『21世紀の資本』/トマ・ピケティ(その2)

『21世紀の資本』/トマ・ピケティ

前回まとめたような分析をもとに、ピケティは、なぜ格差が拡大していくのか、というメカニズムを説明するための理論を提示してみせる。先に書いたとおり、統計は、資本蓄積の速度は総所得の伸び率よりも大きいということを示しているわけだけれど、これをシステムに内包された法則としてかんがえてみよう、というわけだ。

それが、本書によってすっかり有名になった「r>g」という公式である。資本収益率(r)(=株式や預金、不動産などのすべての資本から生み出された平均収益率)と、総所得の成長率(g)(=資本が生む収益+労働所得の伸び率、つまり経済成長率)に関して、この比率は――既存の一部の経済成長理論でかんがえられているような――「r=g」ではなく、「r>g」という状態こそが標準なのではないか、ということだ。たしかに、過去のデータを見ればじっさいそのようになっているわけで、この不等式が発生する原因については不明確だけれども、ともかくとりあえずそういうものとして理解する必要があるだろう、というのがピケティの主張ということになる。

r>gという不等式はある条件下での歴史的な主張であって、特定の期間と政治的文脈では事実だが、他には当てはまらない。(p.373)

私の考えでは、r>gという不等式は、絶対的な論理的必然ではなく、さまざまなメカニズムによって決まる歴史的現実として分析する必要がある。それぞれ相互にほぼ独立した力が重なりあった結果として生じたものなのだ。ひとつには、成長率gは構造的に低くなりがちだ(いったん人口動態の変化が完結し、国が世界の技術最前線に到達して、イノベーションのペースがかなり遅くなると、通常年間1パーセントを大きく超えることはない)。さらに、資本収益率rは多くの技術的、心理的、社会的、文化的要因に左右され、それらがまとまって約4-5パーセント(いずれにしても、1パーセントよりは明らかに大きい)という利益率をもたらすようだ。(p.376)

私が本書で強調してきた格差を拡大させる基本的な力は、市場の不完全性とは何の関係もなく、市場がもっと自由で競争的になっても消えることのない、不等式r>gにまとめられる。制限のない競争によって相続に終止符が打たれ、もっと能力主義的な世界に近づくという考えは、危険な幻想だ。(p.440)

もし「r=g」が成り立つという場合、それは、労働所得が総所得のなかで占める割合が一定ということだ。つまり、資本と労働の取り分の比率が一定というわけで、こうであれば格差は広がらない。

ピケティの観測によると、これらの値を歴史的に見ると、r=4.5〜5%、g=1〜3.5%程度になるとのことだけれど、たしかにこれでは、資本によって得られる収益は、賃金所得の伸びを上回って成長し続けるということになる。労働賃金を増やすよりも、資本の再投資の方が富を増やしやすいということだ。多くの資産を持つ富裕層の取り分ばかりが大きくなり続けるわけで、格差が拡大し続け、富の階層構造が時と共に強固で動かしがたいものになっていくのも当然ということになるだろう。とりあえず、この法則こそが不平等をもたらす根本的な原因だ、という話になるわけだ。(…もっとも、ファイナンス系の人ならば、資本の収益はリスクを負った投資によって得られるものなのだから、r>gになるのは当然でしょう?でなければ誰も投資なんてしないよ、などと言うかもしれないけれど。)

まあ要は、資本主義というやつは、放っておけば格差が拡大するようになっているシステムである、少なくとも過去の統計からはそのように読み取れるし、現在のデータを見てもその傾向は変わっていない、ということだ。格差の拡大は民主主義を脅かすことになるわけで、資本主義を採用しつつ民主主義を継続するためには、市場を「もっと自由で競争的な」「より能力主義的な」ものにしようとがんばってみてもダメで、別のテコ入れが必要だ、ということになる。

