『オネーギン』/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

『オネーギン』/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

プーシキンの有名な韻文小説。この岩波文庫版では散文として翻訳されているので、ふつうの小説として読むことができるようになっている。あらすじは以下の通り。

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若くして叔父の財産と土地とを引き継いだオネーギンは、社交界の寵児として享楽的な日々を過ごすが、やがてすべてに飽き、無為で退屈な日々を送るようになる。田舎に隠棲した彼は、自分より少し年若い詩人、レンスキイと知り合う。レンスキイはオネーギンの隣家の娘、オリガに夢中で、オネーギンを彼女の屋敷へ連れて行く。オリガの姉のタチヤーナは、突然現れた都会の男、オネーギンを一目見るなり恋に落ちる。小説好きで夢見がちな性格のタチヤーナは、思いの丈を打ち明けた熱烈な恋文を書き、オネーギンに渡すが、オネーギンは自分はあなたに相応しい相手ではない、と彼女を拒絶する。

ある日、オネーギンはふとした気まぐれから、舞踏会でオリガを誘い、レンスキイの目の前で彼女と踊ってみせる。怒りに駆られたレンスキイは、オネーギンに決闘を申し込む。オネーギンは申し出を断ることもできず、レンスキイと決闘し、結果、彼を撃ち殺してしまう。このことで自棄になったオネーギンは、家を離れ、放浪の生活を始める。その後、タチヤーナはオネーギンの家を訪れ、彼が書き込みを残した本を貪り読む。タチヤーナは、ついに彼がどういったかんがえの人物であったかを本当に知るに至る。

数年後、放浪の旅から戻ったオネーギンは、モスクワの舞踏会に顔を出す。と、そこには見違えるように美しく成長したタチヤーナの姿があった。彼女はすでに結婚し、社交界で注目を集めるほどの女性になっていたのだ。オネーギンはとうとう彼女に恋をすることになる。恋文を何度も送りつけ、ついには彼女の家にまで押しかけ、思いの丈をぶちまける。だが、タチヤーナはすでに人妻、私は操を守るつもりなのでお帰り下さい、とオネーギンに告げるのだった…。

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本作の主人公、エヴゲーニイ・オネーギンは、19世紀ロシア文学によく登場する「余計者」の原型、と言われているけれど、その造形はいまでもじゅうぶんに興味深いものだ。知識だけはあるが、それを生かすための興味や活力、指針といったものを持っていないがために、ただただ流されるように生きてしまう…というその姿は、いまでも違和感なく受け入れられる。彼は決していいやつではないけれど(というか、ここまで鼻につくところばかりの主人公というのも、なかなか珍しいだろう)、俺なんかはそのだめだめな姿に共感してしまったりもする。

物語の最終章で、そんなオネーギンがタチヤーナに詰め寄り、冷静になりなさいと諭されるシーン、ここで交わされるやりとりは、何とも格好悪くも、リアリティに満ちたものだ。何事に対しても関心が持てず、何をしていても満たされず、ただただ無為な生活を送っていた男、決闘を持ちかけられても、それを回避する術をかんがえることすらせず、ただ流れに任せて友人を殺してしまった男、まだまだ若いのに、すっかり老成してしまったかのように見える男であったオネーギンだが、ただ恋に落ちてしまうことで、それら「余計者」的な性質が一掃され、みじめで情けない、喪失感でいっぱいの「女のいない男たち」の一員になってしまった、というわけだ。

誰にとっても無縁であり、何一つ束縛を受けなかった僕は、こう考えたのです。――自由と安らぎは幸福に代り得る、と。ああ、何という間違いだったでしょう、どんな罰を受けたことでしょう!(p.171)

「女のいない男たち」にとって、自由や安らぎは幸福のための助けにはならない。彼の空虚を埋めることができるのは、彼の求める女だけなのだ。かつては無感動な「余計者」であったオネーギンも、ここではその洗練も無気力も鬱屈も、すべて投げ出し、「感情の奴隷」としてただ懇願することしかできないのだ。

