”Juxtapozed with U”/Super Furry Animals

Rings Around the World (Bonus CD)

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』で、ギャップごしのコミュニケーションのくだりを読んでいたときに、スーパー・ファーリー・アニマルズの曲、”Juxtapozed with U”がおもいうかんだ。スーパー・ファーリー・アニマルズ(以下SFA)っていうのは、俺がこころから愛し、激しくレコメンドするバンドである。フロントマンのグリフ・リースになら抱かれたっていい。とおもっているくらい。あ、まあそれはうそだけど。やっぱ、そこはえんりょしておきたい。アニマルだもんなー、なにしろ。

ウェールズ出身の彼らは、日本では、たぶんちょっとマイナーな存在だとおもわれる(評価は高いのだけど)。プライマルズやオアシスで有名な、クリエイション・レコードからデビューしたのが、90年代なかば。その後、けっこうなハイペースでアルバムを出しつづけているにもかかわらず、それがどれもこれも傑作!しかも作品ごとに音楽性がバラバラ!という、それだけ聞いたら、ちょっとマイナーな理由がわからないようなバンドだ。特徴としてよくいわれるのは、エレクトリックとアコースティック、生演奏とサンプリングの融合っぷりで、全体的な印象としては、ごった煮のサイケデリックというのがしっくりくる。ぶっとんでるのね。でも曲はどれもすごくキャッチーで、ビーチ・ボーイズとか、中期ビートルズなんかが、よく引きあいにだされたりする。毎回いろんな要素をとりいれて、音楽のスタイルは絶えず変化していっているのだけど、一貫して、とにかく単純にメロディーがいい、っていう曲を出しつづけているというあたり、じつにニクい。SFAが日本でいまいち売れてないのは、ルックスの問題(メンバーが、そろいもそろってヒゲorハゲ)もあるかもしれないけど、バンド名のせいだとおもうよ俺は。だってさ、スーパー・ファーリー・アニマルズって。

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で、”Juxtapozed with U”。

「これは二都/二つのシチュエーションの物語 おたがいに認めあって 狭い先入観からはなれて 異常な緊張の衝突を避けて」

「寛容にならなきゃ 嫌いなやつらにもみんな ぼくは君を愛してはいないけど だからって非難したりしないよ」

他者というのは、どこまでいっても他者なのであって、人はけっして完全に他者とわかりあうことなどできない。それでも、それだからこそ人はつながりを求め、他者とあたらしく関係性をとり結び、共存していこうとする意思をもつ。ハードな世の中ですが、みんな寛容さをもって、お互いに認めあわなきゃね。そんな切実で肯定的なメッセージが、ヴォコーダー・ヴォイスと生声をつかいわけながら、スウィートなグルーヴにのせて歌われている。どんなギャップがあるにせよ、コミュニケーションでまず大事なのは、この、相手を認める、ってことだよな、ってつくづくおもう。ちなみに、juxtaposeっていうのは「(対照比較のため)並列/並置する, ~のそばに置く」みたいな意味のことば。レッツゲットジャクスタポウズド。いいね。

SFAの素敵なところは、これがいわばぎりぎりのオプティミズムである、という点につきるとおもう。この曲は、2001年のアルバム『Rings Around the World』に入っているのだけど、一つ前のトラック、ハードなノイズが飛び交いまくる”No Sympathy”では、”I have no sympathy for you / you deserve to die” と歌っているのだ。おまえなんか死んで当然なんだよ、同情なんかしないぜ、って。たしかに、人と人とのあいだで憎しみが絶えることはない。でも、人はやはり他者とのつながりを求めているし、どうしたって他者を必要としている。いろいろやっかいな問題はつきないけど、でもそういうのも含めて、ポジティブ感をもってやっていこう。肯定していこう。って、つぎの”Juxtapozed with U”では歌う。『Rings~』は、曲も構成も完璧!といいたくなるほどファッキンすばらしいアルバムだけど、とくにこの”No Sympathy”→”Juxtapozed with U”の流れは、ほんとうに、すげーいい。俺は、なんど聴いてもぐっときてしまう。

あ、ちなみに、こないだ出たばかりの新譜もかなりよさげです。ここまで8枚、どれひとつとしてハズレがないのがすごい!


『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』/保苅実

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これは大学の授業で紹介されて読んだのだけれど、ものすごくいい本だった!かなり興奮しながら読みました。オーラル・ヒストリーっていう歴史学の方法や記憶、語りの問題について書いてあるのだが、著者の保苅実さんの冷静さと情熱とをあわせもったオプティミズムにすっかりやられてしまった。オーラル・ヒストリー(oral history)っていうのは、歴史研究のために、その関係者からインタビューなどの形式で直接話を聞きとり、記録としてまとめること。この本では、そんなオーラル・ヒストリーという歴史の研究方法について、根本的な再考がなされている。保苅がこの本で何度もくりかえし問いかけているのは、歴史とは何であるか、歴史家とはいったい誰のことを指すのか、という問題だ。

