『オートフィクション』/金原ひとみ

オートフィクション

金原ひとみ『オートフィクション』を読んだ。『アッシュベイビー』ほどの勢いは感じられなかったけど、なかなかたのしい小説だった。今作も、非常にグルーヴ感のある文章で、読者をぐいぐいとひっぱっていく。物語内で主人公が「オートフィクションを書いてください」と依頼されるシーンがあり、それでこの小説自体が主人公の女性作家によって書かれた、22歳から15歳まで過去へさかのぼっていく構成の自伝的小説なのだ、ということが告げられる。読者はもちろん、主人公に実在の作家たる金原ひとみを多少なりとも投影して読んでいくことになる。

ということで構成的に弱冠凝っていたりするのだが、全体的にこれも不安定で分裂症的なモノローグ主体の語りに終始する小説なので、基本的に『アッシュベイビー』とおなじ路線上の作品であるようにおもえた。エログロ描写や下品な言葉づかいは、もはやこの作家のなかではこのレベル(けっこう激しい)が普通なんだろう。切れ味鋭く、頭の回転がはやい感じの文章で、つい声にだしてわらってしまったりする。延々とつづくモノローグが、ほんとうにおもしろいのだ。

すこし引用すると、

「何故私のボールを受け止めないのか。甚だ疑わしい。いや、疑問などではない。私は見ないふりをしているだけだ。本当のところは分かっている。シンには私のボールを受け止める度量がない。あるいは、受け止める気がない。それだけの事だ。そして私は、投げたボールを男に受け止めてもらえない寂しさを受け止める力がないから、それを無視し、何故私のボールを受け止めないのかと不思議がってみせているだけだ。ばかばかしい。どうでも良い事だ……。」(p.46)

こういう語りがひたすらつづく。「私を受け止めて」「私の世界に生きて」ほしい、という圧倒的な同一性の欲望が絶えずあるけれど、それは決して満たされることはなく、つねに主人公は煩悶の状態にある。そして、各章はその同一性の幻想が完全にうち砕かれるところで終わる。妄想的で純化された感情に溺れる自己と、それを傍から冷静に突きはなして眺めているもうひとつの自己との乖離っぷりや、それらが互いを排除せずに、絶えず間をゆれ動いていくという分裂症的な語りがおもしろい。という小説として、俺はたのしんで読んだ。

小説としての完成度とか、文章の感覚は『アッシュベイビー』よりもあきらかに洗練されているとおもうけど、やはり『アッシュベイビー』の無防備な勢いのほうがすきだ。まあ、でも、こっちを先に読んでいたらこっちを推したくなるかもしれない、とはおもう。


『花とアリス』

花とアリス 特別版 [DVD]

岩井俊二監督、『花とアリス』を見た。DVDで。花とアリスの恋やそれにからみつく嘘、芝居、アリスが宮本をつれて父親とのおもいでを辿るシークエンス、花のシリアスな告白と下品な落語との落差、宮本が海岸で拾うハートのエース、すべてのストーリーやシチュエーションがいかにもつくりものじみていて、安っぽく、薄っぺらく、また、同時にひどくきれいでもある。この物語は、ある種のファンタジーだといえるだろう。そんな日常のなかのファンタジー性をつよく呼びさます、独特の幻想的な映像は、やはりとてもうつくしいけれど、うすっぺらな寓意がほの見えている。

しかし人の生とは、あるいはこの世界とは、そのようなところなのだ。人はそんな安く、うすい生のなかで、人をすきになったり、いいことやわるいことをし、みじめな気分になったり、よりよく生きたいと願ったりする。そんな安さや薄さのなかにこそ、うつくしさがある。それは安く、薄っぺらなものであるがゆえに、はかなく、だからこそうつくしい。

物語のクライマックス、花やアリスがそれら安さや薄さからいったん離れ、小細工や遠まわしないいかたではない、手の内を見せた告白をしなければならない場面がおとずれる。そこでは、今まで隠しに隠してきた自分の持ち札をすべてさらけだして、相手と対峙しなければならない。なんとか相手の領域にはいっていって伝えようとする、懸命なおもいは、繊細だが、切実なものだ。そこには、彼女たちの切実さゆえに、うつくしさがある。状況や展開の安っぽさと関係なしに、単にうつくしさとして伝わってくる力強さがある。

