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『赤と黒』/スタンダール(その2)

前回のエントリでは、「ジュリヤンにとって、出世や恋の成就といったものはあくまでも副次的なものであったのかもしれない。彼を突き動かす最も重要な動機というのは、彼の英雄願望、彼の自尊心の充足、彼の上昇志向の満足といったものなのだ」なんてことを書いたのだけれど、先日、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を読んでいて、もうちょっと違う風にかんがえることもできそうだな、とおもった。

ジュリヤンが出会った当初のレーナル夫人やマチルドを落とそうと奮闘するのは、まあ単純な「モテたい」、「出世したい」欲の発露、ジュリヤンの野心と向上心の表れだと言えるだろう。これはわかりやすい。ただ、二村は、「モテたい」という感情について、こんなことを書いている。

「モテたい」=「キモチワルくないと保証されたい」というのは、「恋されたい」ではなくて、本当は「愛されたい」ということだったんじゃないだろうか。(『すべてはモテるためである』/二村ヒトシ 文庫ぎんが堂 p.204)

男にとって(男性社会のなかで)モテる男になりたい!いい女を自由にできる男になりたい!とめざすことは【向上心がある】てなこと、ではある。
そして「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいことである。
だから男は、自分が「モテたい」というのは「恋されたい」ことなんだと自動的にすり替える。
だが【愛されたい】というのが「自分を肯定してほしい」という欲求だとしたら。(前掲書 p.204)

【モテたい】は「キモチワルくないと保証されたい」ことなんだから、じつは【モテたい人】は愛されていれば充分であって「恋されて、相手を支配する」必要は、ないんじゃないだろうか。
モテた者も、モテをめざす者も、ただ「自分は愛されたいんだ」と認めればいいんじゃないだろうか。(前掲書 p.205)

モテたいというのも、つまるところ承認欲求の一種なのだから、べつに相手に恋されて、相手を支配するような必要はない。そんなことよりも、自分自身を肯定して欲しい、認めて欲しい、というその気持ちを素直に認めてあげる方が先なんじゃないの、ということだ。個人的には、なかなか腑に落ちるというか、納得できる主張である。この二村のかんがえかたを『赤と黒』のプロットに適用してみると、だいたい以下のような感じになるのではないか。

  • 親の愛を知らず、また、自分を守ってくれる社会的な地位も能力も持っていないジュリヤンは、自分を認め、保証してくれる何かを必死に求め続ける。それは二村流に言えば、「自分を肯定してほしい」、「愛されたい」という欲求である。
  • ただ、やっぱり「「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいこと」であるわけで、ジュリヤンも自分自身のその感情にはなかなか素直に向き合うことができない。
  • 自分の感情を「モテたい」欲、「出世欲」、「支配欲」、「向上心」だと勘違いしたままのジュリヤンは、ついに貴族の娘であるマチルドを落とすことに成功、上層階級への階段に足をかけることになる。しかし、まさにそのタイミングで、昔の女であるレーナル夫人によって、過去のスキャンダルを暴露されてしまう。
  • 己の野望を妨害されたことで頭に血が登った彼は、レーナル夫人に発砲、逮捕・投獄される。だが、そうすることでようやく自分の感情を正確に認識できるようになり、ああ、俺は肯定してもらいたかったんだ、愛されたかったんだ、と気づく…。

前回のエントリでは、『赤と黒』はジュリヤンという青年の野心と成長、挫折の物語である、という読み方をしてみたわけだけれど、上記のように捉えてみると、結構印象が違ってくる。こっちの読み方だと、『赤と黒』の主題は野心というよりも、やはり愛情である(つまり、本作はある種のラブストーリーである)ということになるだろうし、ジュリヤンが自分の選択をまったく後悔することなく死を迎えることができるのは、「自分のエゴやプライドにどこまでも忠実に生き切ったから」というよりも、「自分の弱さやだめさをも受けて入れてくれる、愛というものを本当に知ることができたから」だ、ということになるだろう。どちらが正解ということもとくにないのだろうけれど――というか、どちらもそれなりに適切な読み方だとはおもうけれど――ともあれ、こういった多層性こそが本作が古典たらしめているのね…という感じはする。


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