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『二重人格』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

『二重人格』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

ちょっぴりマイナーな、ドストエフスキーの第2作目。その名の通り、いわゆる「分身小説」だ(俺が読んだのは岩波文庫の小沼文彦訳『二重人格』だけれど、訳によっては、タイトルを『分身』としているものも多い)。主人公のゴリャートキン氏は九等官の役人。人付き合いが下手で、これといった能力もなく、要領も悪い男だが、心の奥底では強い自尊心がマグマのようにぐつぐつと沸き立っているという、きわめてドストエフスキー的な人物である。彼は、ある夜会でヘマをやらかし、つまみ出されてしまった帰り道、吹雪と濃霧のなかで自分とまったく同じ姿をした男を見かけるのだが…!

ゴリャートキン氏は、小心で引っ込み思案、孤独を好んでいるくせに、恐ろしいほど強烈な自意識の持ち主である。とにかく他人の目が気になって気になって仕方ないのだ。だから、自分は周囲の人間からことごとく相手にされず、軽蔑されている、まったく正当に評価されていない…といつも感じてしまい、ひとりで苦しんでばかりいる。劣等感や存在承認の欲求というやつは人間誰しもが持っているものだろうし、俺だってそれなりに強いそれらが自分の内にあることを知っているつもりではいるけれど、彼の相手にはとてもならない。なにしろ、彼の超先鋭的な劣等感は、自身の理想像を投影した自分とそっくりな姿の幻影――”分身”たる新ゴリャートキン氏――を生み出してしまうのだ。

“分身”はゴリャートキン氏の行く先々に現れては、まさにここしかないというようなタイミングでゴリャートキン氏の出鼻をくじき、計画をむちゃくちゃにしてしまう。おまけにそいつは、ゴリャートキン氏がいままで夢にまで見てきたようなこと――役所の上役や同僚たちのあいだで如才なくふるまい、皆と完璧に打ち解けて、社交的で立派な人物として一目置かれること――をいとも軽々とやってのけて見せるのだ。ゴリャートキン氏にとってこれほど恐ろしいことはない。そうか、自分の不運や不幸はすべてこの”分身”のせいだったのか!と悟った彼は、”分身”相手に必死の応戦を試みようとするものの、端から勝負にならない。”分身”はゴリャートキン氏自身の理想像そのものなのだから、そんな相手に勝てようはずがないのだ。

先に書いた通り、ゴリャートキン氏は余人には計り知れないほどの劣等感・承認欲求の持ち主だけれど、そんな彼が自分の内部でやっきになって行なっていたことは、「他人の目線、他人の評価を気にしないようにすること」だったと言うことができるだろう。彼はことあるごとに、自分自身との対話、内的独白を繰り返す。それは、自信がなくおどおどした、落ち着きのない”第一の自己”と、「独立独歩の人間」で世間のことなんか気にしませんよ、わたしはじゅうぶん満ち足りちゃってますからね、という”第二の自己”との対話である。このふたつの自己のバランスが決定的に崩れてしまうのが、夜会からつまみ出された吹雪の夜だというわけだ。

内的自己のパワーバランスが、決定的に、”第一の自己”<”第二の自己”となってしまったことで、”第二の自己”が分裂するようなかたちで”分身”が出現する。当初はゴリャートキンのなかで自己充足のふりをしているばかりだった”第二の自己”は――なにしろ、ゴリャートキン氏はじっさい充足などしていなかったわけだから、もともとの”第二の自己”の発言は、単なる強がりのようなものでしかなかったのだ――いまや、ゴリャートキン氏を陥れ、あざ笑い、見下し、挑発する、”第一の自己”のおぞましいパロディとしてふるまうようになったのだ。結果、ゴリャートキン氏は、ひとりでシャドーボクシングしているうちに滑って転んで全身骨折してしまう、といった感じの、見るも無残なことになってしまう。これがなんともかわいそうで。ただイケてないだけの弱くて罪のないおっさんが、自意識の暴走のあまり、数少ない持ちものをひとつひとつ失っていき、ついには正気をなくしてしまう…って、なんとも身につまされる。なんとかがんばれよゴリャ~、って応援したくなってしまう。

