切っていってしまった、ということだ。そしてまた、組織のなかで論理的な議論を行う制度や風土が醸成されていなかったために、それらの作戦は途中で変更/中断されることのないまま、決定的な失敗の局面まで突き進んでいくことになってしまった。

  • 戦略オプションの幅の狭さ
  • 上記のような特性は、戦略の幅を狭め、結果として、視野の狭窄、創造力の貧困化、思考の硬直化を招いていったものとかんがえられる。長期的な展望を持たないがために、補給を軽視するがために、諜報活動を軽視するがために、コンティンジェンシー・プランを持たないがために、戦略からは柔軟性が失われていき、とにかく訓練によって個々の技術を高め、後は「必勝の信念」でがんばるしかない、ということになってしまう。結果、作戦は当初の想定から離れていくにつれ、場当たり的なものになっていってしまうわけだ。

  • 官僚制的組織構造の不徹底
  • 明確な官僚制的組織構造がありながらも、そのメンバー間には強固な情緒的結合があり、また、個人の下克上的な突出を許容するような風土が同時に存在していた。階層的な意思決定のシステムが満足に機能せず、根回しや微妙な表現の意を汲むなどといったコミュニケーションが行われ続けていた。これによって、作戦の展開/終結時にトップによるリーダーシップがじゅうぶんに発揮されなかったり、意思決定が致命的に遅滞したり、といった事態が招かれることになった。この点について、著者らは、こんな風に述べている。

    日本軍の組織構成上の特性は、「集団主義」と呼ぶことができるであろう。ここでいう「集団主義」とは、個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない。個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという「日本的集団主義」に立脚していると考えられるのである。そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」に対する配慮である。(p.315)

  • 組織としての学習の軽視
  • 敵勢力、敵兵器の分析が十分になされないまま、精神主義によって自己の戦力を過大評価し、既に失敗した作戦をなかば教条的に繰り返して敗北する…という学習能力の欠如が見られた。また、日本軍のなかでは「自由闊達な議論が許容されることがなかった」ため、組織全体での情報共有能力が弱く、敗北あるいは勝利の要因の抽出が不十分で、戦略/戦術を理論化したりアップデートしたりする機会をたびたび逃してしまっていた。「レイテ海戦に至ってもなお、艦隊決戦思想からの脱却がなされていな」かったし、「沖縄でも、中央部の発想は本土前線における決戦、そして機動反撃という戦略・戦術を一歩も出ていな」かったのだった。たとえば、こんなエピソードには、なかなかインパクトがある。

    ミッドウェー島攻略の図上演習を行った際に、「赤城」に命中弾九発という結果が出たが、連合艦隊参謀長宇垣少将は、「ただ今の命中弾は三分の一、三発とする」と宣言し、本来なら当然撃沈とすべきところを小破にしてしまった。しかし、「加賀」は、数次の攻撃を受けて、どうしても沈没と判定せざるをえなかった。そこでやむなく沈没と決まったのだが、ミッドウェー作戦に続く第二期のフィジー、サモア作戦の図上演習には沈んだはずの「加賀」が再び参加していた。
    ここでの宇垣参謀長の措置は、図演参加者の士気の低下を恐れたためといわれる。つまり、日米の機動艦隊決戦という戦争の重大局面を前にして、甚大な被害あるいは敗北を予想させるような図演の結果は、参謀や前線指揮官の間の自信喪失につながることを懸念したのである。(p.328,329)

    え、じゃあ「図演」、何のためにやったの?って感じだけれど、「集団主義」重視の姿勢がここでも顕わになっているというわけだ。

    また、越権行為や専断命令を行い、結果として作戦計画が失敗、重大な被害を軍に及ぼした作戦や統帥の責任者が、しばしばその責任を問われないまま中枢に居続けている、ということがあった。積極論者の過失は大目に見られ、自重論者は卑怯者扱いされる…というような風土があったとも言われる。こうした個人評価制度の不徹底や、個人責任の不明確さが組織の環境適応のための学習を妨げ、情緒主義の拡大、声の大きな個人の突出を許していってしまった、というわけだ。うーん、こんな組織じゃうまく機能するわけないよね、ってなんだか暗澹たる気持ちになってしまう。


