「イワン・イリイチの死」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「イワン・イリイチの死」/レフ・トルストイ

舞台は19世紀ロシア。世俗的な成功を手にした中年裁判官、イワン・イリイチという男がふとしたきっかけで病に倒れ、数ヶ月の苦しい闘病の末に死んでいく…という一連の流れを描いた物語だ。

イワン・イリイチという男は、ごく平凡な性格と人生観とを持った主人公である。「賢く覇気があって好感の持てる、品のいい」若者だった彼は、「気楽で、快適で、陽気で、つねに上品で周囲に祝福されるような暮らしぶり」を追求し、それを得ることに成功する。仕事で出世し、素敵な女性と結婚し、家庭を築き、豪華な邸宅を手に入れ、ときどき息抜きに友人たちとカードをしたりもする…何事につけてもうまくやるコツを心得た、世渡り上手な人物というわけだ。彼の価値観は、現代の日本人の価値観と何も変わらない。彼の人生は、言ってみれば「成功者」のそれだといっていい。

そんな「成功者」だったはずの彼だが、病に倒れ、己の死が迫り来るのを自覚したとき、いままで積み上げてきたいっさいのもの――地位や名誉、金や権力、友人や家族、自尊心や虚栄心――が、まったく無価値で無意味なものだとしかおもえなくなってしまう。自分はいったいいままで何をしてきたのだろう?いままで何を歓んでいたのだろう??そんな風にしか感じられなくなってしまうのだ。これほど恐ろしいことはない。何しろ、自分の人生の最終コーナーにまで至って、いままでのすべてが無意味だったと悟ってしまったのだ。悟ったところで、もはや何の取り返しもつかないのだ。

「生きるって?どう生きるのだ?」心の声がたずねた。
「だから、かつて私が生きていたように、幸せに、楽しく生きるのだ」
「かつておまえが生きていたように、幸せに、楽しく、か?」声は聞き返した。そこで彼は頭の中で、自分の楽しい人生のうちの最良の瞬間を次々と思い浮かべてみた。
しかし不思議なことに、そうした楽しい人生の最良の瞬間は、今やどれもこれも、当時そう思われたのとは似ても似つかぬものに思えた。幼いころの最初のいくつかの思い出をのぞいて、すべてがそうだった。(p.120)

今の彼、つまりイワン・イリイチの原型が形成された時代を思い出し始めるや否や、当時は歓びと感じていた物事がことごとく、今彼の目の前で溶けて薄れ、なにかしら下らぬもの、しばしば唾棄すべきものに変わり果てていくのであった。(p.121)

自分では山に登っているつもりが、実は着実に下っていたようなものだ。まさにその通りだ。世間の見方では私は山に登っていたのだが、ちょうど登った分だけ、足元から命が流れだしていたのだ……。そしていまや準備完了、さあ死にたまえ、というわけだ!
さて、これはいったいどういうことだ?なぜこうなったんだろう?こんなことはありえないじゃないか。人生がこれほど無意味で、忌まわしいものだったなんて、おかしいじゃないか。(p.122)

己の死と正面から向き合わざるを得なくなったとき、その人間はどこまでも孤独でいるしかない。誰がどんな言葉をかけてこようと、何をしてこようと、結局のところ、死ぬのは私であってあなたではないのだし、そもそも、人間は他人の痛みや恐怖を真に共有することなどできないのだ。

そんな孤独なイワン・イリイチにとっての唯一の慰めとなるのが、召使いのゲラーシムと、中学生の息子の存在である。彼らだけが、まもなく死を迎えようとするイワン・イリイチの境遇に同情し、哀れんでくれたのだ。哀れみが孤独を解消してくれるわけではないけれど、彼らの世間ずれしていない素朴な感性は、「子供をあやして慰めるように、優しく撫で、口づけして哀れみの涙を流してほしかった」イワン・イリイチに、ちょっぴり安らぎを与えることができたというわけだ。

そういう意味では、本作は、死を目前にした男の回心と救済を描いた、教訓物語であるということができるかもしれない。本当の幸福についてとくにかんがえることなく過ごしてきた世俗的な男が、その生の終わりに、己の価値観を粉々に打ち砕かれた末、最後の最後でやさしさや同情、慈しみといった感情の美しさを認識する…といったような。

だが、私たちはイワン・イリイチの生を教訓として、後悔のない生き方をすることなどできるのだろうか?彼は死の間際、本当に最期の瞬間になってようやく「光」を見出すわけだけれど、それはあくまでも、「死」を全うし、すべてが失われゆくまさにその瞬間だったからこそ見出すことのできた「光」だったのではないだろうか?