資本市場と金融仲介が洗練されるにつれ、所有者と経営者はますます分離し、それによって純粋な資本所得と労働所得の区別もだんだん明確になる。時には経済的、技術的合理性は、民主主義的合理性と無関係だ。前者は啓蒙運動から派生したものだが、人々は後者がまるで魔法のように何となく自然に前者から生まれるものだと、あまりに平然と考えてきた。しかし、本当の民主主義と社会正義には、市場制度や、議会など形式的民主主義的制度機関以外に、独自の制度が必要だ。(p.440)

本研究の総合的な結論は、民間財産に基づく市場経済は、放置するなら、強力な収斂の力を持っているということだ。これは特に知識と技能の拡散と関連したものだ。でも一方で、格差拡大の強力な力もそこにはある。これは民主主義社会や、それが根ざす社会正義の価値観を脅かしかねない。
不安定化をもたらす主要な力は、民間資本収益率rが所得と産出の成長率gを長期にわたって大幅に上回り得るという事実と関係がある。
不等式r>gは、過去に蓄積された富が産出や賃金より急成長するということだ。この不等式は根本的な論理矛盾を示している。事業者はどうしても不労所得生活者になってしまいがちで、労働以外の何も持たない人々に対してますます支配的な存在となる。いったん生まれた資本は、産出が増えるよりも急速に再生産する。過去が未来を食い尽くすのだ。
これが長期的な富の分配動学にもたらす結果は、潜在的にかなり恐ろしいものだ。特に資本収益率が、当初の資本規模に直接比例して増えるということまで考慮するとその懸念は高まる。そして、この富の分配の格差拡大は世界的な規模で起こっているのだ。(p.601,602)

そういう状況なので、単なる所得税の累進税率アップということでは、問題は解決できない。何しろ、所得の成長よりも資本ストックの収益率の方が大きいのだから。だからピケティは、この課題解決のためには、累進的な資本税こそが必要である、と主張する。じつにもっともな主張だが、この提言の段階に至って、彼の言葉は少しずつユートピア的なものになっていくことになる。


『21世紀の資本』/トマ・ピケティ(その1)

『21世紀の資本』/トマ・ピケティ

世間の多くの人と同じく、俺も2015年の正月休みを利用して『21世紀の資本』を読んだのだった(けれど、感想をまとめたりブログを更新したりするのが億劫で、気がつけば読み終えてから3年半も経ってしまっていた…)。読み終わっておもったのは、何しろボリュームのあるこの本だけれど、別にすごく意外なこととか、まったく予想もできないようなことが書いてあるわけじゃないんだなー、ということだ。その代わり、経済的格差が着実に拡大しつつあるというこの現代社会の状況を、その大元のところから詳らかにし、じつに細かく――うんざりするほど詳細に――分析した結果を教えてくれている。

ピケティは膨大なデータのなかから抽出した法則を示し、自由市場と資本主義は、国家による再配分という介入がなければ、あるいは戦争などの強力な外部要因がなければ、時の経過とともに不平等を拡大させ、反民主主義的な寡頭政治へと向かっていってしまう、そういった性質があるものだ、と述べる。本書が世界中で評判を呼び、大ベストセラーとなったのは、「最近の経済格差の拡がり具合ってやばいよね?」という素人的な実感を経済学の観点から実証的なデータでもって裏打ちしてくれた、というところが大きいのだろう。

そういうわけで、本書では、先進諸国が抱える直近の課題に対する明快な処方箋――貧困問題や高齢化、長期に渡る経済的停滞等々に抗するために、どのような方策を採るべきか――なんかが述べられているわけではない。ピケティがここで行っているのは、資本というものの傾向に関する分析と実証に過ぎないのだ。以下、簡単にノートを取っておく。

 *

資本主義先進国において経済的な格差が拡大している、という認識はごく一般的なものだけれど、では、じっさいのところ、格差というやつはどのように生じ、広がっていっているのか、ということを、ピケティは世界20カ国以上、200年あまりに渡る税務統計のデータを集計し、分析することによって実証的に説明していく。その分析の結論は、「そもそも資本主義のシステムには格差を発生させるメカニズムが内包されている」という極めてシンプルな内容になるのだけれど、膨大な統計資料のなかから裏付けとなる要素を抽出し、法則として導き出しているわけで、ここが本書のいちばんの売りということになるだろう。そしてまたピケティは、こうした構造に対抗し、格差の拡大を減速させるための政策についてもアイデアを提示している。データ分析→理論化→政策提言、と3つのフェーズをまたぐテキストになっているわけだ。

