「ユダヤ人問題によせて」/カール・マルクス

「ユダヤ人問題によせて」/カール・マルクス

ブルーノ・バウアーの2つの論文に関する書評。ごく短い論考ではあるのだけれど、マルクスは、バウアーの意見を叩き台としつつも、その限界点を指摘することで独自の主張を展開していく…というややこしいことをしようとしているので、全体的にちょっと飲み込みにくい文章になっている。

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ユダヤ教徒の社会的/政治的な解放を求める声が日に日に強まってくるなか、青年ヘーゲル派の哲学者であるバウアーは、その著作内で以下のようなことを述べていたという。

  • ユダヤ教徒の解放が必要というのはまったくその通りだが、政治的抑圧の対象となっているのはユダヤ人というよりもむしろ、全てのドイツ人民である。であるからして、ユダヤ教徒の解放の問題というのは、全ドイツ人民の政治的解放についての問題としてかんがえていく必要がある。「われわれは、他人を解放しうる以前に、自分自身を解放しなければならない。」
  • ドイツ人民の解放のためには、国家がキリスト教というしがらみを捨てること、そして人民が特定の宗教から自由な意識を持つことが必要である。「バウアーの考えでは、ユダヤ人問題はドイツの特殊事情には依存しない一般的な意義をもっている。それは国家に対する宗教の関係の問題、宗教的偏執と政治的解放との矛盾の問題である。政治的に解放されるよう欲しているユダヤ人に対しても、また他のものを解放し自分も解放されるべき国家に対しても、宗教から解放されることが前提条件として出されるのである。」

バウアーの主張とは、「公民としての解放」のために、ユダヤ人はユダヤ教を、その他のドイツ人はキリスト教を廃棄する必要がある、といったものである(当時のドイツの国教はキリスト教)。宗教を前提として成立している国家は、真の国家とも現実の国家とも言うことはできない、というわけだ。

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このようなバウアーの論旨に触れた上で、マルクスは、バウアーが述べているところの「政治的解放」というのは単に政治という限られた枠組みから人民を解放するというだけのことでしかなく、それだけでは不十分である、求めるべくは、より大きな枠組みであるところの「人間的解放」なのではないか、と言う。革命によって国家から宗教を政治的に切り離したとしても、それは宗教からの人間的解放が実現したこととは違うだろう、ということだ。

政治的革命は、市民生活をその構成部分に解体しはするが、これらの構成部分そのものを革命的に変革し批判することはしない。政治的革命は市民社会、すなわち欲求と労働と私的利益と利的権利の世界に対し、自分の存立の基礎に対するように、つまり何かそれ以上基礎づけられない前提、したがって自分の自然的土台に対するように、ふるまうのである。(p.52)

結局のところ、市民社会の成員としての人間が、本来の人間とみなされ、公民〔citoyen〕とは区別された人間〔homme〕とみなされる。なぜなら、政治的人間がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず、比喩的な精神的な人格としての人間であるのに対し、市民社会の成員としての人間は、感性的な、個体的な、もっとも身近なあり方における人間だからである。現実の人間は利己的な個人の姿においてはじめて認められ、真の人間は抽象的な公民〔citoyen〕の姿においてはじめて認められるのである。(p.52)

革命による「政治的解放」によって生み出されたのは、”市民社会(=ブルジョア社会)のメンバーとしての人間”というものを、”人間の本来的な姿”だと見なそうとするような社会だったのではないか。「人間的解放」を真に完遂し、各個人が「類的存在」となるためには、「利己的な個人」によって構成されるところの市民社会そのものを改革する必要があるはずだろう、というのがマルクスの主張だと言えるだろう。

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だいたい、いま、この社会においてユダヤ教とはいったいどのような性質のものであると見なされているか、かんがえてみたまえ、とマルクスは言う。「実際的な欲求」、「私利」、「あくどい商売」、「貨幣」などといった単語がすぐにおもい浮かんでくるだろう…だが、これらは、まさに現代市民社会の中心、根幹の部分にある性質とまったく同一のものではないか?

つまり、革命による「政治的解放」によってもたらされたのは、世に言うところのユダヤ教的性質、すなわち利己主義と自己利益の追求だった、ということなのではないか?…そうだとすれば、ユダヤ教の利益追求的な性質を市民社会が非難することはできない――それはまさに自分自身を非難することであるのだから――し、ユダヤ教的な性質を考察することはこの社会の性質を考察することに他ならない、ということになるのではないか??

