『暗闇のスキャナー』/フィリップ・K・ディック

暗闇のスキャナー (創元SF文庫)

この小説にあるのは、人は現実という巨大なシステムのなかの歯車のひとつにすぎない、という冷徹なまでの視線だ。ドラッグを飲んでトリップすることで、瞬間、ハードな現実から抜け出すことはできる。だが、ドラッグをきめまくった挙句にいきつく先は、死か廃人になるかの二択でしかなく、しかも廃人になっても歯車として利用されることから抜け出すことすらかなわない。そのような現実が、ひたすら虚ろな事実として描きだされている。

ディックの視線は、疎外者、不適応者としてのジャンキーたちに同情的ではある。その叙情感をベースにして、物語は進行していく。しかし、主人公の悲惨な現実崩壊のドラマにしても、やはりシステムの働きのなかであくまで人為的に仕掛けられたものであって、そこにはどのような意味でも、救いといえるような救いはない。

小説中に、台所の流しのしたで小さな骨のかけらを見つける、ごく短い描写があって、江國香織の『流しのしたの骨』をおもいだした。『暗闇のスキャナー』とはまったくかけ離れた、いっけんひたすら穏やかで、ゆったりとした世界のはなし。そこでは、流しのしたにある骨のイメージは、温かで平らかな世界のすぐしたにある、なんだかよくわからない冷ややかなものとして提示されていた。日常のなかに潜み、けっして解消されることのない不気味さ。ディックによる流しのしたの骨の描写は、どうしようもなく崩壊してしまった現実のなかで一瞬垣間見える、失われてしまった平穏や、生の温かみのイメージを浮かび上がらせていた。ちょっとセンチメンタルだけれど、世界を冷徹に描いていくなかでも、そうやって素直に切なさをさらけだしてしまう感じが、やはりディックの魅力だとおもう。

流しのしたの骨 (新潮文庫)


『ランド・オブ・プレンティ』

ランド・オブ・プレンティ スペシャル・エディション [DVD]

ヴィム・ヴェンダース監督、『ランド・オブ・プレンティ』を見た。DVDで。俺はヴェンダースの映画が昔からすごくすきで、今まで見た作品のなかにハズレだとおもえるものはごく少ないのだけど、でも、正直この作品はいまいちだとおもった。

主人公の女の子は、他者に対する想像力や信頼の感情、他者の痛みへのまなざしをしっかりともっており、それが物語全体を照らす光になっている。ポジティブな感じがしていい。けれど、叔父さんの、誇大妄想的で狂信的な、所謂“アメリカの正義”を全身で体現するようなキャラクターはあまりにも類型的にすぎる、と感じた。いや、意外とじっさいあんなやつもいるのかもよ、ってことは頭ではかんがえられる。けれど、あまりにも彼によって象徴させたい、とおもわれるイメージが強く出すぎてしまっているようで、いろいろな意味でリアルさを失っているようにおもった。もちろん、彼をこういうぶっとんだキャラクターに仕立てたのは監督の思惑によるものなのだろうけど、それにしても、役割をふり当ててる感が強すぎる、というか。

9・11のテロによってトラウマを呼び覚まされたベトナム戦争の帰還兵で、監視用カメラをつけたバンには星条旗、ケータイの着メロはスター・スパングルド・バナー、って。行き過ぎなのを滑稽に見せようというのはわかるけど、ちょっとやりすぎ、とおもって、ひいてしまった。そして、叔父さんのキャラクターが単なる物語の駒であるかのようにおもえてくると、主人公の描かれ方まで、なんだか薄っぺらに感じられてきてしまって。この映画はアメリカを愛するヴェンダースが、現在のアメリカへ警鐘をならした作品だといえそうだけど、でもこの物語はやはり紋切り型に過ぎるのではないか、とおもった。

主人公が、屋上でiPodで音楽を聴きながらふらふらと踊るシーンはとても印象的。そういう部分部分では、けっこうすきなところもあった。


『チェルシーホテル』

チェルシーホテル [DVD]

イーサン・ホーク監督。これは俺のとてもすきな映画なのだけど、人によってはものすごく退屈な映画におもわれることもおおいようなので、今日はこいつをレコメンドすべく、(かどうかはちょっとアレだけど…)書いてみようとおもう。

舞台はニューヨーク、マンハッタン西23丁目にあるチェルシーホテル。マーク・トゥエイン、O・ヘンリー、ウィリアム・バロウズ、といった作家たち、そしてボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックス、シド&ナンシー、アンディ・ウォーホールら数おおくのミュージシャン、芸術家たちが滞在したことでよく知られているところだ。この映画では、彼らをおぼろげに象徴するようなキャラクターたち――詩人志望のウェイトレス、初老のアル中の作家、ミュージシャンをめざして都会にやってきた兄ちゃんたち、チェルシーホテルの亡霊についての詩をエレベーターのなかで詠みまくるぶっとんだじいさん、売れない画家、”ジェラス・ガイ”をしぶく歌いあげるシンガー、といったアーティスト(志望)たち――が暮らしている。それぞれの住人は、芸術家として生きたいと夢見たり、あるいはネガティブに沈み込んで人に当たりちらしたりしながら、詩を詠み、小説を書き、歌い、恋人をうたがい、噛みあわない会話を繰りかえし、すれ違いつづける。誰も、どこにも行けないし、なにも変わらない。そんな諦念が漂っている。