ちなみに、中村健之介『ドストエフスキー人物事典』の本作に関する項に、おもしろいことが書いてあった。

このゴリャードキンの悲喜劇を書いていたころのドストエフスキーが、まさにゴリャートキンそっくりの疎外感と劣等感と強い予感と幻覚に苦しんでいたことは、当時かれの病気の治療に当たっていた医師ヤノーフスキーの回想や、文学者のサロンの女主人であった才女パナーエワの回想が伝えている。
ところがドストエフスキーは「恐るべき猜疑心」(パナーエワのことば)に苦しむ病人でありながら、自分がそのような病人であることをはっきり自覚しており、ときにはいわば病気を逆手にとって創作のために活用した。
『分身』を書きながら、病人のドストエフスキーは兄ミハイル宛の手紙でこう言っている。
「ぼくは正真正銘のゴリャードキンです。ゴリャードキンはぼくのノイローゼのお陰で儲けものをしました。アイデア二つと、新しい状況設定が一つ生まれました。」
つまり、自分がゴリャードキンでありながらゴリャードキンを観察しかつ操る、それも滑稽味をまじえて操るのである。(『ドストエフスキー人物事典』/中村健之介 講談社学術文庫 p.27)

うーん、なるほど。後年、ポリフォニー小説として花開くことになる、自分の内面をほとんど客観的に観察することのできるドストエフスキーの能力というやつは、もうこの頃から示されていたというわけだ。しかも、自分自身が、「正真正銘のゴリャードキン」だと自覚していたなんてね…!


「駅長」/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

「駅長」/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

またまた『貧しき人びと』関連のエントリになるけど、こちらは、「外套」とは違って、マカールが気に入った方の作品。ロシアのとある県の駅長にまつわる、小さな物語だ。

駅長といっても、プーシキンの生きた19世紀初頭の駅なので、鉄道ではなくて、馬の駅、乗りつけ場といったもののことだ。そんなところの駅長には、もちろん『きかんしゃトーマス』の駅長みたいな威厳や権限は備わってはいない。「概しておとなしい、生まれつき世話ずきな、人づきのいい、別にお高くとまったところもなければ、金銭欲もさして強くない」、まあ言ってみれば小役人、ごくごく気弱な人物なのである。そんな駅長には、ドゥーニャという利発で可愛らしい、「どんな旅の方でも、あれを褒めない人はありません」、「どんなにぷりぷりしてらっしゃる旦那でも、あれが出るとお静まりになって、私にも優しい口をきいてくださる」、っていう、まあよくできた娘がいたのだったけれど、ある日、彼女は旅の士官に連れ去られていってしまう。必死で娘の後を追いかけ、どうにか行き先を掴んだ駅長だったが、もはや彼女は士官のもとでいままでよりずっと豊かで幸せな暮らしをしているようなのだった。悲しみに打ちひしがれた駅長は、やがて酒に溺れて死んでしまうことに…!

というわけで、これは、駅長の悲哀を描いた作品ではあるのはもちろんだけれど、では、娘の方はどうだろう?娘にとってもこの一連のできごとは、外部から不意に訪れ、自分の人生をむちゃくちゃにしてしまった悲劇だったのだろうか??…ということについては、かんがえるまでもない。なにしろ、本作にはドゥーニャの気持ちを推し量るためのわかりやすいヒントがいくつも散りばめられているのだ。

駅馬券によって彼は、騎兵大尉のミンスキイがスモレンスクからペテルブルグへ行く途中だったことを知っていた。彼を乗せて行った御者の言葉によると、ドゥーニャは途々ずっと泣きどおしだったけれど、そのくせ自分から好き好んで乗って行くような様子だったそうである。『まあたぶんおれは』と駅長は考えるのだった、『うちの迷える子羊を連れもどせることになるだろうよ。』(p.129,130)

みごとに飾りつけられた部屋のなかに、ミンスキイが思い沈んだ様子ですわっていた。ドゥーニャは流行の粋をつくした装いで、さながらイギリス鞍に横乗りになった乗馬夫人のような姿勢をして、男の椅子の腕木に腰をかけている。彼女は優しい眸をミンスキイに注ぎながら、男の黒い捲毛を自分のきらきら光る指に巻きつけている。かわいそうな駅長よ!彼には、わが娘がこれほど美しく見えたことはかつてないのだった。彼は思わずうっとりと見とれていた。(p.136)

「きれいな奥さんだったよ」と男の子は答えた、「六頭立ての箱馬車で、小っちゃな坊っちゃん三人と、乳母と、真黒な狆を連れてやって来たっけが、駅長さんが死んだと聞くと、泣き出しちゃってね、坊っちゃんたちに『おとなにしてるんですよ、お母さんはお墓参りをして来るから』って行ったよ。俺らが案内してやろうというと、奥さんは『いいのよ、道は知ってるから』って言ったっけ。そいで俺らに五コペイカ銀貨をくれたっけが。……ほんとにいい奥さんだったよ!」(p.142)

