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『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』/平田オリザ

『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』/平田オリザ

劇作家の平田オリザによるコミュニケーション論。タイトルの通り、他人同士というのは本質的に「わかりあえない」ものだけれど、しかしそれでも共通点を探り、相手のコンテキストを推し量り、時間をかけて対話を行ない、意見を擦り合わせて合意を形成していくこと、そういったコミュニケーションを取っていくことこそが肝要だよね、といった内容が扱われている一冊だ。本文の多くは雑誌連載をまとめたものらしく、体系立ってこそいないけれど、劇作家/教育者としての実践に裏づけられているのであろう言葉は常にシンプルかつ明快で、興味深く読めた。

ありとあらゆる文脈において「コミュニケーション能力」なるものの重要性が声高に叫ばれるようになって久しいけれど、その内実は、ダブルバインド(二重拘束)の状態になっているのではないか、と平田は言う。

現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。(p.16)

「異文化理解能力」とは、おおよそ以下のようなイメージだろう。
異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。(p.16)

しかし、実は、日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気がつかないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。あるいはそのまったく別の能力は、採用にあたってというよりも、その後の社員教育、もしくは現場での職務の中で、無意識に若者たちに要求されてくる。
日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を見出さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。
いま就職活動をしている学生たちは、あきらかに、このような矛盾した二つの能力を同時に要求されている。しかも、何より始末に悪いのは、これを要求している側が、その矛盾に気がついていない点だ。ダブルバインドの典型例である。パワハラの典型例とさえ言える。(p.17)

こういったダブルバインドが発生してしまっている原因は、明治以降、泥縄式に準備された国語教育が、その理想としては「異文化理解」を重視する欧米型のコミュニケーション(ex.「みんな違って、みんないい」)を掲げていたものの、その実、和を尊び、空気を読み合う従来の日本型のコミュニケーション能力(ex.「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」)を求めないではいられなかった…ということにあるだろう、と平田は述べている。この矛盾こそが、「コミュニケーション能力」を偏重するようになった日本社会全体の内向きなムード、生きづらさの形成に一役買っている、というわけだ。これはなかなか納得感のある意見である。まあ、こういったダブルバインドを「文脈ごとに適切に処理すること」こそが社会で(大人に)求められていることだ、と言うことはできるかもしれないけれども。

また、平田はいわゆる世間で言うところの「コミュニケーション能力」の大半は、スキルやマナー、慣れの問題だと言う。つまり、算数が苦手な子や体育が苦手な子がいるのと同じように、コミュニケーションが苦手な子が一定数いるのはごくあたりまえのことであるし、コミュニケーション「苦手であること」はその人の人格や資質に帰せられるような問題ではなく、教育によって解決すべき課題である、というわけだ。

コミュニケーション教育は、ペラペラと口のうまい子どもを作る教育ではない。口べたな子でも、現代社会で生きていくための最低限の能力を身につけさせるための教育だ。
口べたな子どもが、人格に問題があるわけでもない。だから、そういう子どもは、あと少しだけ、はっきりとものが言えるようにしてあげればいい。
コミュニケーション教育に、過剰な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ。(p.31,32)

私たちは、西洋料理を食べるためにナイフとフォークの使い方を学ぶ。しかし、ナイフとフォークがうまく使えるようになったところで人格が高まるわけではない。人格の高潔な人間が、必ずナイフとフォークがうまく使えるわけでもない。マナーと人格は関係ない。丁寧とか、人に気を使えるとか、多少の相関性はあるだろうが、現実世界では、とても性格は悪いけれどナイフとフォークの使い方だけはうまい奴などざらにいるし、またその逆もあるだろう。
繰り返し言う。コミュニケーション教育は、人格教育ではない。(p.149,150)

そのような意味で、現在必要とされている「コミュニケーション能力」というのは、「心からわかりあうこと」「お互いのことを完全に理解し合うこと」のための能力ではない、というのが平田の主張だということになる。以前の日本では、お互いに察し合い、空気を読み合い、忖度し合い、ひとつの価値観のもとに阿吽の呼吸で一致団結する、そういったハイコンテクストなコミュニケーションがあるいは必然であったのかもしれない。だが、少なくとも、現在われわれに要求されているところの「コミュニケーション能力」というのは、そういったものではない。ものの考え方も価値観もばらばらの人間同士が、ばらばらなままで共に生きていくためのコミュニケーション、それこそがいま必要とされているものではないか、というわけだ。平田はこれを、「協調性から社交性へ」と呼び、社会において最低限必要とされる「社交性」や「他者に対して言葉で説明する能力」、「対話的な精神(自分とは異なる価値観を持った人と議論を重ねることで、自分の意見が変わっていくことを潔しとするような態度)」を身につけるための教育が必要だろう、と説いている。


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