そういう意味で、マルクスは、

社会がユダヤ教の経験的な本質であるあくどい商売とその諸前提を廃棄することに成功するやいなや、ユダヤ人というものはありえないことになる。というのは、もはやユダヤ人の意識は何らの対象ももたなくなるからであり、ユダヤ教の主観的基礎である実際的欲求が人間化されてしまうからであり、人間の個人的・感性的あり方とその類的あり方との衝突が揚棄されてしまうからである。
ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。(p.67)

と述べているわけだ。このパラグラフだけを取り出すと、単純な反ユダヤ主義、ユダヤ人差別のように読めてしまうかもしれないけれど、彼が行っているのはまったくそういうことではない。マルクスがここで書いているのは、近代市民社会からの人間的解放が必要だよね、という話なのだ。


『生きがいについて』/神谷美恵子

『生きがいについて』/神谷美恵子

「生きがい」とは何なのか、それは人の生にとってどのような意味を持っているものなのか、どのように人は「生きがい」を得るに至るのか、などといったことについて扱われた一冊。もちろんこれは「生きがい」を手に入れるためのハウツー本ではないわけで、それらの明確な答えがここに記されているわけではない。ただ、神谷はさまざまな文献や自身の体験(ハンセン病患者との交流)を例として挙げながら、「生きがい」を失った人の話を、そしてその暗闇から抜け出し「生きがい」を得るに至った人の話を書き連ねていく。だから本書には「生きがい」の喪失と獲得に関するさまざまなバリエーションがあり、それらに向き合ってきた多くの人々の軌跡がある。読者は、それらを自身の問題と相対するためのヒントとして役立てることができるかもしれない。

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若い頃、「生きがい」について悩む人は多いかもしれないけれど、大人になっていくにつれ、その悩みは避けられていくようになるのがふつうだろう、と神谷は言う。一応まともな職業につき、家族を養うことができれば、あるいは、平和な家庭を築き、そこで健康に暮らせれば、それでまあOK、自分の生活は生きるに値するものである、と、ひとまずは自分の存在意義のようなものを感じていられる、というわけだ。

とはいえ、長い一生の間、「生きがい」についてまったくかんがえないで――あるいは、上記のようなある種の社会的役割だけを自分の「生きがい」だと感じ続けて――いられる人はほとんどいないだろう。社会的に重要な役割を果たすことができた壮年期を過ぎ、老年期に至ったときに、それまでの「生きがい」を失ってしまい、価値体系の転換を迫られる人、というのも多くいるはずだし、難病や愛する人の死、夢が断たれたり罪を犯したりすることで「生きがい」を喪失してしまうということもあり得る。そういった際に発せられることになるのは以下のような問いであるだろう、と神谷は言う。

一 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
二 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
三 以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
四 一般に人生というものは生きるに値するものであるか。(p.33,34)

人間というのはみな、自分の生に意味やら価値やらといったものを感じたい欲求を持っているものだ。おそらくそれは、あらゆる生体験のなかにすでに意味や価値の判断というものが未分化な状態で含まれているから、すなわち、人間の知覚には必ず解釈が伴っているからだろう。そういうわけであるから、上のような問いに対し、私たちはそれぞれが採用している価値体系に基づいて、個人個人で答えを出していかなくてはならない。

ここで肯定的な答えが簡単に出せる人は、「生きがい」を感じやすく、生きていくことが楽な人物だということになるだろう。そして、劣等感を抱きやすかったり、他者からの肯定を簡単に受け入れられなかったり、自分で自分の生の意味を認めることができないでいる人は、「生きがい」を見出すべく、問いの答えを探求し続けなければならないということになる。

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さて、そういった「生きがい感」をもっとも強く感じられる人種というのは、「自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひと――いいかえれば使命感に生きるひと」だろう、と神谷は言う。目標や使命といったものに向かって自分の生を生かしていく、というそのことによって、生存が充実しているという感覚、自分の生が世界に何かしらの影響を与えているという反響の感覚――それは、社会的所属や承認などの欲求を満たすようなものであるだろう――を得られる、ということだ。だから、神谷によれば、「生きがい感」の希求というのは、未来性の欲求、現在よりも明るくてよい未来を目指し続けたいという欲求である、ということになる。

