『とどめの一撃』/マルグリット・ユルスナール

『とどめの一撃』/マルグリット・ユルスナール

物語の舞台は第一次大戦の終盤、ロシア革命期のバルト海沿岸。反ボルシェビキ小隊のメンバーであるエリックとコンラートは、リガ近くの村のはずれにある古びた館で、コンラートの姉であるソフィーと十数年ぶりに再会する。戦火が迫り来るなか、ソフィーはエリックに思いを寄せるようになるが、エリックはそんなソフィーを疎ましく、むしろ弟の方を好もしく感じてしまう。息詰まるような心理劇の末に、ソフィーは赤軍側に走り、エリックは彼女を自らの手で処刑することになる…。

本作の物語は、エリックの一人称によって「過去の思い出話」として語られていくのだけれど、エリックが自分の内面をストレートに開示することはない。だから、読者は文章――どこまでも硬質で、恐ろしいほどに洗練された文章だ――の背後に存在しているであろう彼の思考や感情というものを想像しながら、ページを繰っていくことになる。作品のプロット自体は、上記のように古典的な悲劇であるので、このややメタフィクショナルな仕掛けがこの小説の読みどころだということになるだろう。

ユルスナール自身による「序」には、このように書かれている。

物語は一人称で書かれ、主人公の口から語られる。私は、これまでしばしばこの手法を用いた。というのもそれは作者の視点を、少なくとも作者による解説を、書物から排除してくれるからであり、自分の生を直視し、多かれ少なかれ誠実に説明しよう、まず第一に思い出そうと試みるひとりの人間の呈示を可能にしてくれるからだ。(p.10)

しかしこのような文学形式の欠点は、他のどんな形式よりも読者の協力を必要とすることである。水を通して眺める事物のように、《私》と称する人物を通して眺められた出来事や人々のゆがみを、読者はみずから正さねばならない。多くの場合、一人称の物語という方策は、こうして自己を語っているとみなされる個人に有利に働く。しかし『とどめの一撃』では逆に、自己を語るさいには避けがたい歪曲が、語り手を犠牲にする形で起こる。エリック・フォン・ローモンのようなタイプの人間は、自己にさからった考え方をするものだ。(p.11)

文面上、エリックの感情というやつはとにかく抑制されまくっているので、彼がソフィーに対して、また、コンラートに対してどのような感情を抱いていたのかということは最後まで明確にはわからない。ただひとつだけ明らかなのは、彼とソフィーが、葛藤と死によって他の誰よりも強く結びつけられることになった、ということだけなのである。

二発目がすべてにけりをつけた。この役目をはたすよう私に求めることによって、彼女は最後の愛の証し、しかもあらゆる証しのなかでもっとも決定的な証しを与えたつもりだったのだ、最初私はそう考えた。しかしその後、彼女は復讐がしたかっただけであり、私に悔いを残そうとしただけだとわかった。その計算はまちがっていなかった。というのも私は時として今なお悔いを覚えるからだ。相手がああいう女では、いつも罠にはまってしまうものだ。(p.155)

 *

そういえば、本作も、先日感想を書いたマキューアン『贖罪』と同じような、「取り返しのつかない罪」に関する物語だと言うことができるかもしれない。エリックの思い出語りは、彼にとって贖罪たり得るものではないし、そもそも彼の場合は、「罪」という意識がどの程度あるのかということさえもはっきりとはしていないのだけれど、過去のある出来事を「物語」として語りたいという欲求のなかには、その出来事をどうにか自分のなかで整理したい、理解したい、処理して落とし所を見つけたい…といった切実な気持ちがあるのだろう、ということは読者にも理解できる。エリックにとっての安らぎというのもまた、語るという行為のなかにしか存在しないのかもしれない。


『赤と黒』/スタンダール(その2)

