『走ることについて語るときに僕の語ること』/村上春樹

走ることについて語るときに僕の語ること

最近あたらしく出た、村上春樹がマラソンについて書いたエッセイにこんな文章があった。サロマ湖100キロウルトラマラソンで村上が走っていたときの話。しかし100キロってすごいね!

こうして我慢に我慢を重ねてなんとか走り続けているうちに、75キロのあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。まるで石壁を通り抜けるみたいに、あっちの方に身体が通過してしまったのだ。いつ抜けたのか、正確な時点は思い出せない。でも気がついたときには、僕は既に向こう側に移行していた。それで「ああ、これで抜けたんだ」とそのまま納得した。理屈や筋道についてはよくわからないものの、とにかく「抜けた」という事実だけは納得できた。

それからあとはとくに何も考える必要はなかった。もっと正確に言えば、「何も考えないようにしよう」と意識的に努める必要がなくなった、ということだ。生じた流れを、自動的にたどり続けるだけでいい。そこに身を任せれば、何かの力が僕を自然に前に押し出してくれた。

これを読んで俺がおもいだしたのは、小学生のころバイオリンを弾いていたときの感じだ。もちろん、バイオリンを弾くことはマラソンで75キロも走ることとは全然ちがう。でも、「抜ける」ってあの感じにちょっと近いんじゃないかなー、とおもうところがあった。当時弾いていたのは、ビバルディとかバッハの簡単なコンチェルト(ひとつの楽章は、せいぜい4、5分)だったはずだけど、この「抜ける」みたいな状態になっていたことがある気がする。気がついたら自分が曲のどのあたりを弾いているのかよくわからなくなっていて、でも右手も左手もちゃんと動いていて曲は確実に進んでいっている。自分の思考とは関係ないところに音楽の流れがあって、それを身体が勝手に辿っていっているような感じがする。でもそこで、「あれ、いまどこやってるんだっけ??」とか頭でかんがえだしてしまうともう大体アウトで、それまでどうやらスムーズに流れていた(らしい)音楽はそこで止まってしまって、まちがえて不必要な繰り返しをしてしまったりするのだ。

そういう感覚は、ふだん家で弾いてるときにもあったように記憶しているけれど、よく覚えているのは発表会のときのことだ。発表会では、ちょっと長い曲になると、だいたいいつもその感覚を味わうことになったからだ。曲を弾きながら、あるときふと「抜けた」みたいな状態になっていることに気づいて、それですっごい焦るわけ。あれ、いまどこ弾いてるの俺?3ページ目の下のへんかな?発表会では暗譜で弾くので、目のまえには楽譜はない。え、でも今のこのフレーズってはじめの方っぽい…、とか一瞬かんがえて、演奏が止まってしまう。そんなことが何度かあった。

そんなふうになったのは、ただ俺がぼうっと弾いていたからかもしれないし、曲を何度も聴いて弾いて、弾き方をすっかり暗譜していたから、ほとんど無意識的に、半ば自動的に弾くっていう状態になっていた、っていうのもおおきいだろうし、もしかしたら単に緊張で思考停止になっていただけかもしれない。でも、ときどきその「抜けた」ような感覚をおもいだすと、今でもちょっとふしぎなきもちになる。え、ほんとに俺ここまで弾いてたの?っておもって、でもそうおもっているあいだにも身体は動いていて、音楽はいつのまにか進んでいる。自転車に乗っているときとか、泳いでいるときとか、たぶんそういうのと同じふうに、身体が必要な動きを覚えていて、動いている。でも、その動きがある音楽を生み出す、ってところに結びついているから、なんかふしぎな感じがするのだろうか。よくわからない。

オーケストラとかの曲をやっているときには、たまにぼうっとしたとしても、そんなに無意識な状態にはならない。当たり前だけど、周りの音を聴かなきゃならないし、ひとりで弾く時よりは、ずっと意識を集中させている。あ、でも発表会にはピアノもいたんだっけ…。まあ小学生の俺はピアノの音なんかろくに聴いちゃいなかったんだろうなー、それにピアノの先生はこっちの演奏にうまく合わせてくれていたんだろうね、きっと。


『お節介なアメリカ』/ノーム・チョムスキー

お節介なアメリカ (ちくま新書)

チョムスキーがくりかえし批判しているのは、アメリカが9・11以降執拗におこなっている、中東地域への内政干渉(intervention)だ。そこでは「テロとの戦い」という旗印が掲げられてはいるけれど、この本を読むと、むしろアメリカ自身が、自ら定義した「テロ」に当てはまる行為をおこなっていることがよくわかる。なぜアメリカはそのようなお節介を続けるのか?どのような原理がアメリカをそのような行為に駆り立てているのか?という疑問に対し、チョムスキーはこう述べている。

アメリカの外交政策には明確なドクトリンがあり、これが西側のジャーナリズムや学界、政治評論家の間にまで浸透している。その主題は「アメリカ例外主義」である。アメリカには「超越的な目的」があるので、今も昔も他の大国とは違う存在なのだという主張だ。「超越的な目的」とは、アメリカが「国内」はもちろん世界各地でも「自由の平等を確立」するというものである。