「生きがい」を喪失した状態には、不安や苦しみ、悲しみといったものが伴う。それらは直接的には、生理的なものであったり、社会的状況によって引き起こされたものであったりするかもしれないけれど、その内奥のところにはいわゆる「実存的不安」、「世界的不安」といったものがあるはずだ、と神谷は主張する。普段の生活のなかでは覆い隠され、直視しないでいられている、生存そのものに属する本質的な不安というものが、生きがい喪失状態において露見する、ということだ。こういった不安や、この不安から生じる、世界に対する否定的な態度、価値の喪失の感情、苦悩などといったものを、他者が慰めや同情や説教などといったものによって恣意的に操作することは不可能である。人間は、自分ただひとりでこの不安と相対し、自分なりの意味づけを行うことで、その態度を決定づけていかなければならないのだ。

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とはいえ、何しろ「生きがい」を失ってしまっているわけだから、その状態を受け入れ、自らの価値体系を変革する、などということがそう簡単にできるわけがない。それができていれば、「生きがい」を失ってなんかいないはず、という話だ。そのような、心の世界が壊れてしまった人、深刻な不安や苦悩や悲しみから抜け出すことができず、社会的な価値基準が受け入れられなくなっている人、自暴自棄になっている人にとってまず大切なのは、「短絡反応」を抑えることだろう、と神谷は書いている。「自分なんかもうだめだ」と己を見限ってしまうこと、「この状態がよくなるはずがない」と時間に対して見切りをつけてしまうこと。苦しみによって生じさせられるそういった短絡的な反応を抑えることからはじまって、徐々に時間をかけて受容へと進んでいくしかない、というわけだ。

そうして不安や悲しみ、苦しみを受け入れた上で、さらに実存的な空虚から抜け出していくためには、新しい「生きがい」が必要となってくるだろう。でなければ、その人は虚無とあきらめのなかで劣等感に苛まれ、人生からあぶれたままの状態になってしまう。

生きがいをうしなったひとに対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、だれにせよ、天来の使者のようなものである。君は決して無用者ではないのだ。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなければできないことがあるのだ。ほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。――もしこういうよびかけがなんらかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐ響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声をうけとめるであろう。「自分にもまだ生きている意味があったのだ!責任と使命があったのだ!」という自覚は彼を精神的な死から生へとよみがえらせるであろう。それはまさに、地獄におちた罪人にむかって投げかけられた蜘蛛の糸にひとしい。(p.176)

こういった新しい生存目標の発見は、何かのきっかけで急激に行われることもあれば、長く苦しい模索帰還を経てようやく得られる場合もあるだろう。そこはまあ、人それぞれだと言う他ない。どのような場合であれ、その新しい目標が、その人の内部にある、何か「本質的なものの線に沿ったもの」であれば、その人は「意味への意志」の欲求不満を解消し、生気を取り戻し、心底から生きることの喜びに満たされることであろう、と神谷は述べている。

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そういうわけで、「生きがい感」を得るための方法というのは人それぞれであるし、その得やすさというのも人によってばらばら、そして、その「生きがい感」をどのくらい強く感じ、信じることができるかということも、もちろん人によってまったく異なっている、ということになる。当然のことだ。だが、「生きがい」は誰しもにとって必要不可欠なものであるし、私たちは誰もがそれを感じる権利と能力とを持っている。それもまた、確かなことだろう。

本書の最後で、神谷は、「生きがい」を感じにくい人や、「あの人にはいったいどのような生きがいがあるのだろう?」などとかんがえてしまう人に対し、人間の存在意義というものを、こんな風にかんがえてみるのはどうだろう?と、ヒントを提示してくれている。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。(p.268)

大きな眼から見れば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるにちがいない。少なくとも、そうでなければ、私たち自身の存在意義もだれが自信をもって断言できるであろうか。現在げんきで精神の世界に生きていると自負するひとも、もとをただせばやはり「単なる生命の一単位」にすぎなかったのであり、生命に育まれ、支えられて来たからこそ精神的な存在でもありえたのである。また現在もなお、生命の支えなくしては、一瞬たりとも精神的存在でありえないはずである。そのことは生きがい喪失の深淵にさまよったことのあるひとならば、身にしみて知っているはずだ――。(p.268,269)

利用価値や有用性といったものに依拠することのない「生きがい」や「存在意義」といったもの、それを誰もが互いに認め、確認し合うことができれば、この世界も多少は生きやすくなるのだろう。けれど、それは何と難しいことだろうか。