データ分析のフェーズでは、まず、格差とはそもそもいったい何を指すのか、それはどのように測定すればよいのか、という点が問題になる。ピケティは、一般に用いられることの多いジニ係数や貧困率などではなく、誰が富を持っているか、という点に着目する。とくに大きく取り上げられているのは、「1.総所得に占める所得上位者の比率」、「2.総資産/総所得の比率」、という2つの値だ。

1.は、”We are the 99%”などのスローガンでもよく知られる問題だ。きわめて少数の所得上位者たちが、国民の総所得のかなり多くの部分を占めている、というやつである。たとえばアメリカの所得上位十分位(所得階層の上位10%)の所得が総所得に占める割合ということでいうと、1910年代:40%→20年代:50%まで上昇→恐慌と大戦を経て35%まで低下→80年代以降は上昇を続け、現在は45〜50%程というところになる。

そして、2.は、ある国の資本蓄積(=土地や工場といった実物資本+海外への投資)と、国民の総所得との比率ということだ。この値も、1と同様、2つの世界大戦の間では小さくなっているが、それ以外の時期――資本蓄積が進んだ時期――ではかなり大きな数字になっている。(アメリカを含む西欧の先進国では、両大戦期は200〜300%、大戦前、そして現在では500%超、となっている。)

大量のデータを集計した結果明らかになったのは、1.も2.も、大恐慌と世界大戦、その後の急成長、という時期を挟んで、U字型のカーブを描くように値が変化していっている、ということだ。ピケティは、これらの値の上昇は、労働分配率の低下と資本分配率の上昇を示している、つまり格差の拡大を表すものだ、と言う。

なぜ両大戦期にこれらの値が減少し、格差が縮小したか、ということだけれど、この時期、戦争によって富が全体的にリセットされた(資本が破壊され、また、税率が高まった)こと、戦後のインフレで資産の実質価値が減少したこと、歴史的に見ても例外的な高度成長が継続したこと、などの要因が挙げられている。まあ、このまま戦争が起こらなければ、1.、2.の値は時とともに上昇を続け、持てる者と持たざる者の格差は、ますます拡大していくことになるだろう、というわけだ。


『かもめ』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『かもめ』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

作家志望の青年トレープレフは、湖のほとりにある叔父の土地で暮らしている。そこに、名の知れた女優である母アルカージナが、愛人の売れっ子作家トリゴーリンを連れてやってくる。トレープレフは想い人ニーナを主演女優に、前衛的な劇を皆の前で上演してみせるが、母親たちの理解を得られず、笑いものにされ、ついには怒りのあまり劇を中断してしまう。

ニーナは著名な芸術家であるトリゴーリンに憧れを抱き、ふたりは接近していく。ニーナが離れていってしまったこと、自らの作品が受け入れられなかったことに絶望したトレープレフは、ピストル自殺を図る。

それから2年の時が流れ、作家としてなんとか独り立ちしつつあるトレープレフのもとに、ニーナが姿を現す。トリゴーリンに捨てられ、女優としての成功もおぼつかず、不安定な様子を見せるニーナだったが、トレープレフへの語りのなかで、芝居を続けていく決意と、トリゴーリンへの愛を口にする。その夜、トレープレフは再びピストル自殺を図り、今度は成功する…。

 *

ニーナとトレープレフの立場というのは、物語の開始時点ではほぼ同等のものだと言っていいだろう。彼らはふたりとも、何も持っておらず、ただ淡い希望だけを胸に、あいまいな夢を見ている若者にしか過ぎない。そんなところに、トレープレフにとっての乗り越えるべき壁としてトリゴーリンが現れ、状況が変化していくことになるわけだ。