このような「超越的な目的」をドクトリンに持つ立場――独自の強引な世界観に基づいて世界を形成しようとする――を、チョムスキーは「例外主義」として批判しているのだけれど、そこで、リチャード・ローティが『RATIO』の01号でこんなことを書いていたのをおもいだした。

私のように、我が国を左派的理想の勝利の象徴として描く物語を作る人々は、合衆国がそれらの理想を実現し広めるために活動する力を保持することを望んでいる。合衆国には他国に干渉する権利はないというチョムスキーに、われわれは同意しない。独裁者に支配された国を制圧してそれを民主国家に変えるために民主諸国の軍事力を使用することは、左派的視点から完全に擁護できるとわれわれは考える。侵攻に対するこの弁明は、とりわけ、ナポレオン、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東、アイゼンハワー、ニクソン、そしてブッシュによって、不当に使われてきたが、だからと言って、それは不当に使われるしかないというわけではない。

ローティの意見は理想主義的で「正しい」ものかもしれないが、チョムスキー的な視点からいえば、人がじっさいに政治に関わる際に、「正しさ」なんてほとんど問題にされていないじゃん、ということになるのではないかとおもう。政治が行われるときに重要になるのは、一望俯瞰することで見えてくる「正しさ」ではないし、政治とは、選択肢のなかで一体どれがベターなのか、ということを検討していく作業でしかない。だから、ローティのような主張はまちがってはいないけれど、実効性にかけるものだ、ということになるんじゃないか。

もっとも、いまアメリカのとっている選択とは、世界中の資源エネルギーの支配による権力・富の掌握へとまっすぐに向うだけのものであって、世界の大多数の人にとってベターな選択であるとはとてもいい難いものだ。そんなことは誰でも知っている。政治の「正しさ」なんてものについて議論することよりも、できるだけ大多数の人にとってのベターを探し、追求していくことの方が、きっとずっとたいせつだ。チョムスキーとかを読んでいると、そんなことをかんがえる。

別冊「本」RATIO 01号(ラチオ)


『リリイ・シュシュのすべて』

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

DVDで。この映画で描かれているのは、思春期のころのやたらと繊細で、かつ激しい感情だ。ガラスのような、ってすごいださい比喩だとおもうけど、でもほんとにそんな感じ。割れたら、指とか切れて血がでちゃいそうな。岩井俊二監督ってもうとっくにオッサンだとおもうけど、こんな少年みたいなきもちを心のどこかにずうっと保ちつづけていたのだろうか。なんかちょっとこわいかも、とかおもってしまう。でも、すごく繊細で、もう既に自分の感性から消え去った(去りつつある?)なにかが、この映画にはぎうぎうに詰まっているような気がして、だからこの映画を見ていて胸が痛くなった。

リリイ・シュシュは徹底的にフェイクな存在として描かれているように俺は感じたんだけど、その存在の薄っぺらさや安さが、中学生が縋る対象としてすごくリアルだとおもった。人が頼りたくなるのは何もその対象が高尚だからじゃない。リリイという存在のフェイクっぽさを理解していながらも、そこになにか救いのようなものを求めようとするきもちは決して嘘じゃなくて、切実なものだ。そこでは、他人の欲望の目線が自分の欲望のなかにおりこまれている、ということがいえるかもしれないし、もちろん他人とのつながりを求める心だってあるだろう。主人公たちがネットに書きこむことばは、リリイと同様に薄く、安っぽく、ちょっと神経症気味で、でもそこが無防備でほんとうにリアルに感じられた。

ノスタルジアただよう、異様なくらいうつくしい映像も、それはやっぱり主人公たちの心象とあわせてうつくしいと感じられるのだけれど、決して高尚なうつくしさじゃなくて、わかりやすい紋切り型的な状況や風景(田園風景とか、海のシーンとか、凧揚げのシーンとか、どれもいわゆるきれいな風景ですね、っていう)だからこそ響いてくるものがあるようにおもえた。平凡な限界を持った、あらかじめ同意されたリアリティを内包した映像美。そこにノスタルジアを感じるような気がする。そして市原隼人や蒼井優の演技は眩しすぎる。ああ、中学生だなー、なんて映画を見ながら何度もおもっていた。ばかみたいだけど。

物語そのものは、グロテスクでもあるのだけど、ひどく繊細でうつくしい。本当いい映画だとおもう。学校ってすごいハードなところだったんだなー、とか、しみじみしてしまった。


『パンズ・ラビリンス』

恵比寿ガーデンシネマにて。行ったのが日曜の夜ってこともあり、かなり混んでました。CMなんかを見て、最近よくある感じのファンタジー映画を期待して見に行ったひとは、あまりのおどろおどろしさにショックをうけたんじゃないだろうか。物語はファンタジーと現実がまぜこぜになって展開していくのだけど、全体的に描写が過剰なまでに変態的で、残虐さにもまったく容赦がない。ファンタジーの世界のカエルやら虫やらクリーチャーやらは、実にぶきみできもちわるいし、かといって現実世界のほうはもっとハードで、弾丸の音からしてすさまじく暴力的だし、拷問のシークエンスなんて、もう、ちょっと見てられないくらいひどい(痛い)。そんなきわきわの描写のなかで、現実とファンタジーのイメージがさまざまなかたちで対をなしたり、交錯していったりする。

