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『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

「ムーミン童話全集」の三冊目。ムーミンパパが、自らの若かりし頃の思い出を本に書き綴り、子供たちに語って聞かせる…という体裁の物語だ。前作と同様、本作も、細かなエピソードがぶつぶつと連なっている感じで、筋らしい筋というのもないし、登場人物たちの数は多すぎ、まるっきり思いつきで書かれたような、雑多ででたらめな印象のする作品になっている。これは正直、あまりおもしろいとはおもえなかった。

ただ、ムーミン童話においては、その、雑駁で適当で、まるでちゃんとしている気がしない、でもなんだか全体的には自由でハッピー、というような空気感こそが、何にも勝る価値を持っている、ということは言えるのかもしれない。このなんとも適当な雰囲気こそが、この作品のおもしろさだ…というか。

すみきったみどり色の海の底で、砂はくま手でかいたような、こまかいもようをえがいています。岩の上には、ほかほかと日があたっていました。風もないで、もう水平線はきえていました。すべてが明るいすきとおった光につつまれていたのです。
あのころは、世界はとても大きくて、小さなものは、いまよりもっとかわいらしく、小さかったのです。わたしはそのほうがよっぽどすきです。わたしのいう意味がわかりますか。(p.115)

…強く意識していなければ、私たちの世界は時間とともに小さく狭いものに、そして、小さなものはただ小さいだけのものになっていってしまう。だから、ムーミンパパは、過去を振り返り、「あのころ」のでたらめで自由な感覚をおもい起こすことで、現前の世界に新鮮さと豊かさとを取り戻そうとしているのかもしれない。そんな風にかんがえてみると、少しは共感できるかも、という気はした。


『アリーテ姫の冒険』/ダイアナ・コールス

『アリーテ姫の冒険』/ダイアナ・コールス

「かしこい」お姫様、アリーテ姫が、男たちの悪巧みをひらりひらりとくぐり抜け、強く、どこまでも自然体のままで生きていく…という童話。古色蒼然とした「お姫様」像を塗り替える、頭脳派で行動派、プラス思考なヒロインが魅力的な物語だ。

「姫、おまえがかしこいというのはほんとうか。ずっとまえから本を読んでいたっていうのは、ほんとうか」
「はい、おとうさま」
「もし、かしこいなんていうことが世間に知れたら、おまえは一生、結婚できないことぐらいわかっていような」
王さまは、頭をかかえてしまいました。(p.10)

アリーテ姫には、3つの試練と、3つの願いを叶える魔法の力が与えられる。だが、彼女は試練をクリアするためにその力を用いることはない。自分のたのしみや喜びのために、ちょろっと使ってみるだけなのだ。そして、厳しく困難であるはずの試練も、身近な人の協力とちょっとした知恵を用いることで、難なく切り抜けていってしまう。まあ何というか、全体にユーモラスでひょうひょうとした雰囲気の、ポップな物語になっているのだ。

訳者による「あとがき」では、本書を「自分の力で問題を解決していける女の子が主人公の物語」、「子供が理解しやすいフェミニズムの本」と位置づけている。たしかに、作中の男たちはことごとく身勝手で融通が利かず、女を支配しようとしては失敗してばかりいる、どうにも情けない存在である。そういった部分にフェミニズム的な偏りが感じられはするけれど、この物語全体の前向きさや軽やかさ、明るさ、ポップさというのにはそれ以上に素敵なものがあるんじゃないかなーとおもった。


『たのしいムーミン一家』/トーベ・ヤンソン

『たのしいムーミン一家』/トーベ・ヤンソン

「ムーミン童話全集」の二冊目。ある春の日、ムーミントロールたちは山で黒いシルクハットを見つける。それは、「もしなにかが、しばらくその中にはいっていると、すっかりべつのものにかわってしまう」ふしぎな性質を持った、「まもののぼうし」だったのだが…!

