『天使の囀り』/貴志祐介

『天使の囀り』/貴志祐介

Kindleにて。手堅いサスペンス・ホラーものを得意とするエンタメ作家、貴志祐介だけれど、今作は怖いというよりも気持ち悪い、それも超絶気持ち悪い一作だと言っていいだろう。何が気持ち悪いのか、ってところは本作のサスペンス要素に大きく絡んでくるので具体的には書かないでおきたいのだけれど、えっ、この人何かんがえてるの…っていう「底の知れなさ」からくる内面的な気持ち悪さと、もうぱっと見がとにかくおどろおどろしい、っていう外面的な気持ち悪さ、その両方を完全に兼ね備えている作品なのだ。そこがすごい。それにとにかく、ちょっとこれは映画化とかはできないだろうな、とおもえるくらいにグロテスクなんである。

物語のプロローグでは、調査団の一員としてアマゾン奥地に向かった高梨から、恋人の早苗に宛てて送られてきたメールが示される。いまいち要領を得ない文面だが、アマゾンで何かアクシデントが起こり、それが原因で高梨らは急遽帰国することになったのだという。戻ってきた高梨は、早苗の知っていた以前の彼とはまるで違った人格の持ち主になっており、しばらく後、突然に謎の自殺を遂げる。そしてまた、調査団の他のメンバーも、同じように不可解な自殺を図っていくのだが…!

読者には、「アマゾンでの何か」が原因で謎の自殺がいくつも発生している、ということは知らされているのだけれど、それ以上のことはなかなかわからない。病原菌、精神疾患、呪い、麻薬、洗脳…いろいろなアイデアは浮かんでくるけれど、これという答えが見つからないのだ。そんななか、自殺の手段がエグい方へグロい方へとエスカレートしていく。何といってもここが本作の読みどころで、読者は早苗と共に事件の謎を追いながら、このサービスシーンとでも言うべき、人間がある一線を踏み越え、壊れていき、そして尋常でない方法で自らを殺していく様子をいくつも目撃することになるのだ。

もっとも、そこは貴志作品、文章のタッチは冷静で、精密なディテールがしっかりとプロットを支えている。エグさやグロさといった生理的な恐怖感、嫌悪感に訴えるだけではなく、ミステリ的な要素を次々と繰り出しては読者の興味を繋げていくというところなんかは、まさに職人の仕事、という感じだ。サスペンスとして、じゅうぶんにおもしろい。エンディングでもばっちりオチが決まっているところなんか、きっと誰しもが感心してしまうはずだ。


「クロイツェル・ソナタ」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「クロイツェル・ソナタ」/レフ・トルストイ

嫉妬がもとで妻を刺し殺すに至った、ある貴族の男の告白。プロットとしては非常にベタなのだけれど、殺人にまで至った自身の心情を逐一綿密に辿っていく男の台詞によって、その一連のプロセスが特殊な事情によるものではなく、ある真理によって必然的に引き起こされたものであるかのように語られていくところがおもしろい。

男は、自身の結婚生活の破綻を経て、現在の婚姻制度やら愛やらといった観念などというものはそもそも幻想であり虚飾であり、そこにあるのは男と女の欺き合いでしかない、という考えを持つに至る。

ところで男性が女性をどのように見ているかということは、私たちは誰でも知っていますね。つまり『酒と女と歌』というやつで、詩人たちもおなじことを書いているじゃありませんか。(p.219)

近頃ではもう女性を尊敬するなどと主張するのが流行っています。女性に席をゆずったり、ハンカチを拾ってやったりする連中がいるかと思えば、女性があらゆる地位に就く権利、女性の参政権といったものを認める連中もいます。
でも、そうしたいろんなことをしてみせながら、女性に対する見方はまったく変わっていません。女性は相変わらず快楽の道具であり、女性の肉体は快楽の手段です。そして女性の側もそのことを承知しているのです。(p.220)

結婚だの愛だのというものは、性的衝動や支配欲を適当にデコレーションしているだけの、単なる幻影である。なあ、お前らだって本当はそんなことわかっているんだろう?というわけだ。