前回のエントリでは、「ジュリヤンにとって、出世や恋の成就といったものはあくまでも副次的なものであったのかもしれない。彼を突き動かす最も重要な動機というのは、彼の英雄願望、彼の自尊心の充足、彼の上昇志向の満足といったものなのだ」なんてことを書いたのだけれど、先日、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を読んでいて、もうちょっと違う風にかんがえることもできそうだな、とおもった。

ジュリヤンが出会った当初のレーナル夫人やマチルドを落とそうと奮闘するのは、まあ単純な「モテたい」、「出世したい」欲の発露、ジュリヤンの野心と向上心の表れだと言えるだろう。これはわかりやすい。ただ、二村は、「モテたい」という感情について、こんなことを書いている。

「モテたい」=「キモチワルくないと保証されたい」というのは、「恋されたい」ではなくて、本当は「愛されたい」ということだったんじゃないだろうか。(『すべてはモテるためである』/二村ヒトシ 文庫ぎんが堂 p.204)

男にとって(男性社会のなかで)モテる男になりたい!いい女を自由にできる男になりたい!とめざすことは【向上心がある】てなこと、ではある。
そして「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいことである。
だから男は、自分が「モテたい」というのは「恋されたい」ことなんだと自動的にすり替える。
だが【愛されたい】というのが「自分を肯定してほしい」という欲求だとしたら。(前掲書 p.204)

【モテたい】は「キモチワルくないと保証されたい」ことなんだから、じつは【モテたい人】は愛されていれば充分であって「恋されて、相手を支配する」必要は、ないんじゃないだろうか。
モテた者も、モテをめざす者も、ただ「自分は愛されたいんだ」と認めればいいんじゃないだろうか。(前掲書 p.205)

モテたいというのも、つまるところ承認欲求の一種なのだから、べつに相手に恋されて、相手を支配するような必要はない。そんなことよりも、自分自身を肯定して欲しい、認めて欲しい、というその気持ちを素直に認めてあげる方が先なんじゃないの、ということだ。個人的には、なかなか腑に落ちるというか、納得できる主張である。この二村のかんがえかたを『赤と黒』のプロットに適用してみると、だいたい以下のような感じになるのではないか。

  • 親の愛を知らず、また、自分を守ってくれる社会的な地位も能力も持っていないジュリヤンは、自分を認め、保証してくれる何かを必死に求め続ける。それは二村流に言えば、「自分を肯定してほしい」、「愛されたい」という欲求である。
  • ただ、やっぱり「「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいこと」であるわけで、ジュリヤンも自分自身のその感情にはなかなか素直に向き合うことができない。
  • 自分の感情を「モテたい」欲、「出世欲」、「支配欲」、「向上心」だと勘違いしたままのジュリヤンは、ついに貴族の娘であるマチルドを落とすことに成功、上層階級への階段に足をかけることになる。しかし、まさにそのタイミングで、昔の女であるレーナル夫人によって、過去のスキャンダルを暴露されてしまう。
  • 己の野望を妨害されたことで頭に血が登った彼は、レーナル夫人に発砲、逮捕・投獄される。だが、そうすることでようやく自分の感情を正確に認識できるようになり、ああ、俺は肯定してもらいたかったんだ、愛されたかったんだ、と気づく…。

前回のエントリでは、『赤と黒』はジュリヤンという青年の野心と成長、挫折の物語である、という読み方をしてみたわけだけれど、上記のように捉えてみると、結構印象が違ってくる。こっちの読み方だと、『赤と黒』の主題は野心というよりも、やはり愛情である(つまり、本作はある種のラブストーリーである)ということになるだろうし、ジュリヤンが自分の選択をまったく後悔することなく死を迎えることができるのは、「自分のエゴやプライドにどこまでも忠実に生き切ったから」というよりも、「自分の弱さやだめさをも受けて入れてくれる、愛というものを本当に知ることができたから」だ、ということになるだろう。どちらが正解ということもとくにないのだろうけれど――というか、どちらもそれなりに適切な読み方だとはおもうけれど――ともあれ、こういった多層性こそが本作が古典たらしめているのね…という感じはする。