『ウォールフラワー』

『ウォールフラワー』

日比谷TOHOシネマズシャンテにて。他人とコミュニケーションを取ることが苦手で、文字通り「壁の花」だった16歳の少年が、自分を認めてくれる友人たちと出会い、彼らと共に時間を過ごすなかで、友情や恋愛にまつわるさまざまな喜びや苦しみを知っていく…という、いわゆる通過儀礼についての物語だ。まあ、王道ど真ん中をいく青春映画だと言っていいだろう。原題は、”The Perks of Being a Wallflower”。

本作の物語は、こういったティーンの友情ものにはお決まりのエピソード――自分を理解してくれる先生が現れたり、コカインパーティではじけてみたり、友人がゲイであることをカミングアウトしてきたり、好きな子がいけ好かない奴と付き合っていたり、友達グループのなかで「やらかして」しまって居場所をなくしたり――の連なりによって構成されている。いずれも既視感のある内容ではあるのだけれど、なかなか描写がていねいだし、主人公たちの自然体な演技が素敵なのもあって、たのしく見ていられた。(ただ、物語の後半に至って、主人公の幼少時のトラウマが明らかになる、という展開については、ちょっと蛇足であるようにも感じられた。主人公の「壁の花」的パーソナリティがトラウマ由来の特殊なものであるかのように見えてしまうことで、物語の普遍性が減退してしまうようにおもえてしまったからだ。)

作品の舞台は90年代前半のアメリカで、主人公たちはザ・スミスやデヴィッド・ボウイを集めたミックステープを作って交換したり、『ロッキー・ホラー・ショー』を舞台で演じたり、レコードやタイプライターをプレゼントし合ったりする。こういう細部にはなんとも言えないわくわく感があるし、クライマックスのシーンでデヴィッド・ボウイの”Heroes”が使われるのなんて、むちゃくちゃにベタだけれど、やっぱり、ぐっときてしまう。

要は、誰しもが通ってきた10代の頃を振り返ってみたときにだけ感じることのできる、きらきらとして甘酸っぱいノスタルジーの感覚にフォーカスした作品というわけで、こういう物語に感情移入しないでいるのは難しい。なりたい自分になるため、欲しいものを手に入れるために、なけなしの勇気を振り絞って前に一歩を踏み出そうとする16歳♂の物語なんて、もう誰が見たってキュートに決まっているのだ。

 *

…そういえば、デヴィッド・ボウイの曲って、映画のなかで使われるとすごく印象に残ることが多いなー、とおもう。『ドッグヴィル』の”Young Americans”や、『ライフ・アクアティック』のセウ・ヨルギによる”Starman”カヴァー、最近だと『クロニクル』の”Ziggy Stardust”の使われ方なんかは、どれも素晴らしかった。ドラマティックな曲調や歌詞が、物語の世界観となんとも絶妙にマッチしているのだ。


「ヘーゲル法哲学批判序説」/カール・マルクス

「ヘーゲル法哲学批判序説」/カール・マルクス

マルクスがヘーゲルの法哲学を批判しようとする動機と論拠とはいかなるものであるのか、が簡潔に記された文書。このなかで、プロレタリアートとはいったいどのような役割を担っていく存在であるのか、ということについても少しだけ触れられている。

まず、マルクスは、宗教とは現実における悲惨の表現であり、かつ、それに対する抗議でもある、そういった存在であると言う。

宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。(p.72)

宗教は、現実的な幸福を実現することのできない民衆に対して、天上での幸福を提示する「民衆の阿片」として機能する。だから、宗教を揚棄するためには、「民衆の現実的な幸福」が得られるよう求めていかなくてはならない、ということだ。

そうして彼は、このように続ける。

それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりもまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する。(p.73)