いわゆるポストモダン状況においては、歴史とはそもそもナラティヴなものであり、多元的、複数的なものである、といったことがおおく論じられてきた。現在、文化相対主義はもはや当然の了解だといっていい。歴史とはつねに言説的なかたちでしかあらわれ得ないし、歴史叙述は記録者のバイアスを反映したものだ、という見解を否定するものはすくないだろう。

だが、じっさいにアボリジニのオーラル・ヒストリーについて、アカデミックな近代的知であるところの歴史学の文脈でそのまま引きうけることはほとんど不可能である。なぜなら、そこにはいわゆる歴史学にとっての「正しい歴史」には到底うけいれることのできない、「史実」にもとづかない歴史物語(「非論理的、非科学的、超自然的な」)が数おおく存在しているからだ。たとえば、アメリカのケネディ大統領がアボリジニの長老と直接会って、それをきっかけにアボリジニの土地返還要求がおこった。だとか、あるアボリジニの長老が大蛇に依頼して洪水をおこし、牧場を流してしまった。といったエピソードがある。

保苅は、そのような自らにとっての「危険な歴史」を排除しようとする、現代の歴史学の政治性、権力性を批判する。そして、「アボリジニの長老の話」というオーラル・ヒストリーを認めた上で、西洋近代に出自をもつ学術的歴史分析と、アボリジニの歴史実践とのあいだのコミュニケーションの可能性を考察し、両者が共有できる、歴史経験の真摯さ(experimental historical truthfulness)とはどのようなものとしてありうるのかを探求していく。

保苅は、記憶論や神話論の研究者たちのとる姿勢について、彼らは「アボリジニの人々は、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったと信じている」「…とみなされている」「…とされている」と述べるだけであって、それは結局のところアボリジニの言説を「掬い上げて尊重する」という身振りにすぎない(p.26)、と批判している。彼らは、多元主義をうたい、異文化を尊重する姿勢を見せてはいるけれど、ほんとうは相手の歴史観をうけいれているわけではない。相手の歴史観を排除するわけではないものの、いわば包摂してしまうことで――ああ、あなたはそういうふうに信じているんですね、あなたにとってはそういうものなんですね、というように――自らの歴史観にとって、無害なものに変えてしまおうとする傾向がある。アボリジニの言説をある種のアナロジーや「神話」としてとらえることは、知識関係の不平等にもとづく権力作用の働きに他ならない。単に、マジョリティによって管理されるマイノリティ、という位置づけをおこなうことにすぎないのだ。

もちろん、保苅の主張はよくかんがえれば当然のものだ。人がアナロジーを用いるのは、イメージを豊かにしたり拡散させたりするためではなく、語りをある一定の目的に向かって絞りこむためだ。他者のなんらかの言説についてをアナロジーや、なにかを表象するものとしての神話としてとらえることは単なる一方的な解釈であって、双方向的な理解に結びつくものではない。

保苅は、西洋の歴史家による歴史、アボリジニの人々による歴史、そのさまざまな形態が共に存在する多元的歴史時空を想定する。そしてその内で双方向的なハイブリッド化による、「ギャップごしのコミュニケーション」というものの可能性について模索していく。この、いっけんユートピア的なオプティミズムが熱い。「人が過去を経験する歴史時空というのは、根源的に多元的なので、決して追体験したり理解できないような、決して埋まらないギャップが厳然としてある。(中略)ただ、ギャップはあるけれど、ギャップごしのコミュニケーションは可能なのではないか」(p.27)

ここでなされているのは、歴史の正当性がどのようなものとしてありうるのか、といった考察ではない。むしろ、どのようなコミュニケーションのかたちが可能なのか。いかに共存することができるのか。ということが問題になっている。

保苅はそのようなギャップごしのコミュニケーションとしての歴史学、を従来の参与観察やインタビューの形式にはよらずに、現地の人々とともに歴史実践をしていく、フィールドワーク形式(具体的には、アボリジニの人々と生活を共にし、長老のはなしを聞く)でのオーラル・ヒストリーによって実践する。そしてその結果、「もし私に十分な感受性があり、精霊を信じる環境に育ったなら、私は精霊たちをはっきりと見たことだろう。私が精霊をみたことがないという事実は、私が知覚しないひとつのリアリティに、精霊たちがいないことを意味しない。」(p.196)と明言するほどの地点にまで導かれていくことになる。

アボリジニの語る物語にたいして敬意をあらわしたり、評価したりするだけではなく、そこからさらに一歩踏み込んだ地点で、あらたな歴史のありかたを考察すること。そうすることで、近代の西洋知だけにもとづいた従来の思想や歴史学をぬけだすことができるのだろう。保刈は、西洋的知の内部からアボリジニの言説を分析するのではなく、アボリジニの人々との現地での歴史実践によって、双方向的なコミュニケーションの可能性を生みだした、といえそうである。

だが、他者とともに歴史実践をおこなうことでほんとうの意味で多元的な歴史理解が可能になるのだとすれば、もはや他者に語られることのないできごと、消された歴史といったものは、どのように多元的歴史空間に位置づけることができるのだろうか、という疑問はある。それはオーラル・ヒストリーという歴史研究の方法の限界についての疑問でもある。ただ、もちろん、所謂「歴史的真実」より、「歴史への真摯さ」についてかんがえる姿勢のほうが他者に対してひらかれている、というのはたしかなことだろう。