人間なんて薄っぺらい。ぺらぺらだ。けれど、そんななかでもがき、その人なりに必死に生きるところに、人間のうつくしさはある。あるいは、そんななかにしか、うつくしさは存在しない。なんとなく、そんなことをおもった。


”Juxtapozed with U”/Super Furry Animals

Rings Around the World (Bonus CD)

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』で、ギャップごしのコミュニケーションのくだりを読んでいたときに、スーパー・ファーリー・アニマルズの曲、”Juxtapozed with U”がおもいうかんだ。スーパー・ファーリー・アニマルズ(以下SFA)っていうのは、俺がこころから愛し、激しくレコメンドするバンドである。フロントマンのグリフ・リースになら抱かれたっていい。とおもっているくらい。あ、まあそれはうそだけど。やっぱ、そこはえんりょしておきたい。アニマルだもんなー、なにしろ。

ウェールズ出身の彼らは、日本では、たぶんちょっとマイナーな存在だとおもわれる(評価は高いのだけど)。プライマルズやオアシスで有名な、クリエイション・レコードからデビューしたのが、90年代なかば。その後、けっこうなハイペースでアルバムを出しつづけているにもかかわらず、それがどれもこれも傑作!しかも作品ごとに音楽性がバラバラ!という、それだけ聞いたら、ちょっとマイナーな理由がわからないようなバンドだ。特徴としてよくいわれるのは、エレクトリックとアコースティック、生演奏とサンプリングの融合っぷりで、全体的な印象としては、ごった煮のサイケデリックというのがしっくりくる。ぶっとんでるのね。でも曲はどれもすごくキャッチーで、ビーチ・ボーイズとか、中期ビートルズなんかが、よく引きあいにだされたりする。毎回いろんな要素をとりいれて、音楽のスタイルは絶えず変化していっているのだけど、一貫して、とにかく単純にメロディーがいい、っていう曲を出しつづけているというあたり、じつにニクい。SFAが日本でいまいち売れてないのは、ルックスの問題(メンバーが、そろいもそろってヒゲorハゲ)もあるかもしれないけど、バンド名のせいだとおもうよ俺は。だってさ、スーパー・ファーリー・アニマルズって。

 ■

で、”Juxtapozed with U”。

「これは二都/二つのシチュエーションの物語 おたがいに認めあって 狭い先入観からはなれて 異常な緊張の衝突を避けて」

「寛容にならなきゃ 嫌いなやつらにもみんな ぼくは君を愛してはいないけど だからって非難したりしないよ」

他者というのは、どこまでいっても他者なのであって、人はけっして完全に他者とわかりあうことなどできない。それでも、それだからこそ人はつながりを求め、他者とあたらしく関係性をとり結び、共存していこうとする意思をもつ。ハードな世の中ですが、みんな寛容さをもって、お互いに認めあわなきゃね。そんな切実で肯定的なメッセージが、ヴォコーダー・ヴォイスと生声をつかいわけながら、スウィートなグルーヴにのせて歌われている。どんなギャップがあるにせよ、コミュニケーションでまず大事なのは、この、相手を認める、ってことだよな、ってつくづくおもう。ちなみに、juxtaposeっていうのは「(対照比較のため)並列/並置する, ~のそばに置く」みたいな意味のことば。レッツゲットジャクスタポウズド。いいね。

SFAの素敵なところは、これがいわばぎりぎりのオプティミズムである、という点につきるとおもう。この曲は、2001年のアルバム『Rings Around the World』に入っているのだけど、一つ前のトラック、ハードなノイズが飛び交いまくる”No Sympathy”では、”I have no sympathy for you / you deserve to die” と歌っているのだ。おまえなんか死んで当然なんだよ、同情なんかしないぜ、って。たしかに、人と人とのあいだで憎しみが絶えることはない。でも、人はやはり他者とのつながりを求めているし、どうしたって他者を必要としている。いろいろやっかいな問題はつきないけど、でもそういうのも含めて、ポジティブ感をもってやっていこう。肯定していこう。って、つぎの”Juxtapozed with U”では歌う。『Rings~』は、曲も構成も完璧!といいたくなるほどファッキンすばらしいアルバムだけど、とくにこの”No Sympathy”→”Juxtapozed with U”の流れは、ほんとうに、すげーいい。俺は、なんど聴いてもぐっときてしまう。

あ、ちなみに、こないだ出たばかりの新譜もかなりよさげです。ここまで8枚、どれひとつとしてハズレがないのがすごい!


