『アリーテ姫の冒険』/ダイアナ・コールス

『アリーテ姫の冒険』/ダイアナ・コールス

「かしこい」お姫様、アリーテ姫が、男たちの悪巧みをひらりひらりとくぐり抜け、強く、どこまでも自然体のままで生きていく…という童話。古色蒼然とした「お姫様」像を塗り替える、頭脳派で行動派、プラス思考なヒロインが魅力的な物語だ。

「姫、おまえがかしこいというのはほんとうか。ずっとまえから本を読んでいたっていうのは、ほんとうか」
「はい、おとうさま」
「もし、かしこいなんていうことが世間に知れたら、おまえは一生、結婚できないことぐらいわかっていような」
王さまは、頭をかかえてしまいました。(p.10)

アリーテ姫には、3つの試練と、3つの願いを叶える魔法の力が与えられる。だが、彼女は試練をクリアするためにその力を用いることはない。自分のたのしみや喜びのために、ちょろっと使ってみるだけなのだ。そして、厳しく困難であるはずの試練も、身近な人の協力とちょっとした知恵を用いることで、難なく切り抜けていってしまう。まあ何というか、全体にユーモラスでひょうひょうとした雰囲気の、ポップな物語になっているのだ。

訳者による「あとがき」では、本書を「自分の力で問題を解決していける女の子が主人公の物語」、「子供が理解しやすいフェミニズムの本」と位置づけている。たしかに、作中の男たちはことごとく身勝手で融通が利かず、女を支配しようとしては失敗してばかりいる、どうにも情けない存在である。そういった部分にフェミニズム的な偏りが感じられはするけれど、この物語全体の前向きさや軽やかさ、明るさ、ポップさというのにはそれ以上に素敵なものがあるんじゃないかなーとおもった。


『たのしいムーミン一家』/トーベ・ヤンソン

『たのしいムーミン一家』/トーベ・ヤンソン

「ムーミン童話全集」の二冊目。ある春の日、ムーミントロールたちは山で黒いシルクハットを見つける。それは、「もしなにかが、しばらくその中にはいっていると、すっかりべつのものにかわってしまう」ふしぎな性質を持った、「まもののぼうし」だったのだが…!

前作『ムーミン谷の彗星』のようなダークで終末的な雰囲気は後退し、春から夏の終わりにかけてのムーミン谷を舞台に、ほのぼのとしたエピソードやちょっとした事件が連作短編の形式で描かれていく。ムーミンシリーズの牧歌的・ユートピア的なイメージがはっきりと前面に出された一作だ。

ほのぼのとしていながらも、物語全体にはどこかクールな印象がある。それはおそらく、各登場人物たちの個人主義が徹底しているためだろう。彼らは基本的に、「みんなに合わせよう」とか、「場の空気を読もう」とか、「こういうときは、こうするもんだろ」といったことを言わないし、それでいて、互いに相手の存在と相手の意見、自分との相違をきちんと受け入れてもいる。他人との距離のとり方、その尊重の仕方というのが上手なのだ。

ムーミン谷のユートピア性というのは、そういったクールで成熟した個人主義と、ムーミントロールたちのキュートで子供っぽいふるまいとの組み合わせによって成立しているのだろうとおもう。また、作品全体を通して、教訓めいたところ、大上段に振りかぶったテーマのようなものがほとんど見当たらない、というところも、何が起こってもそれを過剰に気にすることはない、というのんびり気分を補強しているように感じられる。

そんなわけで、ムーミンやしきは、いつでも満員でした。そこでは、だれでもすきなことをやって、あしたのことなんか、ちっとも気にかけません。ちょいちょい、思いがけないこまったことがおこりましたが、だれもそんなことは、気にしないのです。これは、いつだって、いいことですよね。(p.17,18)


『風立ちぬ』

『風立ちぬ』

109シネマズ木場にて。宮崎駿のいままでの作風とはずいぶんと異なる作品だった。前評判は「大傑作!泣けちゃう!」みたいな感じですごかったけれど、うーん、この映画は好きじゃないな、というのが俺の正直な感想だ。とはいえ、クオリティの高い作品であることは間違いないし、まだまだ咀嚼できていないところがありそうなので、自分のかんがえ(何でこの作品が好きじゃなかったのか)を整理する意味で感想を書いていってみようとおもう。

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全体的には、いままでの宮崎駿作品からは想像することもできないくらい、地味で淡々とした物語だと言っていいだろう。お得意のアクションシーンもほとんどないし、イマジネーションのほとばしりがそのままアニメーションになったような、驚かされるような映像もない。主人公の二郎はいわゆる「エゴイスティックな天才」タイプの男で、物語の主軸となるのは、彼の飛行機設計に対する情熱と菜穂子との恋愛である。

おもしろいのは、作中で複数扱われるアンビバレントな感情たちの扱われ方だろう。「二郎は純朴な善人だが、殺しの道具である戦闘機の設計に没頭する」、「二郎と菜穂子は互いに求め合っているが、ふたりが共に暮らすことは菜穂子の寿命を縮めることになる」、「宮崎駿は反戦主義者だが、飛行機を愛している」、などなど。

