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『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』/渋谷望(その1)

『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』/渋谷望

現在の新自由主義社会で作動している権力ゲームの内実を分析し、そのなかでもとくに「労働」とはいかなる意味を持ったものになっているのか、ということについて語られた一冊。買ったのは大学生の頃(8年くらい前)だけれど、最近ようやく読み終えたので、簡単にノートを取っておこうとおもう。

本書でとくに繰り返し強調されているのは、フォーディズム→ポストフォーディズム、福祉国家→新自由主義国家、規律社会→管理社会、生産社会→消費社会…といった権力ゲームの変容においては、労働や産業の構造的な変化が大きな意味を持っている、ということだ。

フーコーが指摘するように、権力はアイデンティティや主体の構築を通じて、そして生のあり方そのものを通じて作動するのであれば、労働や産業構造の変容は権力ゲームのあり方に大きなインパクトを及ぼすはずなのである。それにもかかわらず、労働や産業構造の問題は、現在、文化や権力をめぐる議論においては片隅に追いやられてしまっている。(p.13)

これを念頭に置きつつ、以下、第1章について簡単にまとめてみる。

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第1章「魂の労働」では、「労働」という概念の内実とその変質について検討するために、介護労働が取り上げられる。

現在、介護は有償の「労働」のひとつと見なされているけれど、その社会的な位置づけについては複雑なところがある、と渋谷は言う。というのも、介護という作業は、それが有償であろうと無償であろうと、「身体を使った活動ないし労働の側面」と、「介護される者に対し気遣う感情ないし態度の側面」の両方を内包している、という性質があるからだ。

家族介護の場合には「家族への無償の愛」として理解されてきた精神的介護の側面は、有償介護労働の場合、しばしば「ボランティア精神」や「福祉の心」へと翻訳され、それにより介護労働の労働としての側面が、誰にでも可能な非専門的労働――家事労働の延長――として不可視化されている。つまり介護労働を構成する精神的ケアの側面こそが、有償の介護労働を他の賃労働から区別し、しばしばそれは「やる気」を惹き起こすインセンティブとして低賃金を正当化する機能を果たすのである。しかもそれはしばしば恫喝的でさえある。(P.27,28)

こうした二重性は、いわゆる「感情労働」と呼ばれるカテゴリに属する労働に共通のものだ、と渋谷は続ける。これらの労働に従事する人は、労働者としては「使用者に対する階級的な関係」にある一方で、対人サービスの提供者としては、「被介護者との関係」にもあるというわけで、これはいわゆる近代の「個対個」という単純な契約関係を超えた、新たな契約関係であるということになるのだ。

とはいえ、現在においては、もはやこの二重性というのは介護労働者や対人サービス提供者だけに限られたものとは言えないだろう。顧客の立場に立って/顧客の目線を理解してサービスを提供するということは、どんな職業や業種においても、ビジネス上の成功のための基本的な条件になりつつある。顧客への忠誠/同一化、サービスの質のための献身、アカウンタビリティの向上などといった文言は、もはや企業理念の根幹部に位置するものになっていると言ってもいいくらいだ。

このような事態は、労働者に対して、彼が自分の労働力を「単なる”商品”として資本に売却すること」以上のものを要求している、と渋谷は分析している。

そこで要求されているのは、個人の<実存>や<生>そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に再投入することであろう。労働者にとっては、生産と生活の原理的な区別は溶解し、彼らがもはや労働に対してクールに振る舞うことは不可能となる。こうして彼らの「やる気」を駆り立て、サボりを防止することが成功するのである。それゆえそのテクノロジーの最終的な機能は、企業社会に躊躇なくコミットできる労働者を創出することであるといえよう。こうして労働者は、いわば自己の感情のマネジメントまで含めて労働を商品化するという意味での<感情労働>を要請されるわけである。(p.39)

「感情労働」、「顧客による経営管理」の強い要請は、「社会全体として感情労働をいかに動員するか」という課題へと結びついていくことになる。「感情労働」というカテゴリは、あらゆる職種に浸透し、さらに既成の労働概念に含まれていない活動についても取り込んでいくことで、コモンセンス化していっているようでもある。


