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『ビッチマグネット』/舞城王太郎

ビッチマグネット

思うに、この世のある部分の人たちは、誰かの本当の気持ちをそのまま話されることに耐えられないのだ。自分たちの本当の気持ちも言葉にすることができないし、そうしようとも思わないものなのだ。

ひょっとしたらそういう人の一部が物語を創るんだろう。そういう人たちのために、物語は創られるんだろう。

架空の物語っていうのは、本当のことを伝えるために嘘をつくことなのだ。(p.26)

思うに、自分の内なるトラウマを発見することが自分を苦しみから解き放つ……というのはその構造自体が物語で、それを信じている自分とはその物語の登場人物なのだ。だからその語り口にリアリティがあり、それを信じさえすれば、主人公は文脈を阻害されないままある意味予定された通りの、願っている通りのエンディングへと辿り着く。物語としての治療法を読者としての患者が信じれば、物語は読者を取り込み、癒すだろう。

物語というのはそういうふうに人間に働きかけることもあるのだ。(p.56,57)

でも違うんだよ友徳よ。正論ってのは他人を正すためにあるんじゃないんだよ。正論ってのはあくまでも自分っていう潜水艦の周囲の状況を確かめるために発信するソナーなんだよ。自分が正しいと感じる、信じる意見をポーンと打って、返ってくる反響で地形を調べるのだ。ソナーで道が拓けるわけじゃない。

人間は周囲をいろんな人間に囲まれているから、誰か一人の意見を鵜呑みにはしない。人にはそれぞれの考え方、感じ方、価値観、行動理論があるってのは基本前提として誰にでも備わっているのだ。お互いの違いをみてめてるからこそ、そうそう本質は変わったりしない。皆自分の思うままに生きている。

でも同時に人は孤独や孤立に危機を感じる弱い生物だから、周囲の空気や集団の向う先を読む力には長けていて、大勢の方、声の大きい方につきたがる。(p.154,155)

最近はずっと≪別れた彼氏のことでぐちぐち言いながら時間をつぶしてるような女の子≫そのものになってしまった。高校生とかのときにそういうのを見て蔑んですらいたのに。でも今の私は判っている。私のそのつまらないことに人生を費やしちゃってるなあっていう見方が間違っているのだ。いや確かにつまらないよ?馬鹿みたいだし陳腐だよ?でも日常のいろいろってくだらなくて退屈だけれども、重要なことなのだ。きっと人生ってのがそもそも大したことないのだ。特別なものなんかない。自分からは特殊に見える他人の人生だって、実感としては一緒なんだろう。代り映えしなくて億劫でだらだらと長くてぼけっとしてたらあっという間で……でも意義があって生き甲斐があるものなのだ。(p.166,167)

…なんだろう、この感じは?あーわかるわかる!そうなんだよねー高校生の頃、大学生の頃、ちょうどそういうことおもってた!ってうんうんうなずける箇所がやたらとあるのだけど、主人公の香緒里が周りといろんな風に関わりながら徐々にオトナになっていくようすを描くこの作品において、舞城はいったい何を目指しているんだろう?ってもやもやした気分が、読めば読むほど湧き上がってくるようだった。

上に引用したような感じの文章が、この小説にはたくさんある。あーほんとそうだよね、その通りだわー、っておもいながら俺は読んだわけだけど、でも、こんなことを地の文でさらっと書いていていいのか?小説を読んでいる時間の流れのなかでこういう気持ちを自然と読者が持つようになったときにこそ、説得力が出てくるんじゃないのかこういうことって?とおもわなくもない。一面的な見方であるのはわかっているつもりだけど、こんな風に地の文で大事なことを直接的に書いてしまう理由がよくわからない、っておもってしまう。

まあ、それがいやなわけじゃないし、それなりに感心したりもするし、だいたい読んでいるあいだは本当夢中でページをめくってしまうような牽引力もある作品だったとおもうのだけど、舞城の作品ってどうも、俺の読みって合ってるのかな?ほんとはもっとぜんぜん違った読み方があるんじゃないかな?って気分にさせられがちだ。主張していることはものすごくシンプルだったり倫理的だったり、いわゆる”いいこと”、”正しいこと”、”もっともなこと”っぽいのに、それを取り扱う作品の構造の方は主張と違ってトリッキーだったり複雑だったりすることが多いからそういう風にかんがえてしまうのだろうとはおもうのだけど、この『ビッチマグネット』みたいなかなりストレート(…だと俺はおもう)な小説でも、なんだか、裏読みしなくていいの?そんな正面から受け止めちゃっていいの?じつは舞城はこういうことを大して大事だとおもっていなかったりするんじゃないの?っていうような、どこか不安にも似た感情が、心のどこかで常にもやっと感を醸し出してくるのだった。


『煙か土か食い物』/舞城王太郎

煙か土か食い物 (講談社ノベルス)

ひさしぶりに舞城王太郎のデビュー作を読み返していたのだけど、やっぱりすっげーおもしろいな!とおもった。とにかく無敵で行く手を阻むもの全てを吹っ飛ばしていく魅力的なキャラクターと、その内言を圧倒的な勢いで繰り出していく饒舌過ぎる文体が最高だ。

物語の主軸には、いちおう事件やミステリ的ないろいろがあるものの、整合性・論理性などといったまだるっこしい要素はとことんまで排除され、結果、物語は素晴らしいほどの読みやすさとドライブ感とを獲得している。とにかくぶっ飛んでいて爽快な小説。