『復讐者に憐れみを』

復讐者に憐れみを デラックス版 [DVD]

『復讐者に憐れみを』を見た。DVDで。『オールド・ボーイ』のパク・チャヌク監督作品ってことで、バイオレントな、血みどろちんがいな映画だとは覚悟していたけど、たしかにそんな映画だった。でも血みどろちんがいなだけじゃなく、物語はとてもていねいに語られる。登場人物たちは誰もが被害者であるが、同時に加害者でもある。自分が受けた傷を忘れることはないけど、自分も同じように誰かを傷つけてしまっているのだということを認め、記憶し続けるのはむずかしい。というテーマが全編に通低していて、それがとてもせつない。

映画前半ではまずさまざまな復讐の原因となる物語が語られ、後半に入ると壮絶な復讐劇の連鎖が怒涛の勢いで進行していく。俳優たちの演技はすばらしく、抑制されるべきところはきちんと抑制されていて、暴力的なシークエンスとの対比が際立ちまくっていた。ただ、俺はバイオレンスな描写がわりと苦手なので、そういう痛いシーンになると頭の中で「うわー痛そうー」「まじそれやっちゃうのー?」とか余計なつっこみを入れて一歩引いてしまうようになるので、それで作品世界にあまり入り込まずに見てしまった感はある。

あと、登場人物たちのキャラクターや状況の設定はちょっと紋切り型なように感じた。とはいえ、そういうキャラクターや状況のわかりやすさが作品のもつ衝撃を強めている、とは言えるかなともおもった。誰もが被害者であると同時に加害者でもある。その状況のやりきれなさがこの映画の深みに繋がっているのだけれど、彼らを復讐に駆りたてた原因とは、辿っていけばある状況(生まれつきの障害や社会構造)に還元しうるものであるかもしれない。とかんがえてしまうと、その分だけそのやりきれなさが安っぽいものになってしまう気がする。いや、そうじゃないのか。そうじゃなくて、その安っぽさこそが余計やりきれないのかもしれない。


『アッシュベイビー』/金原ひとみ

アッシュベイビー (集英社文庫)

金原ひとみ『アッシュベイビー』を読んだ。芥川賞をとったときに、『蛇にピアス』を読んで、なんだよ綿矢りさに比べたらありきたりでおもしろくないなあ、とか実に勝手なことをおもっていたのだが、この作品はけっこうすきだった。この小説における金原ひとみの文章は、句読点多め、一文一文はみじかく、風景描写は極小で会話のあいだをモノローグが埋めつくす、というスタイルだ。これらの要素によって読者は「スピーディに読む」ことへと導かれる。

扱われる題材はいっけんなかなかハードだ。でてくる人物はいってみれば変態ばかりだし、幼児虐待や動物虐待もある。だが、そこに描かれているのは、あくまでも人と結びつきたい、というシンプルで切実なきもちに他ならない。そういった意味では、これは道具立ては派手だけれども、普遍的な物語だ。まあ、ありきたり、ともいえる。しかし、この小説のおもしろいところは、読者はその主人公のきもちに感情移入することで同期の欲望を満足させることはできない、という点にある。その原因は、登場人物たちの変な嗜好や下品な言葉遣いにもあるのだろうけど、それよりも主人公の自己が垂れ流されるモノローグと、その垂れ流された自意識をちょっと醒めた目で見るもうひとつの自己の語りがとにかく饒舌なために、あーなんかその感じわかるわー、などとおもったりしても、感情的な自分の位置を確定してしまうことが難しくなっているのだ。

主人公のアヤは、「好きです」とか「殺してほしい」ともうほんとに何度も何度も連発する。連発するのは彼女が口に出していう台詞であったりモノローグでだったりするのだが、そこで彼女はある種の確信をもってそれらのことばを発している(「好きです」「殺してほしい」はこの小説内では同種の意味をもつ)。彼女をそう突き動かすのはひどく歪んではいるだろうがまぎれもなく、「好きです」のきもちなのであって、そのためにいろいろ衝動的に破壊的なことをかんがえるし、実行もする。そうして自分のことも他人のことも傷つけるのだが、それらは結局、絶対的な同一性の願望に端を発するものだ。もちろん、好きな相手との絶対的な同一性というのは幻想にすぎないのであって、アヤの願望が満たされることはないまま小説は終わることになる。そして読者もまた、アヤのきもちへの同期の欲望が完全に満たされることはない。

この小説はアヤの視点からの描写とモノローグに終始するので、文章は軽く、その薄っぺらさや安易さ、スピード感がきわだっている。こうした特徴はふつう、安易な共感をよせつけないのだけど、『アッシュベイビー』の場合は、妄想的な自己とそれを批評する別の自己との絡まりあいや、身体性というモチーフの扱いかたに戦略的な匂いが薄く、無防備に感じられて、その分だけ胸に迫ってくるものがあった。無頓着や陳腐さというものでしか表現できない、切実さや、かなしみがこの小説にはあるようにおもえた。


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