前作『ムーミン谷の彗星』のようなダークで終末的な雰囲気は後退し、春から夏の終わりにかけてのムーミン谷を舞台に、ほのぼのとしたエピソードやちょっとした事件が連作短編の形式で描かれていく。ムーミンシリーズの牧歌的・ユートピア的なイメージがはっきりと前面に出された一作だ。

ほのぼのとしていながらも、物語全体にはどこかクールな印象がある。それはおそらく、各登場人物たちの個人主義が徹底しているためだろう。彼らは基本的に、「みんなに合わせよう」とか、「場の空気を読もう」とか、「こういうときは、こうするもんだろ」といったことを言わないし、それでいて、互いに相手の存在と相手の意見、自分との相違をきちんと受け入れてもいる。他人との距離のとり方、その尊重の仕方というのが上手なのだ。

ムーミン谷のユートピア性というのは、そういったクールで成熟した個人主義と、ムーミントロールたちのキュートで子供っぽいふるまいとの組み合わせによって成立しているのだろうとおもう。また、作品全体を通して、教訓めいたところ、大上段に振りかぶったテーマのようなものがほとんど見当たらない、というところも、何が起こってもそれを過剰に気にすることはない、というのんびり気分を補強しているように感じられる。

そんなわけで、ムーミンやしきは、いつでも満員でした。そこでは、だれでもすきなことをやって、あしたのことなんか、ちっとも気にかけません。ちょいちょい、思いがけないこまったことがおこりましたが、だれもそんなことは、気にしないのです。これは、いつだって、いいことですよね。(p.17,18)


『ムーミン谷の彗星』/トーベ・ヤンソン

『ムーミン谷の彗星』/トーベ・ヤンソン

以前、堀江敏幸『回送電車』で、「ヤンソンの原作ではスナフキンという名が存在しない」と書かれていたのを読んで以来――「スナフキン」という音は英訳からの転用で、仏語訳では「ルナクレリカン」、原典のスウェーデン語では「スヌス・ムムリク」(嗅ぎたばこを吸う男)という名前であるらしい――なんだか気になっていたムーミンを読む。ムーミンシリーズの本を手に取ったのは、たぶん小学生のとき以来だ。

本作は「ムーミン童話全集」の一冊目。ムーミン谷に彗星が接近、このままでは地球が壊滅してしまうのでは…という危機的な状況を舞台としている。ムーミントロールとスニフは彗星のようすを調べるために天文台へと向かい、その途上でスナフキンやスノークのおじょうさんらと出会い、友達になる。なにしろ彗星衝突間近、って終末的な状況なわけで、全体的にグルーミーというかひんやりとした雰囲気の物語になっているのだけれど、登場人物たちは皆ひたすらにマイペースで、周囲で何が起こっても自分の関心事から目をそらすことがない。それが作品の雰囲気をポップで風通しのよいものにしている。

なお、本作は1946年、終戦直後に書かれた作品ということで、「彗星」が戦争や空襲のメタファーのように感じられる箇所は多い。

「うん、天文台へね。ぼくたち、危険な星を観測して、宇宙がほんとに黒いかどうか、しらべるんだ。」
と、ムーミントロールが、まじめな顔でいいました。
「それは、長い旅になるよ。」
そういったきり、スナフキンは、かなりのあいだ口をとじていました。
コーヒーができあがると、コーヒー茶わんについでから、また口をひらきました。
「彗星というのは、わからないものだ。どこからきて、どこへいくのかねえ。まあ、こっちへはこないだろう。」(p.52,53)

そのような環境下でも、ムーミントロールたちは幼い子供らしさを失うことなく、しかしそれなりに使命感を持ちながら、終末に向かう世界を旅していく。怖いけれども、冒険はたのしい。あるいは、怖いからこそ、冒険はたのしい。各キャラクターがそれぞれにキュートなのはもちろんだけれど、そのコントラストの美しさがとくに印象的だった。


『サマータイム』/佐藤多佳子

『サマータイム』/佐藤多佳子

いつもよりちょっと早起きした休みの日、薄曇りの空から落ちてくる太陽の光はやわらかく、風もおだやか、夕方まではとくにやらなきゃならないこともないし、仕事の電話が鳴る予定もない。うーん、こんないい感じの日には、何かすげーさわやかな小説とかを読みたいなー、なんてかんがえながら駅前の本屋をうろうろして、佐藤多佳子のデビュー作『サマータイム』を手に取ったのだったけれど、こいつはもうなんともきらきらとした、幼年期から思春期にかけての美しい感情ばかりがぎゅっと詰め込まれた、さわやかさ満点の作品で。ひさびさに良質な児童文学を読んだ感覚を味わえて、俺は大変満足したのだった。