まあ非常に男性目線な理屈ということになるのだろうけれど、これが単なる口先だけの理論ではなく、この男――自身の幻想を完膚無きまでに打ち破られた男――の口から語られていることで、異様に迫力のある、リアリティ豊かでちょっと無視することのできない意見になっているというところは、さすがトルストイという感じだ。

私はもはや嫉妬することさえ自分に許しませんでした。第一に、もう嫉妬の苦しみは味わいつくして休息を必要としていたからですし、第二に、妻の断言したことを信じたかったし、また信じていたからです。しかし嫉妬していないとはいえ、晩餐会のときと音楽が始まる前のパーティーの前半を通して、私はやはり彼に対しても妻に対しても自然な態度はとれませんでした。私は相変わらず二人の動きや目つきをじっと観察していたのです。(p.286)

何を考えても、全部あの二人のことに結びついてしまうのです。私はひどく苦しみました。
一番苦しいのは、分からないこと、疑っていること、半信半疑の状態でいることでした。つまり妻を愛したものか憎んだものか、判断がつかないのが一番苦しかったのです。いまだに覚えていますが、苦しみのあまり一つの考えを思いつき、それが大いに気に入ったものです――それは外に出て線路に横たわり、汽車に轢かれて一挙にけりをつけるという考えでした。そうすれば少なくともこれ以上、迷ったり疑ったりしないですむでしょうから。(p.302)

男の台詞によって語られていく各シーンが、独占欲や性愛にまつわる感情のままならさを生々しく映し出していることで、本作は単なる禁欲主義小説、説教臭い道徳話に陥らず、人間を真正面から描いた、普遍的な作品になり得ているようにおもう。昼メロ的なプロットではあるけれど、その主人公のひりひりとした心情は、痛いくらいに生々しく感じられるのだ。


「イワン・イリイチの死」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「イワン・イリイチの死」/レフ・トルストイ

舞台は19世紀ロシア。世俗的な成功を手にした中年裁判官、イワン・イリイチという男がふとしたきっかけで病に倒れ、数ヶ月の苦しい闘病の末に死んでいく…という一連の流れを描いた物語だ。

イワン・イリイチという男は、ごく平凡な性格と人生観とを持った主人公である。「賢く覇気があって好感の持てる、品のいい」若者だった彼は、「気楽で、快適で、陽気で、つねに上品で周囲に祝福されるような暮らしぶり」を追求し、それを得ることに成功する。仕事で出世し、素敵な女性と結婚し、家庭を築き、豪華な邸宅を手に入れ、ときどき息抜きに友人たちとカードをしたりもする…何事につけてもうまくやるコツを心得た、世渡り上手な人物というわけだ。彼の価値観は、現代の日本人の価値観と何も変わらない。彼の人生は、言ってみれば「成功者」のそれだといっていい。

そんな「成功者」だったはずの彼だが、病に倒れ、己の死が迫り来るのを自覚したとき、いままで積み上げてきたいっさいのもの――地位や名誉、金や権力、友人や家族、自尊心や虚栄心――が、まったく無価値で無意味なものだとしかおもえなくなってしまう。自分はいったいいままで何をしてきたのだろう?いままで何を歓んでいたのだろう??そんな風にしか感じられなくなってしまうのだ。これほど恐ろしいことはない。何しろ、自分の人生の最終コーナーにまで至って、いままでのすべてが無意味だったと悟ってしまったのだ。悟ったところで、もはや何の取り返しもつかないのだ。

「生きるって?どう生きるのだ?」心の声がたずねた。
「だから、かつて私が生きていたように、幸せに、楽しく生きるのだ」
「かつておまえが生きていたように、幸せに、楽しく、か?」声は聞き返した。そこで彼は頭の中で、自分の楽しい人生のうちの最良の瞬間を次々と思い浮かべてみた。
しかし不思議なことに、そうした楽しい人生の最良の瞬間は、今やどれもこれも、当時そう思われたのとは似ても似つかぬものに思えた。幼いころの最初のいくつかの思い出をのぞいて、すべてがそうだった。(p.120)