『精神疾患とパーソナリティ』/ミシェル・フーコー

『精神疾患とパーソナリティ』/ミシェル・フーコー

フーコーの最初の著作。精神の病は身体の病とはどのように異なるのか、どのような人が精神疾患を患っていると言えるのか、通常の人間と狂者との境目とはどのようなものであるのか、精神の病が発現する条件とはいったい何であるのか?…といった問題について扱われている。後に一部の内容が書き換えられ、『精神疾患と心理学』というタイトルで再度出版されることになる一冊だ。

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フーコーはまず冒頭で、「精神と身体の病理はどのように関係づけられるのか?」という問いを提出し、このように述べる。

精神の疾患と健康を定義するのがこれほどまでに困難なのは、身体の医学において利用されている概念を、精神の病や健康にもそのまま適用しようと、空しく努力するからではないだろうか。身体の障害と人格の変性を統一的な観点から考察するのが難しいのは、この両方に同じ種類の因果性を想定するためではないだろうか。精神病理学と身体病理学の彼方に、この両方に適用できる一般的で抽象的な病理学が存在すると想定し、先入観に基づいた概念と、暗黙の前提条件に基づいた方法を、精神の病理学と身体の病理学の両方に押しつけようとするからではないだろうか。(p.10)

精神と身体、どちらの病理学においても、「症状を疾患のグループに分別し、主要な疾病単位を定義する」という同様の分類方法が取られているけれど、こういった方法が導入されている背景には、「双方の病理学を包含し統一するような、ある一般的な病理学が存在しているはず」、というかんがえ、先入観があるのではないか、ということだ。

このようなかんがえ方を、フーコーは「メタ病理学」と呼んで批判する。これはいっけん、人間の精神と身体との合一性を考慮に入れているかのように見えるけれど、その実、精神と身体の疾患の双方に同じ方法論や概念が適用可能である、ということを裏づけなしに信じてしまっている、素朴な思考法ではないか、というわけだ。たとえば、ロボトミー手術――鬱病や不安神経症の患者の前頭葉の一部を切除することで情緒を安定させようとする――などは、こうした思考(身体病理の側からアクションを起こすことで、その背後に存在しているメタ病理が治療できるはず)の素朴さによって考案されたものであるだろう、ということになる。

「メタ病理学」的な思考を回避し、精神的な疾患と身体的な疾患とをはっきりと区別するためには、精神の病というものが、どのようにして作り出されたのかを思い起こすことが必要だろう、とフーコーは言う。

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精神の病というものは、身体の病と異なり、個人のパーソナリティのもとに現れた影響を通してでしか確認することのできないものだ。また、それはある意味では個人による実存の表現の一様態であるとかんがえることもできる。そのため、病を病として見分け、どこまでが正常でどこからが異常なのか、という線引きを行うことは、なかなかに困難であるはずだろう。

とはいえ、病理学的には、ある一定の条件のもとに精神疾患というものが規定されており、それによってある人が患者かそうでないかが決定づけられている。では、その条件とはいったいどのように作られてきたものなのか。そして、いかにして、病に逸脱という意味が与えられるようになり、病人に排除される者という意味が与えられるようになったかのか。

フーコーは、この条件の形成プロセスを辿るべく、17世紀から19世紀にかけての社会における狂気の概念と狂者の扱われ方の変遷を素描してみせた上で、このように述べる。

要するに精神が錯乱するのは、十九世紀の医者や法律家が主張したような古典的な意味で、人が人間性に異質なものとなったからではない。人間が作り上げた実存の条件において、病人が自分を人間としてみいだすことができなくなったために、精神が錯乱するのである。この新たな視点からみた精神錯乱は、もはや心理学的な逸脱ではない。これは歴史的な契機によって規定されたものなのである。精神錯乱はここにおいてしか理解できない。(p.183)