『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』/保苅実

【送料無料】ラディカル・オーラル・ヒストリー [ 保苅実 ]

これは大学の授業で紹介されて読んだのだけれど、ものすごくいい本だった!かなり興奮しながら読みました。オーラル・ヒストリーっていう歴史学の方法や記憶、語りの問題について書いてあるのだが、著者の保苅実さんの冷静さと情熱とをあわせもったオプティミズムにすっかりやられてしまった。オーラル・ヒストリー(oral history)っていうのは、歴史研究のために、その関係者からインタビューなどの形式で直接話を聞きとり、記録としてまとめること。この本では、そんなオーラル・ヒストリーという歴史の研究方法について、根本的な再考がなされている。保苅がこの本で何度もくりかえし問いかけているのは、歴史とは何であるか、歴史家とはいったい誰のことを指すのか、という問題だ。

いわゆるポストモダン状況においては、歴史とはそもそもナラティヴなものであり、多元的、複数的なものである、といったことがおおく論じられてきた。現在、文化相対主義はもはや当然の了解だといっていい。歴史とはつねに言説的なかたちでしかあらわれ得ないし、歴史叙述は記録者のバイアスを反映したものだ、という見解を否定するものはすくないだろう。

だが、じっさいにアボリジニのオーラル・ヒストリーについて、アカデミックな近代的知であるところの歴史学の文脈でそのまま引きうけることはほとんど不可能である。なぜなら、そこにはいわゆる歴史学にとっての「正しい歴史」には到底うけいれることのできない、「史実」にもとづかない歴史物語(「非論理的、非科学的、超自然的な」)が数おおく存在しているからだ。たとえば、アメリカのケネディ大統領がアボリジニの長老と直接会って、それをきっかけにアボリジニの土地返還要求がおこった。だとか、あるアボリジニの長老が大蛇に依頼して洪水をおこし、牧場を流してしまった。といったエピソードがある。

保苅は、そのような自らにとっての「危険な歴史」を排除しようとする、現代の歴史学の政治性、権力性を批判する。そして、「アボリジニの長老の話」というオーラル・ヒストリーを認めた上で、西洋近代に出自をもつ学術的歴史分析と、アボリジニの歴史実践とのあいだのコミュニケーションの可能性を考察し、両者が共有できる、歴史経験の真摯さ(experimental historical truthfulness)とはどのようなものとしてありうるのかを探求していく。

保苅は、記憶論や神話論の研究者たちのとる姿勢について、彼らは「アボリジニの人々は、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったと信じている」「…とみなされている」「…とされている」と述べるだけであって、それは結局のところアボリジニの言説を「掬い上げて尊重する」という身振りにすぎない(p.26)、と批判している。彼らは、多元主義をうたい、異文化を尊重する姿勢を見せてはいるけれど、ほんとうは相手の歴史観をうけいれているわけではない。相手の歴史観を排除するわけではないものの、いわば包摂してしまうことで――ああ、あなたはそういうふうに信じているんですね、あなたにとってはそういうものなんですね、というように――自らの歴史観にとって、無害なものに変えてしまおうとする傾向がある。アボリジニの言説をある種のアナロジーや「神話」としてとらえることは、知識関係の不平等にもとづく権力作用の働きに他ならない。単に、マジョリティによって管理されるマイノリティ、という位置づけをおこなうことにすぎないのだ。

もちろん、保苅の主張はよくかんがえれば当然のものだ。人がアナロジーを用いるのは、イメージを豊かにしたり拡散させたりするためではなく、語りをある一定の目的に向かって絞りこむためだ。他者のなんらかの言説についてをアナロジーや、なにかを表象するものとしての神話としてとらえることは単なる一方的な解釈であって、双方向的な理解に結びつくものではない。