物語の流れは、まあだいたいこんなところかな、と見るまえから想像していたようなあたりにおさまっていくのだけど、そこまでの展開がとにかくへヴィで、ちょっと暗澹としたきもちにもなった。なにしろ救いがない。いかんともしがたい、ってやつなのね。けれど、この物語は、最終的にはファンタジーのちからへの信頼を見せており、そこが微かな光になっている。

現実というものを語るときの方法のひとつとしてファンタジーというものはあって、ファンタジーという方法をとることで、どうしようもない現実のなかから希望を、救いを見出そうとする。この映画のラストシーンを見たとき、なんともいえないきもちになったのだけど、それは物語の救済のちからなんてものが、現実のまえではあまりに無力に見えるからかもしれない。けれど、この映画は、物語というものの持つちからの限界を知りつつも、そこに誠実に向きあっている感じがする。生を肯定するための、ファンタジーという方法。そこがすごくいいとおもった。

けど、いまこうしておもいかえしてみるに、この監督、ぜったい変態だろ!とつよく感じるね俺は。いや、ほめことばだけど。主人公の女の子を写す際にはいつも性的なニュアンスを匂わせることを忘れないし(カエルのシークエンスは、うわーなんとも…、っておもった)、すべからくファンタジーとは残酷さをともなうものであるとはいえ、やっぱり暴力的なシーンがきつすぎる。なんだかなー。物語としては、ファンタジーによって悲惨な現実の救済を図る、やさしい話であるのに、描写のひとつひとつはどうにも変態ちっく、というところがね、おもしろい。どこかで、スティーヴン・キングが激賞!なんて記事を読んだ気がするけど、たしかにこの真摯さと変態さの振れのおおきさの感じなんか、キングと近しいものがあるかもしれないなー、とおもった。


『恋愛睡眠のすすめ』

恋愛睡眠のすすめ スペシャル・エディション [DVD]

早稲田松竹にて。すっごいよかった!ていうかね、こういう映画がだいすきなんだよー俺は。睡眠中に恋愛(妄想)して、それがだんだん現実とごっちゃになっていってしまう青年の話。主人公のガエル・ガルシア・ベルナルも、ヒロインのシャルロット・ゲンズブールもとてもキュートで、夢と現実を行き来しているうちに、観客としてもその境界がよくわからなくなっていっちゃう、って展開がおもしろい。映像は、おもちゃ箱をひっくりかえしたみたいな、なんていいかたがあるけど、まさにそれ。主人公の見る夢のシークエンスが、ミュージックビデオっぽい、ごちゃごちゃとしたポップな映像で表現されていて、それを見ているだけで、もう、わくわくしてしまう。そして、物語で描かれる、ダメ青年の恋愛の悩みは、誰にでも多かれ少なかれありそうな、とてもふつうなもの。ちょっと痛くもあるけど、生々しくはなりすぎず、ファンタジー的要素を取り入れることで、さりげない感じで描かれているところがいいとおもった。シリアスぶってないし。

書いていて気づいたけど、こないだ見た、『サイボーグでも大丈夫』にわりと近しいものがあるとおもう、この映画。どっちもおしゃれちっくな外見だけど、物語にはけっこうな毒、ハードな設定が含まれていて、でもその毒はファンタジー風味の見せ方によって緩和され、迫り来るようなものではなくなっている。

この物語を、たとえば現実に照らし合わせてかんがえてみれば、主人公は夢と現実の区別もろくにつかない、妄想気味のおかしなやつ、ってことになるのかもしれない。そして、結局彼はほとんど変化することもないまま、いまいち後味のよくないエンディングに至るだけの話だ、ということになるのかもしれない。けど、俺はおもうんだけど、芸術のフィールドにおいて、いちばんに重要なものって、強力な個別性なんじゃないだろうか。社会やそのなかでの人間性あっての個人、というだけではない個人を語ること。普遍、というレベルとは異なるやり方で個人を描いてみること。そういうところに芸術の大事なちからがあるんじゃないかと感じる。そして、この作品には、個別性をそのまま個別性として受けいれ、肯定する視線があるようにおもえて、そこがぐっとくるのかなー、とおもう。それはもちろん、社会から見れば、単に「ちょっと変でモテない彼って、かわいそう」というだけのことかもしれないのだけれど。

この映画では、主人公はさいごまで現実と妄想がごっちゃになったままだ。けれど、そんな彼の姿を(毒を含みつつも)温かな視線でもって、ポップに描きだしている。俺はこういう、現実は、生々しくて痛々しくて、ハードでグロテスクでもあるけど、それでも何とか前向きさをもってそれを描いていこう、という姿勢、肯定していこうとする姿勢にすごく惹かれるんだなー、と改めておもいました。


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