かなりややこしい言い方をしているけれど、要は、宗教に頼らないで生きていくためには現実の改革が必要であり、それは歴史的な課題である。よって、歴史に奉仕し、真理を探求しようとする哲学の課題とは、まさにこの現実社会について解き明かすことだということになる…というような話だ。

現時点のドイツは、その他の近代国家と比べて市民社会としてまだまだ成熟しておらず、時代錯誤とも言えるような点が多々あるけれど、哲学についてはじゅうぶんに成熟している、とマルクスは言う。というか、ドイツの法哲学と国家哲学――それはヘーゲルによって「もっとも首尾一貫した、もっとも豊かな、もっとも徹底したかたち」で示されたものだ――こそが、近代的現在と同じ水準で語ることのできる唯一のドイツ史である、と言っている。

古代諸民族が自分たちの全史を想像のなかで、つまり神話のなかで体験したように、われわれドイツ人はわれわれの後史を思想のなかで、つまり哲学のなかで体験した。われわれは現代の歴史的な同時代人ではなくて、その哲学的な同時代人である。ドイツ哲学はドイツ史の理念的な延長である。したがって、われわれの実際の歴史の未完成を批判する代わりに、われわれの観念的歴史の遺作である哲学を批判するとき、われわれの批判は、それこそ問題だと現代が言っている諸問題のまっただなかに立つことになる。(p.81)

ただ、ドイツにおいては、哲学と政治的実践とがうまく結合していない。ドイツは、フランスのような、「国民のいずれの階級も政治的理想主義者」というようなタイプとは違うのだ。では、いったいどこに「民衆の現実的な幸福」の可能性、「ドイツ解放の積極的な」可能性を見出すことができるのか?

それこそが、プロレタリアートである、とマルクスは述べる。「社会の他のすべての領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のすべての領域を解放することなしには、自分を解放することができない一領域、一言でいえば、人間の完全な喪失であり、それゆえにただ人間の完全な再獲得によってのみ自分自身を獲得することができる一領域」であるところのプロレタリアートは、急激な産業の発展と社会の解体によって生み出された階級、市民社会の矛盾と疎外とを体現している階級である。だから、「社会の否定的帰結としてプロレタリアートのうちに体現されているもの」を理論的に分析し、その実践的な政治的解放を目指すということこそが、現在における哲学の課題であるということになるし、また、プロレタリアートの解放というのは哲学の政治的実施によって初めて可能になるものだといえる…マルクスはそんな風に書いている。

哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちにその精神的武器を見出す。そして思想の稲妻がこの素朴な国民の地盤の根底まで貫くやいなや、ドイツ人の人間への解放は達成されるであろう。(p.95)

ドイツ人の解放は、人間の解放である。この開放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートの揚棄なしには自己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない。(p.96)


「ユダヤ人問題によせて」/カール・マルクス

「ユダヤ人問題によせて」/カール・マルクス

ブルーノ・バウアーの2つの論文に関する書評。ごく短い論考ではあるのだけれど、マルクスは、バウアーの意見を叩き台としつつも、その限界点を指摘することで独自の主張を展開していく…というややこしいことをしようとしているので、全体的にちょっと飲み込みにくい文章になっている。

 *

ユダヤ教徒の社会的/政治的な解放を求める声が日に日に強まってくるなか、青年ヘーゲル派の哲学者であるバウアーは、その著作内で以下のようなことを述べていたという。

  • ユダヤ教徒の解放が必要というのはまったくその通りだが、政治的抑圧の対象となっているのはユダヤ人というよりもむしろ、全てのドイツ人民である。であるからして、ユダヤ教徒の解放の問題というのは、全ドイツ人民の政治的解放についての問題としてかんがえていく必要がある。「われわれは、他人を解放しうる以前に、自分自身を解放しなければならない。」
  • ドイツ人民の解放のためには、国家がキリスト教というしがらみを捨てること、そして人民が特定の宗教から自由な意識を持つことが必要である。「バウアーの考えでは、ユダヤ人問題はドイツの特殊事情には依存しない一般的な意義をもっている。それは国家に対する宗教の関係の問題、宗教的偏執と政治的解放との矛盾の問題である。政治的に解放されるよう欲しているユダヤ人に対しても、また他のものを解放し自分も解放されるべき国家に対しても、宗教から解放されることが前提条件として出されるのである。」