『貧しき人びと』のワルワーラがどこまで実際的・打算的だったかというのはなかなか微妙なところだけれど、少なくとも、本作のドゥーニャはなかなか現実をしっかりと見すえるタイプだった、くらいのことは言っていいだろう。こんな風に関連作品をいろいろと読んでいくと、それなりに発見があったりするもので、結構おもしろい。


「外套」/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

『鼻/外套/査察官』/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

先日エントリを書いた『貧しき人びと』のパロディ元である、ゴーゴリの「外套」をひさびさに読み返してみた。光文社古典新訳文庫に収録されているのは浦雅春の訳で、なんと全編が落語調の文章になっている。文章の軽妙さが”いわゆる古典っぽさ”を軽減している感はあるけれど、まあゴーゴリならこういうのもありだよね、っておもえるし、とくに違和感もなく読める。

アカーキー・アカーキエヴィチはまるで冴えない九等官の貧乏役人。仕事といえば浄書以外には何もできず、周囲からはいつもばかにされている。そんな彼だが、ある日一念発起、爪に火をともす節約生活の末、ついに外套を新調することに成功する。るんるん気分で出かけるも、なんと新調したその晩に追い剥ぎにあい、外套は奪われてしまう。警察に届けを出し、役人にも手を回してもらうよう嘆願するが、まるで相手にしてもらえないばかりか、なぜか逆に一喝されてしまう始末。アカーキーはショックのあまり発熱し、命を落としてしまうのだった。その後、街路には幽霊が出没、道行く人の外套を剥ぎ取るようになったのだという…!

プロットからすれば、じゅうぶん悲劇としてやっていけそうな物語であるにも関わらず、ゴーゴリは本作を滑稽譚として、ほとんどギャグみたいなものとして描いているように見える。なにしろ、登場人物が全員冴えない。まともな人物、小説の主人公たりえそうな人物がひとりもあらわれないのだ。極端な貧しさとしょぼさが主人公の資格にアカーキーを近づけてはいるけれど、彼が、『貧しき人びと』のマカールのようによくもわるくも心を揺さぶるような激しい独白をすることはない。彼はなにしろ清書だけやっていれば幸せ、もうそれだけで満足です、って人物なのであって、自分の貧しさや他人の視線なんかをいちいち憂いたり嘆いたりすることはないのだ。

どれだけ上司や長官が代わろうが、この男の居場所もポストも職務もかわらず、いつも筆耕のままなので、やがて人は、どうやらこの男、すっかりこのままの姿で、つまり文官の制服を着て、おでこに禿を作ってこの世に生まれてきたにちがいないと思い込んだとしても不思議はない。
役所でもこの男、歯牙にもかけられない。やっこさんが前を通り過ぎても守衛は腰もあげないばかりか、まるでただの蝿が玄関口をひょいと飛んでったくらいのもんで、目もくれようとしない。上司のあつかいときたら、愛想もへったくれもない。局長の補佐官などは、いきなりやつの鼻先にむんずと書類を突き出すばかりで、「清書したまえ」とも、「なかなかおもしろい仕事だぞ」とも言うわけでもない。礼儀正しい職場なら言うはずのやさしい言葉ひとつかけるでもない。やっこさんはといえば、こちらもちらと書類に目を走らせるだけで、誰が仕事を持ってきたのか、そんな権限があるのかすら斟酌する風もない。受け取るとすぐさま清書に取りかかるんであります。(p.73,74)

いや、この男、愛情を持って勤めにはげんでおりました。浄書をしているだけで、この男には自分なりの、なんというか、いろんな愉しい世界が開けてくる。法悦のさまがその顔にうかんでまいります。この男にはお気に入りの文字がいくつかありまして、その文字に近づいてくると、男はもう気もそぞろ、にたにたして、目をぱちくりしはじめる。そこに唇までが加勢するもんですから、男のペンが書きつける文字がその顔色から読めちまう。(p.75,76)

もちろん、本作でも貧しい人々や社会的不公正といったものがモチーフとして大きく取り扱われてはいるのだけれど、それらに対する目線はひたすらにドライ。そのニュアンスは到底”同情的”であるようには見えず、がんばってもせいぜい”風刺的”といったところ。全体的に、ゴーゴリの描写は非常に即物的なのだ。

