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『文章術の千本ノック どうすれば品格ある日本語が書けるか』/林望

『文章術の千本ノック どうすれば品格ある日本語が書けるか』/林望

林望の文章術本。”品格”ある文章を書くためには、というのをテーマに、林が大学やカルチャーセンターで行った講座の内容をまとめた一冊だ。なにしろ、”品格”がテーマなので、先日感想を書いた永江朗の『<不良>のための文章術』とは方向性がまったく異なっており、その違いなんかをかんがえながら読むのはおもしろかった。

まず、こういうのは品がないということをちょっとお話しておきましょう。これは言わば反面教師ですから、決して真似してはいけません。
まずは、変に悪ずれした文章。
これは雑誌の文章なんかによくあらわれてきます。ああいうのを書いているのはプロのライターなんです。プロのライターなんだけれども、雑誌というのは、非常に品格のないライターが書いていることが多いんです。こう言っちゃ雑誌の編集者に悪いけれども、これは事実だからしようがない。(p.74)

事実だからしようがない、とか言っている林自身もじゅうぶん品がないとおもうけれど、それはまあいいか。たとえば、永江からすれば、ライターにとって品格ほど役に立たないものなどない、品がよければ読者は読んでくれるのか?いくら品がよくたって人にスルーされる文章じゃ意味ないんだよ、ってことになるのだろうけれど、いやいや、そんなばかなことを言っちゃあいけません、と林は言うわけである。

本書の前半では、上手なエッセイの書き方のアドバイスがまとめられている。林は、エッセイを書く際には、敬体(です・ます調)の文章は素人にはあまりおすすめしない(常体と比べて、無駄が多く、文章にスピード感がなくなる)、体言止めや、中止法(「~してみては?」とか、「~だそう。」といった、文章の最後の部分が省略されているもの)のような用法も、下品だからやめなさい、と言う。そして、できるだけ描写を多くして、概念的な文章、自分の感情に溺れるような文章は避け、言葉を切り詰めて使いなさい、と言う。まあもっともな話というか、一般的なアドバイスばかりなので、このあたりにはとくに新鮮さというのはない。

後半部は、上記のような林のアドバイスを受けた受講者が書いてきた作文に対し、林が赤を入れる、という構成になっている。本書の読みどころは、やはりここだろう。ほとんどの作文には赤が入りまくっているのだけれど、さすがに納得できる指摘ばかりで、うまいなーとおもわされる。ただ、文章を書く人間にとっての問題は、どうやって自分自身の力だけで林が赤で書いているような文章にまでたどり着けるか、ということだ。ここがいまいち、ってわかっていても、どう直せばいい文章になるのか、いくら悩んでも閃かないときって、やっぱりあるんだよなー。

君たち、せっかく頭があるんだからもうちょっとかんがえて文章を書きなさいよ、と言わんばかりの上から目線の口調には時折いらっとさせられるけれど、ちょっと嫌味な国語の先生だとおもえば、なかなかたのしく読める一冊だとおもう。


『<不良>のための文章術 書いてお金を稼ぐには』/永江朗

『のための文章術 書いてお金を稼ぐには』/永江朗

タイトルに、「書いてお金を稼ぐ」とある通り、文章でプロを目指すならこのくらいはやっておけ!という実践的なアドバイスが詰め込まれた一冊。プロといっても、ここで扱われているのは、雑誌の記事や新聞の短いコラムを書くライターのことだ。だから、よくある、小説や論文を書く人のための文章術本とはかなり方向性の異なるものになっている。

本書の売りは、永江自身の文章作成プロセスを例に、「お金を稼げる」文章を書くためのテクニックが細かく解説されているところだろう。書評、お散歩ガイド、グルメガイド、エッセイなどの分野で、掲載誌によって文体や固有名詞を使い分けるようす、いかにも素人っぽいぐだぐだな文章をプロの文章に修正していく手つきは鮮やかで、なるほどねーって感心してしまう。