とはいえ、この場面に至っても、タチヤーナのオネーギンへの想いが完全に失われてしまっているわけではない。なにしろ、彼女は、オネーギンへの愛をはっきりと口にしてさえみせるのである。そういう意味では、これはオネーギンとタチヤーナ、ふたりの想いがすれ違う、それぞれにとっての人生の悲劇の物語ということもできるだろう。彼らのどちらにとっても、相手に対して抱いたその感情が、自らの人生のなかで最も激しく強大な吸引力を持っていたがゆえに、その感情が発生したまさにその瞬間に、相手にそれを伝えずにはいられなかったのだ。たとえそのタイミングがまったく適切なものではなかったとしても、たとえそれが自らの幸福の助けにはならないとわかっていたとしても。


『ひとさらい』/ジュール・シュペルヴィエル

『ひとさらい』/ジュール・シュペルヴィエル

シュペルヴィエルの長編。以前に読んだ『海に住む少女』が完璧に素晴らしい作品だったので、それと比べてしまうとやはりどうしても落ちる、という印象はあった。でも、これはこれでなかなかおもしろい小説だ。

物語の主人公は、ビグア大佐という男。父性溢れる人物で、あちこちから身寄りのない/不幸な子供をさらってきては自分の家に住まわせ、自分の子供として大切に育てようとする…という変人である。読者がこの男のことを、変わった人だなー、そこまで悪人って感じでもないみたいだけど…などとおもうのと同じように、さらわれてきた子供たちの目にも、大佐はどこか掴みどころのない、出来合いのものさしでは測りがたいような人物として映っている。風変わりで、優しくて、人の道からはちょっと外れていて、そしてとても寂しそうな男。

さて、そんな風に、法の網の目をかいくぐりながらオリジナルな価値観を貫いていた大佐だけれど、マルセルという少女を引き取ってからというもの、自分のありようにまるで自信が持てなくなってしまう。まあ早い話、彼女に恋してしまうわけだ。ティーンの「娘」に恋してしまった大佐の心の内では、父性と愛欲、怯えと怒り、プライドと欲望とがごちゃごちゃに混ざり合い、どこにも行き場を見つけることができないまま、ものすごい早さで肥大化していくことになる。(そして、マルセルの方はというと、そんな大佐のようすを興味深げに見つめている。)

自分でも意識していないだろう大佐のちょっとした態度から、マルセルは大佐が自分に関心があることを感じ取っていた。なにしろ、大佐は気がつくと、彼女の手や、靴ひもの結び目や、帽子のてっぺんをじっと見つめているのだ。マルセルのほうはといえば、しばらく前から、大佐のまぶたにキスしたいと思っていた。それだけは確かだった。だって、あのまぶたの裏には、今までに見たなかで、いちばん真っ黒な瞳、誰よりも多くのものを抱え込んだ瞳が隠れているのだ。
マルセルにとって大佐は、母の家にはなかったものすべてだった。贅沢な暮らし、心遣い、そして異国情緒。マルセルは大佐をじっと見つめていた。まるで、何十キロにわたって葉陰の続く深い森のなかに潜んでいるオランウータンのように、大佐はいつも孤独のただなかにいるのだ。(p.104,105)

そういう意味では、本作も「女のいない男たち」の物語だということができるだろう。大佐には妻がいるけれど(そして彼は彼女のことをそれなりに大切におもってはいるようなのだけれど)、やはり彼は、自らが本当に求めるもの、心の奥底から欲望するものを得ることのできない、「女のいない男たち」のひとりなのだ。だから、そんな彼にとってのこの世界は、もはや自らの力では何の働きかけをすることもできない、痛みに満ちた場所ということになる。

(ビグア大佐が「ひとさらい」をはじめた理由というのは、作中ではぼんやりと示唆されるに留まっているのだけれど、おそらく、「そうしないことには、この世界のなかに自分をうまく位置づけることができなかったから」だということは言えるだろう。既にさまざまなものを失い、あるいは自ら捨て去ってきた後で、彼が自分にふさわしい立ち位置、役割としてようやく設定することにしたのが、「家庭の父親」というロールだったのだけれど、そのポジションを自らの欲望によって失うことになってしまったわけで、そうなると、もはや彼には依って立つところがなくなってしまうのだ。)