そんななかで印象に残るのは、とにかく執拗に描かれる奈津川一家の内輪揉め、葛藤だろう。血と暴力によってぐちゃぐちゃに塗ったくられた一族の肖像が、これでもかってくらい血みどろちんがいな展開のなかで不気味な輝きを見せる。描かれるのはもうひたすらに暴力暴力また暴力、って感じなのだけど、過激過ぎなバイオレンスの描写からはある種の聖性みたいなものが感じられないでもない。

とはいえ、なんだかんだで俺がいちばんぐっときてしまうのは、主人公の四郎が直接的に感情を吐露してしまうところのような気がする。

ヘイ、オールアイニードイズサムインティマシー。ファックに用はない。/俺の性欲は処理させるためのもので、例えば愛の証であったり愛を確かめ合う手段だったりましてや家族を作るためのものであったりはしない。クソ、でも俺は本当は親密さがほしいんだ、全てを預けてしまえるような種類の親密さが。これまで持ってきて作ってきて溜め込んできたものを一度に全部投げ出してしまっても平気の余裕の楽勝の親密さがほしいんだ。揉んだり吸ったりするためだけのものじゃない女の胸。大きさなんて関係ないと思うような胸。ただ俺の頭を優しく埋めてくれさえすればいい。薄くったって厚くったっていい。暖かければいいんだ。俺はその胸に頭を載せてゆっくりと眠りたい。守られて眠りたい。

ああ俺は苦痛に負けそうなんだ。弱気になってる。何だよ誰かに守られたいって。誰かの胸で眠りたいって。お前は傷ついた少年か。保護の必要な未成年か。お乳の吸い足りないママズボーイか。しゃんとしろこの野郎。目を開けろ。苦痛はお前を苦しめはするが殺しはしない。苦痛は確かにあるがそれから逃れることは今のところできない。ゆっくり休みたければ仕事を済ませてしまえよコックサッカー。ドントビッチアバウトエヴリシング。ドント・ビッチ・アバウト・エヴリシング!(p.289,290)

まっすぐで素直で切実で。そんな自分に自分ですぐつっこみを入れているのだけど、こういうところが俺は一番すきかな。だって自分にはこんなまっすぐさ、正直さがどうしても欠けている気がしてならないから。


『熊の場所』/舞城王太郎

熊の場所 (講談社文庫)

舞城王太郎の小説というと、まずはその言葉づかいやキャラクター、ストーリー展開の強烈さ、ひたすらに饒舌な文体のすばらしいドライブ感、といった要素があげられるだろう。いっけんむちゃくちゃで作品世界はわけのわからない混沌になっているっぽいのだけれど、しかしそのカオスの中心には、毎回かならず、しっかりとした主張がある。作者の倫理、とでもいうべきものがはっきりと見える。そしてその倫理、作者の世界観とはいたって健康的でオーソドックス、まともなものだ。

この短編集にも、

「人生には正しいも間違っているもない。物差しは結局のところ自分の価値観しかないのだ。他人の物差しと比べてみたところで、それも自分の価値観を基にしているわけで結局は相対であって絶対ではなくて……」(「バット男」)

「恐怖に立ち向かうのは、明日ではもう遅いのだ。今すぐそこに戻らなくてはいけない。でないと、自分の恐怖を消し去ることはできなくなるのだ。」(「熊の場所」)

とか、なかなか熱い主張がある。全体的にすごくぺらっぺらな文体なのに、真摯さみたいなものが見えるところが、意外にまじめな感じで俺はすごくいいとおもうし、読み終わったらいろいろ感想なんかを言いたいような気分にもなってくる。のだけれど、いざ本をおいて、作品についておもい返してみると、そこにはあまりリアリティが残っているように感じられない。そこが個人的には、ちょっと、なんだかなーっておもうポイントだ。

舞城の主張はいつもまっとうで、誠実、うつくしい。けれど、小説のなかには、その主張にいたるまでのプロセス・経験といったものが、きわめてあっさりとしか描かれていない。彼はそういった(いわゆる日本文学が得意だったような)、たとえば内面をねちねちと描くようなプロセスをうっとうしいものとしてあえて遠ざけているのだろうけれど、しかしその主張はともすればただの一般論、紋切り型におさまってしまうのではないか。そんな気がする。

そこにはもちろん、あまりにも全体的にドライブ感がありすぎるせいで、読者に立ち止まってかんがえるひまを与えない、ってこととか、主人公のキャラクターが妙に完成されすぎている感がある(ので、経験を通して変化していっている感じがあまりしない)こととかいう要素もあるのだろうけれど、それでもやっぱり、俺はちょっと物足りないなーっておもってしまう。ある主張が読者の心情に訴えかけるためには、その主張が小説中でリアリティを感じさせるものでなければならない。そこではじめて、その主張の真摯さは担保されることになるはずだ。小説全体のドライなうすっぺらさのなかで、ややもするとウェット過剰になりそうなくらいまっとうな主張をしているところがうつくしいのに、肝心な、そこに至るまでのプロセスに関しては、いささか簡略化されすぎているきらいがあるようにおもう。

いや、でもこの本におさめられた3編はとてもすばらしいとおもう。俺はほんと、3つともすごくすきです。文章にとてもドライブ感があって読む快楽を存分に味わえるし、はっとするようなことばだってある。そういうよろこびがある以上、そこで作者の倫理的な主張がこころに響くかどうかなんて別に気にしなくてもいいのかなー、っておもわないこともない。ていうか、そもそもそういう小説なんじゃん、って言われそうな気もするけど、うーん、やっぱりあっさりしすぎな気がするんだよなー。


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