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『新自由主義―その歴史的展開と現在』/デヴィッド・ハーヴェイ(その1)

デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』、大学生のころにさらっと読んだのは記憶にあるのだけれど、ひさびさに読み直してみたらやっぱりとてもおもしろかった――というか、頭のなかが整理できてよかった――ので、何回かに分けて、簡単にノートを取っておくことにする。

本書において主に語られるのは、新自由主義発生の素因と、それがどのようにしてこれほどまでに徹底的に世界中に拡散し増殖していったのか、ということに関する政治経済史である。もはや今日ではすっかりコモンセンスと一体化してしまっているかのようにおもわれる新自由主義だけれど、いったいいつ政治的な方向転換があったのか?どのような経緯で受け入れられていったのか?そしてそれは、なぜこれほどまでにわれわれの思考様式に深く根を下ろす、支配的な言説となり得たのか?これらの疑問にひとつひとつ答える形で分析を行い、これまでの流れを批判的に検証し直すことによって、政治・経済的なオルタナティブを構築していく足がかりとしていきましょう、というのがハーヴェイのスタンスだといえるだろう。

そもそも、新自由主義とは何なのか?ハーヴェイはひとことで簡単にまとめてみせる。

新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。(p.10)

新自由主義は、市場での交換を「それ自体が倫理であり、人々のすべての行動を導く能力をもち、これまで抱かれていたすべての倫理的信念に置きかわる」ものと評価し、市場における契約関係の重要性を強調する。それは、市場取引の範囲と頻度を最大化することで社会材は最大化されるという考え方であり、人々のすべての行動を市場の領域に導こうとする。(p.12)

市場の自由、商取引の自由こそが個人の自由を基礎づけるものであり、それらの保証こそが、すべての人間の最大の利益を担保するものとなるだろう、というわけだ。

では、そんな新自由主義への政治的移行とは、なぜ、どのようにして発生したのか?また、それをグローバル資本主義の内部で支配的なものにした力とは、いったい何だったのか?次回は、その辺りについてまとめてみようとおもう。


『お節介なアメリカ』/ノーム・チョムスキー

お節介なアメリカ (ちくま新書)

チョムスキーがくりかえし批判しているのは、アメリカが9・11以降執拗におこなっている、中東地域への内政干渉(intervention)だ。そこでは「テロとの戦い」という旗印が掲げられてはいるけれど、この本を読むと、むしろアメリカ自身が、自ら定義した「テロ」に当てはまる行為をおこなっていることがよくわかる。なぜアメリカはそのようなお節介を続けるのか?どのような原理がアメリカをそのような行為に駆り立てているのか?という疑問に対し、チョムスキーはこう述べている。

アメリカの外交政策には明確なドクトリンがあり、これが西側のジャーナリズムや学界、政治評論家の間にまで浸透している。その主題は「アメリカ例外主義」である。アメリカには「超越的な目的」があるので、今も昔も他の大国とは違う存在なのだという主張だ。「超越的な目的」とは、アメリカが「国内」はもちろん世界各地でも「自由の平等を確立」するというものである。

このような「超越的な目的」をドクトリンに持つ立場――独自の強引な世界観に基づいて世界を形成しようとする――を、チョムスキーは「例外主義」として批判しているのだけれど、そこで、リチャード・ローティが『RATIO』の01号でこんなことを書いていたのをおもいだした。

私のように、我が国を左派的理想の勝利の象徴として描く物語を作る人々は、合衆国がそれらの理想を実現し広めるために活動する力を保持することを望んでいる。合衆国には他国に干渉する権利はないというチョムスキーに、われわれは同意しない。独裁者に支配された国を制圧してそれを民主国家に変えるために民主諸国の軍事力を使用することは、左派的視点から完全に擁護できるとわれわれは考える。侵攻に対するこの弁明は、とりわけ、ナポレオン、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東、アイゼンハワー、ニクソン、そしてブッシュによって、不当に使われてきたが、だからと言って、それは不当に使われるしかないというわけではない。