保苅は、西洋の歴史家による歴史、アボリジニの人々による歴史、そのさまざまな形態が共に存在する多元的歴史時空を想定する。そしてその内で双方向的なハイブリッド化による、「ギャップごしのコミュニケーション」というものの可能性について模索していく。この、いっけんユートピア的なオプティミズムが熱い。「人が過去を経験する歴史時空というのは、根源的に多元的なので、決して追体験したり理解できないような、決して埋まらないギャップが厳然としてある。(中略)ただ、ギャップはあるけれど、ギャップごしのコミュニケーションは可能なのではないか」(p.27)

ここでなされているのは、歴史の正当性がどのようなものとしてありうるのか、といった考察ではない。むしろ、どのようなコミュニケーションのかたちが可能なのか。いかに共存することができるのか。ということが問題になっている。

保苅はそのようなギャップごしのコミュニケーションとしての歴史学、を従来の参与観察やインタビューの形式にはよらずに、現地の人々とともに歴史実践をしていく、フィールドワーク形式(具体的には、アボリジニの人々と生活を共にし、長老のはなしを聞く)でのオーラル・ヒストリーによって実践する。そしてその結果、「もし私に十分な感受性があり、精霊を信じる環境に育ったなら、私は精霊たちをはっきりと見たことだろう。私が精霊をみたことがないという事実は、私が知覚しないひとつのリアリティに、精霊たちがいないことを意味しない。」(p.196)と明言するほどの地点にまで導かれていくことになる。

アボリジニの語る物語にたいして敬意をあらわしたり、評価したりするだけではなく、そこからさらに一歩踏み込んだ地点で、あらたな歴史のありかたを考察すること。そうすることで、近代の西洋知だけにもとづいた従来の思想や歴史学をぬけだすことができるのだろう。保刈は、西洋的知の内部からアボリジニの言説を分析するのではなく、アボリジニの人々との現地での歴史実践によって、双方向的なコミュニケーションの可能性を生みだした、といえそうである。

だが、他者とともに歴史実践をおこなうことでほんとうの意味で多元的な歴史理解が可能になるのだとすれば、もはや他者に語られることのないできごと、消された歴史といったものは、どのように多元的歴史空間に位置づけることができるのだろうか、という疑問はある。それはオーラル・ヒストリーという歴史研究の方法の限界についての疑問でもある。ただ、もちろん、所謂「歴史的真実」より、「歴史への真摯さ」についてかんがえる姿勢のほうが他者に対してひらかれている、というのはたしかなことだろう。


『復讐者に憐れみを』

復讐者に憐れみを デラックス版 [DVD]

『復讐者に憐れみを』を見た。DVDで。『オールド・ボーイ』のパク・チャヌク監督作品ってことで、バイオレントな、血みどろちんがいな映画だとは覚悟していたけど、たしかにそんな映画だった。でも血みどろちんがいなだけじゃなく、物語はとてもていねいに語られる。登場人物たちは誰もが被害者であるが、同時に加害者でもある。自分が受けた傷を忘れることはないけど、自分も同じように誰かを傷つけてしまっているのだということを認め、記憶し続けるのはむずかしい。というテーマが全編に通低していて、それがとてもせつない。

映画前半ではまずさまざまな復讐の原因となる物語が語られ、後半に入ると壮絶な復讐劇の連鎖が怒涛の勢いで進行していく。俳優たちの演技はすばらしく、抑制されるべきところはきちんと抑制されていて、暴力的なシークエンスとの対比が際立ちまくっていた。ただ、俺はバイオレンスな描写がわりと苦手なので、そういう痛いシーンになると頭の中で「うわー痛そうー」「まじそれやっちゃうのー?」とか余計なつっこみを入れて一歩引いてしまうようになるので、それで作品世界にあまり入り込まずに見てしまった感はある。

あと、登場人物たちのキャラクターや状況の設定はちょっと紋切り型なように感じた。とはいえ、そういうキャラクターや状況のわかりやすさが作品のもつ衝撃を強めている、とは言えるかなともおもった。誰もが被害者であると同時に加害者でもある。その状況のやりきれなさがこの映画の深みに繋がっているのだけれど、彼らを復讐に駆りたてた原因とは、辿っていけばある状況(生まれつきの障害や社会構造)に還元しうるものであるかもしれない。とかんがえてしまうと、その分だけそのやりきれなさが安っぽいものになってしまう気がする。いや、そうじゃないのか。そうじゃなくて、その安っぽさこそが余計やりきれないのかもしれない。


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