『共産党宣言』/カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス

『共産党宣言』/カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス

1848年に公刊された、「共産主義者同盟」の綱領を示した文書。近代ブルジョア社会の構造と発展についての理論的な説明と、プロレタリア革命の必然性、また、当時の各国におけるプロレタリア一般に対し、共産主義者はどのように働きかけていくべきか、といった内容が記されている。

エンゲルスは、本書に収められた「一八八三年ドイツ語版への序言」で、『共産党宣言』のベースとなるかんがえ方について、簡潔にまとめてくれている。

『宣言』をつらぬいている根本思想は次のことである。おのおのの歴史的時期の経済的生産およびそれから必然的に生れる社会的組織は、その時期の政治的ならびに知的歴史にとって基礎をなす。したがって(太古の土地共有が解消して以来)全歴史は階級闘争の歴史、すなわち、社会的発展のさまざまの段階における搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級のあいだの闘争の歴史であった。しかしいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級(プロレタリア階級)が、かれらを搾取し圧迫する階級(ブルジョア階級)から自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した。(p.10)

そんな「全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放」するための共産主義革命だけれど、本書では、その道筋がいったいどのようなものであるかが素描されている。以下、簡単に流れを追ってみようとおもう。

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  1. まず第一に、プロレタリアを階級として形成、発展させ、それによってブルジョア階級の支配を強力的に転覆、政治権力を獲得する。
  2. (プロレタリア階級は、資本の拡大に伴って発展していく。資本の求める労働の量が増加し、プロレタリア内部での競争が激化していくにつれ、プロレタリアは全体としてその能力を発達させ、団結のための力を増していくことになるからだ。そういう意味で、プロレタリアというのは、ブルジョアにとって必要不可欠でありながらも、その社会構造を内部から切り崩していく危険を秘めた存在でもある、ということになる。)

    大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足もとから、かれらに生産させ、また生産物を取得させていた土台そのものが取り去られる。かれらは何よりも、かれら自身の墓掘人を生産する。かれらの没落とプロレタリア階級の勝利は、ともに不可避である。(p.60,61)

  3. そして、その上で「ブルジョア的私的財産」を廃止し、その生産用具をプロレタリアのもとに移行することで、「伝統的所有諸関係とのもっとも根本的な決裂」を実現する。
  4. (ここで言う「ブルジョア的私有財産」というのは、階級対立に基づいた、つまり搾取に基づいた財産のことであり、また、プロレタリアによる賃金労働というのは、「資本という財産を作り出」し、「あたらしい賃金労働を生産してそれをふたたび搾取するという条件がなくては、みずからふえることのない財産」である、とマルクス/エンゲルスは述べている。「解放」のためには、そういった財産、資本というものが持つ社会的な意味合いから階級的な性質を剥ぎ取ってしまう必要がある、ということだ。
    だからこれは、プロレタリアはブルジョアから利潤を奪い返し、豊かな生活を送ろう、というような話ではない。そうではなくて、財産、富を得るという発想そのものを廃棄してしまおう、ということなのだ。)

    共産主義はだれからも、社会的生産物を取得する権力を奪わない。ただ、この取得によって他人の労働を自分に隷属させる権力を奪うだけである。(p.67)

  5. このようにして現実化した共産主義社会においては、階級間の差異とそれによる対立、すなわち社会の一部分による他の部分の搾取というものがなくなり、他の階級を抑圧するための政治権力というものがなくなっていくことになる。
    (政治権力がなくなっていくということは、いまあるような形の「国家」というものが解体され、存在しなくなっていく、ということでもある。)

共産主義者に対して、祖国を、国民性を廃棄しようとする、という非難が加えられている。
労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪うことはできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。(p.71,72)

…まあ、おおよそこのような感じだろうか。他に重要な点としては、共産主義は単なるおもいつきのユートピアではなく、ブルジョア社会に内在する問題を解決してくことで導かれる必然的な到達点である、ということ、そして、その際には、政治的運動と経済的運動とが統一的になされる必要がある、ということなどを挙げることもできるだろう。

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まあやっぱり、革命に向けての文書というわけで、全体的に筆致が熱くて扇動的ではあるのだけれど、それ以上に、何とも射程の長い、スケールの大きな話をしている、という感じがぐっときた。何しろ、全世界的な階級闘争の歴史、富・経済的価値への欲求と搾取の歴史を塗り替えてやろうぜ、って話なのだ。単純に、読みものとしておもしろい一冊だった。

