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『生きがいについて』/神谷美恵子

『生きがいについて』/神谷美恵子

「生きがい」とは何なのか、それは人の生にとってどのような意味を持っているものなのか、どのように人は「生きがい」を得るに至るのか、などといったことについて扱われた一冊。もちろんこれは「生きがい」を手に入れるためのハウツー本ではないわけで、それらの明確な答えがここに記されているわけではない。ただ、神谷はさまざまな文献や自身の体験(ハンセン病患者との交流)を例として挙げながら、「生きがい」を失った人の話を、そしてその暗闇から抜け出し「生きがい」を得るに至った人の話を書き連ねていく。だから本書には「生きがい」の喪失と獲得に関するさまざまなバリエーションがあり、それらに向き合ってきた多くの人々の軌跡がある。読者は、それらを自身の問題と相対するためのヒントとして役立てることができるかもしれない。

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若い頃、「生きがい」について悩む人は多いかもしれないけれど、大人になっていくにつれ、その悩みは避けられていくようになるのがふつうだろう、と神谷は言う。一応まともな職業につき、家族を養うことができれば、あるいは、平和な家庭を築き、そこで健康に暮らせれば、それでまあOK、自分の生活は生きるに値するものである、と、ひとまずは自分の存在意義のようなものを感じていられる、というわけだ。

とはいえ、長い一生の間、「生きがい」についてまったくかんがえないで――あるいは、上記のようなある種の社会的役割だけを自分の「生きがい」だと感じ続けて――いられる人はほとんどいないだろう。社会的に重要な役割を果たすことができた壮年期を過ぎ、老年期に至ったときに、それまでの「生きがい」を失ってしまい、価値体系の転換を迫られる人、というのも多くいるはずだし、難病や愛する人の死、夢が断たれたり罪を犯したりすることで「生きがい」を喪失してしまうということもあり得る。そういった際に発せられることになるのは以下のような問いであるだろう、と神谷は言う。

一 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
二 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
三 以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
四 一般に人生というものは生きるに値するものであるか。(p.33,34)

人間というのはみな、自分の生に意味やら価値やらといったものを感じたい欲求を持っているものだ。おそらくそれは、あらゆる生体験のなかにすでに意味や価値の判断というものが未分化な状態で含まれているから、すなわち、人間の知覚には必ず解釈が伴っているからだろう。そういうわけであるから、上のような問いに対し、私たちはそれぞれが採用している価値体系に基づいて、個人個人で答えを出していかなくてはならない。

ここで肯定的な答えが簡単に出せる人は、「生きがい」を感じやすく、生きていくことが楽な人物だということになるだろう。そして、劣等感を抱きやすかったり、他者からの肯定を簡単に受け入れられなかったり、自分で自分の生の意味を認めることができないでいる人は、「生きがい」を見出すべく、問いの答えを探求し続けなければならないということになる。

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さて、そういった「生きがい感」をもっとも強く感じられる人種というのは、「自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひと――いいかえれば使命感に生きるひと」だろう、と神谷は言う。目標や使命といったものに向かって自分の生を生かしていく、というそのことによって、生存が充実しているという感覚、自分の生が世界に何かしらの影響を与えているという反響の感覚――それは、社会的所属や承認などの欲求を満たすようなものであるだろう――を得られる、ということだ。だから、神谷によれば、「生きがい感」の希求というのは、未来性の欲求、現在よりも明るくてよい未来を目指し続けたいという欲求である、ということになる。

「生きがい」を喪失した状態には、不安や苦しみ、悲しみといったものが伴う。それらは直接的には、生理的なものであったり、社会的状況によって引き起こされたものであったりするかもしれないけれど、その内奥のところにはいわゆる「実存的不安」、「世界的不安」といったものがあるはずだ、と神谷は主張する。普段の生活のなかでは覆い隠され、直視しないでいられている、生存そのものに属する本質的な不安というものが、生きがい喪失状態において露見する、ということだ。こういった不安や、この不安から生じる、世界に対する否定的な態度、価値の喪失の感情、苦悩などといったものを、他者が慰めや同情や説教などといったものによって恣意的に操作することは不可能である。人間は、自分ただひとりでこの不安と相対し、自分なりの意味づけを行うことで、その態度を決定づけていかなければならないのだ。