今の彼、つまりイワン・イリイチの原型が形成された時代を思い出し始めるや否や、当時は歓びと感じていた物事がことごとく、今彼の目の前で溶けて薄れ、なにかしら下らぬもの、しばしば唾棄すべきものに変わり果てていくのであった。(p.121)

自分では山に登っているつもりが、実は着実に下っていたようなものだ。まさにその通りだ。世間の見方では私は山に登っていたのだが、ちょうど登った分だけ、足元から命が流れだしていたのだ……。そしていまや準備完了、さあ死にたまえ、というわけだ!
さて、これはいったいどういうことだ?なぜこうなったんだろう?こんなことはありえないじゃないか。人生がこれほど無意味で、忌まわしいものだったなんて、おかしいじゃないか。(p.122)

己の死と正面から向き合わざるを得なくなったとき、その人間はどこまでも孤独でいるしかない。誰がどんな言葉をかけてこようと、何をしてこようと、結局のところ、死ぬのは私であってあなたではないのだし、そもそも、人間は他人の痛みや恐怖を真に共有することなどできないのだ。

そんな孤独なイワン・イリイチにとっての唯一の慰めとなるのが、召使いのゲラーシムと、中学生の息子の存在である。彼らだけが、まもなく死を迎えようとするイワン・イリイチの境遇に同情し、哀れんでくれたのだ。哀れみが孤独を解消してくれるわけではないけれど、彼らの世間ずれしていない素朴な感性は、「子供をあやして慰めるように、優しく撫で、口づけして哀れみの涙を流してほしかった」イワン・イリイチに、ちょっぴり安らぎを与えることができたというわけだ。

そういう意味では、本作は、死を目前にした男の回心と救済を描いた、教訓物語であるということができるかもしれない。本当の幸福についてとくにかんがえることなく過ごしてきた世俗的な男が、その生の終わりに、己の価値観を粉々に打ち砕かれた末、最後の最後でやさしさや同情、慈しみといった感情の美しさを認識する…といったような。

だが、私たちはイワン・イリイチの生を教訓として、後悔のない生き方をすることなどできるのだろうか?彼は死の間際、本当に最期の瞬間になってようやく「光」を見出すわけだけれど、それはあくまでも、「死」を全うし、すべてが失われゆくまさにその瞬間だったからこそ見出すことのできた「光」だったのではないだろうか?

「死」をリアルなものとして感じることのできない私たちでも、このような作品を読んで、イワン・イリイチの気づきに感動したり、彼の恐怖を疑似体験することはできる。だが、本を閉じた後、自分にとっての本当の幸福――迫り来る死を前にしても揺らぐことのない、生きるよすがとなり得るもの――とは何なのか、はっきりと見つけ出すことなど、果たしてできるのだろうか?「人生の最良の瞬間」、「もしも取り戻せるならばもう一度味わってみたいような、なにか本当に楽しいもの」は幼年期にしかなかった、とイワン・イリイチは回想しているけれど、どこまでも世俗的な存在たる私たちが、「なにか本当に楽しいもの」を見つけるには、いったいどうすればよいのだろうか??その答えは、この本のなかにはない。


『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

「ムーミン童話全集」の三冊目。ムーミンパパが、自らの若かりし頃の思い出を本に書き綴り、子供たちに語って聞かせる…という体裁の物語だ。前作と同様、本作も、細かなエピソードがぶつぶつと連なっている感じで、筋らしい筋というのもないし、登場人物たちの数は多すぎ、まるっきり思いつきで書かれたような、雑多ででたらめな印象のする作品になっている。これは正直、あまりおもしろいとはおもえなかった。

ただ、ムーミン童話においては、その、雑駁で適当で、まるでちゃんとしている気がしない、でもなんだか全体的には自由でハッピー、というような空気感こそが、何にも勝る価値を持っている、ということは言えるのかもしれない。このなんとも適当な雰囲気こそが、この作品のおもしろさだ…というか。