そういうわけで、「外套」は、悲劇を悲劇たらしめる要素、悲劇性というやつが致命的に奪われてしまった物語であり、それだからこそのインパクトを持っている、ということができるだろう。この物語のエンディングには、メロドラマ性も、思想の激突も、悲しみの果てにある慟哭もない。あるのはただ、外套を奪いまくる幽霊の出現とその消滅、っていう、そんな地味過ぎるできごとの記録だけなのだ。


『貧しき人びと』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(その2)

『貧しき人々』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

マカールの発話のスタイル――他者の視線を内面化し、先取りした他者の言葉に絶えず反発しながら自分語りをする――や、その病的なまでの熱烈さというやつは、まさしくドストエフスキー独特のものだけれど、マカールというキャラクターの設定自体は、ゴーゴリ「外套」の主人公、アカーキー・アカーキエヴィチをベースとし、パロディ化したものだと言っていいだろう。(ふたりは、官位も仕事内容もまったく同じだし、生活水準も似たようなもの。アカーキーには、マカールのように強烈な自我が与えられていない、というのがいちばん大きな違いだろうか。)

ゴーゴリは、「外套」において、ひたすら即物的な描写を連ねていくことでプロットの悲劇性を削ぎ落とし、それを乾いた笑いに変えてしまっていた。まあなにしろゴーゴリというやつは、自分の創り出した作中人物に対して、まるで容赦のない男なんである。ドストエフスキーは、作中でそんな「外套」をマカールに読ませ、憤らせてみせる。

それに、いったいなんのためにこんなものを書くのでしょうか?こんなことがなんの必要があるのです?読者のだれかが代りにこのわたしに外套を作ってくれるとでもいうのですか?新しい靴でも買ってくれるというのですか?とんでもありません、ワーレンカ、さっと読みとばして、つづきを見たいというのが落ちですよ。(p.132)

あの連中も、あの失敬な当てつけ専門の三文文士どもも方々歩きまわって、わたしどもが足をちゃんと敷石について歩いているか、爪先だけで歩いているか、などと観察しているんですよ。そして家に帰ってから、某省に勤める九等官某は靴の先から足の指がむき出しになっており、肘のところも破けている――などとこまごま書きとめて、そんなくだらない代物を出版しているのです……わたしの肘が破れていたって、それがどうしたっていうんだ?いや、こんな乱暴な言葉をつかって失礼ですが、ワーレンカ、貧乏人にもこんなことについては、きみに処女の羞恥心があると同じように、羞恥心があるのだ、ということを申し上げておきましょう。だって、まさかきみは、乱暴な言葉を使って失礼ですが、衆人環視のなかで裸になんかなりはしないでしょう。それとおんなじことですよ。貧乏人だって、あいつの家庭生活はどんなだろうなどと、自分の小部屋を覗きこまれたくはないのですよ。(p.148,149)

かわいそうなくらいに純粋で素朴なマカール。「外套」を読んでも、まさに自分のことが書かれているとしかおもえないのだ(自分の原型なのだから当然だ!)。読者としても、そんなマカールにちょっぴり同情してしまいそうになる。

しかし、本作は、単に貧しき人々にひたすら同情的なだけの、センチメンタルな悲恋の物語というわけではない。マカールとワルワーラの関係を少していねいに見てみれば、それは明らかだ。

マカールは日々の暮らしすら困難を極める生活をしているのにも関わらず、ワルワーラへの恋心で見境をなくし、あちこちに借金をつくりながら彼女にお菓子やら花やらを贈り続ける。ワルワーラさんワルワーラさん、って、もう彼女に夢中でしょうがないのだ。前回のエントリで引用したような長尺かつ暴走気味な手紙を、自分よりだいぶ年下の女の子に送り続ける彼は、もうほとんどワルワーラのことを神格化してしまっているようですらある。

けれど、ワルワーラはもともとマカールに対して恋心を抱いてはいないようだし(彼女は、あくまでも”庇護される者”としての立場を貫こうとしているように見える)、マカールの高すぎるテンション、むちゃ過ぎる金の遣い方に若干引き気味になっていることも少なくない。

あなたはまるっきりお金なんかお持ちではなかったのに、ふとしたことからあたくしが困っていることをお聞きになり、それに心を動かされて、月給を前借りしてまであたくしを助けようという気を起こされ、あたくしが病気になったときにはご自分の服までお売りになってしまったのです。今ではそれがすっかりわかってしまいましたので、あたくしはそれをどう受取ったものか、どう考えたらよいのか、今なおわからないくらい苦しい立場においこまれました。ああ!マカールさん!あなたは同情の気持と肉親としての愛情に動かされてなさった、あの最初のお恵みだけで止めておいて、その後の無駄使いをなさってはいけなかったのです。マカールさん、あなたはあたくしたちふたりの友情を裏切りなさったのです。だって、あなたはあたくしに打明けてくださらなかったんですもの。(p.135)