共産主義者は、自分の見解や意図を秘密にすることを軽べつする。共産主義者は、これまでいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。

万国のプロレタリア団結せよ!(p.97,98)


『番茶菓子』/幸田文

『番茶菓子』/幸田文

幸田文のエッセイ集。3,4ページの掌編が集められたもので、ちびちび読んでいくのがたのしい一冊だ。内容的には、日常雑記的なものや思い出語りが大半で、どれもごく淡々としているのだけれど、その淡々とした感じ、その時々の気分や想いというのをきちんと言葉に落としている感覚というのが、読んでいて心地よかった。

とはいえ、さすがは明治生まれの人のエッセイ、使われている言葉がよくわからん、というような箇所もそれなりにあったりする。たとえば、こんなところ。

カナキンの黒紋附裾模様という子供儀式用のできあい紋附があって、元日や天長節などの式日にはそれを着せられたものだったと、古い話をすれば、いまのお嬢さんがたは噴きだすかあっけに取られるかするにきまっている。第一いまはカナキンというもののことをあまり云わない。新モスよりずっと目がつんでいる薄手な木綿なのだが、糊気が強いせいか木綿のくせにいやに冷たく寒い布である。それを黒紋附に染めて、袖と裾へぞんざいな捺染で菊に水仙とか松に流れとかが、けちくさくちょんぼりと置いてある。たいがいはけばけばしい紫の、それもカナキンの裾まわしがついていて、御大層なことには白ガナキンの下着つきである。私のなどは合赤の三枚がさねになっている始末だから、まことにごそっぽい着物である。いくら小学一二年の豆みたいな子供だって、そこは女の子の本性だから、カナキンずくめのまっくろけは怨めしかった。(p.57,58)

「紋附」は紋付袴の紋附だからたぶん式用の和服のこと、「天長節」はたしか天皇誕生日のこと…っておぼろげな記憶を引っ張り出してきながら読んでいくことになるわけだけど、読み進んでいっても「カナキン」が何なのかはよくわからない。ヒントになりそうな「新モス」も不明だし、「ごそっぽい」というのもなんとなく雰囲気はわかるような気がするけれど、やっぱりピンとこない。着物の素材のことで、木綿の布で、おそらくはごそごそした感じのする、まああんまりイケてる素材ではないらしい、ぐらいのことはわかるのだけど、それ以上のことはよくわからない。

あるいは、こんなところ。

「お見舞いだから」と云うと、「――いずれは、と思います。そのときも一度お借りしたいんです。ですから」と云う。白のブラウスの襟が黄いろくなっていて、腕の陽焼けに老人斑がぽつぽつしている。はげしい夏されを感じ、けれどもまたそんなことを云うと娘にたしなめられると思った。
想い出というものには、事がらに附随して季感が残るものと、季感が強く残っていて事がらを忘れずにいるのと、両方あるとおもう。これは附随して残った鮮明の夏されの季感である。(p.31)

こっちは、言葉自体はわからないけれど、雰囲気はよくわかる、というパターンだ。「夏され」なんて言葉はまったく聞いたことがない――手元の辞書にも載っていない――わけだけれど、この文章からは、夏の強い光やじっとりとした暑さに疲弊していくその感じが、なんとなく伝わってくるようである。

まあそんな風に、わかんねえなーとかなんとなくわかるかなーとかおもいつつ(ときどき辞書を引いてみたりしつつ)、戦後間もない東京下町の雰囲気になぜかノスタルジアを感じたりしながら、このつらつらと書かれた掌編たちを読んでいくのは、なかなかおもしろいのだった。


『アラン・ケイ』/アラン・カーティス・ケイ

『アラン・ケイ』/アラン・カーティス・ケイ

アラン・ケイは、メインフレーム主流の時代に、個人で使うことを前提とする「パーソナルコンピュータ」というアイデアをはじめて示した人物だ。1970年代初頭、ゼロックスのパロ・アルト研究所(PARC)に所属していた彼は、パーソナルコンピュータの理想的な完成形として「ダイナブック」なるものを提唱する。それは、専門家に頼らずとも利用可能なコンピュータ、6歳の子供でもじゅうぶんに活用することのできるコンピュータ、A4くらいのサイズで、直感的なUIを持ち、音声や画像を取り扱うことができ、シンプルかつエンドユーザ側で再定義可能なシステム構成を持ち、ネットワークに対応し、屋外に持ち出すこともできる…という特徴を持ったものだった。