物語の最後、ビグア大佐は生への意思を失い、海へと身を投げることになる。シュペルヴィエルは、そんな彼の姿を、「いったい何をやっているんでしょうねえ、この人は?」とでも言いたげないじわるな口ぶりで描き出してみせるけれど、まさにそんな大佐の滑稽さやみじめさによって、作品全体の詩情は確かなものになっている。


『女のいない男たち』/村上春樹

『女のいない男たち』/村上春樹

村上春樹の2014年作。短編集としては、前作『東京奇譚集』から9年ぶりの新作ということで期待して読んだのだけれど、これは素晴らしかった。『1Q84』あたりから、村上の作品の雰囲気はそれまでよりぐっと静謐なものになっているように感じられていたのだけれど、本作も、昔の作品と比べると、かなり「音量が絞られた」ような印象のする物語になっている。登場人物たちが口にする言葉や、雨が地面に落ちる音、煙草に火をつける音、車のエンジン音、それらのひとつひとつが静寂のなかで小さくも、しかしその存在をはっきりと主張しているような、そんな印象を受けた。

そういった静けさのなかで語られていくのは、女を失った、女を失いつつある、あるいは女を得ることのできないでいる、男たちの弱さや孤独や悲しみだ。あくまでも物語の音量は小さめであるので、センチメンタルであってもそれが過剰になることはない。彼らの内にある傷や痛みや苦しみは、その小さな音量のなかで、ひそやかに、それでいてどうしたって打ち消すことのできないものとして描かれていく。こういうタイプの小説を読むと、俺はいつも、「作家というやつは、弱い者、不具な者、抑圧された者を好きだ。それは嫌いだ、という人間などは、作家にあらずと言ってもいいくらいだ。」と中上健次が書いていたのをおもい出すのだけれど、本作の中心にあるのもやはり、弱い者、傷を負った者、負債を抱えた者ーー本作では、それは「女のいない男たち」として表現されているーーへとそっと寄り添うようなまなざしであると言うことができるだろう。

ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。ひとつ角を曲がると、自分が既にそこにあることがあなたにはわかる。でももう後戻りはできない。いったん角を曲がってしまえば、それがあなたにとっての、たったひとつの世界になってしまう。その世界ではあなたは「女のいない男たち」と呼ばれることになる。どこまでも冷ややかな複数形で。(p.276)

そしてひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染みこんでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように。あなたがどれほど豊富に家政学の専門知識を持ち合わせていたとしても、その染みを落とすのはおそろしく困難な作業になる。時間と共に色は多少褪せるかもしれないが、その染みはおそらくあなたが息を引き取るまで、そこにあくまで染みとして留まっているだろう。それは染みとしての資格を持ち、時には染みとしての公的な発言権さえ持つだろう。あなたはその色の緩やかな移ろいと共に、その多義的な輪郭と共に、生を送っていくしかない。(p.279)

とくに気に入ったのは、「ドライブ・マイ・カー」、「独立器官」、「木野」あたり。いずれも、「女のいない男たち」になったことで、自らの内に溜め込んでいたどろりとした暗闇と対峙せざるを得なくなる男の物語だ。そこには強烈な苦味があり、激しい痛みがあるけれど、それと同時に、そんななかからしか掬い上げることのできないある種の感覚というものもまた、確実に存在しているようでもあって、それが彼らの物語を切実で語られるべきものにしているようにおもう。


『ウルフ・オブ・ウォールストリート』

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』

ずいぶん以前に、早稲田松竹にて。ディカプリオのドヤ顔がたくさん見られて――しかしこの人は本当にいろいろなドヤ顔を持っている!――それだけでもおもしろい、マーティン・スコセッシ作のブラックコメディ。これもまた実話をもとにした作品なのだけれど、『ブリングリング』と比べると、ずっとエンタテインメント性が強く、下品で、爽快感のある作品に仕上がっている。もぐりの株式ブローカーとして成り上がった後に証券会社を設立、株価操作などの違法行為によって若くして巨万の富を築き、ウォール街のウルフと呼ばれた男、ジョーダン・ベルフォートの一代記。