あなたはあたくしがあなたの不幸の原因となったことを、あたくしに悟られまいと気を使ってくださいましたが、今度はご自分の行いで二倍の苦しみをあたくしに与えてくださったわけですのよ。ねえ、マカールさん、あたくしは今度のことではほんとにびっくりいたしました。ああ、あたくしの大切な方!不幸は伝染病みたいなものですわね。不幸な者や貧しい人たちはお互いに避けあって、もうこれ以上伝染させないようにしなければなりません。あたくしはあなたが以前のつつましい孤独の生活では一度も経験なさったことのないほどの不幸をあなたに持ってきたのでございます。それを思うと、あたくしは苦しくて、死にそうですわ。(p.137)

ねえ、さすがにちょっと重すぎますわマカールさん、ってところだろうか。

そんなワルワーラについて、清水正は、『ドストエフスキー『白痴』の世界』で、こんなことを書いていた。

ワルワーラは女街のアンナ・フョードロヴナや淫蕩な地主貴族ブイコフに一方的に屈服したのではない。彼女は自分の過去の「汚辱をそそぎ」「名誉を取り戻す」ために(ということは、ワルワーラがすでにブイコフと関係があったということであって、彼女を処女と見做した評論家こそいい面の皮である)、また「貧困と欠乏と不幸」から逃れるために正式にブイコフの結婚申し込みを受けているのである。ワルワーラの貧困ひとつ取ってみても、よくよく頭を冷やして考えてみなければならないのだ、何しろ彼女は貧困であるにも拘らず女中フェードラと一緒に暮らしていたのであるから。以上のことから彼女はブイコフ一派に屈したというよりは、自分の内なる<ブイコフ>(虚栄・名誉・贅沢、確固たる生活の保証等)に屈したといえる。(『ドストエフスキー『白痴』の世界』/清水正 鳥影社 p.94,95)

ワルワーラと地主貴族ブイコフのあいだに「関係があった」かどうかは、作中には明確な記述がないので、「いい面の皮である」ってのはいくらなんでも駆け足過ぎ、言い過ぎだとおもうけれど、後半部分については俺もおおむね賛成だ。ワルワーラはブイコフに連れ去られたのではない。彼女は、彼女の意志でマカールを捨て、ブイコフを選び取っているのだ。

まあそういうわけで、彼女の選択は、”貧しさが愛するふたりを引き裂く、悲劇の結末”と見ることができるのと同時に、”なんだかんだで打算的・実際的な女による、現実的な判断”であると解釈することもできる。もっとも、打算的・実際的にならざるを得ない原因というのはやはり貧しさにあるわけで、彼女の心情にはこれら双方のニュアンスが含まれている、くらいの言い方がより正確なところかもしれない(たとえば、彼女自身としては打算的なつもりなど少しもないのかもしれない)。マカールの自意識とその発露の形もややこしかったけれど、ワルワーラの気持ちも、またややこしい。テーマ、プロット、形式のどの切り口からでも多層的な読みが可能になっているのがドストエフスキー作品の特徴だけれど、その特徴はこのデビュー作からじゅうぶんに発揮されているということができるだろう。


『貧しき人びと』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(その1)

『貧しき人々』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

ドストエフスキー、24歳のときのデビュー作。作品のボリューム的には、まあ中編といったところだろうか。主人公のマカール・ジェーヴシキンはペテルブルクのぼろアパートに暮らす、貧しい中年の小役人。同じアパートの向かいの棟には、お針子をして糊口をしのいでいる、天涯孤独で病弱な若い娘、ワルワーラが住んでいる。無学で小心、善良で、貧乏をなめつくしている彼らは、お互いの境遇を気にかけながら苦しい生活を続けていたのだったが、ある日突然、ワルワーラと地主貴族との縁談が持ち上がる。マカールの懇願にも関わらず、ワルワーラは縁談を受け入れ、彼のもとを離れていくのだった…!