そしてもちろん、文章術本の定番である、文章を書く際の心構え、おさえなければならないポイントについても多くのページが割かれている。曰く、「きちんと文章全体の設計図を描いてから書きはじめよ」、「文章とは読み手のためのものであって、書き手のためのものではない」、「ちっぽけなあなたの”自分らしさ”など不要」、「媒体によって想定される読者をかんがえて書くべき」、「凡庸さを避けるために複数の方向からアプローチせよ」、「正論や美文はそもそも期待されていない」、「文体にはこだわるな」、「気の利いた風な無内容な言い回しは避けよ」、などなど。どの指摘もおおむね適切なものだとおもえるし、ネットに本や映画の感想をだらだらと書き連ねている俺のような人間にとっては、正直耳が痛いところでもある。このブログの場合なら、一文が長過ぎるし、無意味な接続詞をたくさん使っているし、気取った言い回しがすべっているし、結論がとくにないような文章もかなり多い、ってすぐに突っ込みが入れられてしまうだろう。

そういうわけで、全体的な内容には納得できたのだけれど、この人の文章のすれた感じ、下品な感じというのは正直まったく好きになれなかった。品がいいこと/読者に好かれることと金を稼ぐことは別、なのだろうし、もちろん、わざとこういう書き方をしているのだろうけれど…。

なぜ文章を書きたいのかと問われて、「自分を表現したいから」「自己実現のため」という人は、プロの書き手になるのはやめてください。読者が(それ以前に編集者が)迷惑します。誰もあなたのちっぽけな「自分」、ありもしない「ほんとうの自分」なんか読みたくありません。関心もない。自分を表現したいという人は、誰にも迷惑をかけないように、こっそりと日記でもつけて、ときどき自分だけで読んでください。(p.13)

たとえばこんなところ。内容的には、まあその通りだろう。自分の感情をろくに検閲もせずに垂れ流しにして、ひとりで悦に入っているような文章というのは、大抵、読むに耐えないものだ。俺だって、「自分を表現したい」「自己実現のため」に文章を書きたい、って聞かされたら、文章を書こうとする人が、何もそんな紋切り型な言い方をしなくたって…くらいのことはおもってしまうかもしれない。

でも、本当に魅力的な文章というのは、まさにそういう、他人からすればどうでもいいような、ごくごく個人的な感情が基盤にあるものなんじゃないだろうか?それをなんとか他人に伝えるために、冷静になってみたり、読み手の立場を想像してみたり、客観性を担保しようと知恵をしぼってみたりするなかで、はじめて文章にはその人の心の動きや熱といったものが、すなわち文章の核となるべきものが、宿るようになるんじゃないだろうか?少なくとも、俺はそういう「ちっぽけな自分」を大事にした文章の方が、<不良>を気取った偽悪的な文章や、読者の感情をコントロールしたいっていう欲望が丸出しになった文章なんかより、よっぽど読みたいけどなー、なんておもったりしたのだった。

 *

…うーん、今年こそ、”去年の反省&今年の抱負”的な新年っぽいエントリを上げようとおもっていたはずなのに、気がついてみれば今日で正月休みも完全におしまい。もうすっかり2013年ですね!こんな辺境の地までわざわざお越しくださっているみなさま、明けましておめでとうございます。そしていつもありがとうございます。今年がみなさまにとって、後からおもい出すだけでニヤニヤが止まらなくなっちゃうくらい、素晴らしくハッピーな一年になりますように!!