『赤と黒』/スタンダール

『赤と黒(上)』/スタンダール 『赤と黒(下)』/スタンダール

『赤と黒』で描かれているのは、極度に利己主義的でプライドが高く、と同時に、異様に強い猜疑心と劣等感の持ち主でもあるという主人公のジュリヤンが、その野心と自尊心の満足を極めていく過程でうっかり恋に落ちてしまったりしつつも、最終的にはやはり自らの性質ゆえに命を失うことになる…という一連の物語である。

作品の舞台は1830年より少し前のフランス、7月革命の起こる前で、王党派による反動政治の時代だ。この、貴族と僧侶の時代においては、どこまでも洗練されていること、すなわち「相手の期待していることの裏をかけ」、「常識はずれも気取りのまねもいけない」というのが社交界で影響を持ち続けるための唯一絶対のルールであった。

ジュリヤンは木こりの倅であるから、そんな洗練とはまったくの無縁、おまけに、「きみに言葉をかけても、きみが喜びはしないということは、はたの目にもわかる」と言われてしまうような性格をしているので、運良く貴族たちの世界に潜り込むことができても、はじめのうちはなかなかうまくふるまうことができない。だが、貴族の女を口説き落としていこうとする過程で、その「腹のなかとは似てもつかない冷ややかな顔」や「自分を抑えることのできる」能力を活かしていく術を徐々に身につけていくことになる。その辺りのじりじりとした心理描写の細やかさこそが、本作のおもしろさだと言えるだろう。

たとえば、ジュリヤンが自分自身に、「レーナル夫人の手をにぎる」というミッションを課す決心をするシーン。

身振りをした拍子に、ジュリヤンはふとレーナル夫人の手にさわった。庭に出してあるペンキ塗りの木の椅子の背にのせていたのだ。
その手はすばやくひっこめられた。だが、ジュリヤンは、さわったとき、ひっこめさせないようにするのが、自分の義務だと思った。義務は果たされなければならないし、それができなければ笑いものになる、というより劣等感におそわれると思うと、たちまち喜びもなにも心から消えうせた。(上巻 p.80,81)

また、その後、レーナル夫人の手をしっかりとにぎることに成功したジュリヤンは、こんな風にかんがえたりもする。

翌朝は五時に起された。レーナル夫人が知ったらひどいひとだと思ったろうが、ジュリヤンはろくろく夫人のことなど考えもしなかった、自分の義務を、しかも英雄的な義務を果したのだ。そう思うと、あふれるほどの幸福感におそわれ、部屋に鍵をかけて閉じこもり、興味を新たにして崇拝する英雄の武勲の話に読み耽った。
昼食の鐘が鳴ったときも、ナポレオンの遠征の戦報に読み耽っていて、昨日おさめた勝利のことはすっかり忘れていた。サロンへおりていきながら、浮いた気持で、《愛していると、あの女にいってやらなくてはなるまい》とつぶやいた。(上巻 p.85,86)

あるいは、マチルドを落とすための方策がわかったぞ、と確信を得るシーン。

ジュリヤンは、夢中で、ナポレオンの『セント=ヘレナで口述された回想録』を開くと、たっぷり二時間のあいだ、読もうと努力した。ただ字が目にはいるだけだったが、それでもかまわず、がむしゃらに読んだ。この奇妙な読書のあいだに、頭と心が興奮してきて、なにか壮大きわまる事件の渦中にあるような状態で、知らず知らずのうちに働き出していた。《あの女の心はレーナル夫人のとはだいぶ違う》だが、それ以上考えは進まなかった。
《相手を恐れさせよ》と、ジュリヤンは急に本を遠くへ投げ出して叫んだ。《恐れさせているかぎり、敵はおれに服従する。そのあいだはおれを軽蔑したりしないだろう》
うれしさに感きわまって、ジュリヤンは、小さな部屋の中を歩きまわった。ほんとうをいえば、それは恋の幸福というよりも、自尊心の満足のためだった。
《相手を恐れさせよ!》ジュリヤンは得意になってくり返したが、得意になるのももっともだった。《どんなにうれしいときでも、レーナル夫人は、おれの愛情が自分のよりすくないのじゃないかと心配していた。だが、こんどの場合は、おれの征服しようとしているのは悪魔だ。だから征服しなくてはならない。》(下巻 p.392,393)