わたしは、ボール紙でダイナブックの外観を示す模型をつくり、どのような機能をもたせるべきかを検討しはじめた。このときにわたしが思いついた比喩のひとつは、十五世紀の中葉以降に発展していった、印刷物の読み書きの能力(リタラシー)の歴史と、コンピュータの類似(アナロジー)だった。一九六八年に、同時に三つの画期的な技術に出会ったせいで、わたしは、ヴェニスの印刷業者、アルダス・マヌティウスのことを思い浮かべずにはいられなかった。はじめて書物を現在と同じサイズに定めたのは、このマヌティウスだった。このサイズなら、十五世紀末のヴェニスの鞍袋にぴったり収まるから!(p.18)

(暫定的なダイナブックとして試作された「アルト」を、79年にスティーブ・ジョブズが見て、マッキントッシュの原型たる「リサ」を生み出すに至った…という話は、それなりに有名だろう。とはいえ、現在流通しているiPadのような製品でも、「ダイナブック」の理想に到達しているとは言いがたいようにおもう。)

本書は、そんなケイが70年代に発表した論文と、彼についての評伝が収められた一冊だ。ケイは、「未来を予測する最良の方法は、未来を発明すること」だと豪語しているけれど、本書を読んでいると、現在のPCやネット周りの環境というのは、ほとんどが彼の当時の構想に含まれていた内容であるということがよくわかる。

ケイは、コンピュータとは「機械」ではなく、「メディア」であると言う。紙の上の記号、壁の絵、映画、テレビetc.といった従来のメディアと人間との関わり方というのは、基本的に非対話的で受動的なものだった。だが、コンピュータという「メタメディア」――「記述可能なモデルなら、どんなものでも精密にシミュレートする能力」を持ったコンピュータは、メッセージの見方と収め方さえ満足なものであれば、他のいかなるメディアにもなり得る――は、問い合わせや実験に応答することのできる、能動的なメディアなのである。

だから、コンピュータは、他のあらゆるメディアと同様、4つの段階を辿ってその立場を変えていく、とケイは言う。

  • 第一は、「ハードウェア中心段階」。紙でもシリコンでも、ハードというのは簡単に作れてしまうものだけれど、時の経過によって誰もがその製造方法を知るようになり、そこから利益を引き出すことは難しくなっていく。
  • 第二は、「ソフトウェア中心段階」。はじめの内、ソフトウェアはさまざまなメーカーによって濫造されることになるが、やがてそのなかで淘汰が起こり、製品の流通はコントロールされるようになっていく。
  • 第三は、「サービス段階」。顧客が本当に買いたいものというのは、ハードでもソフトでもなく、サービスであるのだから、それを売りましょう、ということだ。ケイは、この段階の例として、60年台のIBM(メインフレーム全盛期)を例に挙げている。
  • 第四は、「生活習慣段階」。紙や鉛筆のように身近になっている状態、ということだ。そういったメディアは、「なくなったときに、はじめてその存在に気づく」ものだと言えるだろう。

そして、こういった発展を駆り立てるのは、人間が本来的に持っている、「夢想」と「コミュニケーション」の欲求であるとケイは主張する。

人間は、”夢想(ファンタサイズ)”したい、”コミュニケート”したい、というふたつの欲求をもっています。ファンタシーというのは、単純明快で制御可能な世界へいくことを意味します。ファンタシーには、言語そのもの、ゲーム、スポーツ、音楽、数学、科学研究用コンピュータなどを利用することがふくまれます。これはいずれも、人間がより大きな支配力を求めておもむく、より単純な場所なのです。二〇世紀になって、徐々に細部にまで制御がいきわたるようになったわけです。(p.132)

そのような「人間の深奥の欲求」に応える”増幅装置(アンプ)”を作ることさえできれば、必ず――その値段が先行品の10倍以内に収まっている限りは――成功するだろう、とケイは述べている。コンピュータというのは、まさにこの”増幅装置(アンプ)”であり、「夢想」と「コミュニケーション」に対して大きな支配力を持とうとする人間の欲求に強く訴えかける、能動的で双方向的なメディアに他ならない、ということだ。


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