すでに成功している作家であり、そしてニーナの愛情を勝ち得た者であるという意味で、トレープレフにとってトリゴーリンは対峙を余儀なくされる存在である。(ついでに言うと、トリゴーリンは、母アルカージナに一人前の男として認められている人物でもある。もちろん、トレープレフはそうではない。)だから、トレープレフはトリゴーリンに敵愾心を燃やし、嫉妬し、己の実力のなさに苦しみ続けることになる。作家であるトリゴーリンによってニーナを奪われることで、トレープレフのなかでは、作品の失敗が愛情の喪失と、作品の成功が愛情の獲得と、分かちがたく結びついてしまう。彼は、その間違った構図のなかでのたうち回ることしかできなくなってしまうのだ。

しかし、第四幕に至って、ほとんど不意に、彼が本当に求めるべきだったのは、「魂のなかから自由に流れだすように書く」ことだったのではないか、ということが明らかになる。既存の権威や他の作家を打ち倒すための「新しい形式」の探求などではなく、ただ、己の「魂」のなかから書くということ、それこそが彼のやるべきことだったのではないか、と。そんなひらめきに対して、そうかようやく俺のやるべきことがはっきりしたぞ、とポジティブに反応できればよかったのだけれど、もはやトレープレフにはそんな風にはかんがえられない。自分はすでにあまりにも多くの時間を無駄にしてしまった、すべては失われてしまった、手遅れでしかない…おそらくはそんな風に絶望し、自ら生命を絶つことになるわけだ。

 **

ニーナの場合はどうだろうか。ニーナはトリゴーリンに捨てられ、女優としても失敗している。(第四幕では、田舎回りの女優となって、くたびれ果てている。)気持ち的にも不安定で、はっきり言ってトレープレフと同じくらいぼろぼろに見える。愛する相手に捨てられていること、自分の作品が思うようにうまくできないこと、いっけん、彼らの状況は非常によく似ている。

だが、彼女は物語最後の長い独白――トレープレフの目の前で彼に対して語ってはいるが、ほとんど独白のようにしか聞こえない――のなかで、これに耐えていかなければ、と口にすることができるようになる。

わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ――だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。(p.120,121)

トレープレフは、自分の使命がわからない、どうしたらいいのかわからない、もう手遅れでしかない、と言い続けているのに、この違いはどこから来るのか?ニーナだって、第三幕と第四幕の間の2年間のうちに、自殺していてもおかしくないではないか?ふたりを異なる結末へと導いていったものとは、いったい何なのか??

 ***

…それはおそらく、自らの運命を受け入れる覚悟、のようなものなのではないか。ニーナは、かつて前衛劇を演じた手作りの劇場がぼろぼろになってなお湖のほとりに残っているのを見たときに、2年振りに泣いて、胸が軽くなって、心の霧が晴れた、と言う。それは、かつて無邪気に抱いていた夢が、無様に失敗したということを確認する作業であり、自らの程度、自らの現実を受け入れるということでもあったのではないか。

わたしは――かもめ。……いいえ、そうじゃない。わたしは…女優。(p.119)

そう述べるニーナは、「かもめ」――ふとやってきた男によって、退屈まぎれに破滅させられてしまう娘。「ほんの短編の題材」のような――であることを飲み込み、そういった自分の立場をはっきりと認識した上で、それでも「女優」たろうとする。「かもめ」である自分自身を受け入れ、惨めでも、成功とはかけ離れていても、それでもなお一歩ずつ進んでいこう、進んでいくしかない…という信念の、これは宣言なのだ。

 ****

「わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの。」と語るニーナのように、書くことで、魂のなかから書くことで――物語序盤で、奇しくもトリゴーリンが述べていたように、「書きたいことを、書けるように書く」ことのなかで、つまり、ただできること、やるべきことをやる、ということのなかで――たしかな喜びを見出すことができたのならば、トレープレフは、己の運命を受け入れ、まだ生き続けることができたのではないか。ただ書くためだけに書くことができていれば、彼が死に至ることはなかったのではないか。俺はそんな風に感じたけれど、でも、その辛い道を改めて選択しようとするには、すでにあまりにも深く決定的に、彼は傷ついてしまっていたのかもしれない、ともおもう。