「この人は気違いだ」と言えるようになる認識は、単純なものでも、直接的なものでもない。その前にいくつかの作業が行われている必要がある。とくに価値評価と排除の線に従って、社会的な空間が分割されていることが前提となる。医者が、狂気は自然現象であると診断するとしても狂気という判断を下すことが可能なのは、ある<閾>のようなものが存在しているからである。それぞれの文化には、特有の<閾>があり、この<閾>は文化の布置とともに変化する。十九世紀の中葉以降というもの、西洋の社会における狂気の感受性の<閾>はかなり低くなった。精神分析の存在は、この<閾>の低下の原因であると同時に結果であり、この<閾>の低下を証言するものである。(p.189)

人が、社会とはこのようにあるべき、と定めたとき、ある<閾>が生み出される。その<閾>を越えてしまった者は、もはや社会における実存の条件を満たさなくなった狂者と判断され、社会的な空間から分離される。そういった歴史的な条件によって規定された特定の社会からの疎外というものが、その者を病であると認定するための条件となるのであって、だから、病の起源とは、異常なものの内にあるというわけではない、ということになる。

精神疾患の患者が証明したのは、ブルジョワ社会には病を可能にするような葛藤が存在するため、この社会は現実の人間にふさわしいものではないこと、この社会は具体的な人間とその実存の条件にとっては抽象的なものであること、この社会が人間が作り出した統一という理念と、この社会が人間に認める矛盾した地位の間で、たえず葛藤を生み出すものであることである。精神疾患の患者は、この葛藤の極である。(p.200,201)

つまり、狂者が社会から疎外され、精神疾患の患者として排除されるのは、病というものがその個人を自己から疎外してしまうからではない。じっさいはその逆で、社会的な矛盾――近代市民社会の理念においては、人間は理性的で「自由」で「平等」な存在であるべきなのに、じつは人間というのはそれらの条件をしばしば失い得る存在である――こそが狂者を社会の外部へと排除しようとし、そこではじめて病というものが発現する――精神疾患という病であると診断され、患者として扱われるようになる――というわけだ。

そういうわけで、フーコーによれば、精神疾患というものは、社会によって個人の上になされたひとつの表現である、ということになる。それはどうしたって歴史的、文化的な産物である他ないのだ。


『哲学の教科書』/中島義道

『哲学の教科書』/中島義道

「哲学には「教科書」などあるはずがないということを、これでもかこれでもかと語り続けた」一冊。中島らしく、歯に衣着せないというか、率直過ぎるくらいに率直な語り口がたのしめる。読者に哲学への目を開かせ、哲学的な問題そのものに読書を誘う教科書というものがあるとすれば、それは以下のような条件を満たしているものだろう、と中島は言う。

まず、哲学とは純粋な意味では「学問」ではないのですから、そこに執筆者の個人的な世界への実感が書き込まれていなければならない。自分の体験に沿ってごまかしなく語ることが、不可欠の要素でなければならない。客観的な哲学入門書こそ、いちばんの見当違いなのです。(p.4)

次に、世の哲学入門書は、哲学をあまりに無害なもの・品行方正なもの・立派なものとして語りすぎる。私の考えでは、哲学とはもう少し病気に近いもの、凶暴性・危険性・反社会性を濃厚に含みもつものです。人を殺してなぜ悪いか、人類が宇宙に存在することに何らの意味があるか、どんなに一生懸命生きても私は結局死んでしまう……という呟きをまっこうから受けとめるものです。(p.4)

本書は、このような条件の下、哲学史のダイジェストを提示すること(つまり、「客観的」に哲学史の体系を語ること)を回避し、哲学そのものの根源にある問題をいくつかピックアップしながら、それらについての議論のさわりを見せてくれる。取り上げられるのは、「自己の死」、「時間」、「因果律」、「私」、「他人」、「存在」、「言語行為」などといった問題で、これらがさまざまな事例を通して解説されていく。そして、哲学の最大の問題とは何よりも「死」であり、「Memento Mori」であるということ、「哲学は何の役にもたたない」こと、哲学者は「哲学病」が原因で生まれる、といったことについても、繰り返し言及される。