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とはいえ、何しろ「生きがい」を失ってしまっているわけだから、その状態を受け入れ、自らの価値体系を変革する、などということがそう簡単にできるわけがない。それができていれば、「生きがい」を失ってなんかいないはず、という話だ。そのような、心の世界が壊れてしまった人、深刻な不安や苦悩や悲しみから抜け出すことができず、社会的な価値基準が受け入れられなくなっている人、自暴自棄になっている人にとってまず大切なのは、「短絡反応」を抑えることだろう、と神谷は書いている。「自分なんかもうだめだ」と己を見限ってしまうこと、「この状態がよくなるはずがない」と時間に対して見切りをつけてしまうこと。苦しみによって生じさせられるそういった短絡的な反応を抑えることからはじまって、徐々に時間をかけて受容へと進んでいくしかない、というわけだ。

そうして不安や悲しみ、苦しみを受け入れた上で、さらに実存的な空虚から抜け出していくためには、新しい「生きがい」が必要となってくるだろう。でなければ、その人は虚無とあきらめのなかで劣等感に苛まれ、人生からあぶれたままの状態になってしまう。

生きがいをうしなったひとに対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、だれにせよ、天来の使者のようなものである。君は決して無用者ではないのだ。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなければできないことがあるのだ。ほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。――もしこういうよびかけがなんらかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐ響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声をうけとめるであろう。「自分にもまだ生きている意味があったのだ!責任と使命があったのだ!」という自覚は彼を精神的な死から生へとよみがえらせるであろう。それはまさに、地獄におちた罪人にむかって投げかけられた蜘蛛の糸にひとしい。(p.176)

こういった新しい生存目標の発見は、何かのきっかけで急激に行われることもあれば、長く苦しい模索帰還を経てようやく得られる場合もあるだろう。そこはまあ、人それぞれだと言う他ない。どのような場合であれ、その新しい目標が、その人の内部にある、何か「本質的なものの線に沿ったもの」であれば、その人は「意味への意志」の欲求不満を解消し、生気を取り戻し、心底から生きることの喜びに満たされることであろう、と神谷は述べている。

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そういうわけで、「生きがい感」を得るための方法というのは人それぞれであるし、その得やすさというのも人によってばらばら、そして、その「生きがい感」をどのくらい強く感じ、信じることができるかということも、もちろん人によってまったく異なっている、ということになる。当然のことだ。だが、「生きがい」は誰しもにとって必要不可欠なものであるし、私たちは誰もがそれを感じる権利と能力とを持っている。それもまた、確かなことだろう。

本書の最後で、神谷は、「生きがい」を感じにくい人や、「あの人にはいったいどのような生きがいがあるのだろう?」などとかんがえてしまう人に対し、人間の存在意義というものを、こんな風にかんがえてみるのはどうだろう?と、ヒントを提示してくれている。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。(p.268)

大きな眼から見れば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるにちがいない。少なくとも、そうでなければ、私たち自身の存在意義もだれが自信をもって断言できるであろうか。現在げんきで精神の世界に生きていると自負するひとも、もとをただせばやはり「単なる生命の一単位」にすぎなかったのであり、生命に育まれ、支えられて来たからこそ精神的な存在でもありえたのである。また現在もなお、生命の支えなくしては、一瞬たりとも精神的存在でありえないはずである。そのことは生きがい喪失の深淵にさまよったことのあるひとならば、身にしみて知っているはずだ――。(p.268,269)

利用価値や有用性といったものに依拠することのない「生きがい」や「存在意義」といったもの、それを誰もが互いに認め、確認し合うことができれば、この世界も多少は生きやすくなるのだろう。けれど、それは何と難しいことだろうか。


『共産党宣言』/カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス

『共産党宣言』/カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス

1848年に公刊された、「共産主義者同盟」の綱領を示した文書。近代ブルジョア社会の構造と発展についての理論的な説明と、プロレタリア革命の必然性、また、当時の各国におけるプロレタリア一般に対し、共産主義者はどのように働きかけていくべきか、といった内容が記されている。

