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『クリスマス・テロル invisible×inventor』/佐藤友哉

クリスマス・テロル invisible×inventor (講談社ノベルス)

昨年はじめて『フリッカー式』を読んで、そこから順番に鏡家サーガを読み進めていったのだけど、4作目のこれがいままでのなかでいちばん好きだな、とおもった。短いながらも登場人物たちの壊れっぷり、やけっぱちな感情の暴走っぷりは迫るものがあるし、小説の最後で物語を完膚無きまでに破壊してしまうそのやり口も、これまでの3作よりずっとラディカルだ。そして何より、全編にみなぎる怒りと寂しさ、破壊の衝動がすごい。こんな歪んでねじ曲がった、こんな率直な小説を書けるのはこの人だけだ、っておもわされてしまう。

僕が自分の作品で何度も言及したように、弱者は全員、自覚して死ななければならないのだ。(p.156)

はっきりと断言してみせる佐藤がこの後も書き続けている小説を、読まないわけにはいかない、とおもう。俺は『フリッカー式~』の感想には、作品を作品として成立させるところの切実さみたいなものがあまり伝わってこない…なんて書いていたけど、この『クリスマス・テロル』にあるのは切実さばかりじゃないか、とおもって、ぐっときてしまった。

あと、『クリスマス・テロル』の文庫版の解説では、この本が書かれた経緯について佐藤自身がていねいに状況説明をしていて、おもしろかった。『水没ピアノ』までは一向に重版がかからなくて、もうぶっちゃけ作家としてやってけないかも…とおもっていた、みたいな話をいちいち詳細に書いているのだ。まったく、ほんとにひねくれてるけど、すげえいいやつな気配がどこかしらにあるんだよなー、なんておもって、本屋で立ち読みしながらわらってしまった。

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『水没ピアノ 鏡創士がひきもどす犯罪』/佐藤友哉

水没ピアノ 鏡創士がひきもどす犯罪 (講談社文庫)

1、2作目の感じからすると、ジャンクな断片をたくさん寄せ集めて無理やり形にしてしまうような強引さ、無秩序だけど勢いがあるみたいなところがこの作家の特徴かとおもっていたのだけど、今作で語られる3つの物語は、いまままでよりずっとていねいに構築されている。そのために、前2作と同様のモチーフ、他者と絶対的に隔絶されているような感覚、なんて言ったらいいのかな、そういうのが際立ってきているし、ミステリ的なオチ(3つの物語がきれいに収束する)みたいなものもうまく決まっている。一言で言うと、いままでより技巧的な作品、ってことになるだろうか。

ネットなんかで人の感想やレビューを見ていると、『水没ピアノ』は佐藤友哉の初期の傑作である、とするような意見が結構多いみたいだった。それはおそらく、作品の構造、というか図式がかなりよくできている(緻密、というのは少し違う気がする…)ことと関係しているんじゃないだろうかとおもう。いままでみたいには破綻した感じがしないのだ。

もっとも、文章なんかは前2作と同じでぺらっぺらだ。

なかなか独創的なセンスとユーモア、そして究極的な救いに満ちた感情、僕はそれを手にしなければならない。指を切断されたのだから、その権利があってしかるべきじゃないか。喪失と獲得は交換される。大抵の物語はその法則にしたがっている。死は生へと転じ、絶望は希望を生む。狂気は正気につながり、破壊は再生と化す。僕は僕の指を切り取られた。さてさて……それで何かを得たのか?断言しよう、何も得ていない。僕は依然として空っぽであり損失の王様だった。空虚の絨毯爆撃を支持する独裁者だった。指を切断されたというのに何もない。希望もない。感情もない。

あるのはいつも通りの僕だけ。

僕は物語の法則が通用しない場所にきてしまったのだろうか。(p.410,411)

ただ、このぺらぺらした感じでしか表現できないような無防備さ、切実さがこの作品にはたしかにあるようにもおもえる。それは共感できるようなものではないにせよ、ついついページをめくってしまうような牽引力のもとになっている。俺は前作や前々作の雑然としたエナジー、物語がまるで収束しない感じの方が好みかなー、とおもうけど、でも、これはやっぱり、かなり読ませる小説だ。


『エナメルを塗った魂の比重 鏡稜子ときせかえ密室』/佐藤友哉

エナメルを塗った魂の比重<鏡稜子ときせかえ密室> (講談社文庫)

これも前作と似たような感じ。文章はもうとにかく、ひたすらに薄っぺらい(悪い、ということとは違う)。いじめだったり人食いだったりと、やたらと残酷な行為やグロテスクなシーンが満載でありつつも、薄っぺらな描写はその過激さを軽減しているようでもある。それは単純にリアリティがどうの、って話ではないとおもうけれど、描かれている内容のわりには、おどろおどろしくない作品に仕上がっているようにおもえた。

