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『哲学の教科書』/中島義道

『哲学の教科書』/中島義道

「哲学には「教科書」などあるはずがないということを、これでもかこれでもかと語り続けた」一冊。中島らしく、歯に衣着せないというか、率直過ぎるくらいに率直な語り口がたのしめる。読者に哲学への目を開かせ、哲学的な問題そのものに読書を誘う教科書というものがあるとすれば、それは以下のような条件を満たしているものだろう、と中島は言う。

まず、哲学とは純粋な意味では「学問」ではないのですから、そこに執筆者の個人的な世界への実感が書き込まれていなければならない。自分の体験に沿ってごまかしなく語ることが、不可欠の要素でなければならない。客観的な哲学入門書こそ、いちばんの見当違いなのです。(p.4)

次に、世の哲学入門書は、哲学をあまりに無害なもの・品行方正なもの・立派なものとして語りすぎる。私の考えでは、哲学とはもう少し病気に近いもの、凶暴性・危険性・反社会性を濃厚に含みもつものです。人を殺してなぜ悪いか、人類が宇宙に存在することに何らの意味があるか、どんなに一生懸命生きても私は結局死んでしまう……という呟きをまっこうから受けとめるものです。(p.4)

本書は、このような条件の下、哲学史のダイジェストを提示すること(つまり、「客観的」に哲学史の体系を語ること)を回避し、哲学そのものの根源にある問題をいくつかピックアップしながら、それらについての議論のさわりを見せてくれる。取り上げられるのは、「自己の死」、「時間」、「因果律」、「私」、「他人」、「存在」、「言語行為」などといった問題で、これらがさまざまな事例を通して解説されていく。そして、哲学の最大の問題とは何よりも「死」であり、「Memento Mori」であるということ、「哲学は何の役にもたたない」こと、哲学者は「哲学病」が原因で生まれる、といったことについても、繰り返し言及される。

また、そういった哲学的問題についての概説とは別に、「哲学とは何でないか」についても一章が割かれており、俺としてははここがいちばんおもしろかった。思想、文学、芸術、人生論、宗教、科学の各分野からさまざまな引用を引きながら、「これは哲学的ではない」(あるいは、「これは哲学的である」)と断じまくっているのだ。中島がとりわけ強調しているのは、一般的に「哲学的」とおもわれていることのほとんどは、思想であったり文学であったりするものであって、哲学とは異なるものだ、という話である。

たとえば、こんなところ。

人々が科学者や芸術家や宗教家には厳密な定義を与えながら、哲学者にだけは漠然とした意味を許して、数学者やピアニストや彫刻家になるのは難しいが「哲学者にだけは簡単になれる」と思っている風潮に、あえて私は反発したいのです。
しかも、「哲学的」ということを多くの人はプラスの価値とみなしており、「あなたは哲学的でない」と言うと自分の知性を全否定されたかのように怒る人がいますので、そうではなく哲学の才能とは数学や音楽の才能と同様きわめて特殊なもの、つまり全人口の一パーセントにも充たない人に割り当てられ、それがなくても生きてゆくのに全然さしさわりのない一つの特殊才能だ、と言いたいのです。(p.48)

「深遠」だったり「難解」だったりするものを、何でもかんでも「哲学的」って呼んだりするのは粗雑過ぎるし、哲学っていうのは思想とも文学とも芸術とも別のもので、もっとニッチで特殊な分野を指すものなのだ、ということだ。

また、中島は、プルーストの「芸術家がわれわれに与える喜びは、われわれがもっている宇宙の上にもう一つの宇宙を教えてくれることにあるのではないだろうか。」という文章を引いて、こんな風に述べている。

つまり、哲学者は「われわれがもっている宇宙」の謎にひっかかっており、それが不思議で不思議で仕方のない人種ですが、芸術家は「もう一つの宇宙」に望みをたくしている分だけ、目の前の世界に対する真剣な問いかけをしません。私は、絵画にしろ彫刻にしろ文芸にしろ一般にグロテスクな世界をめざすような作風の芸術家を好みませんが、それはわざわざ奇妙な世界を構築しなくとも、身のまわりの世界がすでに充分グロテスクであるのになあ、と思うからです。(p.91)

哲学と芸術とでは、「ひっかかって」いる問題や、思考の前提としている世界のレイヤー自体が異なっている、というわけだ。だから、優れた芸術家が必ずしも「哲学的」であるわけではないし、別にそうである必要もない。「哲学的」でないことは、とくにその芸術としての価値を貶めるようなものではない、ということになるだろう。


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