これらのアンビバレンスが物語の展開のなかで解消されることはない。二郎も菜穂子も、「そうしなければならない」という感情に押し流されるようにして、アンビバレンスを抱えたまま、己の運命を全うすることになる。それはそれでひとつの生き方だし、それにケチをつけたり、それを否定したりすることは、当事者以外にはできないだろう。

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それはそれでいい。いいのだけれど、この映画は、その「そうしなければならない」彼らの姿を美しく、宿命的なものに見せるためのエクスキューズが妙にたくさんあるように、俺には感じられたのだった。なんというか、やたらと観客の目を気にしている感じがして、なんでこんなに言い訳がましいわけ?とおもえてしまったのだ。

たとえば、二郎は「善人」だが、彼の内には偽善的なところ、到底立派な人間とは言えないようなところもたくさんある、ということが多くの細部で表現されている。路上で見かけた親の帰りが遅い子供に同情し、お菓子を買って渡そうとするだとか、「いったいどこと戦争するつもりなんだろう」などと呟いてみたりだとか、自分のチームに同期の友人を無邪気に引き入れようとしたりだとか、妹の訪問をいつも忘れていたりだとか、結核の菜穂子が眠るすぐ隣で煙草を吸いながら仕事をしたりだとか。あるいは、山の療養所で、カストルプなる男に、「ここにいると、戦争や死のことを忘れるでしょう?」と不気味に告げられるところだとか。

こういった描写は、本来であれば、物語の多層性だとか二郎という人物の深みだとか一筋縄でいかなさだとか、そういったものに繋がっていくものだろう。だが、俺には、今作においてこれらがそういった役割を果たしているようにはおもえなかった。これらは単なる「観客に対するエクスキューズ」、つまり、「二郎は完璧な天才ではなく、大小さまざまな欠点を併せ持った人間なんですよ」、「この作品では直接人の死を描くことはないけれど、飛行機がどういう役割を果たすのかってことは、二郎だってもちろんきちんと認識していますよ」、「この映画は戦争を糾弾しているわけでもないし、かといって二郎のような人間を留保なしに賞揚するものでもありませんよ」、「時代の大きな流れに個人が逆らうことはできず、個人ができるのはそのなかでただ必死に生きることだけなんですよ」…という、二郎のエゴイズムに対して作品の立場を確保するための、バランス取りのための描写にしか見えなかったのだ。

そうやって作品全体を「健全な、いい具合のバランス」にしておいて、「それでも、二郎は飛行機を作るしかなかった」、「菜穂子は二郎のもとに行くしかなかった」、そして、そのようにさまざまな矛盾をその内に孕んでいるが、それでも飛行機は美しい、ふたりの愛情は美しい、と言っている…俺にはそういう風に感じられたのだった。

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エゴイスティックな主人公の生き様を描いた映画というのはたくさんある。ここに感想を書いた最近の作品だと、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』とか、『マン・オン・ザ・ムーン』とか、『イントゥ・ザ・ワイルド』とか。これらの作品を見ていると、俺は主人公のふるまいに呆れ、ほんとに自分勝手でしょうもないやつだなーとおもいつつも、彼らがあまりにも己の欲望に忠実であるがゆえに共感してしまう。なぜなら、俺は彼らほどに自分の欲求や野望に忠実に生きることなどできないからだ。彼らほど第三者の視線や思惑を無視したまま、能動的かつ自律的にふるまうことなどできないからだ。

でも、『風立ちぬ』は、そういった映画たちと比べると、作品全体の指向性があまりにも自己検閲的過ぎるようにおもわれて、それが気に食わなかったのだとおもう。他者の視線に惑わされない、己の信ずるところに向かってまっすぐに突き進んでいくことのできる強烈なエゴを持った人間が二郎である――作中では、それは「ピラミッドのある世界」の賛同者、と表現される――のにも関わらず、この映画はあまりにも「二郎が観客の目にどう映るか」、「二郎が観客にどう思われるか」を気にし過ぎて「健全な、いい具合のバランス」に着地させようとばかりしている、そんな風におもったのだった。

この作品を素晴らしい、と評価している人は、おそらく、宮崎駿がはじめて自分のエゴをさらけ出して作った、正直な作品だ、というところに惹かれているのだとおもう。そして、二郎に、周囲を顧みず何かをまっすぐに追い求める者だけが放つことのできる輝きを見ているのだろう。だが、俺にはその輝きは感じられなかった。俺に感じられたのは、二郎の姿は美しく輝いているはず、という結論ありきで、観客にそうおもわせるための仕掛けや言い訳がいっぱいに散りばめられた作品、ということだけだった。まあ、そういう「ええかっこしい」なところも含めて、宮崎駿のエゴが表出されている、ということなのかもしれないけれど…。