これらのシーンからも明らかなように、ジュリヤンは野心剥き出しでエゴイスティック、打算的なところだらけの青年である。だが、それと同時に、彼は極めて高いプライドを持っており、それを傷つけられることにどうしても耐えられない、というピュアで直情的な性格を持ち合わせている人物でもある。ある意味では、潔癖な理想主義者だと言うこともできるだろう。だいたい、上記のようなシーンではかろうじて周到にふるまえているけれど、恋の熱に浮かされて、おかしな行動をとってしまう場面だって決して少なくはないのだ。まあ、そのようなアンバランスさこそが、レーナル夫人やマチルドを惹きつける要因にもなり、そしてまた、彼自身の身を滅ぼす元にもなってしまう…という訳だ。

そんなジュリヤンにとって、生きることというのは、自らのエゴやプライドを決して裏切らないようにその時々の選択を行い続けていく、ということだったと言えるだろう。ジュリヤンを駆り立てているものは常に一貫しており、だから、彼がレーナル夫人をピストルで撃つことと、その後に彼女への想いを募らせて汲々としたりすることのあいだには何の矛盾もなく、また、その結果、自分が死刑となるに及んだところでまるで後悔することがないというのも、とくに不可解なことではないのだ。

そういう意味では、ジュリヤンにとって、出世や恋の成就といったものはあくまでも副次的なものであったのかもしれない。彼を突き動かす最も重要な動機というのは、彼の英雄願望、彼の自尊心の充足、彼の上昇志向の満足といったものなのだ。もちろん、出世や恋が彼にとって重要でないというわけではない。それらは彼の志向を満足させるための具体的なターゲットであって、もしそれらがなければ、彼は自分の有り余るエネルギー――それは自分の勇気を試してみたいという野心であり、冒険心である――を持て余すことしかできなかっただろうからだ。


『贖罪』/イアン・マキューアン

『贖罪』/イアン・マキューアン

クラシカルな文芸大作の体裁をとった、マキューアン流のラブストーリー。とはいっても、もちろんそこはマキューアン、メタフィクショナルな視点や登場人物たちを突き放すような冷徹な態度が作品の背後には常にあるし、どこまでも考え抜かれた構成と的確過ぎる描写はとにかく上質としか言いようのないもので、小説を読むよろこびをじゅうぶんに味わせてくれた。

本作で扱われるテーマは、タイトルの通り「贖罪」――取り返しのつかない罪を犯してしまったとき、人はそれをどのようにつぐなうことができるのか――である。取り返しがつかないがゆえに、人は贖罪を希求しないではいられないし、しかし、いくら求めてみたところでそれが叶うことは決してあり得ない…そういった、贖罪の不可能性にまつわるドラマが400ページにわたって描かれていく。

 *

作品は三部構成になっている。まず、第一部では、主人公のブライオニーが少女の頃、いかにして「罪」を犯すに至ったのかについてのエピソードが、マキューアンならではの超精密な文章で描かれていく。ブライオニーは、虚偽の証言によって、姉セシーリアの恋人、ロビーを犯罪者に仕立て上げてしまうのだが、このあたり、19世紀小説的なねちねちした心理描写によって少しずつドラマが盛り上げられていくのがたのしいし、13歳の文学好き少女、ブライオニーのキャラクターというのがじつに緻密に――ちょっといじわる過ぎるんじゃないかってくらいに緻密に――描き出されているのも素晴らしい。

