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『ボディ・アンド・ソウル』/古川日出男(その2)

『ボディ・アンド・ソウル』の語り手は、作家本人をおもわせるフルカワヒデオ、であるので、かなりストレートに気持ちや意見を吐露しているように感じられる文章が多い。古川日出男の他の作品でもよく語られていることだとはおもうのだけど、彼の小説に関する倫理感というか、相対するときの姿勢、みたいなものがわりとはっきり書かれているようで、そんなところもたのしんで読めたのだった。

ストーリーには唯一の形態というものはない。イメージはあらゆる角度から語られ得る。むしろ終わりかたは一つであってはならない。後天的に培われた本能が、僕にそう告げる。ならば、教訓:エンディングが肝要である――は幻影か?

たとえば読者が、一冊の書物の途中でその物語を抛りだすとき、その物語のエンディングはまさに途絶されたページに(その偶数ページと奇数ページの谷間に)あるのではないのか。すなわち読者の数だけエンディングは存在し得るのではないか。

連載小説のエンディングとは、その回その回ごとの最終行ではないのか?

「未完の小説は存在しない、と未完の小説の最終行に書かれていた。ジ・エンド」と僕はつぶやいてみる。(p.73)

どうして小説にはスタンダードがないのか。誰か、僕の作品を、勝手にアレンジしてリリースすればいい。君がそれを幻想文学と思うのなら純文学にしてしまえ。君がそれを主流の散文とみなすのならば反主流に書き換えてしまえ。大衆、正統、糞喰らえ。日本語の皮を、奪ってしまえ。物語の内臓、さらけだされた世界にはナニ語もあるものか。(p.91)

「だから、俺にとって本というのは、本の紙面というのは、楽譜なんだよ!」(p.187)

熱いよなー。かっこいい。能動的に読み、がんがんに誤読していくこと。正当性とか絶対性、唯一無二なものを相手として戦っていくこと。あらゆるものを雑ぜ合わせた、ハイブリッドであること。このあたりが古川日出男の倫理感(ってことばはふさわしいだろうか?)であるようにおもう。

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)


『ボディ・アンド・ソウル』/古川日出男

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)

小説家であるフルカワヒデオ自身を語り手として、日常のいろいろ――食べ、飲み、散歩し、妄想し、語り、書き、読み――がどんどん描かれていく小説。その語りはひたすらに饒舌で、とにかくエネルギッシュだ。書かれている内容はいっけん日記風でありながらも、読み進むにつれて虚実はゆるゆると入り混じっていき、言葉の奔流が現実を侵食、捏造していっているようにもおもえてくる。

全体的にかなりすきな小説だったんだけど、とくにおもしろかったところのひとつは、フルカワの妄想が突如として暴走し、物語をがんがんに作り上げていっちゃう、ってところ。たとえば、なぜか“ルイ・ヴィトン”からインスピレーションを得て、一気に小説が湧き上がりそうになっているシーンはこんな感じ。テンション高い!

ヴ…ヴィ。ヴィトン。

閃光のように僕の視野にLVのモノグラムが飛来する。そして知る。僕の脳味噌は、この数日間のあいだに識閾下でしっかり労働(ロードー)し、無勝手流の”ルイ・ヴィトン攻略”なる体験をしっかり発酵させていたのだ。あ!と僕は叫んだのであった。声を発した刹那はまぬけ顔であっただろうが、第二の刹那、僕は鬼の形相に転じた。変じたはずである。鏡を見ていたわけではないからわからん。僕はちちちちちちちち、ちず、と喚(おめ)きながら東京全図を探した。(p.102)

そうだ、主人公は俺にしちゃおう。こんな馬鹿なミステリーを発見して大騒ぎする人間は、おそらく妄想度のきわめて高い体験型のアホな作家にちがいない。それ、俺じゃん。今月十日からの”ルイ・ヴィトン攻略”をそのままノべライズすればいいじゃん。うわあ大発見。で、こうやってね、キッチンで鯖の味噌煮を作っていてね、その瞬間になにやら閃いて冷蔵庫のドアに呪われた東京全図を貼りつけて、ユリイカ(わかった)!ついに霊的真実はここに啓き示されて、秘密のメッセージは作家フルカワヒデオに届けられたのであった。(p.105)

古川日出男はこのくらい軽い文章のほうがタイプだなー。畳みかけるような語り口の、ハードで壮大な作品は、なんとなく無理しているように、てか、文体の勢いが過剰すぎるようにおもえてしまうこともあるのだけど、この小説の文章のリラックスした感じはすごくすき。

なんていうか、軽やかで抜け感があるのがいいのかな。でも一気に読むと身体にどっとくるみたいなところは、たしかに他の古川作品と同様で、なんにしても、文体に独特な強度を持っている小説家だよな、なんていう風におもう。


