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『子どもと話す 言葉ってなに?』/影浦峡

『子どもと話す 言葉ってなに?』/影浦峡

図書館で目にして何気なしに手に取った本だけれど、これはなかなかおもしろかった。タイトルの通り、著者と中学3年生の姪っ子とが、「そもそも、言葉とはいかなるものなのか」についてあれやこれやと対話をする、という体で書かれている一冊だ。

ぱっと見では子供向けの本かな、という印象もあるのだけれど、議論の内容はなかなか骨太で、安易なごまかしや子供だましに逃げるようなところはまったくない。読者は彼らの対話を読みながら、「ネイティヴみたいに話せるってどういうこと?」、「言葉の意味がわかるってどういうこと?」といった、素朴でありつつも根本的な疑問についてかんがえていくことができる。以下は、本書を読んだときに取ったメモを見ながら、内容の一部を整理してみたもの。

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通常、私たちは自分が使う言葉の意味を理解している、とかんがえているものだ。「緑」という言葉が表すものはああいう色、「走る」はこういう動作、といった具合に。だが、「ああいう」、「こういう」の中身は人によって多かれ少なかれ異なっているだろう。では、厳密には「緑」という言葉は、「走る」という言葉は、どのような意味を持っていることになるのだろうか。

…と、少しかんがえてみるだけで、厳密な「ある言葉の意味」というイデアのようなものを特定するのは不可能だ、ということがわかるだろう。「緑」という色が指す範囲や、「走る」という動作の示す範囲を、どこからどこまでと確定することなどできはしないのだ。

だから、ある言葉には特定の意味があって、それをあらゆる人が全く同じように認識し、理解しているなどということはあり得ない、ということになる。それはまあ当然のことだ。だが、それにも関わらず、私たちは言葉を知っていると感じているし、実際に言葉を用いて相互にコミュニケーションを取ることができている。では、人が「言葉を理解している」とは、いったいどういった状態を表していることになるのか。

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他人から見たときに、ある人が「言葉を理解している」という状態は、大きく2つの点によって把握されるだろう、と影浦は書いている。

ひとつは、それなりに対話が成り立ったりコミュニケーションがつながっていくこと。もうひとつは、その上で、とにかくおたがいに相手が意味をわかっている『かのように』みなして、そうふるまい続けること。(p.85,86)

このようにかんがえてみると、ある人が「言葉を理解している」というのはつまり、その人が「言葉を使うことができる」という状況を指している、と言い換えることができるということになる。そうであれば、言葉を理解するプロセスについてかんがえるためには、言葉を習得し、使うことができるようになるまでの流れについて考察してみるのがよい、ということになるはずだ。

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私たちは外国語を身につけようとするとき、その言語の文法や言い回しといったものを規則として学ぶ。そうして、複数の単語とそれらを組み合わせて文章を作成する技術を身につけ、それを利用することで無限に文を作ることができるようになれば(すなわち、語彙と規則とを高度に身につけた状態になれば)、そのとき、私たちはその言葉を十分に理解している、ということになるだろう。

だが、母語を身につけることに関しては、その順序が逆になってくる。私たちは、規則を通して母語を教わることはできないのだ。なぜなら、私たちは、まさに母語を身につけることを通して、規則を身につけることになるからだ。何らかの規則を理解したり説明したりするためには必ず言葉が必要とされることになるわけで、初めの言葉を身につける以前に規則を学ぶことは不可能である、ということだ。

子どもは言葉を話し始めるとき、周囲の大人の言葉の使い方をまねて、ある音を発するという動作を繰り返す。「おなか空いたの?」「どこか痛いの?」などといった、自身の状況と密接に結びついた言葉に反応するなかで、徐々にその母語の用法を理解していくことになるのだ。そして、言葉と身体の動きの対応、という単純な組み合わせから発展していき、やがて要素同士の関係を発見していくなかで言葉と言葉との間にも複雑な対応を割り当てることができるようになっていく。抽象的な言葉を理解することができるようになるのだ。子どもは大人から「言葉の意味」を教わるのではなく、大人の話しかけを自分で分析し、自分でその意味をかんがえて覚えていくわけだ。

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つまり、ある「言葉を理解する」ということは、ごく単純に言ってしまえば、その言葉を受け入れ、その言葉に慣れるということ、そして、その言葉を自分が発したとき、それが相手に意味のあるものとして受け入れられるだろう、という信頼や確信を醸成していくことだ、と言うことができるだろう。