「死」をリアルなものとして感じることのできない私たちでも、このような作品を読んで、イワン・イリイチの気づきに感動したり、彼の恐怖を疑似体験することはできる。だが、本を閉じた後、自分にとっての本当の幸福――迫り来る死を前にしても揺らぐことのない、生きるよすがとなり得るもの――とは何なのか、はっきりと見つけ出すことなど、果たしてできるのだろうか?「人生の最良の瞬間」、「もしも取り戻せるならばもう一度味わってみたいような、なにか本当に楽しいもの」は幼年期にしかなかった、とイワン・イリイチは回想しているけれど、どこまでも世俗的な存在たる私たちが、「なにか本当に楽しいもの」を見つけるには、いったいどうすればよいのだろうか??その答えは、この本のなかにはない。


『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

「ムーミン童話全集」の三冊目。ムーミンパパが、自らの若かりし頃の思い出を本に書き綴り、子供たちに語って聞かせる…という体裁の物語だ。前作と同様、本作も、細かなエピソードがぶつぶつと連なっている感じで、筋らしい筋というのもないし、登場人物たちの数は多すぎ、まるっきり思いつきで書かれたような、雑多ででたらめな印象のする作品になっている。これは正直、あまりおもしろいとはおもえなかった。

ただ、ムーミン童話においては、その、雑駁で適当で、まるでちゃんとしている気がしない、でもなんだか全体的には自由でハッピー、というような空気感こそが、何にも勝る価値を持っている、ということは言えるのかもしれない。このなんとも適当な雰囲気こそが、この作品のおもしろさだ…というか。

すみきったみどり色の海の底で、砂はくま手でかいたような、こまかいもようをえがいています。岩の上には、ほかほかと日があたっていました。風もないで、もう水平線はきえていました。すべてが明るいすきとおった光につつまれていたのです。
あのころは、世界はとても大きくて、小さなものは、いまよりもっとかわいらしく、小さかったのです。わたしはそのほうがよっぽどすきです。わたしのいう意味がわかりますか。(p.115)

…強く意識していなければ、私たちの世界は時間とともに小さく狭いものに、そして、小さなものはただ小さいだけのものになっていってしまう。だから、ムーミンパパは、過去を振り返り、「あのころ」のでたらめで自由な感覚をおもい起こすことで、現前の世界に新鮮さと豊かさとを取り戻そうとしているのかもしれない。そんな風にかんがえてみると、少しは共感できるかも、という気はした。


『時は乱れて』/フィリップ・K・ディック

『時は乱れて』/フィリップ・K・ディック

ディックの1959年作。かなり初期の作品だけれど、なかなかおもしろく読めた。いかにも普通小説風な描写からスタートしつつも、物語の進行とともに周囲の世界に対する違和感が増大していき、ついには世界そのものが偽りであったことが発覚する…という展開の一作だ。

主人公の中年男、レイグル・ガムは、50年代後半のアメリカ郊外の町で、新聞の懸賞クイズを解き続けることで生活している。物語の序盤では、レイグルや彼が同居する妹夫妻、そのお隣さん一家との交流のようすが淡々と描かれていくのだけれど、この時点では、明らかに特殊に見えるのはレイグルの「懸賞クイズを解き続ける並外れた能力」だけだ。だが、ストーリーが進んでいくにつれて、少しずつ「現実」の裂け目が姿を表してくるようになる。いまある「現実」とは、ほんとうに「現実」なのか?疲労やストレスのせいで、あるいは過去のトラウマ的な何かのせいで、俺の頭はどうかなってしまったのではないか?…という、神経症的な不安が全体に広がっていく。

そうしてその不安が頂点に達したところで、物語は一気に(かなり強引に)SFへと姿を変えてしまう。じつはレイグルたちの暮らす「現実」世界というのは、すべてが作りものの虚構世界であって、彼が毎日必死に行っていたのは、懸賞クイズでも何でもなく、月から発射されるミサイルの到達地点を読み解くためのパターン解析なのだった…ということが明らかにされるのだ。

まあ、ある種お定まりの展開だといっていいだろう。最近読んだ本では、オースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」のプロットにもちょっと似ている(エンダーという少年が軍事戦略ゲームを解き続けていくのだけど、それはじつはゲームでもなんでもなく、じっさいに人類を救うための闘いなのだった…って話)。話のオチ自体は真新しいものではないので、本作の読みどころはやはり、ディック独特の、「この世界は何かがおかしい」、「この現実は何かが間違っている」、「いや、そうじゃないのかも。もしかしたら、おかしいのはこの世界でもこの現実でもなくて、俺の頭の方なのかもしれない!そうだとすればすべて辻褄が合うじゃないか!」、といった現実崩壊の感覚ということになるだろう。少なくとも俺にとっては、本作においては、SF要素よりもこうしたパラノイアックな感覚のほうがずっと魅力的だった。

