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『ルート350』/古川日出男

ルート350 (講談社文庫)

本がそれなりに好きな人なら誰しも、おいおいここに書いてあるのってまさに自分のことじゃん!とか、自分のなかにあるもやもやした気持ちのことをなんてうまく言葉にしてるんだろうこの文章は!なんて感じたことがあるんじゃないだろうかとおもう。そんな感覚を得ることは本を読むことのヨロコビのなかの大事なひとつで、だからそんなヨロコビをたくさん与えてくれる本は自分にとって大切なものになってくるし、そんな本を何冊も書いている作家は好きな作家だということになる。

『ルート350』という短篇集の作者、古川日出男は俺にとってとくにそういう作家ではないのだけど、この文章には、いやまったくその通りだよ、って同意せざるを得なかった。読んでいて、なんだか妙に激しくうなずきたくなるというか、もうこればっかりはうなずかざるを得ないというか、そんな気分にさせられてしまったのだった。

実験は失敗したのだ。

他人の二人は家族にはなれなかった。むろん、その経緯において、僕にも弱みはある。いっぱいある。すでにお見通しだろうが、僕は偏狭だ。僕はその場での説明が苦手だ。ためこんで、あとで反芻する。僕はだから、たとえばその場では相手の間違いを訂正しない。結局、あとで指摘することになる。あるいは、指摘しないで放置する。永遠にその場から立ち去る。

こうした性癖は全部、自己訓練の賜物かもしれない。

それが僕の弱点だ。

パートナーを持てる人間ではない、ってことだ。(「飲み物はいるかい」p.136,137)

古川日出男って、正直そんなに好きな作家っていうわけでもなくて、読んでいて、ああ本当に好きだなーこの小説、っておもったことなんてほとんどないくらいだとおもうのだけど、でもどういうわけか気になってちょいちょい本を手に取ってしまう。それはもしかすると、こういう文がときどきあるからなのかもしれない…なんて書こうとおもっていたのだけど、いざこうして書いてみると、やっぱりどうも違う気がする。

だいたい、引用したところだって、いま読み返してみればなんだかずいぶんふつうの文章だ。ナイーブで自己憐憫的な匂いのする、ありがちな文章だって言ってもいい。自分がそういうナイーブで自己憐憫的な傾向のあるやつだから共感してしまった、みたいなところは少なからずあるのだろうけど――そう、そんな惨めで情けない気分になるのはとくに珍しいことじゃない――それにしてもそんなにぐっときてしまった理由はよくわからない。もちろん、小説内の文章は小説の流れのなかで読まれてこそ真価を発揮するものだから、引用であれこれ言うのはフェアじゃないのだけど、でも、「飲み物はいるかい」って小説のなかで上の文が果たしている役割はそんなに重要なものではないようにおもえるわけで、やっぱりよくわからない。まあ、何事につけても、よくわからないところにこそ魅力がある、ってのは確かなことかな、とはおもうのだけど…。


『LOVE』/古川日出男

LOVE

三島由紀夫賞受賞作。現代の東京を舞台とした、短編っぽい雰囲気を持った4つの物語と4つの間奏からなる小説だ。時間のあるポイントに的をしぼり、そこでの人々の刹那的な邂逅を描いた群像劇。

手法的には、作中の人物が2人称の語り手として登場することだったり、登場人物を大量に出していくことで小説全体にゆるさを醸し出していることだったり、舞台である東京は目黒川周辺の地名が「午前七時、きみは目黒区三田一丁目と渋谷区恵比寿三丁目と品川区上大崎二丁目が交叉する地点にいて、しかも港区白金台五丁目か白金六丁目に抜けようとしていた。(p.199)」ってな具合にやたらとくわしく書き込んであったり…、と、まあ、いろいろとおもしろいところはあるんだけど、全体を貫いている、“五感を鋭くキープしておくことで、世界の別な側面が認識できる”ってモチーフが何より素敵だとおもった。

あと、それぞれのストーリーがわりとあっさり途切れているところもいい。オープン・エンディングみたいになっていて、開放感がある。物語が断片的であるからこそ、一瞬だけ放たれる光が眩しく見える、っていうような感じで、その輝きからは世界のたしかな手触りが導き出されていくよう。

いちばんすきだったのは、「ブルー/ブルース」の章。ここに出てくる小学生たちがねー、なかなかかっこよくて。疾走感のある、そして肉体を感じさせる古川日出男の文体にしっくりとくるキャラクターたちだとおもった。や、っていうかそれはきっと順序が逆で、登場人物や物語にふさわしい、その物語のためのことば、を求めていってこの文体に辿りついた、ってほうが正確なのだろうけど。

あたしクイズ出したい、と少女は言った。どうして?とジャキは訊いた。どうしてだろ、わかんないけどさ、クイズ出されたら絶対に答えを知りたいでしょう?ジャキは、そうだね、と言った。じゃあ題材決めよう、と少女は言った。ついさっきさ、あたしと会うまで、なんのこと考えてた?

