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『静かなる一頁』

『静かなる一頁』

早稲田松竹にて。『日陽はしづかに発酵し…』と同様、アレクサンドル・ソクーロフ監督の作品だ。ドストエフスキー『罪と罰』を下敷きにした作品、と聞いたことがあったけれど、下敷きと言うよりは、インスピレーションの源とした、くらいの言いかたの方がしっくりとくる感じだろうか。ドストエフスキー的な狂騒/祝祭/転落の感覚といったものは本作とはほとんど無縁であって、一切がひたすらに静謐で瞑想的なのだ。

やっぱり本作にもまともなストーリー展開は存在しないし、説明的なシークエンスなんてまったくのゼロ。ソクーロフ的な美と退廃とを併せ持った、幻想的で象徴的な廃墟のイメージがひたすら映し出され続けていく、それだけの映画だと言っていいだろう。もっとも、本作の映像――ほとんどモノクロのようにも見える、ダークで終末感が漂い、SFっぽくもあるようなふしぎな映像――はたしかにものすごく幽玄で美しいので、見るのは『日陽~』ほど辛くはなかった。(ただ、やっぱり、ソクーロフの映像の美しさというのは、あくまでも絵画的な美しさであるような気がする。人物たちも静止しているようなシーンがすごく多いし。映画(時間芸術)として時間をたっぷり使ってこういうイメージを展開することの意味が、俺にはまだいまいちよくわかっていないなーとおもう。)

映像以外でよかったのは、ソーニャ役の女の子(エリザヴェータ・コロリョーヴァ)の演技。妙に首を前に突き出した姿勢や、ぜんまい仕掛けの人形のような歩き方、かとおもえば力強くラスコーリニコフに語りかける「憑かれた」ような感じなど、そうそう、まさにソーニャってこれだね!とおもわされるようなインパクトがあった。

ちなみに、早稲田松竹の「上映作品案内」のページには、「マーラーのスタイルは、ドストエフスキーにとてもよく似ている」っていうソクーロフのコメントが掲載されていて(本作のメインテーマは、マーラーの”亡き子をしのぶ歌”なのだ)、あー、たしかにそういうところはあるかもなあ、って感心したのだけど、でも、ソクーロフ自身のスタイルは彼らとは似ても似つかないよね…ともおもった。


『日陽はしづかに発酵し…』

『日陽はしづかに発酵し…』

早稲田松竹にて。いやー、むちゃくちゃかっこいいタイトルだけれど、これは辛かった。とにかく眠い。明確なストーリーがなく、ただただ悪夢というか蜃気楼というか、詩情と同時にもやっと感の溢れまくる、気怠く黄色い映像が140分間流れ続ける…という感じの映画だった。トルクメニスタンの不毛で陰気な町に派遣されたロシア人青年医師を主人公に、彼の周囲で唐突に起こる不可思議なできごとが淡々と描かれていくのだが、それらに対する説明やエクスキューズは一切なし。潔すぎる一作である。(いや、もしかしたらロシア語で細々と説明がなされていたりするのかもしれない。字幕のあたっていない小さな台詞や背景のざわめきみたいなものはたくさんあったので。)

一応、作品のプロットを駆動させていくのは、「不条理」とか「幻想的」なんて言いたくなるような、よくわからない幾つかのエピソードだ。が、各エピソード同士の連関は基本的にほとんどない(ようにしか見えない)し、エピソード単体をとってみても、「俺、くっきりしたストーリーを語ることには興味ないんだよね…」とでも言いたげな不親切さがあって、感想を述べたりするのは難しい。寓話的な要素があるのはぼんやりとは理解できるような気がするものの――ソ連とその属国であるトルクメニスタンとの関係性(強制移住、核実験、政治犯の逃亡先?)――筋道立った説明ができるようにはおもえない。

というわけで、ひたすら長回しを続けるカメラと、そこに映し出される乾いた悪夢的世界、というまあ言ってみればそれだけの作品だ。そこに美しさやポエジーを感じ取ることはできる(というか、映像のセンスはたしかに素晴らしく、どのシーンも一枚の絵のようにびしっと決まっている)のだけれど、それにしても140分間集中して見続けるのは辛かった。30分くらいにまとまっていたら、結構好きかも…とはおもうのだけど、でも、それだとこの、時間が引き伸ばされて悪夢が延々と続いていく、いやーな感じが出ないんだろうな…。


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