「児童文学」というジャンルに含まれる作品のなかには、大人が読んでもじゅうぶんにおもしろいもの、むしろ大人になってから読んだほうがその旨味をじゅうぶんに味わえるもの、というのが少なからずある。本作もまさにそういうタイプで、ちょっと「大人向け」テイストが強めな(子供にとっては少し地味過ぎる)作品であるように感じられた。なにしろここには、いい歳になってしまった大人が児童文学に求めたくなるような要素、すなわち、大人が「子供」という存在に対して期待する、イノセンスや無防備さといったものがてんこ盛りになっているのだ。

本作は4つの短編から構成されているが、ストーリー的には、どれもお定まりの、どこかで聞いたことのあるような物語ばかりだと言っていい。たとえば、表題作「サマータイム」の主要な登場人物は、”美人で勝気な姉”と、”素直でやさしい弟”、”左腕のないちょっぴり大人びた少年”と、”彼の母親のジャズピアニスト”、物語のキーになるのは、ピアノと自転車、そしてジャズスタンダードの”Summertime”…といったところなのだけれど、彼らが順々に紹介されていくだけで、どういう系統の話が展開されていくのかということはすぐにわかってしまう。あーそういうタイプね、そういう話ならよく知ってるよ、いかにも中学受験の問題とかに出てきそうな感じだよね、なんて気分になってしまうのだ。

にも関わらず、この作品が大人の心に響き得るのは、全体的なバランス感覚が素晴らしいからなのだとおもう。子供たちの交流のきらきら感(もちろん、これこそが本作のいちばんのセールスポイントだ)、無邪気で「子供らしい」気持ち、いっけん遠く離れているようでじつはすぐ隣にある大人たちの世界、そんな外的環境によって生じる「意外と大人びた」悩み、そして、さまざまな場面で人物たちの心情を反映させながら繰り返し演奏されるピアノの音…っていう、定番的な構成要素のそれぞれが、どれもあっさりめ、かつ、うまく余韻を残すような、まあなんともいい塩梅で配置されているのだ。

そしてもちろん、大人をぐっとこさせるのは、かつて存在していたのかどうかすらも定かではない「あの頃」を振り返って見たときに生ずるノスタルジアの輝きである。たとえば、こんな文章。

私は、早く大人になりたいと思った。
大人になれば、つまらない喧嘩をしたり、つまらない手紙をもらったりしないだろう。こんな冬の日にぴったりの好きな色のコートを買って、一番好きな人と手をつないで風の中を一日中だって歩ける。(p.159)

こういう文章に心を動かされてしまうのは、ここで書き手の大人と読み手の大人、双方の視線が接合されることになるからだ。主人公の少女のこんな願いは、べつに大人になったからって叶うわけじゃない、ということを、書き手の側も、読み手の側も、当然よく知っているからだ。だから、ここで何よりも美しく感じられるのは、少女の感情そのものではない。感情そのものよりもむしろ、「大人になれば」と信じることができた/信じることが許されていた時代がかつてあった(らしい)、ということへのノスタルジア、すでに失われてしまった感情を振り返ってみる視線のなかで生じる、「子供時代」なるものに対するノスタルジアこそが、美しくおもえるのだ。書き手と読み手とが共同で行うその振り返りの動作のなかでは、もはや、「子供時代」が本当に存在したのかどうか、それは本当に輝ける時代であったのかどうか、「子供時代」にそんな感情を抱いたことが本当にあったのかどうか、などといったことは問題にはならない。

佐藤多佳子は、このノスタルジアの喚起の仕方がなんともうまいんだよなー、とおもう。すこし気恥ずかしくはあるけれど、決してべたべたし過ぎることはなく、どこか上品ですらある、そんな程よい甘酸っぱさが、全編に渡って感じられるのだ。狙いどころをしっかりと持った、かなり上手い小説家だとおもった。


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