鯨、とジャキは即答した。

それだ、と少女は言った、鯨がこの品川に初めて来たの、いつのことだか知ってる?

え?

それがクイズ。

品川に、来たの?

頑張って正解してね。そして、また会ったら、ちゃんと答えてね。それで、また会ってね。

待って、ヒントがほしいよ。

ヒントはね、あたしが天王洲のオンナだってこと。あ、ほら、シナキュウナナが来ちゃった。あたし、広尾も青山霊園も、信濃町も四谷も通過して、終点の新宿駅西口に降り立つわ。そこにはハヤナナナナもオウナナハチもジュウキュウイチも、いっぱい、あるのよ。

うん、とジャキは言う。わからないけど、わかった。(p.118)


『ボディ・アンド・ソウル』/古川日出男(その2)

『ボディ・アンド・ソウル』の語り手は、作家本人をおもわせるフルカワヒデオ、であるので、かなりストレートに気持ちや意見を吐露しているように感じられる文章が多い。古川日出男の他の作品でもよく語られていることだとはおもうのだけど、彼の小説に関する倫理感というか、相対するときの姿勢、みたいなものがわりとはっきり書かれているようで、そんなところもたのしんで読めたのだった。

ストーリーには唯一の形態というものはない。イメージはあらゆる角度から語られ得る。むしろ終わりかたは一つであってはならない。後天的に培われた本能が、僕にそう告げる。ならば、教訓:エンディングが肝要である――は幻影か?

たとえば読者が、一冊の書物の途中でその物語を抛りだすとき、その物語のエンディングはまさに途絶されたページに(その偶数ページと奇数ページの谷間に)あるのではないのか。すなわち読者の数だけエンディングは存在し得るのではないか。

連載小説のエンディングとは、その回その回ごとの最終行ではないのか?

「未完の小説は存在しない、と未完の小説の最終行に書かれていた。ジ・エンド」と僕はつぶやいてみる。(p.73)

どうして小説にはスタンダードがないのか。誰か、僕の作品を、勝手にアレンジしてリリースすればいい。君がそれを幻想文学と思うのなら純文学にしてしまえ。君がそれを主流の散文とみなすのならば反主流に書き換えてしまえ。大衆、正統、糞喰らえ。日本語の皮を、奪ってしまえ。物語の内臓、さらけだされた世界にはナニ語もあるものか。(p.91)

「だから、俺にとって本というのは、本の紙面というのは、楽譜なんだよ!」(p.187)

熱いよなー。かっこいい。能動的に読み、がんがんに誤読していくこと。正当性とか絶対性、唯一無二なものを相手として戦っていくこと。あらゆるものを雑ぜ合わせた、ハイブリッドであること。このあたりが古川日出男の倫理感(ってことばはふさわしいだろうか?)であるようにおもう。

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)


『ボディ・アンド・ソウル』/古川日出男

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)

小説家であるフルカワヒデオ自身を語り手として、日常のいろいろ――食べ、飲み、散歩し、妄想し、語り、書き、読み――がどんどん描かれていく小説。その語りはひたすらに饒舌で、とにかくエネルギッシュだ。書かれている内容はいっけん日記風でありながらも、読み進むにつれて虚実はゆるゆると入り混じっていき、言葉の奔流が現実を侵食、捏造していっているようにもおもえてくる。

全体的にかなりすきな小説だったんだけど、とくにおもしろかったところのひとつは、フルカワの妄想が突如として暴走し、物語をがんがんに作り上げていっちゃう、ってところ。たとえば、なぜか“ルイ・ヴィトン”からインスピレーションを得て、一気に小説が湧き上がりそうになっているシーンはこんな感じ。テンション高い!

ヴ…ヴィ。ヴィトン。

閃光のように僕の視野にLVのモノグラムが飛来する。そして知る。僕の脳味噌は、この数日間のあいだに識閾下でしっかり労働(ロードー)し、無勝手流の”ルイ・ヴィトン攻略”なる体験をしっかり発酵させていたのだ。あ!と僕は叫んだのであった。声を発した刹那はまぬけ顔であっただろうが、第二の刹那、僕は鬼の形相に転じた。変じたはずである。鏡を見ていたわけではないからわからん。僕はちちちちちちちち、ちず、と喚(おめ)きながら東京全図を探した。(p.102)

そうだ、主人公は俺にしちゃおう。こんな馬鹿なミステリーを発見して大騒ぎする人間は、おそらく妄想度のきわめて高い体験型のアホな作家にちがいない。それ、俺じゃん。今月十日からの”ルイ・ヴィトン攻略”をそのままノべライズすればいいじゃん。うわあ大発見。で、こうやってね、キッチンで鯖の味噌煮を作っていてね、その瞬間になにやら閃いて冷蔵庫のドアに呪われた東京全図を貼りつけて、ユリイカ(わかった)!ついに霊的真実はここに啓き示されて、秘密のメッセージは作家フルカワヒデオに届けられたのであった。(p.105)