『ブリングリング』の主人公たちと異なっているのは、主人公のジョーダンが、自分の行っていることは端的にペテンであり詐欺であり欺瞞であり、自分はまったく倫理観に欠けた不道徳で最低な男であり、金は天下の回りものであり、金では愛や友情こそ買えないがしかしそれ以外のものであれば大抵うまく動かせてしまうのであり、自分の仕事はどうかんがえたって空虚なものだが、それを言うならその空虚とは資本主義社会のど真んなかにぽっかりと広がっているものに他ならないのであり、自分は金を回して増やすというサイクルやドラッグやセックスにまったくの中毒になっているのであり、それらもやっぱり空虚なものではあるのだけれど、じっさい大抵の人間の人生などというのはそのような空虚を巡って右往左往するものなのであり…といったもろもろを完全に理解しつつも、それでもやっぱりハイになるのはやめられないぜー、ってどこまでもクレイジーに突き進んでいくというところだ。

ジョーダンの姿は資本主義のヒーローにもヒールにも見えるし、じっさいそのどちらでもあるのだろうけれど、彼の姿が輝いて見えるのは、彼がどこまでも己の信念、己の欲求というものだけに忠実で、他の誰にもその邪魔はさせない、という強さを持っているからだろう。その信念と欲求の強さの表れが、ディカプリオのドヤ顔に収斂されるところに、この物語の明快で筋の通った感じがよく現れているようにおもう。とにかく笑わせてもらったし、すごく好きな映画だった。


『ブリングリング』

『ブリングリング』

ずいぶん以前に、早稲田松竹にて。LAに暮らす裕福な家庭の子供たちが、夜な夜なセレブの空き家に忍び込み、窃盗を繰り返す…という、本当にそれだけの話(実話)を描いた作品。「シャネルのバッグが欲しいの」→「そういえば、リンジー・ローハンは今晩パーティに出ているはず」→「リンジー・ローハン 住所」でネット検索→家はここか、じゃあひとつ戴きに行っちゃいますか→クラブで知り合いに自慢:「今日はリンジーん家からパクってきたわー」「まじ!?ウケるんですけどー。てか、それ超クールじゃない?」、って流れを繰り返すばかりなのだ。

彼らを駆り立てていたものは、つまるところ何だったのか?観客には最後までわからない。物欲、スリル、セレブのライフスタイルなるものへの憧れ、自己顕示欲、友達付き合い…まあいろいろな要素が組み合わさっているのだろうけれど、それでもやっぱり、こんなにも割に合わない、こんなにも無防備で無邪気なふるまいを、ハイティーンの子たちが繰り返すというのはなかなか腑に落ちないもので、俺は見ていてふしぎな気分にさせられたのだった。

まあ、ざっくりと解釈することはできなくもない。たとえば、この事件は、セレブ文化の影響力の強さと、SNSによる自己アピール文化の強さとの相乗効果によって生じたものだ、と説明してしまうことは可能だろう。友人や知人により強烈に自分をアピールし、承認を得たいとおもう気持ちは、SNSカルチャーに強く取り込まれたティーンならばそれなりに自然なものだろうし、強くアピールするには何よりもクールなもの(=セレブ)に自分がなってしまえばいい、ということになる。おまけにセレブはうんざりするほど大量のモノを持っていて、しかも自分の近所で家を留守にしている…そうなれば、こういう犯罪にまで手が伸びていってしまうこと自体は、まるで理解に苦しむようなものではない、とかんがえることができるだろう。

ただ、本作ではそういった彼らの心情や背景となるようなエピソードは(おそらく意図的に)描かれていない。だから、彼らが自らの行為を反省したりして、ひとつ大人への階段を登ったりするような場面はまったく出てこないし、内に秘められた本心なるものを――そんなものがあるとすればだが――匂わせるようなこともない。とにかく彼らは、省察や重さや悲壮感とは無縁なのだ。本作のカメラは、先のことなど何もかんがえず、ふらふらと悪さをしては遊び回る彼らの姿を、空虚で軽薄で、きらきらしていて、どこか孤独を感じさせる、弱い少年少女として映し出しているばかりなのだ。


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