エンゲルスは、本書に収められた「一八八三年ドイツ語版への序言」で、『共産党宣言』のベースとなるかんがえ方について、簡潔にまとめてくれている。

『宣言』をつらぬいている根本思想は次のことである。おのおのの歴史的時期の経済的生産およびそれから必然的に生れる社会的組織は、その時期の政治的ならびに知的歴史にとって基礎をなす。したがって(太古の土地共有が解消して以来)全歴史は階級闘争の歴史、すなわち、社会的発展のさまざまの段階における搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級のあいだの闘争の歴史であった。しかしいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級(プロレタリア階級)が、かれらを搾取し圧迫する階級(ブルジョア階級)から自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した。(p.10)

そんな「全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放」するための共産主義革命だけれど、本書では、その道筋がいったいどのようなものであるかが素描されている。以下、簡単に流れを追ってみようとおもう。

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  1. まず第一に、プロレタリアを階級として形成、発展させ、それによってブルジョア階級の支配を強力的に転覆、政治権力を獲得する。
  2. (プロレタリア階級は、資本の拡大に伴って発展していく。資本の求める労働の量が増加し、プロレタリア内部での競争が激化していくにつれ、プロレタリアは全体としてその能力を発達させ、団結のための力を増していくことになるからだ。そういう意味で、プロレタリアというのは、ブルジョアにとって必要不可欠でありながらも、その社会構造を内部から切り崩していく危険を秘めた存在でもある、ということになる。)

    大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足もとから、かれらに生産させ、また生産物を取得させていた土台そのものが取り去られる。かれらは何よりも、かれら自身の墓掘人を生産する。かれらの没落とプロレタリア階級の勝利は、ともに不可避である。(p.60,61)

  3. そして、その上で「ブルジョア的私的財産」を廃止し、その生産用具をプロレタリアのもとに移行することで、「伝統的所有諸関係とのもっとも根本的な決裂」を実現する。
  4. (ここで言う「ブルジョア的私有財産」というのは、階級対立に基づいた、つまり搾取に基づいた財産のことであり、また、プロレタリアによる賃金労働というのは、「資本という財産を作り出」し、「あたらしい賃金労働を生産してそれをふたたび搾取するという条件がなくては、みずからふえることのない財産」である、とマルクス/エンゲルスは述べている。「解放」のためには、そういった財産、資本というものが持つ社会的な意味合いから階級的な性質を剥ぎ取ってしまう必要がある、ということだ。
    だからこれは、プロレタリアはブルジョアから利潤を奪い返し、豊かな生活を送ろう、というような話ではない。そうではなくて、財産、富を得るという発想そのものを廃棄してしまおう、ということなのだ。)

    共産主義はだれからも、社会的生産物を取得する権力を奪わない。ただ、この取得によって他人の労働を自分に隷属させる権力を奪うだけである。(p.67)

  5. このようにして現実化した共産主義社会においては、階級間の差異とそれによる対立、すなわち社会の一部分による他の部分の搾取というものがなくなり、他の階級を抑圧するための政治権力というものがなくなっていくことになる。
    (政治権力がなくなっていくということは、いまあるような形の「国家」というものが解体され、存在しなくなっていく、ということでもある。)

共産主義者に対して、祖国を、国民性を廃棄しようとする、という非難が加えられている。
労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪うことはできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。(p.71,72)

…まあ、おおよそこのような感じだろうか。他に重要な点としては、共産主義は単なるおもいつきのユートピアではなく、ブルジョア社会に内在する問題を解決してくことで導かれる必然的な到達点である、ということ、そして、その際には、政治的運動と経済的運動とが統一的になされる必要がある、ということなどを挙げることもできるだろう。

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まあやっぱり、革命に向けての文書というわけで、全体的に筆致が熱くて扇動的ではあるのだけれど、それ以上に、何とも射程の長い、スケールの大きな話をしている、という感じがぐっときた。何しろ、全世界的な階級闘争の歴史、富・経済的価値への欲求と搾取の歴史を塗り替えてやろうぜ、って話なのだ。単純に、読みものとしておもしろい一冊だった。