『三人姉妹』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『三人姉妹』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

舞台はとある地方都市。没落貴族の三人姉妹、オーリガ、マーシャ、イリーナは、いつか故郷のモスクワに帰ることを夢見ながら、淡々と日常を送っている。彼女らの家には、街に駐屯中の旅団の将校たちが何人も出入りしている。日々は静かだが、それでも時間の流れとともに、ものごとは少しずつ変わっていく。彼女らの兄弟、アンドレイは弱気な娘のナターシャと結婚する。マーシャは妻子持ちの中佐、ヴェルシーニンと恋に落ちる。イリーナはトゥーゼンバフ男爵と婚約し、新しい生活を始めようと誓う。

旅団が街を去る日、トゥーゼンバフは恋敵のソリョーヌイと決闘し、命を落とす。三人姉妹は、夢見たものが目の前で次々と形を失い、手を離れていくのを見つめながらも、これからも何とか生きていかなくてはならない、と互いに寄り添って立つ…。

『桜の園』で競売の場面が描かれないのと同様に、『三人姉妹』においても、ドラマを推進していく事件そのものが舞台上で描かれることはほとんどない。第三幕の火事や、第四幕のトゥーゼンバフの死は、あくまでも背景に位置するもので、人物たちはその状況に対して何らの対応策を講じることもできないのだ。また、物語の時間経過に従って、アンドレイと結婚したナターシャが次第に家庭内で専制的にふるまうようになっていく様が不気味に描き出されるけれど、これもまた、アンドレイを含めた主人公たちにとって、自らの力ではどうにも対処しようのない、とにかくどんどん悪くなっていく状況、というものとして扱われている。

『桜の園』のラネーフスカヤたちは、自分たちを待ち受ける運命に対して諦めを感じ、あえて何もしない道を選んでいるようにも見えたけれど、本作の主人公たちは、はっきりとはわからない何か大きな流れに対し、抗う術を知らず、ただただ押し流されていくことしかできないでいるようだ。背景で何が起こっているのか知ることのできない彼らは、自分たちを取り巻く状況に対して、こんな風に言葉を発することしかできないのだ。

マーシャ わたし、こう思うの――人間は信念がなくてはいけない、少なくも信念を求めなければいけない、でないと生活が空虚になる、空っぽになる、とね。……こうして生きていながら、何を目あてに鶴が飛ぶのか、なんのために子供は生まれるのか、どうして星は空にあるのか――ということを知らないなんて。……なんのために生きるのか、それを知ること、――さもないと、何もかもくだらない、根なし草になってしまうわ。(p.187)

イリーナ あたしはもう二十四で、働きに出てからだいぶになるわ。おかげで、脳みそがカサカサになって、痩せるし、器量は落ちるし、老けてしまうし、それでいてなんにも、何ひとつ、心の満足というものがないの。時はどんどんたってゆく、そしてますます、ほんとうの美しい生活から、離れて行くような気がする。だんだん離れて行って、何か深い淵へでも沈んで行くような気がする。あたしはもう絶望だ。どうしてまだ生きているのか、どうして自殺しなかったのか、われながらわからない……(p.230)

トゥーゼンバフ じつにくだらない、じつに馬鹿げた些事が、ふとしたはずみで、われわれの生活に重大な意義を帯びてくるようなことが、時にはありますね。相変わらずくだらん事だと高をくくって、笑いとばしているうちに、ずるずる引きずられて、もう踏みとどまる力が自分にはない、と思った時はすでにおそい。(p.257)

アンドレイ ああ、一体どこなんだ。どこへ行ってしまったんだ、おれの過去は?おれが若くて、快活で、頭がよかったあの頃は?おれが美しい空想や思索にふけったあの頃、おれの現在と未来が希望にかがやいていたあの時代は、どこへ行ったのだ?なぜわれわれは、生活を始めるか始めないうちに、もう退屈で灰色な、つまらない、無精で無関心な、無益で不仕合せな人間に、なってしまうのだろう。(p.258,259)