『教養のためのブックガイド』/小林康夫、山本泰編

『教養のためのブックガイド』/小林康夫、山本泰編

ときおり、「読みたい本リスト」というやつを更新したくなる。リストにはとにかく本の名前が大量に並んでいるので、すぐに自分でも内容が把握できなくなる(だから、じっさいのところ、いまいちうまく機能していない…)のだけれど、本読みのモチベーションを上げるためには、こいつに手を入れて――リストの順番を入れ替えたり、もう読んだものを削除したり、読みたいものを追加したり、この順番で読んでみようかなー、なんて計画を練ったりなんかして――「自分がいま読みたい本」がきちんと整理されたリストにしてやる必要があるのだ。

本書は、そんな「読みたい本リスト」に追加したくなるような本がいっぱいに詰め込まれた一冊。東大教養学部の教授陣が、文学、歴史、宗教、生物、宇宙などなど幅広い分野から「教養のための」本をチョイスして紹介してくれている。紹介の仕方は各人さまざまで、網羅的なガイドブックというようなタイプではないのだけれど、その分さまざまな文脈の本が集められているように感じられた。

俺にとってとくに印象深かったのは、野崎歓の「読む快楽と技術」という章。野崎は、こんなことを書いていた。

白いページに散らばるインクのしみを眼で見、耳で聴き取る。そのこと自体がすでにして深い快楽をはらむ営みなのに違いない。幼児をごらんなさい。ある日、絵本をただ読み聞かされていることに満足しなくなり、そこに散らばっている記号を自分で声に出してみようと試み出す。たどたどしく愛らしい最初の音読の嬉しさを、あらゆる読書は無意識のうちに反復しているのではないでしょうか。(p.190)

読書の営みを、コミュニケーションや情報の伝達といささか異なる次元に位置づけるべきなのは、それが書き言葉への親しみであるからです。声を聴き取ると言ったって、実際には文字が脳内によびおこす幻想にすぎない。そうした文字の不思議な力の働きをあらゆるかたちで組織し、拡大し、探求しようとする営み。それが文学と呼ばれるものです。
読む快楽とはすなわち文学の喜びだとぼくは信じています。(p.191)

文章を読むということ、文字によって表された音の響きを感じ、そこに内包された不思議な力の働きを通して、書き手の語る内容を意味あるものとして感知するということ。そこにはほとんど原初的と言ってもいいような、シンプルで単純な快楽があるんだよなー、ということを、こういう文章は改めて教えてくれるようにおもう。


『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』/渋谷望(その3)

『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』/渋谷望

終章「<生>が労働になるとき」は、全体のまとめ的な内容の一章だ。新自由主義的な言説、新自由主義的なコモンセンスが醸成されるに至った理由と、それらを打破するための方策について、改めて考察がなされている。

「自己実現」、「労働の喜び」、「やりがい」といったことを強調する言説が後を絶たないのはなぜだろうか。こうした言説は言う。賃金は低くても、やりがいのある仕事なら満足すべきだ、と。だが真に魅力的でやりがいのある労働であれば、外部からのどんな正当化も不要のはずである。また内在的な「労働の喜び」を有しているなら、そのことを褒めちぎる言説を待つまでもなく、誰かが率先してやっているはずである。とすれば、これらの冗長な言説は、労働倫理を教え込むというより、<怠惰>への道徳的攻撃を可能にするという理由で採用されていることがわかる。結局それは<働かざる者>=<遊ぶ者>の自己価値化への<反動>、すなわち反感(ルサンチマン)に基いており、この自己価値化によって生産された価値を再び剥奪するのである。(p.234,235)

ニーチェ『道徳の系譜』の「グートとベーゼ」的な話だ。渋谷は、上記のような理解を前提に、「他者の承認を必要としない純然たる自己肯定」、「自己のなし得ることの果てまで進んでいく力」といったものを発見することこそが、ネオリベラリズムの依拠する他律的で自己検閲的な主体――そこでは、勤勉を美徳とする労働倫理が大勢を占め、市場や他者からの評価が何よりも優先される――からの離脱への道だろう、と述べる。そして、そういった力が培養され得るのは、ネオリベラリズム支配から逸脱した場所、すなわち他者のまなざしが遮られたアンダーグラウンドにおいてであり、そこにこそ、オーバーグラウンドで自明視されている価値観や尺度から離れた新たなゲームを生み出す萌芽があるだろう、と言う。

まあ、ここまでは理解できる。ニヒリズムの徹底から肯定性を見出し、既存のシステムに対する抵抗の可能性を見出す、というわけで、これは理屈の上では、たしかにそうだよな、って納得できるような内容だ。ただ、このアンダーグラウンドにおける自己肯定的な主体の例として渋谷が挙げているのが、アメリカのヒップホップやジャマイカのラスタ/レゲエで。どうもこの部分が俺にはいまいちぴんとこなかった。抑圧された状況にある彼ら、怠惰と見なされることすらある彼らこそが、じつはこの社会に蔓延する価値観から離れたところで自己肯定する力を持ち得ているのだ…!と力強く述べられているのだけど、うーん、そっか、そうなのかー、としか感じられなくて。まあ俺がこの辺りのことに関する知識も思い入れも持っていないことが原因なのだろうけれど、もうちょっと、日本での例を挙げるとかしてくれた方が説得力があったのでは…とおもったのだった。


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