映画は、そんなチェルシーホテルに暮らす人々の、それぞれの日常の断片を、シャッフルするように見せていくことで進行していく。しかしそれら断片は完結した物語として語られないし、ドラマ性が少なく、ほとんど物語の体裁をなしていないものばかりだ。だから、ここにはストーリーの快感やひといきに収束するカタルシスといったものは存在しない。あるのは、どうにも噛みあわず、ひたすらすれちがう、住人たちの会話の断片ばかりだ。

ホテルの住人たちの背景や人間関係がくわしく具体的に語られることはない。彼らのことばは独白、会話、あるいは詩のようなかたちで映画のなかにたえず溢れているのだが、それらはあくまで断片的であり、そしてまた彼らの恣意性をつよく意識させるものだ。たとえば、こういう因果関係のせいでこういう人間になりました、みたいな解説はまったくない。そこには観客が解釈をおこなう余地はいくらでもある。しかし、決してこうだと決めつけることはできない。観客は自由に彼らの背景の物語を想像することはできるが、答えはあたえられていないし、答えといえる答えがあるわけでもない。答えだとかんがえられているものは、それは単にある因果関係という網の目に引っかかったためにいかにもそれらしく見えているというだけで、実際の姿だというわけではない。

観客は、それら投げ出されたことばたちの断片を聴き、住人たちの生活の断片を見る。そのとき観客は、住人たちやその物語に一体化したり、入り込むことはできず、じっさいに他人の話を聴いているときのような、他人のようすをながめているような感覚になる。彼らはあくまで他人であり、彼らの恣意的な意見を述べ、恣意的な愛を語るばかりだからだ。彼らの内面はやはり推しはかることしかできない。彼らの物語の断片の解釈は、観客一人一人の恣意性に任せられているのだ。

この映画でおもしろいのは、登場人物たちが徹底的に恣意性をもった、よくわからない他人、というものとして一貫して描かれているからではないか、という気がする。おおくの物語において、人の恣意性にはさまざまな因果関係などの所謂理由づけ、がおこなわれる。作者は登場人物の個別性や恣意性を意識するあまり、作者の意図や恣意によって因果関係をくっつけてしまう。もちろん、そうした物語はそこがおもしろいのであって、読者は作者の技術やかんがえに舌を巻いたり感動したりする。チェルシーホテルにおいては作者の意図は見出せない、というわけではないけれど、ほとんどはっきりしない。せいぜいいえるのは、これ、という主人公や物語をたてずに複数の語りが交錯することで舞台としてのホテルというものを描きだした、というくらいだろう。

そのような複数の語り、ひとつひとつは物語ともいえないような断片たちだが、しかしそれらがポリフォニックに、多層的に、ごくゆるやかな繋がりをもって描かれることで、なにかが浮かび上がってくる。それを言葉にするのはむずかしい。多層性を解釈してしまうことになるからだ。だが、それはある種の現実のように見える。いや、現実にはこのような多層性を感じられることは稀であるから(人はすぐに物語をつくって、解釈しようとするのだから)これこそが芸術によってはじめて描きだせる、現実の多様性というものかもしれない。

この映画にはたくさんのことばが溢れている、と書いたけれど、しかし、この映画には、全体を象徴したり包括したりするような、印象的なことばはない。映画を見おわったあと、印象に残っているのはもっと漠然とした空気、や感じ、になってくる。それはこの断片的な構成に拠るものだといえるだろう。あるフレーズをつよく印象づけるためには、物語の輪郭をくっきりと描き出さなくてはならない。もしそのようにすれば、他人の恣意的な解釈をしての話、を聴いているような感覚はこの映画から失われてしまうだろう。

人はだれか他人のことばを聴いたとき、それを恣意的に感じ、解釈することしかできない。この映画の登場人物たちももちろん同様だ。どうあっても、正確に「他人がどうおもっているのか」を知ることはできない。自分が「おもっている、感じている」らしいことを他人に当てはめて、他人のおもいを感じようとすることしかできない。同様に、私たちは自分自身の「ほんとうのおもい」なるものについても確信をもって語れることはない。あらゆる事象はことばに変換された瞬間に、言語という体系に組み込まれるからだ。そこでは私たちが感じていた何かの感じをそのままあらわすことはできず、あくまで言語というシステムのなかでの因果関係にもとづいた「おもい」が表現されることになる。