また、そういった哲学的問題についての概説とは別に、「哲学とは何でないか」についても一章が割かれており、俺としてははここがいちばんおもしろかった。思想、文学、芸術、人生論、宗教、科学の各分野からさまざまな引用を引きながら、「これは哲学的ではない」(あるいは、「これは哲学的である」)と断じまくっているのだ。中島がとりわけ強調しているのは、一般的に「哲学的」とおもわれていることのほとんどは、思想であったり文学であったりするものであって、哲学とは異なるものだ、という話である。

たとえば、こんなところ。

人々が科学者や芸術家や宗教家には厳密な定義を与えながら、哲学者にだけは漠然とした意味を許して、数学者やピアニストや彫刻家になるのは難しいが「哲学者にだけは簡単になれる」と思っている風潮に、あえて私は反発したいのです。
しかも、「哲学的」ということを多くの人はプラスの価値とみなしており、「あなたは哲学的でない」と言うと自分の知性を全否定されたかのように怒る人がいますので、そうではなく哲学の才能とは数学や音楽の才能と同様きわめて特殊なもの、つまり全人口の一パーセントにも充たない人に割り当てられ、それがなくても生きてゆくのに全然さしさわりのない一つの特殊才能だ、と言いたいのです。(p.48)

「深遠」だったり「難解」だったりするものを、何でもかんでも「哲学的」って呼んだりするのは粗雑過ぎるし、哲学っていうのは思想とも文学とも芸術とも別のもので、もっとニッチで特殊な分野を指すものなのだ、ということだ。

また、中島は、プルーストの「芸術家がわれわれに与える喜びは、われわれがもっている宇宙の上にもう一つの宇宙を教えてくれることにあるのではないだろうか。」という文章を引いて、こんな風に述べている。

つまり、哲学者は「われわれがもっている宇宙」の謎にひっかかっており、それが不思議で不思議で仕方のない人種ですが、芸術家は「もう一つの宇宙」に望みをたくしている分だけ、目の前の世界に対する真剣な問いかけをしません。私は、絵画にしろ彫刻にしろ文芸にしろ一般にグロテスクな世界をめざすような作風の芸術家を好みませんが、それはわざわざ奇妙な世界を構築しなくとも、身のまわりの世界がすでに充分グロテスクであるのになあ、と思うからです。(p.91)

哲学と芸術とでは、「ひっかかって」いる問題や、思考の前提としている世界のレイヤー自体が異なっている、というわけだ。だから、優れた芸術家が必ずしも「哲学的」であるわけではないし、別にそうである必要もない。「哲学的」でないことは、とくにその芸術としての価値を貶めるようなものではない、ということになるだろう。


『孤独な散歩者の夢想』/ジャン=ジャック・ルソー

『孤独な散歩者の夢想』/ジャン=ジャック・ルソー

あなたがいまひどく落ち込んだ気分、みじめでひとりぼっちな気分、もうどうにでもなれ、ってやぶれかぶれな気分になっているのならば、『孤独な散歩者の夢想』を手にとってみるといいかもしれない。この本を書いたルソーというじいさん(64~66歳)は、きっといまのあなたよりももっと孤独で、誰からも愛されず、誰からも必要とされていないと感じていて、強烈な自己憐憫に浸っている男だから。

まず、冒頭からしてこうなのだ。

この世にたったひとり。もう兄弟も、隣人も、友人も世間との付き合いもなく、天涯孤独の身。私ほど人付き合いが好きで、人間を愛するものはいないというのに、そんな私が、満場一致で皆から追放されたのだ。繊細な私の心を最もひどく痛めつけるにはどんな仕打ちがいちばんいいのか、奴らは私への憎悪を極限まで募らせながらさんざん考えたのだろう。(p.9)

すごい言い分である。どんなに心のなかでおもったとしても人に言ってはだめなこと、というのがあるけれど、これはまさにそれだ。いくら本当のことであったとしても、こんな言い方で、いったい誰が同情してくれるだろう、って話である。