私たちは、たまたま生まれた場所の周囲にいた他人の言葉を刷り込まれ、それをまねることで言葉を理解し、身につけていく。だから、言葉というのは決して「自分だけのオリジナルな言葉」ではあり得ないし、また、自分自身の思考をそのまま透明に表現することのできるツールといったものでもない。

しかし、私たちは、すでに存在する言葉を受け入れ、使い続けていくことで、外部を自己の内に取り込んでいくことができる。「言葉を理解する」ことで、他者を受け入れ、自分の状況と必ずしも密接に結びついていない概念や感情、世界の見方といったものを学び、それによって自己を豊かにしていくことができる。それこそが言葉というものの可能性だ、ということになるだろう。


『ことばと思考』/今井むつみ

『ことばと思考』/今井むつみ

人間の言語と認識との間にある関係性についての最もよく知られた言説のひとつに、いわゆる「サビア=ウォーフ仮説」というものがある。これは、すごくざっくり言ってしまうと、「人間にとって、言語こそがその世界を分節し、整理し、秩序立てるものである。それゆえ、人の認識や思考というのは、その人の用いる言語によって規定されることになる」というような主張だ。この仮説によれば、ある人の思考のカテゴリはその人の母語におけるカテゴリ分類と相似形を描いているということになるし、ある種の言語の間には「埋めることのできない、比較不可能な(incommensurable)」溝、非常に大きな断絶があるということになる。

本書の前半で行なわれているのは、このような言語的相対論についての、心理学的な見地からの検証である。今井は、言語が人間の日常的な認識や思考にどのように関わり、どのような働きをしているのか――色、モノ、空間、時間などの認識は、言語によってどのように異なり、また、どのように共通しているのか――について、細かく例を挙げて説明していく。(たとえば、言語的な性は生物学的な性の認識に影響を与えることがある、ということや、名詞の可算/不可算はモノの認識の仕方を変えることがある、などといった実験結果が取り上げられている。)

そうして導かれることになる結論は、やはり「異なる言語の話者は、その人が用いる言語によって認識の仕方を異にしている」けれど、それは、「サピア=ウォーフ仮説が主張するほど広範囲に及ぶ本質的なものというわけではなく、言語による世界の切り分け方がどうであれ、人の知覚メカニズムや概念理解、そして言語そのものにも、ある一定の普遍的な秩序のようなものが存在しているようにおもわれる」といったところになるようだ。

また、本書の後半では、発達心理学の観点から、言語の学習が子供の認識や思考にどのような変化を与えるのか、という内容が扱われる。子供は言語を学ぶことによってコミュニケーションの手段を得るというだけでなく、それまでとは違った認識を得る手段、思考の手段を身につけることになる、という話だ。ここでは、空間関係を相対的に表す能力や、4以上の数を数える能力といったものは、言語の学習によってはじめて得られるようになる、といった例が挙げられている。(言語を持つ前の赤ちゃんは、言語を得るまでは、前/後/左/右などといった、相関的な位置関係という概念を認識していない。また、生後5ヶ月の赤ちゃんは3以下の小さい数を数えることができる、ということが明らかになっているが、それ以上の数については、言語を得るまでは単に「大まかな量」として認識しているだけである。)これらの概念の学習難易度というのは、そのカテゴリによってまちまちである、と今井は述べている。

まあそういったわけで、「異なる言語の間にも、ある一般的な傾向というものは確かに存在しており、それは人間の認識や知性の普遍性を表すものだと言うことができる。が、人間の認識プロセス、思考プロセスの多くは言語に拠るところが大きく、それを完全に無視してしまうことはできない」…といったあたりが今井の主張だということになるだろう。「サピア=ウォーフ仮説」的な言説についての是非、という意味合いからすると、いまいちぱきっとしない、どっちつかずの結論という感じがしなくもないけれど、そもそもこれははっきりと割り切れるような問題ではない、とする立場だというわけだ。言語的相対論を根拠にして、「異言語の話者とは本質的に異なっているのだから、互いのことを理解できるはずがない」と主張する者は、まさにその信念にもとづいてふるまうために、相互理解の可能性を自らかき消してしまうことがあるだろうし、かといって「思考と言語はまったく独立しており、何の相関性もない」としてしまうのは、心理学的な観点からするとあまりに乱暴だ、というようなところだろうか。

ともあれ、細かな実験の方法やそれによる成果がいろいろと挙げられていて、へえーへえーと感心しながら読み進めることのできる、たのしい一冊だった。


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