共産主義者は、自分の見解や意図を秘密にすることを軽べつする。共産主義者は、これまでいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。

万国のプロレタリア団結せよ!(p.97,98)


『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸(その3)

『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸

第3部 いかに「西洋」をつくったか

第3部で扱われるのは、キリスト教が、いわゆる「西洋」の社会にどのような形で浸透し、影響を与えてきたか、そしてどのような世界を作り上げていったか、ということだ。

ここでとくにおもしろいのは、第1部でも少し触れられていた、世俗的な文化や社会構造のなかにキリスト教的なるものが入り込んできている(というか、まさにその下地となっている)その様態についての話だ。たとえば、科学革命の時期は宗教改革の時期とだいたい重なっており、また、その科学革命の担い手の多くは熱心なプロテスタントであったわけだけれど、こういった自然科学の発展というのは、「人間の理性に対する信頼」と「世界を神が想像したと固く信じた」ことに基づくものだという。神と個人とのあいだには聖書があるだけ、というプロテスタントの教義(カトリックのように、教会に強大な権威が与えられていない)こそが、こうした発展を支えたのだろう――「神を絶対化すれば、物質世界を前にしたとき、理性をそなえた自分を絶対化できる」――と橋爪は述べている。

世界は神がつくったのだけれども、そのあとは、ただのモノです。ただのモノである世界の中心で、人間が理性をもっている。この認識から自然科学が始まる。こんな認識が成立するのは、めったにないことなんです。だから、キリスト教徒、それも特に敬虔なキリスト教徒が、優秀な自然科学者になる。優秀な仏教徒や、優秀な儒教の官僚などは、自然科学者になりませんね、自然に興味を持ったとしても。(p.312,313)

他にも、ヴェーバーの『プロ倫』に記されているように、プロテスタントの生活態度が意図せざる形で資本主義の発展の呼び水になっていたという話だとか、マルクス主義は無神論だと主張しているけれど、その世界観はまさにキリスト教的終末観を下敷きにしたものであるだとか、カントは厳格なプロテスタントだったけれど、その認識論や道徳論は神の存在を完全にカッコに入れた状態で形作られたものであるということだとか、さまざまな例を挙げながら、キリスト教的な発想、キリスト教をベースにした思考というものが、どのような形で「西洋」の社会の土台の部分、しかも世俗的な部分に浸透しているか、ということが語られていく。

まさに、キリスト教から脱したように見える部分で、実は、最も強い影響が現れているという逆説です。
ふつう世俗化というと、宗教の影響を脱することを言うわけです。しかし、キリスト教は、世俗化において一番影響を発揮するという構造になっている。(p.326)

グローバリゼーションの進行のなかでは、いままで以上に、こうしたキリスト教文明と他文明との交流/衝突の機会というのは増えていくだろう、その際には、キリスト教文明の基盤となっている思考様式について知っておく必要があるよね、というのが橋爪/大澤の主張というわけだ。


『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸(その2)

『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸

第2部 イエス・キリストとは何か

第2部で取り上げられるのは、イエス・キリストにまつわるさまざまな疑問だ。イエス・キリストとはいったい何か?どのようにかんがえられ、どのように扱われてきたのか?預言者ではない、とされているが、じゃあいったい何者なのか?人間なのか神なのか?…といった素朴な疑問が扱われる。

  • なぜ、福音書は複数あるのか?
  • 福音書とは、「イエス・キリストについて証言する書物」であって、預言書――預言者の預言を記録した書物。『イザヤ書』などがこれにあたる――とは異なるものである。新約聖書の中心となる部分、すなわちキリスト教の教理となる部分については、パウロの書簡によってカバーされており、福音書はイエスについての目撃体験や伝聞のまとめという役割を果たしている。複数の福音書を比べてみたとき、証言者によって内容に微妙に差異があったりもするが、イエス・キリストが伝道して、十字架上で死に、復活したという一連のできごと自体が真理である、ということを大前提としているというところでは変わりがないとも言える。