すみきったみどり色の海の底で、砂はくま手でかいたような、こまかいもようをえがいています。岩の上には、ほかほかと日があたっていました。風もないで、もう水平線はきえていました。すべてが明るいすきとおった光につつまれていたのです。
あのころは、世界はとても大きくて、小さなものは、いまよりもっとかわいらしく、小さかったのです。わたしはそのほうがよっぽどすきです。わたしのいう意味がわかりますか。(p.115)

…強く意識していなければ、私たちの世界は時間とともに小さく狭いものに、そして、小さなものはただ小さいだけのものになっていってしまう。だから、ムーミンパパは、過去を振り返り、「あのころ」のでたらめで自由な感覚をおもい起こすことで、現前の世界に新鮮さと豊かさとを取り戻そうとしているのかもしれない。そんな風にかんがえてみると、少しは共感できるかも、という気はした。


『時は乱れて』/フィリップ・K・ディック

『時は乱れて』/フィリップ・K・ディック

ディックの1959年作。かなり初期の作品だけれど、なかなかおもしろく読めた。いかにも普通小説風な描写からスタートしつつも、物語の進行とともに周囲の世界に対する違和感が増大していき、ついには世界そのものが偽りであったことが発覚する…という展開の一作だ。

主人公の中年男、レイグル・ガムは、50年代後半のアメリカ郊外の町で、新聞の懸賞クイズを解き続けることで生活している。物語の序盤では、レイグルや彼が同居する妹夫妻、そのお隣さん一家との交流のようすが淡々と描かれていくのだけれど、この時点では、明らかに特殊に見えるのはレイグルの「懸賞クイズを解き続ける並外れた能力」だけだ。だが、ストーリーが進んでいくにつれて、少しずつ「現実」の裂け目が姿を表してくるようになる。いまある「現実」とは、ほんとうに「現実」なのか?疲労やストレスのせいで、あるいは過去のトラウマ的な何かのせいで、俺の頭はどうかなってしまったのではないか?…という、神経症的な不安が全体に広がっていく。

そうしてその不安が頂点に達したところで、物語は一気に(かなり強引に)SFへと姿を変えてしまう。じつはレイグルたちの暮らす「現実」世界というのは、すべてが作りものの虚構世界であって、彼が毎日必死に行っていたのは、懸賞クイズでも何でもなく、月から発射されるミサイルの到達地点を読み解くためのパターン解析なのだった…ということが明らかにされるのだ。

まあ、ある種お定まりの展開だといっていいだろう。最近読んだ本では、オースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」のプロットにもちょっと似ている(エンダーという少年が軍事戦略ゲームを解き続けていくのだけど、それはじつはゲームでもなんでもなく、じっさいに人類を救うための闘いなのだった…って話)。話のオチ自体は真新しいものではないので、本作の読みどころはやはり、ディック独特の、「この世界は何かがおかしい」、「この現実は何かが間違っている」、「いや、そうじゃないのかも。もしかしたら、おかしいのはこの世界でもこの現実でもなくて、俺の頭の方なのかもしれない!そうだとすればすべて辻褄が合うじゃないか!」、といった現実崩壊の感覚ということになるだろう。少なくとも俺にとっては、本作においては、SF要素よりもこうしたパラノイアックな感覚のほうがずっと魅力的だった。

誰も彼も。誰も信じることはできない。彼らはわたしをこのトラックに乗せて送り出し、巡回中の最初のパトロールにつかまるように仕向けた。おそらく、このトラックの後部には、”ソ連のスパイ”とでもいうネオンサインが光っているのだろう。背中に”わたしを蹴飛ばせ”という紙が貼ってあると思いこむような妄想。
そのとおり。わたしは”蹴飛ばせ”サインが背中にとめつけられている人間なのだ。どれほど頑張っても、背中のそのサインを確認できるほど素早く振り返ることはできない。だが、本能は、そのサインが間違いなくそこにあることを告げている。なすべきは、ほかの人々を注意深く観察し、彼らの行動の意味を判定すること。人々が行うことから推量すること。サインがあるかわかるのは、わたしを蹴飛ばすべく列をなしている人々が見えるからだ。(p.201)


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