物語の背景にあるのは、不穏に動いていく時代の流れなのだが、彼らはそれをはっきりと見定めることができないでいる。ある者はそれに気づきもしないし、ある者は、あえて目をそらし、見なかったふりをする。そしてまたある者は、その流れの強さに圧倒され、ただ立ち尽くすことしかできない。だから、彼らの運命は悲劇的であるのに、そのふるまいは喜劇的なものになってしまうのだ。

そういう意味で、本作は三人姉妹の内面を描いたメランコリックなドラマであるのと同時に、現在というものを目隠しをつけたまま通り過ぎて行くことしかできない人間――自分の周囲や背景で何が起こっているのかは、いつだって事後的にしかわからない――というものへの乾いたまなざしを内包した物語であるということができるだろう。とどまることのない時の流れのなかで人間にできるのは、せいぜい、「たがいに寄り添って立つ」ことくらいなのだ。


『桜の園』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『桜の園』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

没落貴族のラネーフスカヤ夫人が、娘のアーニャと共に、5年ぶりに「桜の園」へと帰ってくるところから物語は始まる。6年前に夫と小さな息子を立て続けに亡くした夫人は、失意の内にパリへと逃亡、愛人のもとで暮らしていたのだ。ひさびさに帰還する領主を「桜の園」の人々は暖かく出迎えるが、彼らがそこで過ごすことのできる時間はほとんど残されてはいなかった。「桜の園」は借金のカタに競売にかけられることになっていたのだ。やれ困ったことだ、いったいどうしたものか、まったく昔はよかったよ…などと皆で語らい合っているうちに時は過ぎ、いよいよ競売の日が訪れる…!

本作でまずおもしろいのは、誰も本気で「桜の園」を守りたい、とはおもっていなさそうなところだ。いや、正確には、「桜の園」を守るための具体的な行動を誰ひとり取ろうとしない、というところだ。ラネーフスカヤも、その兄ガーエフも、娘のワーニカとアーニャも、それぞれにいろいろな気持ちを抱えてはいるものの、その気持ちをどうにかするための何の行動も起こそうとはしないのだ。

だから、全編に渡って描かれていくのは、彼らの無為なおしゃべりやだらだらした日常の様子、ということになる。ガーエフは本棚の前で昔日を偲んで演説をぶち、トロフィーモフはアーニャに向かって明るく光り輝く未来予想図を語ってみせる。ラネーフスカヤは借金を抱えていながら派手な金遣いを改めるでもないし、古くから「桜の園」を仕切ってきた老従僕のフィールスは、ボケが進んでギャグ担当のようになってしまっている。彼らの思い出語りや思いつきのアイデア、うわさ話や空想や思想などなど、空虚な言葉たちが舞台上を数多く飛び交っていくことになるわけだけれど、肝心要のことには誰も手をつけようとしないのだ。

そうして、「桜の園」は、ただひとりこの状況に対してアクティブに動いた人物、新興商人のロパーヒンによって買い取られることになる。ラネーフスカヤたちが「桜の園」を去るエンディングは、ひとつの時代の黄昏を象徴的に描いているとも言えるだろうし――ロパーヒンは、先祖代々農民の家系だったが、農奴解放によって新たな階級として不意に現出した人物である――、もはや状況をどうにかしようという気力やモチベーションを失ってしまった人々は、ただただ流されるに任せてこれからも生きていくのだろう…という未来を予感させるものになってもいる。

 *

とはいえ、トロフィーモフとアーニャについては、これから新しい時代へと踏み出していく希望に満ちた若い世代である、という読み方もできなくはないだろう。トロフィーモフはアーニャに理想と幸福を力強く語ってみせるのだし、じっさい、俺も高校生の頃に本作を読んだときは、そんな風に感じていたものだった。トロフィーモフのこんな台詞をノートにメモしていたのを覚えている。