自分の外にあるものは、もはや私に何の関係もない。この世には隣人も仲間も兄弟もいない。まるでどこかよその惑星から落ちてきた異星人のような気分だ。まわりにあるもの何を見ても、つらく悲しくなってしまう。私に触れるもの、私を取り囲むもの、どれに目をやろうとも、私はそこに人々の侮蔑を感じて憤り、痛みを感じて苦しくなる。だから、これまで私が無益と知りつつ、苦しみながら執着してきたものたちを、もう心から一掃してしまおう。ひとりで過ごす残りの人生、もう慰めも希望も平穏も自分のうちにしか求めようがないのだから、自分のことだけ考えて生きるしかない。いや、そうしたいと思っている。(p.18,19)

ため息まじりに思う。私はこの世で何をしただろう。生きるために生まれたのに、生きた証も残さずに死ぬ。少なくとも、私に咎があったわけではない。私をおつくりになった神様のもとに帰るとき、私は善行の貢物をもっていくことはできない。奴らのせいで善行をなしとげる機会を失ってしまったからだ。(p.28,29)

私のような目にあえば、誰しも性格が変わって当然ではないだろうか。ここ二十年の経験から分かったことだが、生まれながらにもっていた私の心の良い部分は過酷な運命、そして私の運命を支配する人々のせいで、自分を傷つけるもの、他人にとって有害なものへとゆがめられてしまった。善行を誘うような状況が示されても、私の目にはそれが罠にしか見えない。裏に何か悪意があるようにしか見えないのである。(p.134)

…どうだろう、ちょっとイラっときただろうか?それとも、あーなんかわかるかも、こういう気分になることってあるよね、とおもっただろうか?まあ、少なくとも、これほどまでに自分の気持ちに正直な文章って、なかなか書けるものではないだろう。こじらせ具合で言えば、ドストエフスキー『白痴』のイッポリート君や、太宰治『人間失格』の葉蔵なんかといい勝負という感じだが、ただ、これはもう晩年を迎えたじいさんが書いた文章だ、ってところに妙な迫力があるような気もする。

さて、こんな懐疑、極端な被害妄想からスタートする本書の「夢想」だけれど、章が進んでいくにつれ、ルソーの心境は徐々にある種の悟りの境地、自己充足可能な諦念の境地へと向かっていくようになる。植物採集と過去の甘美な記憶の回想のなかに安らぎを見出し、私が生きていくにはこれだけがあれば十分だ、他のものはもう知らん、とかんがえるようになっていくのだ。それは世捨て人としての満足、完全な傍観者としての満足ではあるが、しかし、「孤独な散歩者」としてしか辿り着くことのできない美の境地であるように見えないこともない。

とはいえ、やはりルソーも人の子、社会からの評価、知り合いのあいだでの評判をまったく気にしないで居続けることなどできはしない。そのため、本書の文章は、内省と諦念の表現のなかに、自己弁護・自己正当化の含みを持ったものとなっている。それはひとことで言ってしまえば、「私の道徳律が正しい。社会や世間のそれは欺瞞である」という内容だ。恐るべき迫害者たちに取り囲まれたこの私が心の平穏を保っていられるのは、私が正しい道徳律の持ち主であり、それに従って生活しているからである、どうだねわかったかね、なんて、あれやこれやと手を変えながら主張しているわけだ。こういう辺りは、読んでいてちょっといらいらさせられてしまう。あーもうわかったわかった、あんたは間違ってないよ、大丈夫だよ、って言ってしまいたくなる。

まあそういうわけで、全体的にネガティブで言い訳がましく、しかしそれでいてなかなかに戦略的で均整のとれた哲学エッセイ、それが本作だと言えるだろう。ルソーらしい美文もあるので、彼の気分にある程度共鳴できる精神状態のときならば、それなりに興味深く読めるはずだ。