  • イエス・キリストとは何なのか?
  • イエスは預言者ではない。「あるとき、神の言葉が聞こえてきた」タイプではなく、はじめから、神の計画によって生み出された特別な存在である。その役目は、人々に神の言葉をじかに伝えること。預言者は、「聞いたこと」を述べるが、イエスはそうではなく、自分の頭にあることを自然に話している。だから、たとえそのふるまいが預言者的であったとしても、預言者とは異なる、神の子である、というわけだ。

    イエスはイエスで独立した存在であるけれど、しかし、その意志は神の意志とまったく100%合致している。イエス・キリストは「完全な人間であって、しかも、完全な神の子である」。橋爪はこんな風に説明している。

    こうなるには、深い必然があったと思う。
    まず、神の子でなければ福音にならないわけだから、神の子でないといけない。でもイエスは、人間に生まれなければならなかった。バーチャルな存在では人を救う力がないんです。実際に人間として処罰され、殺害されないと。
    その両方を信じたので、イエス・キリストは、イロジカルな存在になった。神の子で、人間でもある存在が、神の主導でこの世に現れた。そう考えると、どうしても、そういうイロジカルな存在が出来上がるんです。こういう理由で、キリスト教の教理は、落ち着くところに落ち着いたと思います。(p.209)

    イエスは、神の子であり、神の子である自覚を持ちながらも、十字架上ではまさに人間としての苦しみを受けた、ということだ。

  • なんで神は全員を救わないのか?その基準もはっきりと示さないのか?
  • そういうことを求めると、一神教にならなくなってしまう。あくまでも、救うのは神、救われるのが人間、という図式が一神教の大前提である。つまり、人間が自分の努力によって救われたりすることはない。人間の行為を「業」というが、救いというのは、業の問題ではなく、神の「恩恵」の問題である。神の恩恵に対して人間には発言権がない。神が誰を救うかということが、人間にいちいち説明されることはない。

    聖書には、カインとアベル、放浪息子、マリアとマルタの話など、人間にとっては不公正としか感じられないような神の裁きというものがあるが、それは端的に、「人間には神に愛される人とそうでない人がいる。それは受け入れなければいけない。」ということを示しているのである。橋爪はこう述べる。

    健康の人と病気の人とか、天才とそうじゃない人とか、人間はみんな違いがあるでしょ。このすべての違いを、神は、つくって、許可しているわけだから。そうすると、恵まれている人間とそうでない人間がいることになって、それは一神教では、神に愛されている人と愛されていない人というふうにしか解釈できないんです。
    そして、人間は必ず、自分より愛されている人を誰か発見するし、自分より愛されていない人を誰か発見する。これをいちいち、嫉妬の感情とか、神に対する怒りとして表明していたら、一神教は成立しないんですよ。ですから、そのことは絶対に禁じ手にするというふうになっていて、それを最初に示しているのがカインとアベルですね。その前はアダムとイブしかいなくて、男女なのでそういう違いは目立たないが、カインとアベルは男のきょうだい同士ですから。(p.229)

  • 愛と律法の関係
  • イエスは、それまでの律法を廃止して、愛に置き換えた。愛こそが律法の成就である、ということになっている。旧約から新約への移行において、律法のゲームから愛のゲームへの転換が起こっている。その愛が「隣人愛」。

    隣人愛のいちばん大事な点は「裁くな」ということ。人が人を裁くな(裁くのは神だけ)。律法は人が人を裁くのに使われていた。なので、なくしましょう、というのがイエスの主張である。


『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸(その1)

『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸

非常にわかりやすくまとめられた一冊。大澤が「誰もがいちどは抱くような素朴な疑問」を発し、橋爪が「学問的に正当な立場から回答する」、という対談の形式をとっており、この役割分担がわかりやすさの秘訣だろう。往々にして、もっとも重要な問いというのはもっとも素朴な問いでもあるわけだけれど、そういったシンプルかつ重要な問題が数多く取り上げられているところがいい。