バウアーの主張とは、「公民としての解放」のために、ユダヤ人はユダヤ教を、その他のドイツ人はキリスト教を廃棄する必要がある、といったものである(当時のドイツの国教はキリスト教)。宗教を前提として成立している国家は、真の国家とも現実の国家とも言うことはできない、というわけだ。

 **

このようなバウアーの論旨に触れた上で、マルクスは、バウアーが述べているところの「政治的解放」というのは単に政治という限られた枠組みから人民を解放するというだけのことでしかなく、それだけでは不十分である、求めるべくは、より大きな枠組みであるところの「人間的解放」なのではないか、と言う。革命によって国家から宗教を政治的に切り離したとしても、それは宗教からの人間的解放が実現したこととは違うだろう、ということだ。

政治的革命は、市民生活をその構成部分に解体しはするが、これらの構成部分そのものを革命的に変革し批判することはしない。政治的革命は市民社会、すなわち欲求と労働と私的利益と利的権利の世界に対し、自分の存立の基礎に対するように、つまり何かそれ以上基礎づけられない前提、したがって自分の自然的土台に対するように、ふるまうのである。(p.52)

結局のところ、市民社会の成員としての人間が、本来の人間とみなされ、公民〔citoyen〕とは区別された人間〔homme〕とみなされる。なぜなら、政治的人間がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず、比喩的な精神的な人格としての人間であるのに対し、市民社会の成員としての人間は、感性的な、個体的な、もっとも身近なあり方における人間だからである。現実の人間は利己的な個人の姿においてはじめて認められ、真の人間は抽象的な公民〔citoyen〕の姿においてはじめて認められるのである。(p.52)

革命による「政治的解放」によって生み出されたのは、”市民社会(=ブルジョア社会)のメンバーとしての人間”というものを、”人間の本来的な姿”だと見なそうとするような社会だったのではないか。「人間的解放」を真に完遂し、各個人が「類的存在」となるためには、「利己的な個人」によって構成されるところの市民社会そのものを改革する必要があるはずだろう、というのがマルクスの主張だと言えるだろう。

 ***

だいたい、いま、この社会においてユダヤ教とはいったいどのような性質のものであると見なされているか、かんがえてみたまえ、とマルクスは言う。「実際的な欲求」、「私利」、「あくどい商売」、「貨幣」などといった単語がすぐにおもい浮かんでくるだろう…だが、これらは、まさに現代市民社会の中心、根幹の部分にある性質とまったく同一のものではないか?

つまり、革命による「政治的解放」によってもたらされたのは、世に言うところのユダヤ教的性質、すなわち利己主義と自己利益の追求だった、ということなのではないか?…そうだとすれば、ユダヤ教の利益追求的な性質を市民社会が非難することはできない――それはまさに自分自身を非難することであるのだから――し、ユダヤ教的な性質を考察することはこの社会の性質を考察することに他ならない、ということになるのではないか??

そういう意味で、マルクスは、

社会がユダヤ教の経験的な本質であるあくどい商売とその諸前提を廃棄することに成功するやいなや、ユダヤ人というものはありえないことになる。というのは、もはやユダヤ人の意識は何らの対象ももたなくなるからであり、ユダヤ教の主観的基礎である実際的欲求が人間化されてしまうからであり、人間の個人的・感性的あり方とその類的あり方との衝突が揚棄されてしまうからである。
ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。(p.67)

と述べているわけだ。このパラグラフだけを取り出すと、単純な反ユダヤ主義、ユダヤ人差別のように読めてしまうかもしれないけれど、彼が行っているのはまったくそういうことではない。マルクスがここで書いているのは、近代市民社会からの人間的解放が必要だよね、という話なのだ。