もしあなたが、家政の鍵をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。(p.72)

ただ、今回読んで感じたのは、彼についてもまた、観念の世界のロマンティックな響きに憧れを抱いてるばかりの愚か者、憂うばかりで何も行動することのないインテリ、という風に読むことができるよな、ということだった。アーニャにしても、そんな彼のことをどこまで本気で信じているのかどうかはっきりとしない(というか、うんうんそうねそうねって、聞き流しているようにも読める)。そんな風にかんがえてみると、作品全体に漂う、薄ら寒い感じがより強化されるような気もする。まあ、昔と比べると、作品のセンチメンタルな側面よりも、メランコリックなイメージの方が強く印象に残った、ということだ。

もっとも、これはどちらが正解というような話でもないだろう。トロフィーモフには、両方の側面――若さゆえ、インテリゆえの未来への希望と、まさにそれゆえの愚かしさ――が与えられれいるのだ。それはたとえば、以下のようなやりとりを見てみるとわかりやすい。

トロフィーモフ 領地が今日売れようと売れまいと――同じことじゃありませんか?あれとはもう、とっくに縁が切れて、今さら元へは戻れません。昔の夢ですよ。気を落ち着けてください、奥さん。いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです。

ラネーフスカヤ 真実をねえ?そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか目が霞んでしまったみたいで、何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけれど、でもどうでしょう、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら?あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも、元をただせば、まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿されているので、怖いものなしなんだからじゃないかしら?(p.84,85)

彼らの台詞は、たしかにそれぞれにとっての「真実」を語っているけれど、しかし問題は、言葉によって、自分のおもっているまさにその感じ、というのを丸ごと相手に伝えることは不可能だし、相手のそれを心から理解することも決してできはしない、ということだ。ラネーフスカヤにはそれがわかっているけれど、若いトロフィーモフには、そのような「真実」はまだピンとこない、というわけだ。(自分は「真実」なるものを正しく見定めることができる、というかんがえ自体が、若さゆえに持ち得る希望であり、愚かさでもある。)

そんな「真実」は、虚しく、悲しいものだけれど、でも、そもそもコミュニケーションというものはそんなものである、とチェーホフはかんがえているようだ。だから、こんな風に互いのもとにまで決して届くことのない言葉たちがどこまでも空回りし続けることで、悲喜劇的な舞台の空しさはひたすらに高められていくことになる。エンディングで悲しげに鳴る、弦の切れた音は、そんな物語の最後にいかにもふさわしいと言えるだろう。

 *

…ただ、俺としては、こういう結論に落ち着いてしまうと、少し不満というか、居心地の悪さを感じることになる。何と言ったらいいか…。

チェーホフは、ラネーフスカヤたちの愚かさや悲しみを、あえて醒めた目で見つめ、悲劇ではなく喜劇として描き出そうとしている。そこから生じるのはメランコリックで乾いた笑いであり、どこへ向かうこともなくただ消えていくしかない、いわく言いがたい情感だ。

ラネーフスカヤたちは、自らの運命に対し、それぞれじつに劇的な言葉を発するけれど、劇的ということはつまり、それらはいずれも通俗的で凡庸な、お定まりの台詞、紋切り型に過ぎないということでもある。おまけに、そんな風に揃って凡俗な彼らであるのに、互いにしっかりと気持ちが噛み合うということだけは決してあり得ず、それぞれの「真実」を胸に抱えたままばらばらに生きていく他ない。人間とは、どこまでも月並みで、情緒に流されやすく、互いに分かり合うことのできない、愚かな存在である、それはなんと悲しく、滑稽で、憂鬱であることか!

…というのが、チェーホフがこの物語に込めた想いだった、ということになるのだろうか?そうであるとすれば、それに対して、どんな感想を述べることができるだろう?うん、それはそうだよね、まったく笑っちゃうよね…としか言いようがないんじゃないか?本当にそれだけでいいのか??…何ていうか、俺はそんな風におもってしまうのだ。


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