本書は3部構成になっている。第1部で扱われているテーマは、ユダヤ教/キリスト教の一神教としての特性について。第2部は、イエス・キリストという人物の特殊性について。第3部は、キリスト教が西洋文化に与え続けている影響について。各部のおもしろかった箇所について、かんたんにノートを取っておこうとおもう。

 *

第1部 一神教を理解する――起源としてのユダヤ教

  • 神は完全なのに、なぜ世界は不完全なのか?
  • ユダヤ・キリスト教における神(God)というのは、どこまでも絶対的、超越的な存在である。だから、われわれには、神の意図や意志を完全に知ることはできない。…となると、ではなぜ、そういった絶対/全能であるはずの神が創造したこの世界は、これほどまでに不完全なのか?なぜこの世界のなかには悪があるのか?なぜ我々はこれほどまでに間違いを犯すのか?といった疑問が湧いてくるだろう。こういった疑問は、信仰にどのように影響するのだろうか??このような大澤の疑問に対し、橋爪は以下のように回答する。

    試練とは、現在を、将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きるということなんです。信仰は、そういう態度を意味する。
    信仰は、不合理なことを、あくまで合理的に、つまりGodとの関係によって、解釈していくという決意です。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事もいろいろ起こるけれども、それを合理的に解釈していくと決意する。こういうものなんですね。いわゆる「ご利益」では全然ない。(p.79)

    まさにそういった疑問を神へと語りかけ、コミュニケーションを取ろうとすることこそが、「祈り」であり、なぜ、なぜ?とかんがえ、神と対話していこうと試みることこそが、信仰というものの本質である、ということだ。『ヨブ記』に描かれているように、なぜ?と神に問いたくなるような出来事が我々に振りかかるのは、神が与えたもうた試練である。神とのコミュニケーションは端的に不可能ではあるけれど、しかしその不可能性をそのまま受け入れること、神の「わからなさ」についてかんがえ、それをなんとか人間の側で合理的に解釈していこうとすること、それこそがすなわち信仰である、というわけだ。

  • 合理主義はユダヤ・キリスト教的な世界観から発展した
  • 西洋の科学はユダヤ・キリスト教的な世界観から出発し、それを基盤として発展していったものだ。だから、科学の進歩によって自然が解明され、聖書に書いてある内容と異なる結論が出てきたりしても、その場合、多くの人々は「科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える」ことにした。地動説や進化論やビッグバンといったものは、そういった形でキリスト教文明の一部に組み込まれていったわけだ。

    そういうわけで、西洋文明の思考の奥底の部分には、神の計画を探求するために生み出されたユダヤ・キリスト教の合理主義というものが根を張っている。ユダヤ・キリスト教的な世界観のなかからこそ合理主義が発展していったわけで、だから、いわゆる「科学的」な世界観はユダヤ・キリスト教的な世界観を単純に否定したわけではなく、その世界観をより徹底し、止揚していったのだと理解する必要がある、と橋爪は述べている。

    現代を考えるうえで重要なのは、このような態度のレベルでの信仰だと思うのです。もうキリスト教なんて形骸化しているとか、もう信じている人はごく一部にすぎないとか、そういうふうに思う人もいるかもしれません。しかし、意識以前の態度の部分では、圧倒的に宗教的に規定されているということがあるのです。そうするともともとのユダヤ教、キリスト教、あるいはその他の宗教的伝統がどういう態度をつくったかということを知っておかないと、世俗化された現代社会に関してさえも、いろんな社会現象や文化について全然理解できないことになるんですね。(p.127)

    こういった、ユダヤ・キリスト教の宗教的伝統によって作り出された態度が科学的思考に対して顕著に影響を示している例も、いくつか挙げられている。たとえば、マルクス主義の物神崇拝批判は、「一神教における偶像崇拝批判と同様の論理構造を持ったもの」である。あるいは、ドーキンスは自らを無神論者だと主張しているけれど、「創造説を何としても批判しなくてはならないというあの強烈な使命感、そして創造説か進化論かということに関連した、一貫性への非常な愛着」というのは、まさに宗教的な合理性追求の欲求の表出であると言える…など。


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