だが、それは空しいことではなくて、ことばによるコミュニケーションとは、そもそもそういうものなのではないか。だからたとえば行間を読む、というようないいかたがあるし、人はことばによって表現しきれないものをなんとか表現しようと試み、ひたすらにことばを重ねていくしかない。

映画のほとんどのシーンで、人物たちは必ずだれかと一緒にいる。どんなにテンションが低くても。彼らのことばはいつもすれちがうが、でもそこには他人のおもいを感じたい、他人とつながりたい、というおもいがある。なんだかんだいっても、人と人とのコミュニケーションなんていうのは不恰好なものだ。些細なことでかんたんに傷つけあったりするし、おまけに相手の気持ちはいつまでたってもわからない。しかしそうだからこそ、そこには切実さがあるし、想像力や寛容さが大事になってくる。そんなテーマが、チェルシーホテルの、コミュニケーションがひたすら上手くとれない住民たちの姿に映し出されている。この映画は、彼らの不恰好さを非難するわけでも、賛美するわけでもない。ただ、そういうなかでやっていかなければならない、というある種の諦念と、あたたかい寛容さのある視点でもって、彼らを描きだしている。だから彼らの姿はうつくしい。そのうつくしさは、人間のコミュニケーションの不完全さをじゅうぶん感じとった上で、それでもできればポジティブになんとかやっていきたい、というおもいを肯定するうつくしさなのではないか。


『プラネット・テラー in グラインドハウス』

ロバート・ロドリゲス監督『プラネット・テラー in グラインドハウス』を見た。ゾンビ映画です。すごくおもしろかった!B級ホラー、アクション、エログロ映画へのオマージュとしての、映画についての映画、だといえそう。見ているときに、「あー、こいつはこうなるんだろうなー」とおもうことがほとんど外れない、ベタな展開がとにかく目白押し。でもそれがふつうにたのしめてしまうのは、そういうB級感、キッチュ感やベタな展開に対する愛が(ふつう以上に)あるからなんだろうなー、とおもった。

物語はひたすらにばかばかしく、ゾンビは必要以上にきもち悪く、アクションは最高に爽快で、見ていてとにかくたのしい。グロいし、人もどんどん死んじゃうけど、なんかわらって、しかもどこか安心して(というのは、ストーリーが予想をけっして裏切らないから)見ていられる。

ヒロインが義足のマシンガンをぶっ放すシーンなんか、わらっちゃうけど、でも文句なしにかっこいい。あきれるほど爽快。ミッシング・リールによって、ストーリー中盤がばさっと切られているのも、「あー、俺さ、そういうだるいところって、あんまり興味ないんだよねー」と言っているようで、すごくいいとおもった。

「やっぱ、なんだかんだいってもさ、みんなこういうのすきでしょ?ゾンビがうようよ出てきて、ひとがいっぱい死んで、セクシーな姉ちゃんが銃とか撃ちまくってさ、あーもーほんとくだらねー、とか言いつつゲラゲラわらって見るの。ぜったいたのしいじゃん、そういうの。」という映画なんじゃないかな。高尚さなんて、かけらもない。まあ、俺はこういうの、かなりすきです。


『夏への扉』/ロバート・A・ハインライン

夏への扉 (ハヤカワ文庫 SF (345))

ロバート・A・ハインライン『夏への扉』を読んだ。ひとことでいって、とても爽やかな小説。古きよきアメリカの進歩史観と超ポジティブなエナジーが全編を貫いており、ちょっと引いてしまいそうになるが、でもそこがこの小説のよさでもある。最近気がついたのだけれど、無邪気さや衒いのなさというものに俺はかなり弱いらしいのです。だからこの小説そのものというより、その背景にある無垢でまっすぐな感じが素敵だとおもった。

こういう作品と小学生のころに出会ったりして、人はSFをすきになっていくのだろうか。自分の小学生時代に愛読していた唯一のSFはダグラス・アダムズ『銀河ヒッチハイクガイド』(ちょっと前に映画にもなった。いい感じでした)だった。地球が宇宙バイパスだかの建設のために木っ端微塵にされて、そこから辛くも逃れた主人公が、ともだちのベテルギウス人と銀河をヒッチハイクしていく話。「銀河ヒッチハイクガイド」っていうのは、そんなヒッチハイカーたちの必需品とされる、なんでも載ってる電子図鑑みたいなやつ(音声ガイドつき)で、その記事がなんかいちいちすげーシュールなの。9歳の俺は、そんな設定に心躍らせまくっていたんです。ほんとくだらないスラップスティックだけど、ほんとに何度も読んでいたっけ。

話がずれすぎた。『夏への扉』はシンプルでわかりやすいエンタテインメントとして、まあ、なかなかいいんじゃないかとおもう。ブックオフでなら100円で買えるし。

銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫)


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