(もちろん、こういう作品を読んだからといって、読者の孤独な状態が回復したり、孤独な気分が満たされたりするわけではない。せいぜい、ああ、ルソーみたいに歴史に名を刻んだ大人物でも、気が滅入っているとこんなしょうもないことを延々と書いちゃったりするんだな…なんて緩く共感できる程度だろう。だが、ひたすらネガティブアイロニックな気分になっているときには、その程度の微かな共感というのもそれなりに貴重なものなのだ、くらいのことは言ってみてもいいのではないかとおもう。)


『方法序説』/ルネ・デカルト(その5)

形而上の問題(コギトと神の存在証明)について語ったあと、デカルトは自然界の諸問題へも手を伸ばしている。第一原理はもうばっちり確立できたのだから、そこから演繹的にさまざまな真理を導いていっちゃうよ俺、というわけだ。本書の後半では、当時、彼が公表できずにいたという『世界論』なる壮大な論文の概要と、心臓の運動、人間/動物の違い、なんかについて簡単に触れていてるのだけれど、このあたりは、正直言って読んでいてあまり盛り上がらない。へえーなるほどね、って得心できる論理的な道筋があまり多くないからだ。ただ、デカルトの提唱する自然学は、当時のスコラ学者たちが信奉していたアリストテレス自然学と底触してしまう部分が多かったらしく、1933年――本書が出版される4年前――にガリレイが断罪されたことなんかも相まって、ここではずいぶんとオブラートに包んだ書き方がなされている。そういう意味でちょっとおもしろいところは、いくつかある。

たとえば、こんなところ。

わたしの判断をいっそう自由に言え、しかもその際、学者のあいだで受け入れられている見解に賛成したり反対したりしないですむよう、わたしはこの現世界はそっくり学者たちの論議にゆだねてしまい、ただ次のような新しい世界で起こるはずのことだけを語ろうと決心した。仮に神が今、想像空間のどこかに新しい世界を構成するのに十分な物質を創造したとし、その物質のさまざまな部分をさまざまに無秩序に揺り動かして、詩人が想像しうるほどの混沌たるカオスをつくりだしたとする。その後はただ、通常の協力だけを自然に与え、神自身が定めた法則に従って自然が動くにまかせた場合の、この新しい世界である。(p.59)

次にわたしは、自然の諸法則が何かを示した。そして、神の無限の完全性という原理のみに論拠を置き、少しでも疑いをはさむ余地のある法則はすべてこれを証明しようと努め、それらの法則は、神が多数の世界を創造したとしても、それが守られないような世界は一つとしてありえないような法則であることを示そうと努めた。(p.60)

しかしわたしは、これらすべてのことから、われわれの住むこの世界が、わたしの提示したような具合に創造されたと推論するつもりはなかった。というのも、神が最初からこの世界をそれがあるべき姿にしたというほうが、はるかに真実らしいからだ。けれども、神がいまこの世界を維持している働きは、神が世界を創造したときの働きとまったく同じだということは確実であり、それは神学者のあいだでも共通に受け入れられている意見である。(P.62)

うーん、なかなかにややこしい。こことは別の、仮定の世界のことをデカルトは語っているのだけれど、その世界における自然の諸法則とは、”いま存在しているこの世界の創造を説明するための仮説”として用いたとしてもじゅうぶんに機能し得るもの、だと言うのだ。

もちろん、この世界は神が創ったものであり、デカルトとしてもその点についてはじゅうぶん同意しているのだけれど、彼の提唱する宇宙生成論には、よくよくかんがえてみれば聖書の記述と相容れないような部分がいくつも含まれている。これでは発表するのに都合がよろしくないよね、ってことで、「これは現実の世界のことではありませんよ…」というエクスキューズを入れた上で、この論についていはあくまでもひとつの仮説、ひとつの寓話として記載するに留めることにした、ということらしい。このあたり、事情はわかるけれど、方法的懐疑や第一原理の証明について語っていたときのデカルトと比べてしまうと、なんとも切れ味がなくて、まどろっこしいなーという感じがしてしまう。

方法序説 (岩波文庫)


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