古川日出男はこのくらい軽い文章のほうがタイプだなー。畳みかけるような語り口の、ハードで壮大な作品は、なんとなく無理しているように、てか、文体の勢いが過剰すぎるようにおもえてしまうこともあるのだけど、この小説の文章のリラックスした感じはすごくすき。

なんていうか、軽やかで抜け感があるのがいいのかな。でも一気に読むと身体にどっとくるみたいなところは、たしかに他の古川作品と同様で、なんにしても、文体に独特な強度を持っている小説家だよな、なんていう風におもう。


『聖家族』/古川日出男

聖家族

これはすごかった!おもしろいとかおもしろくないとか言うよりも、まず、すげえ!って言いたくなる小説。だいいち、分厚すぎるし(二段組みのくせに700ページオーバー!)、細かい特徴、気になる要素を挙げていったらキリがないけど、読んでいくうちに、最早、古川日出男、っていうひとつのジャンルが確立されているようにすらおもえてくるようだった。半端なく気合いの入ったことばたちが全編通してひたすらに連打されていき、「妄想の東北」の巨大なクロニクルが形成される。

やたらと大きな小説だから、あらすじとか構成みたいなものはそう簡単にはまとめられない。目次からも明らかなように、たしかにシンメトリカルな構造ではあるのだけれど、そのなかで一連の物語がきれいに円環を描き完結する、って感じじゃないし。どこか歪で、スマートじゃない。雑然としている。それに、そういう全体像みたいなものよりはむしろ、いろいろな細部のイメージの鮮やかさ、象徴性みたいなものについてかんがえる方がずっとおもしろいんじゃないか、って気もする(…けど、それを逐一まとめて書くのは相当骨が折れそうだ)。

全体の印象としては、むちゃくちゃ強い意志で書かれてるな、って感じもある。たとえば、作中で何度も繰り返される、中央vs周縁、みたいなシンプルな構図であっても、いままであちこちで繰り返し描かれてきたであろう定番ちっくな物語には絶対にならない。とにかく予定調和にはしない、って心意気が貫かれているよう。

作中の狗塚兄弟は、己の肉体そのものを凶器とするために鍛えまくっているけど、この小説自体も、ガチガチに鍛えられたことばの固まりみたいな感じ。ガチガチだから、単調におもえたり読みにくかったりもするわけだけど、小説全体に漲る強固な意志やテンションにはとにかく圧倒される他なくて、だから、すげえ!って、なってしまう。でも、それでいて、いわゆる“大作”的な重厚さはあんまりなくて、どこか抜け感があるっていうか、がっつり読んだなー、って気分もあんまりないっていうか。まだまだ書きつくされてはいない、みたいにおもえるのかな。

以下、かっこよかったところをちょっと引用。

こんな問いかけを今度してみてもらえませんか。地図という二文字は、もしかしたら何かの略語じゃないかな、と。二つの漢字が、ほら、アルファベットの頭文字の組み合わせのような。だとしたら、何と何かな、と。答えは簡単です。地獄の図書館、ですよ。地獄の地に図書館の図で、ほら。ちゃんど地図になっばい?(p.176)

彼はそれから一人になった。彼は何度か運び込まれる本をひたすら貪りつづけていた。彼は本の内側に孕まれている時間を読んでいた。彼はそれらの時間が有している重さを感じてそれらの時間が流れていることを確かめていた。彼には自分の肉体がその隅ずみまで読む行為で満たされるのがわかった。彼は出土しはじめるものを感じていた。彼は掘り起こされる記録と歴史を体感していた。(p.377)

そのDJは雑ぜろ、と自身に命じた。自身の手に、命じていた。すべての音を雑ぜて、ただ音楽を、と命じていた。自身の耳に命じていた。耳。手。耳。手。そのDJは、世界には無限の、無尽蔵のレコードがあるんだ、と自覚した。それを二つのターンテーブルに載せて。一台のミキサーで攪拌(ミックス)して。そして三つめの、凶器として、出して。出せ、と自身に命じた。ハイブリッドに、出せ。(p.579)

いままで、古川日出男って気になるわりにはあんまり入り込めない作家だったんだけど、この一冊をきっかけに結構すきになれそうな気がしてきた。いや、“すき/きらい”とかっていうより、やっぱり、いま、現在進行形で読むのがおもしろい作家だよなー、と改めておもえた、って感じか。ことば数は多いけれど、読者の方からアグレッシヴに働きかけていかなきゃいけない小説なんだ、ってことをようやくちゃんと実感できたような気もする。


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