『多読術』/松岡正剛

多読術 (ちくまプリマー新書)

会社に入ってからというもの、なかなか本が読めなくていらいらしていた。忙しくて時間がぜんぜんない、っていうわけじゃないのだけど(時間はつくればいい)、気持ちがどうにも読書のほうに向いていかないような感じで。でもやっぱり、長いあいだちゃんと本を読んでいないと、読書用の集中力とか本に潜っていくための力、筋力みたいなものが落ちていく気はしていて、それで最近はリハビリ的に軽い本を読んだりしていることが多い。

そんななかで、先日買って一息で読んだこの本は、俺の読書したい欲を盛り上げるのになかなか貢献してくれた。タイトル通り、編集工学で有名な松岡正剛が読書についてのいろいろを語っている一冊だ。

読書する、ってことに関する自分のかんがえを整理する上でとくによかったのは、

読書というのは、書いてあることと自分が感じることとが「まざる」ということなんです。これは分離できません。(p.76)

読書は著者が書いたことを理解するためだけにあるのではなく、一種のコラボレーションなんです。/読書は「自己編集」であって、かつ「相互編集」なのです。(p.77)

読書は、現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。「癒し」というのではなくて、ぼくはアライアメント、すなわち「整流」というふうに言っています。/なぜなら、読書は著者の書いていることを解釈するだけが読書ではなく、すでに説明してきたように相互編集なのですから、そこでアライアメントがおこるんですね。(p.164,165)

というあたり。そうなんだよなー、読書っていうのは、読み手が単に本の内容を受容する、ってことだけに留まるものじゃない。そうじゃなくて、本と読者とのあいだには常に双方向的な流れがあるはずなんだ。そういえば、作家のリチャード・パワーズはこんな風に述べていた。

読むという行為において起きるのは、誰か他人の物語と向き合うということだと思う。自分のものではない、他人の物語なんだけど、語り直すという営みを通じて、それに参加していくわけです。よい読者も読みながらその本を翻訳しているのだ、という考え方はまったく同感ですね。たとえ自分の母語で読んでいても、そうですよね。

/自分の言語であっても、やはり翻訳しているのです。それまで全然知らなかった物語を、これなら知っていると思える物語に訳している。そして、それと同時に、外から入ってくるその物語を受け入れるために、自分の物語、自分という物語も翻訳しているのです。他人の物語を理解するために、自分の物語を書き換えるわけです。(『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』p.144,145)

こういう文章を読んでいると、奮い立たされるような、勇気が出てくるような気がするのだけど、それはやっぱり、読書っていうある意味孤独な行為のなかに、他者との複雑なコミュニケーションのありようが内包されている、って感じさせてくれるからなのかな、とおもう。他人の物語を受け入れ、同時に自らの物語を上書きする、読書がそんなややこしいコミュニケーションの一形態であるからこそ、わけがわからなかったり退屈だったり傷つけられたり、あるいはものすごくおもしろかったり感銘を受けたりするんじゃないか。

読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です。だから、おもしろい。(p.140)

ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち


『マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン Loveless』/マイク・マクゴニガル

マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン Loveless (P‐Vine Books)

いわゆるシューゲイザーの名盤として有名な(そして文句なしに最高な!)、my bloody valentineの『Loveless』についての一冊。会社の同期で、マイブラに心酔している友人から貸してもらったんだけど、なかなかおもしろく読めた。

なにしろあのマイブラなので、“伝説”みたいなことにも多くページがさかれているのだけど(あと、バンドに対する著者の過剰なまでのおもい入れにも!)、ケヴィン・シールズ本人のコメントが結構たくさん載っていたのがよかった。

たとえば、とにかく延々と続くことで有名な、”You Made Me Realise”の破壊的なノイズ・パートについての、ケヴィンの話。

「このパートは毎回ライヴのハイライトだった。聴衆があるひとつの状態から別の状態へと変化するのに、どれくらいかかるのかを観察する実験でもあったんだけどね。まず聴衆の何割かがぼくらに向かって指を突きつけるか、目をつぶったまま両手を上げてゆらゆらとさせはじめる。そう、何か具体的なアクションを起こすのさ。だからそういった変化が現れるまで、ずっと演奏しつづけた」

「聴衆全体が変化したことがはっきりとわかるまで…。たとえひとりだけでも指をくるくる回している状態だったり、指で耳をふさぎつづけていたときは、彼らがその状態から変化するまでぼくらは演奏を続けた」/