第二部は、第一部の5年後が舞台となり、ブライオニーによって無実の罪を被せられた男、ロビーの視点で第二次大戦中の退却戦の模様が描かれていく。喉の渇きや傷の痛み、爆撃に怯え常に空の気配を伺わずにはいられないという感覚、引き裂かれた恋人の記憶を繰り返し思い起こす様子など、映像喚起力が強く、リアリティに富んでおり、これはこれでひとつの中編小説として成立していると言ってもいいかもしれない。

第三部では、志願看護婦となったブライオニーの戦時中のエピソードと、彼女が自分の「罪」をはじめてつぐなおうとする試みの顛末が描かれる。彼女は、セシーリアとロビーのもとに直接赴き、とにもかくにも謝罪しようとするわけだ。このシークエンスにおける、居心地の悪さや背中にいやな汗をかく感じの生々しさというのはまさにマキューアンの真骨頂で、惚れ惚れしてしまう。

そして最後に、第三部から数十年が経過し、老年に至ったブライオニーの視点から、エピローグがつけ加えられる。このごく短いエピローグによって物語のエモーションが一息に引き出されるような構造になっており(『初夜』で用いられているテクニックと少し似ている)、淡々とした文章を読んでいくなかで、読者はひどく動揺させられることになる。第三部の後半部分――引き裂かれた恋人たちは戦火を越えて再会し、ブライオニーはつぐないのために彼らのもとへと向かう、というエピソード――はじつはブライオニーの生み出した虚構であって、実際のところは、セシーリアとロビーは二度と会うことのないまま、戦争のなかで命を落としていた…ということが明らかになるのである。第一部から第三部というのは、ブライオニーの書いた小説だったのだ。彼女は、こんな風に述べる。

ふたりが二度と会わなかったこと、愛が成就しなかったことを信じたい人間などいるだろうか?陰鬱きわまるリアリズムの信奉者でもないかぎり、誰がそんなことを信じたいだろうか?わたしはふたりにそんな仕打ちはできなかった。わたしはあまりに年老い、あまりにおびえ、自分に残されたわずかな生があまりにいとおしい。わたしは物忘れの洪水に、ひいては完全な忘却に直面している。ペシミズムを維持するだけの勇気がもはやないのだ。(p.437,438)

まあ、要は、ブライオニーは「贖罪」のために彼女の「罪」と恋人たちのエピソードを物語化していたというわけだ。己の罪の重さが耐え難いがゆえに、事実を歪めてハッピーエンドを形作ろうと、小説の推敲をブライオニーは繰り返していくが、そこで明らかになっていくのは、贖罪の不可能性ばかりであった…というわけだ。

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物語化によって「贖罪」を行おうという彼女の試みは惨めに失敗し続けるわけだけれど、まさにその試みの最中にしか、ブライオニーの安らぎというものは存在しない。彼女が小説を書き続けることは、自らの「贖罪」の可能性に手を伸ばし続けることであり、それが決して叶わないことだろうとわかってはいても、それでもなお手を伸ばさないではいられないのだ。

この五十九年間の問題は次の一点だった――物事の結果すべてを決める絶対的権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか?小説家が訴えかけ、あるいは和解し、あるいは許してもらうことのできるような、より高き人間、より高き存在はない。小説家にとって、自己の外部には何もないのである。なぜなら、小説家とは、創造力のなかでみずからの限界と条件とを設定した人間なのだから。神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない――たとえ無神論者の小説家であっても。それは常に不可能な仕事だが、そのことが要でもあるのだ。試みることがすべてなのだ。(p.438)

私たちは、こんなブライオニーの姿をあざ笑ったり、断罪したりすることができるだろうか?あなたがやっていることは、まったく贖罪になどなっていない、あなたのかんがえなどまったくのおもい上がりだ、などと言うことができるだろうか?そんなことは本人がいちばん身に沁みてわかっていることだというのに??