『聖家族』/古川日出男

聖家族

これはすごかった!おもしろいとかおもしろくないとか言うよりも、まず、すげえ!って言いたくなる小説。だいいち、分厚すぎるし(二段組みのくせに700ページオーバー!)、細かい特徴、気になる要素を挙げていったらキリがないけど、読んでいくうちに、最早、古川日出男、っていうひとつのジャンルが確立されているようにすらおもえてくるようだった。半端なく気合いの入ったことばたちが全編通してひたすらに連打されていき、「妄想の東北」の巨大なクロニクルが形成される。

やたらと大きな小説だから、あらすじとか構成みたいなものはそう簡単にはまとめられない。目次からも明らかなように、たしかにシンメトリカルな構造ではあるのだけれど、そのなかで一連の物語がきれいに円環を描き完結する、って感じじゃないし。どこか歪で、スマートじゃない。雑然としている。それに、そういう全体像みたいなものよりはむしろ、いろいろな細部のイメージの鮮やかさ、象徴性みたいなものについてかんがえる方がずっとおもしろいんじゃないか、って気もする(…けど、それを逐一まとめて書くのは相当骨が折れそうだ)。

全体の印象としては、むちゃくちゃ強い意志で書かれてるな、って感じもある。たとえば、作中で何度も繰り返される、中央vs周縁、みたいなシンプルな構図であっても、いままであちこちで繰り返し描かれてきたであろう定番ちっくな物語には絶対にならない。とにかく予定調和にはしない、って心意気が貫かれているよう。

作中の狗塚兄弟は、己の肉体そのものを凶器とするために鍛えまくっているけど、この小説自体も、ガチガチに鍛えられたことばの固まりみたいな感じ。ガチガチだから、単調におもえたり読みにくかったりもするわけだけど、小説全体に漲る強固な意志やテンションにはとにかく圧倒される他なくて、だから、すげえ!って、なってしまう。でも、それでいて、いわゆる“大作”的な重厚さはあんまりなくて、どこか抜け感があるっていうか、がっつり読んだなー、って気分もあんまりないっていうか。まだまだ書きつくされてはいない、みたいにおもえるのかな。

以下、かっこよかったところをちょっと引用。

こんな問いかけを今度してみてもらえませんか。地図という二文字は、もしかしたら何かの略語じゃないかな、と。二つの漢字が、ほら、アルファベットの頭文字の組み合わせのような。だとしたら、何と何かな、と。答えは簡単です。地獄の図書館、ですよ。地獄の地に図書館の図で、ほら。ちゃんど地図になっばい?(p.176)

彼はそれから一人になった。彼は何度か運び込まれる本をひたすら貪りつづけていた。彼は本の内側に孕まれている時間を読んでいた。彼はそれらの時間が有している重さを感じてそれらの時間が流れていることを確かめていた。彼には自分の肉体がその隅ずみまで読む行為で満たされるのがわかった。彼は出土しはじめるものを感じていた。彼は掘り起こされる記録と歴史を体感していた。(p.377)

そのDJは雑ぜろ、と自身に命じた。自身の手に、命じていた。すべての音を雑ぜて、ただ音楽を、と命じていた。自身の耳に命じていた。耳。手。耳。手。そのDJは、世界には無限の、無尽蔵のレコードがあるんだ、と自覚した。それを二つのターンテーブルに載せて。一台のミキサーで攪拌(ミックス)して。そして三つめの、凶器として、出して。出せ、と自身に命じた。ハイブリッドに、出せ。(p.579)

いままで、古川日出男って気になるわりにはあんまり入り込めない作家だったんだけど、この一冊をきっかけに結構すきになれそうな気がしてきた。いや、“すき/きらい”とかっていうより、やっぱり、いま、現在進行形で読むのがおもしろい作家だよなー、と改めておもえた、って感じか。ことば数は多いけれど、読者の方からアグレッシヴに働きかけていかなきゃいけない小説なんだ、ってことをようやくちゃんと実感できたような気もする。


『くっすん大黒』/町田康

くっすん大黒 (文春文庫)

俺は、メディアに露出多くしている作家、というのをあまり信用しておらず、だからパンク歌手などといった肩書きのついた作家である町田康なんて、どうせパンクと言いつつもその実サブカル好きに媚を売った腑抜け野郎に違いないのであって、自分には関係ないね、っておもっていたのだったけれど、どうも周囲から、町田康はいいよ、町田はおもしろい、町田の新刊はどうよ、えっ町田康読んだことないわけ、といった声が多く耳に入ってくるものだから、よし、ここはひとつ、ってデビュー作であることろの「くっすん大黒」を購入、近所のモスバーガーで読み始めたところ、開始数ページでもう完全に引き込まれてしまい、まったく、いままでこんなおもしろい小説をスルーしてきたなんて、なんて愚かだったのだろう自分は、って少しく後悔することとなったのだった。やっぱり食わず嫌いはよろしくないね。