作品は全編にわたって、マカールとワルワーラの手紙のやり取りのみで構成されている。いわゆる書簡体小説というやつだ。この形式の作品の例にもれず、本作も大枠としては、”手紙を通して男女の感情の機微を描いた作品”だと言っていいだろう。「手紙に書かれていることだけだが読者に知らされること」という構造を利用して、肝心な出来事を省略したり、主人公たちの感情の揺れ動きの原因をあえて明言しないことで読者の興味をひいたり、ということができるのがこの手法の大きな特徴だけれど、そこはドストエフスキー、手紙に込められた熱量がいちいち半端じゃないし、主人公たちの心理状態はなかなかに複雑、単なる書簡体小説の枠組みに収まりきらないような、多層性を持った作品に仕上げてきている。

マカールは、他人の噂や嘲笑的な視線をやたらと気にする、ほとんど被害妄想的な性格の持ち主だが、その原因は、彼の貧しさに由来する劣等感や羞恥心にあると言っていい。現実世界の自分にまるで自信が持てず、他人を恐れてばかりいる彼が唯一熱中するのが、ワルワーラという想い人への手紙なのだ。

ああ、ワーレンカ、ワーレンカ!今度こそ罪があるのはきみのほうですよ、きみはきっと良心の呵責を受けるでしょう。きみのお手紙でわたしはすっかり理性をかき乱され、当惑してしまいました。でも、今ようやく暇ができたので、わが心のなかを顧みて、自分のほうが正しかったのだ、絶対に正しかったのだと悟ったのです。わたしは自分のやったふしだらなことをいっているんじゃありません(あんなことは、あんなことは問題じゃありませんよ!)。わたしがいいたいのは自分がきみを愛したということなんです。しかも、きみを愛することがわたしにとっては少しも無分別なことではなかった、決して無分別なことではなかったということです。きみはなんにもご存知ないんです。(p.140,141)

ワルワーラさん!わたしの可愛い人!わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました!わたしは破滅しました。きみも破滅しました。きみもわたしと一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅してしまったんです!それはわたしのせいです、わたしがきみを破滅に導いたのです!わたしは追い立てられ、軽蔑され、笑いぐさにされています。女主人さんはもう頭ごなしにがみがみと怒鳴りつけるようになりました。きょうも一日じゅうわたしのことをさんざん怒鳴りちらして、鉋屑ほどの値打ちもないように、こきおろす始末です。晩にはラタジャーエフのところで、誰やらがきみあてのわたしの手紙の下書きを声高々に読みあげました。それはわたしが書きあげたものを、うっかりポケットから落した代物です。みんながよってたかってそれは冷やかしました!わたしたちのことをさんざんはやしたて、笑いころげました、あの裏切り者どもめ!(p.175)

こんなところなんて、もうテンションがすごいことになっている。マカールは、外面的には貧相で誰にも注目されることのない、まったくの日陰者、持たざる者なわけだけれど、その内面はこんなにも繊細で偏執的、激しい自尊心や承認欲求が渦を巻く、きわめて興味深いものになっているのだ。

そんなクレイジーなマカールの発話について、ミハイル・バフチンは、以下のように述べている。

ドストエフスキーはその処女作において、彼の全創作にとってきわめて特徴的な発話の文体、すなわち他者の言葉を先取りしようという緊張した意識によって規定された発話の文体を作り上げようとしている。処女作以降の創作におけるこの文体の意義は、実に巨大なものである。主人公たちのきわめて重要な告白的自己言表には、自分についての他者の言葉、自分についての自分の言葉への他者の反応が先取りされ、それに対するきわめて緊張した姿勢が染みわたっているからである。/『貧しき人々』では、こうした文体の<<卑屈な>>バリエーション、つまり、びくついておずおずとあたりを気遣い、挑戦心を胸の内に押し殺しながら、痙攣に身をよじらせているような言葉の錬成が、すでに始まっているのである。(『ドストエフスキーの詩学』/ミハイル・バフチン ちくま学芸文庫 p.416)

その本質とは、意識と言葉のあらゆる要素内における二つの意識、二つの視点、二つの価値観の交錯と切断であり、いわば原子のレベルにまで至る二つの声の遮り合いなのである。(『ドストエフスキーの詩学』/ミハイル・バフチン ちくま学芸文庫 p.428)

さすがバフチン、すばらしくエレガントでわかりやすいまとめ方だ。マカールの内に表現されている「びくついておずおずとあたりを気遣い、挑戦心を胸の内に押し殺しながら、痙攣に身をよじらせているような言葉」や、「二つの声の遮り合い」こそが、本作の中心で摩擦熱を発し、全体をドライブしているものだと言うことができるだろう。


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