『生きがいについて』/神谷美恵子

『生きがいについて』/神谷美恵子

「生きがい」とは何なのか、それは人の生にとってどのような意味を持っているものなのか、どのように人は「生きがい」を得るに至るのか、などといったことについて扱われた一冊。もちろんこれは「生きがい」を手に入れるためのハウツー本ではないわけで、それらの明確な答えがここに記されているわけではない。ただ、神谷はさまざまな文献や自身の体験(ハンセン病患者との交流)を例として挙げながら、「生きがい」を失った人の話を、そしてその暗闇から抜け出し「生きがい」を得るに至った人の話を書き連ねていく。だから本書には「生きがい」の喪失と獲得に関するさまざまなバリエーションがあり、それらに向き合ってきた多くの人々の軌跡がある。読者は、それらを自身の問題と相対するためのヒントとして役立てることができるかもしれない。

 *

若い頃、「生きがい」について悩む人は多いかもしれないけれど、大人になっていくにつれ、その悩みは避けられていくようになるのがふつうだろう、と神谷は言う。一応まともな職業につき、家族を養うことができれば、あるいは、平和な家庭を築き、そこで健康に暮らせれば、それでまあOK、自分の生活は生きるに値するものである、と、ひとまずは自分の存在意義のようなものを感じていられる、というわけだ。

とはいえ、長い一生の間、「生きがい」についてまったくかんがえないで――あるいは、上記のようなある種の社会的役割だけを自分の「生きがい」だと感じ続けて――いられる人はほとんどいないだろう。社会的に重要な役割を果たすことができた壮年期を過ぎ、老年期に至ったときに、それまでの「生きがい」を失ってしまい、価値体系の転換を迫られる人、というのも多くいるはずだし、難病や愛する人の死、夢が断たれたり罪を犯したりすることで「生きがい」を喪失してしまうということもあり得る。そういった際に発せられることになるのは以下のような問いであるだろう、と神谷は言う。

一 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
二 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
三 以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
四 一般に人生というものは生きるに値するものであるか。(p.33,34)

人間というのはみな、自分の生に意味やら価値やらといったものを感じたい欲求を持っているものだ。おそらくそれは、あらゆる生体験のなかにすでに意味や価値の判断というものが未分化な状態で含まれているから、すなわち、人間の知覚には必ず解釈が伴っているからだろう。そういうわけであるから、上のような問いに対し、私たちはそれぞれが採用している価値体系に基づいて、個人個人で答えを出していかなくてはならない。

ここで肯定的な答えが簡単に出せる人は、「生きがい」を感じやすく、生きていくことが楽な人物だということになるだろう。そして、劣等感を抱きやすかったり、他者からの肯定を簡単に受け入れられなかったり、自分で自分の生の意味を認めることができないでいる人は、「生きがい」を見出すべく、問いの答えを探求し続けなければならないということになる。

 **

さて、そういった「生きがい感」をもっとも強く感じられる人種というのは、「自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひと――いいかえれば使命感に生きるひと」だろう、と神谷は言う。目標や使命といったものに向かって自分の生を生かしていく、というそのことによって、生存が充実しているという感覚、自分の生が世界に何かしらの影響を与えているという反響の感覚――それは、社会的所属や承認などの欲求を満たすようなものであるだろう――を得られる、ということだ。だから、神谷によれば、「生きがい感」の希求というのは、未来性の欲求、現在よりも明るくてよい未来を目指し続けたいという欲求である、ということになる。

「生きがい」を喪失した状態には、不安や苦しみ、悲しみといったものが伴う。それらは直接的には、生理的なものであったり、社会的状況によって引き起こされたものであったりするかもしれないけれど、その内奥のところにはいわゆる「実存的不安」、「世界的不安」といったものがあるはずだ、と神谷は主張する。普段の生活のなかでは覆い隠され、直視しないでいられている、生存そのものに属する本質的な不安というものが、生きがい喪失状態において露見する、ということだ。こういった不安や、この不安から生じる、世界に対する否定的な態度、価値の喪失の感情、苦悩などといったものを、他者が慰めや同情や説教などといったものによって恣意的に操作することは不可能である。人間は、自分ただひとりでこの不安と相対し、自分なりの意味づけを行うことで、その態度を決定づけていかなければならないのだ。