まあ何がおもしろいって、とにかく文章がおもしろい。小説に導入されているのは“語り”から生まれるグルーヴ感、ダイナミズムであって、それが読む快楽にまっすぐに結びついている。小説内ではまあ事件っぽいことが起こったりもするわけなんだけど、内容のおもしろさより語りのおもしろさの方が勝っているというか、なんていうかこう、どうでもいいことを書いているところの方がおもしろい。

俺的ベストキャラは、吉田のおばはんって人で、モスバーガーでむぷぷと声に出して笑いそうになるのを必死で押し殺しながら読んだその箇所を引用しようとおもったんだけど、ちょっとだけ引用してみても、どうもあんまりおもしろくない。いや、おもしろくない訳ではないんだけど、抜き書きした文のおもしろさは、読んでいたときに感じていたおもしろさとはもう質の違うものになってしまっている、っていうか。やっぱり、小説の流れに身を任せ、語りのグルーヴにやられながら読む、ってのがあたりまえだけど肝要なわけだなー、とおもった。

あーもう、もっと早くに読んでおくべきだった。高校生、せめて10代のうちに。そうしたらきっともっとファンキーな人間になれていたんじゃないか、って気さえする。まじで何でもばかにしないで貪欲に吸収してかなきゃだめだわ、と身に沁みて感じたのだった。


『ファミリー・アフェア』/村上春樹

パン屋再襲撃 (文春文庫)

80年代の短編集、『パン屋再襲撃』に収録されている作品。台詞はいちいち気のきいた感じだし、展開もまあ予想から外れることのない、わりとリラックスした雰囲気の短編だ。

主人公の「僕」は27歳。何年ものあいだ妹と2人暮らしをしていたのだけど、妹はいつの間にか結婚をかんがえるようになっていて、この頃2人の間はどうもぎくしゃくとしている。妹の婚約者、渡辺昇はなんだかやぼったい感じのエンジニアで、「僕」は彼のことがどうにも気に入らないのだが、とにかく3人で食事をすることになり…!

作中、妹は、「僕」のことを自分本位で未熟な人間だ、とことあるごとに非難する。でも、「僕」自身もその非難の内容には十分に自覚的だし、妹の言うことはもっともだ、と感じているふしがどこかにあるみたいだ。

「どうして努力しようとしないの?どうしてものごとの良い面を見ようとしないの?どうして少くとも我慢しようとしないの?どうして成長しないの?」

「成長してる」と僕は少し気持ちを傷つけられて言った。

「我慢もしてるし、ものごとの良い面だって見ている。君と同じところを見ていないだけの話だ」

「それが傲慢だって言うのよ。だから二十七にもなってまともな恋人ができないのよ」

「ガール・フレンドはいるよ」

「寝るだけのね」と妹は言った。「そうでしょ?一年ごとに寝る相手をとりかえてて、それで楽しいの?理解とか愛情とか思いやりとかそういうものがなければ、そんなの何の意味もないじゃない。マスターベーションと同じよ」

「一年ごとになんかとりかえていない」と僕は力なく言った。(p.77)

また、

「僕はお前の生活に一切干渉したくない」/「お前の人生なんだから好きに生きればいい」(p.84,85)

なんて言う「僕」は、いかにも初期村上春樹っぽい、個人主義的な気質の持ち主だ。ただ、それは他者と深く関わることに怯えているがゆえの個人主義であるようで、その寛容さや無関心はどちらかというと弱さや臆病さから生まれてきているようにおもえる。でも、まさにそういうところ、態度のどこかぎこちない感じこそが読み手には響く。

そして「僕」を批判する妹もまた、弱さを抱えた存在として描かれている。妹は「僕」に対してすぐ感情的になるし、言いたい放題言うのだけれど、それは自己を相手にぐいぐいと押しつけるようなやり方だ。そこにはつまり、甘えみたいなものがある。それに、妹はいわゆる「社会的にまとも」な人間である渡辺昇と婚約をしてはいるけれど、心情的な立ち位置としてはいまだに「僕」サイドにいる。だからこそ、最終的には「僕」と妹との間に一応の和解がもたらされることになるのだし、それはどこか慣れ合いっぽい、ちょっとぬるい感じがしなくもないような結末、ということになる。もっとも、渡辺昇という他者が「僕」と妹との生活に入り込んできた影響ははっきりと見受けられるし、これから先どうなっていくのかなんてわからない。ただ、今夜はひとまず眠ろう、ということになるわけだ。

「良い面だけを見て、良いことだけを考えるようにするんだ。そうすれば何も怖くない。悪いことが起きたら、その時点で考えるようにすればいいんだ」(p.118)

と、「僕」は妹や渡辺昇に言う。でも、それは自分自身に必死に言い聞かせているようでもある。こういう教訓的なニュアンスを含んだことばもそうだし、小説全体としても、なんていうか、臆病な個人主義者のためのぬるま湯、といったおもむきがあって(や、さすがにそれは言いすぎかもだけど…)、だから俺はこの小説がすきなんだろうな、っておもう。なんだか安易に共感できてしまうような感じがして、それがいいことなのかどうかはよくわからないのだけど…。


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