誰も彼も。誰も信じることはできない。彼らはわたしをこのトラックに乗せて送り出し、巡回中の最初のパトロールにつかまるように仕向けた。おそらく、このトラックの後部には、”ソ連のスパイ”とでもいうネオンサインが光っているのだろう。背中に”わたしを蹴飛ばせ”という紙が貼ってあると思いこむような妄想。
そのとおり。わたしは”蹴飛ばせ”サインが背中にとめつけられている人間なのだ。どれほど頑張っても、背中のそのサインを確認できるほど素早く振り返ることはできない。だが、本能は、そのサインが間違いなくそこにあることを告げている。なすべきは、ほかの人々を注意深く観察し、彼らの行動の意味を判定すること。人々が行うことから推量すること。サインがあるかわかるのは、わたしを蹴飛ばすべく列をなしている人々が見えるからだ。(p.201)


『とどめの一撃』/マルグリット・ユルスナール

『とどめの一撃』/マルグリット・ユルスナール

物語の舞台は第一次大戦の終盤、ロシア革命期のバルト海沿岸。反ボルシェビキ小隊のメンバーであるエリックとコンラートは、リガ近くの村のはずれにある古びた館で、コンラートの姉であるソフィーと十数年ぶりに再会する。戦火が迫り来るなか、ソフィーはエリックに思いを寄せるようになるが、エリックはそんなソフィーを疎ましく、むしろ弟の方を好もしく感じてしまう。息詰まるような心理劇の末に、ソフィーは赤軍側に走り、エリックは彼女を自らの手で処刑することになる…。

本作の物語は、エリックの一人称によって「過去の思い出話」として語られていくのだけれど、エリックが自分の内面をストレートに開示することはない。だから、読者は文章――どこまでも硬質で、恐ろしいほどに洗練された文章だ――の背後に存在しているであろう彼の思考や感情というものを想像しながら、ページを繰っていくことになる。作品のプロット自体は、上記のように古典的な悲劇であるので、このややメタフィクショナルな仕掛けがこの小説の読みどころだということになるだろう。

ユルスナール自身による「序」には、このように書かれている。

物語は一人称で書かれ、主人公の口から語られる。私は、これまでしばしばこの手法を用いた。というのもそれは作者の視点を、少なくとも作者による解説を、書物から排除してくれるからであり、自分の生を直視し、多かれ少なかれ誠実に説明しよう、まず第一に思い出そうと試みるひとりの人間の呈示を可能にしてくれるからだ。(p.10)

しかしこのような文学形式の欠点は、他のどんな形式よりも読者の協力を必要とすることである。水を通して眺める事物のように、《私》と称する人物を通して眺められた出来事や人々のゆがみを、読者はみずから正さねばならない。多くの場合、一人称の物語という方策は、こうして自己を語っているとみなされる個人に有利に働く。しかし『とどめの一撃』では逆に、自己を語るさいには避けがたい歪曲が、語り手を犠牲にする形で起こる。エリック・フォン・ローモンのようなタイプの人間は、自己にさからった考え方をするものだ。(p.11)

文面上、エリックの感情というやつはとにかく抑制されまくっているので、彼がソフィーに対して、また、コンラートに対してどのような感情を抱いていたのかということは最後まで明確にはわからない。ただひとつだけ明らかなのは、彼とソフィーが、葛藤と死によって他の誰よりも強く結びつけられることになった、ということだけなのである。

二発目がすべてにけりをつけた。この役目をはたすよう私に求めることによって、彼女は最後の愛の証し、しかもあらゆる証しのなかでもっとも決定的な証しを与えたつもりだったのだ、最初私はそう考えた。しかしその後、彼女は復讐がしたかっただけであり、私に悔いを残そうとしただけだとわかった。その計算はまちがっていなかった。というのも私は時として今なお悔いを覚えるからだ。相手がああいう女では、いつも罠にはまってしまうものだ。(p.155)