 ***

とはいえ、何しろ「生きがい」を失ってしまっているわけだから、その状態を受け入れ、自らの価値体系を変革する、などということがそう簡単にできるわけがない。それができていれば、「生きがい」を失ってなんかいないはず、という話だ。そのような、心の世界が壊れてしまった人、深刻な不安や苦悩や悲しみから抜け出すことができず、社会的な価値基準が受け入れられなくなっている人、自暴自棄になっている人にとってまず大切なのは、「短絡反応」を抑えることだろう、と神谷は書いている。「自分なんかもうだめだ」と己を見限ってしまうこと、「この状態がよくなるはずがない」と時間に対して見切りをつけてしまうこと。苦しみによって生じさせられるそういった短絡的な反応を抑えることからはじまって、徐々に時間をかけて受容へと進んでいくしかない、というわけだ。

そうして不安や悲しみ、苦しみを受け入れた上で、さらに実存的な空虚から抜け出していくためには、新しい「生きがい」が必要となってくるだろう。でなければ、その人は虚無とあきらめのなかで劣等感に苛まれ、人生からあぶれたままの状態になってしまう。

生きがいをうしなったひとに対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、だれにせよ、天来の使者のようなものである。君は決して無用者ではないのだ。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなければできないことがあるのだ。ほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。――もしこういうよびかけがなんらかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐ響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声をうけとめるであろう。「自分にもまだ生きている意味があったのだ!責任と使命があったのだ!」という自覚は彼を精神的な死から生へとよみがえらせるであろう。それはまさに、地獄におちた罪人にむかって投げかけられた蜘蛛の糸にひとしい。(p.176)

こういった新しい生存目標の発見は、何かのきっかけで急激に行われることもあれば、長く苦しい模索帰還を経てようやく得られる場合もあるだろう。そこはまあ、人それぞれだと言う他ない。どのような場合であれ、その新しい目標が、その人の内部にある、何か「本質的なものの線に沿ったもの」であれば、その人は「意味への意志」の欲求不満を解消し、生気を取り戻し、心底から生きることの喜びに満たされることであろう、と神谷は述べている。

 ****

そういうわけで、「生きがい感」を得るための方法というのは人それぞれであるし、その得やすさというのも人によってばらばら、そして、その「生きがい感」をどのくらい強く感じ、信じることができるかということも、もちろん人によってまったく異なっている、ということになる。当然のことだ。だが、「生きがい」は誰しもにとって必要不可欠なものであるし、私たちは誰もがそれを感じる権利と能力とを持っている。それもまた、確かなことだろう。

本書の最後で、神谷は、「生きがい」を感じにくい人や、「あの人にはいったいどのような生きがいがあるのだろう?」などとかんがえてしまう人に対し、人間の存在意義というものを、こんな風にかんがえてみるのはどうだろう?と、ヒントを提示してくれている。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。(p.268)

大きな眼から見れば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるにちがいない。少なくとも、そうでなければ、私たち自身の存在意義もだれが自信をもって断言できるであろうか。現在げんきで精神の世界に生きていると自負するひとも、もとをただせばやはり「単なる生命の一単位」にすぎなかったのであり、生命に育まれ、支えられて来たからこそ精神的な存在でもありえたのである。また現在もなお、生命の支えなくしては、一瞬たりとも精神的存在でありえないはずである。そのことは生きがい喪失の深淵にさまよったことのあるひとならば、身にしみて知っているはずだ――。(p.268,269)

利用価値や有用性といったものに依拠することのない「生きがい」や「存在意義」といったもの、それを誰もが互いに認め、確認し合うことができれば、この世界も多少は生きやすくなるのだろう。けれど、それは何と難しいことだろうか。


Calendar

2018年8月
« 7月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

Archive