「ときにはたったひとりをギヴ・アップさせるべく、40分間以上演奏しつづけることもあったよ。そして全員変化したことがわかったとき、ぼくがデビーを見る。それが合図となって、曲の最後のパートへ戻っていくんだ」(p.23,24)

ギヴ・アップさせる、ってのがうける。全く、どこからそんな発想が出てきたんだか!ほんとにクレイジーすぎるよケヴィンー、などとわらって読みつつも、俺も去年のフジロック行きたかったな…と爆音のノイズにおもいを馳せたのだった。

ラヴレス


『母は娘の人生を支配する――なぜ「母殺し」は難しいのか』/斎藤環

母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

なかなか強烈なタイトルの本だけど、興味深く読めた。母‐娘という関係性のなかで生じる支配‐被支配の問題、女性独特の身体感覚や母性といった要素を中心に、「母殺しの不可能性」がどうように成立しているのか、を解き明かしていこうとする母娘論。論の展開はていねいで、とても読みやすいし、なにより男には感覚的にわかりにくいことが考察されているわけだから、読んでいて何度もはっとさせられた。

「母殺しの不可能性」を形作っている要素のひとつとして挙げられているのが、共感と思いやりによる支配、という問題だ。一般に、父息子関係において生じるのは単純な対立関係や権力関係だけれど(だからこそ、通過儀礼的な「父殺し」が成立する)、母娘の関係はもっと複雑でややこしいものになっており、

母は娘に対して「あなたのためを思って」という大義名分を掲げながら、実際には自分の願望と理想を押しつけようとします。娘は母親の欲望を先取りするかのように、表面上は反発しつつも、そうした支配に逆らうことができなくなります。この構図は、自覚される場合もされない場合もあるようです。(p.50)

というような、まさに共感や理解によってお互いを拘束し合うような関係が生じうるのだという。

さらに、母娘関係においては、奉仕と支配、感謝と怨念とを曖昧化する作用がしばしば働きやすい、と斎藤は述べている。母娘関係について考察していく上で重要になってくるのは、「支配の意図がない支配」とは本当に支配と呼べるのか?共依存のような密着した関係についてはどうかんがえるべきなのか?といった問題だ。

論のなかでとくにうなずかされたのは、

母親の価値規範の影響は、父親のそれに比べると、ずっと直接的なものです。母親は娘にさまざまな形で、「こうあってほしい」というイメージを押しつけます。娘はしばしば、驚くほど素直に、そのイメージを引き受けます。この点が重要です。価値観なら反発したり論理的に否定したりもできるのですが、イメージは否定できません。それに素直に従っても逆らっても、結局はイメージによる支配を受け入れてしまうことになる。母親による「女の子はかくあるべし」という、イメージによる押しつけの力は馬鹿にできないのです。(p.109)

というところ。たしかに、イメージっていうのは価値観や論理よりもずっと支配力が強いようにおもえる。それは、イメージというのが、言葉よりも先行して存在する、身体性のほうに直接影響力を与えることができるものだからではないか。

斎藤は、母娘関係の分析にあたって、少女まんがをはじめとするさまざまな物語に言及していく。それは、そこで「母殺し」というテーマが切実なものとして扱われてきたためだという。このあたりの論はかなりおもしろくて、取り扱われている作品をひとつひとつ読んでみたくもなったのだけど、そんななかで語られることのひとつが、母から娘への身体性の伝達こそが、母による娘の支配に結びついている、というかんがえだ。

女性は自分が女性の身体を持っていることだけを理由として連帯することができる。

母と娘は同じ女性の身体を持っている、という事実が、その関係を男性にとってよくわからないものにしているらしい。女性たちにおける身体性へのこだわり、それはやはり男性にとっては感覚的につかみにくく、どこかリアリティを欠いたものとしてしか捉えがたいものだ。女性の身体性が母娘関係の複雑さに密接に結びついているということであれば、母娘関係の問題に男が立ち入るのは相当困難なことに違いない。


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