 *

そういえば、本作も、先日感想を書いたマキューアン『贖罪』と同じような、「取り返しのつかない罪」に関する物語だと言うことができるかもしれない。エリックの思い出語りは、彼にとって贖罪たり得るものではないし、そもそも彼の場合は、「罪」という意識がどの程度あるのかということさえもはっきりとはしていないのだけれど、過去のある出来事を「物語」として語りたいという欲求のなかには、その出来事をどうにか自分のなかで整理したい、理解したい、処理して落とし所を見つけたい…といった切実な気持ちがあるのだろう、ということは読者にも理解できる。エリックにとっての安らぎというのもまた、語るという行為のなかにしか存在しないのかもしれない。


『赤と黒』/スタンダール(その2)

前回のエントリでは、「ジュリヤンにとって、出世や恋の成就といったものはあくまでも副次的なものであったのかもしれない。彼を突き動かす最も重要な動機というのは、彼の英雄願望、彼の自尊心の充足、彼の上昇志向の満足といったものなのだ」なんてことを書いたのだけれど、先日、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を読んでいて、もうちょっと違う風にかんがえることもできそうだな、とおもった。

ジュリヤンが出会った当初のレーナル夫人やマチルドを落とそうと奮闘するのは、まあ単純な「モテたい」、「出世したい」欲の発露、ジュリヤンの野心と向上心の表れだと言えるだろう。これはわかりやすい。ただ、二村は、「モテたい」という感情について、こんなことを書いている。

「モテたい」=「キモチワルくないと保証されたい」というのは、「恋されたい」ではなくて、本当は「愛されたい」ということだったんじゃないだろうか。(『すべてはモテるためである』/二村ヒトシ 文庫ぎんが堂 p.204)

男にとって(男性社会のなかで)モテる男になりたい!いい女を自由にできる男になりたい!とめざすことは【向上心がある】てなこと、ではある。
そして「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいことである。
だから男は、自分が「モテたい」というのは「恋されたい」ことなんだと自動的にすり替える。
だが【愛されたい】というのが「自分を肯定してほしい」という欲求だとしたら。(前掲書 p.204)

【モテたい】は「キモチワルくないと保証されたい」ことなんだから、じつは【モテたい人】は愛されていれば充分であって「恋されて、相手を支配する」必要は、ないんじゃないだろうか。
モテた者も、モテをめざす者も、ただ「自分は愛されたいんだ」と認めればいいんじゃないだろうか。(前掲書 p.205)

モテたいというのも、つまるところ承認欲求の一種なのだから、べつに相手に恋されて、相手を支配するような必要はない。そんなことよりも、自分自身を肯定して欲しい、認めて欲しい、というその気持ちを素直に認めてあげる方が先なんじゃないの、ということだ。個人的には、なかなか腑に落ちるというか、納得できる主張である。この二村のかんがえかたを『赤と黒』のプロットに適用してみると、だいたい以下のような感じになるのではないか。

  • 親の愛を知らず、また、自分を守ってくれる社会的な地位も能力も持っていないジュリヤンは、自分を認め、保証してくれる何かを必死に求め続ける。それは二村流に言えば、「自分を肯定してほしい」、「愛されたい」という欲求である。
  • ただ、やっぱり「「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいこと」であるわけで、ジュリヤンも自分自身のその感情にはなかなか素直に向き合うことができない。
  • 自分の感情を「モテたい」欲、「出世欲」、「支配欲」、「向上心」だと勘違いしたままのジュリヤンは、ついに貴族の娘であるマチルドを落とすことに成功、上層階級への階段に足をかけることになる。しかし、まさにそのタイミングで、昔の女であるレーナル夫人によって、過去のスキャンダルを暴露されてしまう。
  • 己の野望を妨害されたことで頭に血が登った彼は、レーナル夫人に発砲、逮捕・投獄される。だが、そうすることでようやく自分の感情を正確に認識できるようになり、ああ、俺は肯定してもらいたかったんだ、愛されたかったんだ、と気づく…。

前回のエントリでは、『赤と黒』はジュリヤンという青年の野心と成長、挫折の物語である、という読み方をしてみたわけだけれど、上記のように捉えてみると、結構印象が違ってくる。こっちの読み方だと、『赤と黒』の主題は野心というよりも、やはり愛情である(つまり、本作はある種のラブストーリーである)ということになるだろうし、ジュリヤンが自分の選択をまったく後悔することなく死を迎えることができるのは、「自分のエゴやプライドにどこまでも忠実に生き切ったから」というよりも、「自分の弱さやだめさをも受けて入れてくれる、愛というものを本当に知ることができたから」だ、ということになるだろう。どちらが正解ということもとくにないのだろうけれど――というか、どちらもそれなりに適切な読み方だとはおもうけれど――ともあれ、こういった多層性こそが本作が古典たらしめているのね…という感じはする。


Calendar

2018年11月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

Archive