この世界には、決してつぐなうことの叶わない罪というものがある。「小説家にとって、自己の外部には何もない」のと同様に、この世界にも外部などというものは存在しない。マキューアンは、そんな世界に生きる人間というものの欠点――愚かしさやみっともなさ、恥ずかしさ――をまっすぐに見つめながら、それらを冷静かつ精密に、そして執拗に、そのくせなんとも上品に、描き出してみせている。


『自発的隷従論』/エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ

『自発的隷従論』/エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ

「なぜ、多くの民衆は、人間の本性とも言える自由を放棄してまで、たったひとりの苛虐な圧政者のもとに隷従するのか?」という不可思議な事態の原因が考察されている一冊。考察といっても、何らかの客観的な指標に基いて論が展開されているわけではなく、古典文学や哲学書、歴史書などから自由にエピソードを引用しながら、著者の考えが提示されていく、という感じであるので、タイトルのごつさから想像されるよりずっと読みやすいものになっている。

 *

まず、ラ・ボエシは、こんな風に素朴に疑問を提示してみせる。

仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、ひとりを相手にして勝てなかったとしても、それはおかしなことではあれ、まだありうることだろう。だが、百人が、千人が、ひとりの者のなすがままじっと我慢しているようなとき、それは、彼らがその者をやっつける勇気がないのではなく、やっつけることを望んでいないからだと言えまいか。臆病によるのではなく、むしろ相手を見くびっているから、嘲っているからだと言えまいか。また、百人の、千人の人間ではなく、百の国、千の町、百万の人が、その全員のなかでもっとも優遇されている者すらも隷従と奴隷の扱いを強いているたったひとりの相手に襲いかからないのを目にした場合、われわれはそれをなんと形容すればよいだろう。これを臆病と言えるだろうか。(p.14,15)

一体いかなる災難が、ひとり真に自由に生きるために生まれてきた人間を、かくも自然の状態から遠ざけ、存在の原初の記憶と、その原初のありかたを取りもどそうという欲望を、人間から失わせてしまったのだろうか。(p.30)

臆病でなければいったい何なのか。ラ・ボエシはこれを、「自発的隷従」と名づけてみせる。上記のように、ただひとりの圧政者をどうしても退けることができない状況というのは論理的には存在しないわけであるから、民衆の隷従というのは外部から強制されたものではあり得ず、あくまでも自発的なものだということになるはずだ、ということだ。民衆は、隷従と自由のどちらかを選択する権利を自らの手の内に持っていながら、しかし、あえて自ら自由を放棄し、軛につながれている、自らの悲惨な境遇を受け入れるばかりか、進んでそれを求めているのだ、とラ・ボエシは述べる。

であれば、民衆が圧政を逃れ、自由を取り戻すために必要なのは、隷従はしないと決意すること、ただそれだけであるはずだ。では、なぜ民衆はそのような簡単な判断能力をすら失ってしまっているのか?隷従への執拗な意思は、どのようにして彼らのなかに根を深く下ろすに至ったのか??ラ・ボエシは、こんな風に説明する。

たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、軛のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。(p.35)

人は、手にしたことがないものの喪失を嘆くことは決してないし、哀惜は袂のあとにしか生まれない。また、不幸の認識は、つねに過ぎ去った喜びの記憶とともにあるものだ。
たしかに人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである。(p.43)

たしかに自由というのは人間の本性であるに違いないが、しかし、不自由な状態を自然なものとして受け入れてしまうということ、そして、そんな「自発的隷従」状態が簡単に習慣づけられてしまうということもまた、人間の本性である、ということだ。たとえ不自由な状態であっても、それを「自分にとって自然なもの」ということにしてしまえば、もうそれ以上思考する必要はないわけだし、逆に自由を望み、現状を打破して自由を手にするためには、やっぱりそれなりのエネルギーが必要になる。だからこそ私たちは、自由な生き方をしている人の姿に輝きを感じたり、それをうらやんだりもするけれど、しかしそれでいて自分の「自発的隷従」的な生き方を変えようとすることは滅多にない…そういうことなのかもしれない。


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