私は恍惚の中で内臓をタッパーにつめると、四肢と首の切断に取りかかった。冷凍されていない肉を切断するのは大変だった。肉が柔らかいうえに黄色っぽい皮下脂肪があふれて、ノコギリの歯が上滑りを起こしてしまうのだ。汗が流れ落ち、腕が疲れたが、それでもノコギリを引く手は緩めなかった。肉は鮮度が大切なのだ。

すべての切断を終え、解体道具を片付け、バスタオルで全身をふき、替えのシャツを着て、終了。作業時間は一時間半ほど。アスレチック小屋に残されたのは、新巻鮭のように中身の抜かれた胴体部分のみ。(p.89)

とはいえ、この作品について何か語ろうとするとき、その表層のところだけをさらってみてもあまり意味はないだろう。だいたい、作中に登場するたくさんの引用やら謎やらトリックからして、どれも結局大して重要なものではない、と言わんばかりの扱われようなのだ。

この小説がおもしろいのは、世界のありようというか、人と人との関係のあり方についての、強烈なモチーフみたいなものがあるからなんじゃないか、って気がする。それは世界と、他者と、もうどうしようもないくらいに隔絶されている、というような感覚だ。まあ、隔絶されているからこそ、その溝をなんとか埋めていこう、みたいなポジティブさがあるわけじゃないし、登場人物たちのふるまいも態度も、それらを作品として織り上げていく作者の手つきにしても、とにかくむちゃくちゃで首肯しがたいものばかりではある。ぜんぜんうつくしくないし。なのだけど、それでもたしかに強烈なことは間違いなくて、モチーフのその激しさこそが、小説全体の印象をちから強いものにしているようにおもった。

そういえば、俺は読んでいたときにドストエフスキー『地下室の手記』の、こんな文章をおもいだしたりしていた。

小説(ロマン)には、ヒーローが必要だが、ここにはわざとアンチヒーローのあらゆる特性が集められている。それに、肝腎なのは、この一切が、このうえもなく不愉快な印象を与えるとう点だ。なぜなら、俺たちは皆、生活から離脱し、各人が多かれ少なかれ欠陥をかかえているからだ。どれほど離脱しているかと言えば、どうかすると、本物の≪生きた生活≫に対して、なにやら嫌悪感すら覚え、それゆえに≪生きた生活≫のことを思い出させられると、耐えられないほどなのだ。/それでいてなぜ、ときには、なにかごそごそやってみたり、無茶をしてみたり、願望を抱いたりするのだろう?自分でもなぜだかわからないのだ。(p.259)

なかなかこの小説にフィットする一節なんじゃないかなー、なんておもう。

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)


『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』/佐藤友哉

『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』/佐藤友哉

佐藤友哉のデビュー作。俺はいわゆるメフィスト系の小説っていうのをちょっと苦手にしていて、でも、今より年をとったらさらに手に取りにくくなるに違いないとおもったので…、って、読み始めた動機はあまりポジティブとは言えない感じだったのだけど、これはおもしろい小説だった。

ストーリーには牽引力があって読みやすいし、エンタテインメントしていてなかなかたのしい。とにかく、かったるくないところがいいなー。ジャンル的にはミステリなんだろうけど、作品のおもしろさはミステリ的なトリックやキャラクターの魅力なんかとはたぶん別のところにあって、それはやっぱりこの文体と、作品の壊れっぷり、ってことになるんじゃないかとおもう。妙に饒舌で薄っぺらな語り口だし、人を食ったような、というか、ちょっと自意識が強すぎるんじゃ…、なんて読んでいて心配になるような雰囲気が作品全体を覆ってもいる。それに、部分部分も全体の構成も、いちいち破綻しているのがすごい。

確か……僕が小さな、まだテレビアニメと三時のおやつが生活の中心に居座っていたころ、二十を少しすぎたばかりの長女に手を引かれ、近所のスーパーマーケットに出かけた。僕は道路に蟻の行列を発見し、それをブチ切れたガリバーみたいに次々と踏み潰した。
すると姉はニッコリ笑って、潰すなら三匹だけにしなさいと窘めた。その言葉に少なからずおどろいた僕がなぜ三匹だけならいいのかと質すと、姉は更に笑い、勇敢な者はいつだって三匹なのよと答えた。
今なら解る。
解ったと錯覚できる。
ついに……本格的な殺意が沸いた。(p.258,259)

ただ、どこかしら安易な印象は否めなくて、それは作品を作品として成立させるところの、切実さみたいなものがあまり伝わってこないようにおもえたからかもしれない。描かれる出来事はいちいち派手なのに、妙に印象が淡白っていうか、作品の叙情感を薄めよう、あるいは引き剥がそうとでもしているような印象を受けた。とにかく後味悪くしようと必死になっているような感じもして、うーん、ひねてるなー、っておもったり。正直言って、何がどうおもしろいとかうまく言い表せないのだけど、どこかしらおもしろい。ふしぎな小説だった。


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