ローティの意見は理想主義的で「正しい」ものかもしれないが、チョムスキー的な視点からいえば、人がじっさいに政治に関わる際に、「正しさ」なんてほとんど問題にされていないじゃん、ということになるのではないかとおもう。政治が行われるときに重要になるのは、一望俯瞰することで見えてくる「正しさ」ではないし、政治とは、選択肢のなかで一体どれがベターなのか、ということを検討していく作業でしかない。だから、ローティのような主張はまちがってはいないけれど、実効性にかけるものだ、ということになるんじゃないか。

もっとも、いまアメリカのとっている選択とは、世界中の資源エネルギーの支配による権力・富の掌握へとまっすぐに向うだけのものであって、世界の大多数の人にとってベターな選択であるとはとてもいい難いものだ。そんなことは誰でも知っている。政治の「正しさ」なんてものについて議論することよりも、できるだけ大多数の人にとってのベターを探し、追求していくことの方が、きっとずっとたいせつだ。チョムスキーとかを読んでいると、そんなことをかんがえる。

別冊「本」RATIO 01号(ラチオ)


『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』/モフセン・マフマルバフ

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ

イランの映画監督、モフセン・マフマルバフのスピーチ、レポート、公開書簡の3つをまとめたもの。アフガニスタンの近代史、生活、宗教などが概略的に説明され、さらに、アフガニスタンの国家としての収入、麻薬の取引量、死者の数などについても、統計を用いて具体的に語られている。けれど、この本においてもっとも切実に、何度も語られるのは、「なぜ、アフガニスタンにはイメージ(映像)がないのか?」という問いだ。イメージを奪われ、あらゆる意味で顔を失った、アフガニスタンという国家。この世界では、イメージを持たないものには誰も関心を抱くことはない。この無関心に対して、マフマルバフは冷静なことばで、しかし激しく抵抗する。

映像というイメージが、いま、この世界でもつ力はとても大きなものだ。当時者でない人、どこかほかの場所でニュースとしてなにかを知る人にとって、その対象は、映像化されることによってはじめて現実のものと認識されるようになる。そのようなイメージは、距離や時間をこえて人に訴えるちからを持ってはいるが、もちろん、映像は常に、必然的になんらかの視点を内包しているものだ。また、映像は、現実をうつしたコピーではあるが、完全な客観性が担保されるものですらなく、現実についてのひとつの解釈にすぎない。しかし、ともかく、アフガニスタンについて語られる際のイメージが、破壊され、崩れ落ちた仏像であったということであれば、つまりそれが世界のアフガニスタンに対する解釈だったということだ。

仏像の破壊についてはたくさんの報道がされ、国際的に非難がなされるのに、人々の飢餓がほとんど語られないのはどういうわけか。マフマルバフは憤る。アフガニスタンを見ているはずなのに、なぜこれほどまでに深刻な事態に、誰も関心を払わないのか。仏像の破壊というニュースがあるのに、アフガニスタンの現状に対して、世界はあまりに無関心にすぎるのではないか。

俺はおもったのだけど、問題は、映像というのは、なにかを理解するためにはそれほど役に立たない、ということなんじゃないだろうか。もちろん、人は、自分がじっさいに目にしたことを思考の基盤にしている。しかし、それはおそらく、人間のかんがえかたというのが、もともと目の前の状況に対処するために発展してきたものだからで、単にあるイメージだけを記憶していたところで、それは他者の苦しみに接近することには結びつきにくいのではないか。人になにかを理解させ、行動を起こさせるのは、自分が目にした自分にとっての現実のなかで、自分を動かした感情のちからだけだ。映像で自分のしらない世界を見せられたところで、その世界は、たんなるフィクションでしかない。映像にプラスされるべきものは、そのイメージを自分の世界とダイレクトに繋げるため、そして他者の痛みに共感するための想像力であり、想像力を育て上げるための、ちからをもったことばなのではないか。そして、この本におさめられたマフマルバフのことばには、そういったちからが、少なからずあるんじゃないか。そんな気がしました。


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