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『二重人格』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

『二重人格』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

ちょっぴりマイナーな、ドストエフスキーの第2作目。その名の通り、いわゆる「分身小説」だ(俺が読んだのは岩波文庫の小沼文彦訳『二重人格』だけれど、訳によっては、タイトルを『分身』としているものも多い)。主人公のゴリャートキン氏は九等官の役人。人付き合いが下手で、これといった能力もなく、要領も悪い男だが、心の奥底では強い自尊心がマグマのようにぐつぐつと沸き立っているという、きわめてドストエフスキー的な人物である。彼は、ある夜会でヘマをやらかし、つまみ出されてしまった帰り道、吹雪と濃霧のなかで自分とまったく同じ姿をした男を見かけるのだが…!

ゴリャートキン氏は、小心で引っ込み思案、孤独を好んでいるくせに、恐ろしいほど強烈な自意識の持ち主である。とにかく他人の目が気になって気になって仕方ないのだ。だから、自分は周囲の人間からことごとく相手にされず、軽蔑されている、まったく正当に評価されていない…といつも感じてしまい、ひとりで苦しんでばかりいる。劣等感や存在承認の欲求というやつは人間誰しもが持っているものだろうし、俺だってそれなりに強いそれらが自分の内にあることを知っているつもりではいるけれど、彼の相手にはとてもならない。なにしろ、彼の超先鋭的な劣等感は、自身の理想像を投影した自分とそっくりな姿の幻影――”分身”たる新ゴリャートキン氏――を生み出してしまうのだ。

“分身”はゴリャートキン氏の行く先々に現れては、まさにここしかないというようなタイミングでゴリャートキン氏の出鼻をくじき、計画をむちゃくちゃにしてしまう。おまけにそいつは、ゴリャートキン氏がいままで夢にまで見てきたようなこと――役所の上役や同僚たちのあいだで如才なくふるまい、皆と完璧に打ち解けて、社交的で立派な人物として一目置かれること――をいとも軽々とやってのけて見せるのだ。ゴリャートキン氏にとってこれほど恐ろしいことはない。そうか、自分の不運や不幸はすべてこの”分身”のせいだったのか!と悟った彼は、”分身”相手に必死の応戦を試みようとするものの、端から勝負にならない。”分身”はゴリャートキン氏自身の理想像そのものなのだから、そんな相手に勝てようはずがないのだ。

先に書いた通り、ゴリャートキン氏は余人には計り知れないほどの劣等感・承認欲求の持ち主だけれど、そんな彼が自分の内部でやっきになって行なっていたことは、「他人の目線、他人の評価を気にしないようにすること」だったと言うことができるだろう。彼はことあるごとに、自分自身との対話、内的独白を繰り返す。それは、自信がなくおどおどした、落ち着きのない”第一の自己”と、「独立独歩の人間」で世間のことなんか気にしませんよ、わたしはじゅうぶん満ち足りちゃってますからね、という”第二の自己”との対話である。このふたつの自己のバランスが決定的に崩れてしまうのが、夜会からつまみ出された吹雪の夜だというわけだ。

内的自己のパワーバランスが、決定的に、”第一の自己”<”第二の自己”となってしまったことで、”第二の自己”が分裂するようなかたちで”分身”が出現する。当初はゴリャートキンのなかで自己充足のふりをしているばかりだった”第二の自己”は――なにしろ、ゴリャートキン氏はじっさい充足などしていなかったわけだから、もともとの”第二の自己”の発言は、単なる強がりのようなものでしかなかったのだ――いまや、ゴリャートキン氏を陥れ、あざ笑い、見下し、挑発する、”第一の自己”のおぞましいパロディとしてふるまうようになったのだ。結果、ゴリャートキン氏は、ひとりでシャドーボクシングしているうちに滑って転んで全身骨折してしまう、といった感じの、見るも無残なことになってしまう。これがなんともかわいそうで。ただイケてないだけの弱くて罪のないおっさんが、自意識の暴走のあまり、数少ない持ちものをひとつひとつ失っていき、ついには正気をなくしてしまう…って、なんとも身につまされる。なんとかがんばれよゴリャ~、って応援したくなってしまう。

ちなみに、中村健之介『ドストエフスキー人物事典』の本作に関する項に、おもしろいことが書いてあった。

このゴリャードキンの悲喜劇を書いていたころのドストエフスキーが、まさにゴリャートキンそっくりの疎外感と劣等感と強い予感と幻覚に苦しんでいたことは、当時かれの病気の治療に当たっていた医師ヤノーフスキーの回想や、文学者のサロンの女主人であった才女パナーエワの回想が伝えている。
ところがドストエフスキーは「恐るべき猜疑心」(パナーエワのことば)に苦しむ病人でありながら、自分がそのような病人であることをはっきり自覚しており、ときにはいわば病気を逆手にとって創作のために活用した。
『分身』を書きながら、病人のドストエフスキーは兄ミハイル宛の手紙でこう言っている。
「ぼくは正真正銘のゴリャードキンです。ゴリャードキンはぼくのノイローゼのお陰で儲けものをしました。アイデア二つと、新しい状況設定が一つ生まれました。」
つまり、自分がゴリャードキンでありながらゴリャードキンを観察しかつ操る、それも滑稽味をまじえて操るのである。(『ドストエフスキー人物事典』/中村健之介 講談社学術文庫 p.27)

うーん、なるほど。後年、ポリフォニー小説として花開くことになる、自分の内面をほとんど客観的に観察することのできるドストエフスキーの能力というやつは、もうこの頃から示されていたというわけだ。しかも、自分自身が、「正真正銘のゴリャードキン」だと自覚していたなんてね…!


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