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『三人姉妹』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『三人姉妹』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

舞台はとある地方都市。没落貴族の三人姉妹、オーリガ、マーシャ、イリーナは、いつか故郷のモスクワに帰ることを夢見ながら、淡々と日常を送っている。彼女らの家には、街に駐屯中の旅団の将校たちが何人も出入りしている。日々は静かだが、それでも時間の流れとともに、ものごとは少しずつ変わっていく。彼女らの兄弟、アンドレイは弱気な娘のナターシャと結婚する。マーシャは妻子持ちの中佐、ヴェルシーニンと恋に落ちる。イリーナはトゥーゼンバフ男爵と婚約し、新しい生活を始めようと誓う。

旅団が街を去る日、トゥーゼンバフは恋敵のソリョーヌイと決闘し、命を落とす。三人姉妹は、夢見たものが目の前で次々と形を失い、手を離れていくのを見つめながらも、これからも何とか生きていかなくてはならない、と互いに寄り添って立つ…。

『桜の園』で競売の場面が描かれないのと同様に、『三人姉妹』においても、ドラマを推進していく事件そのものが舞台上で描かれることはほとんどない。第三幕の火事や、第四幕のトゥーゼンバフの死は、あくまでも背景に位置するもので、人物たちはその状況に対して何らの対応策を講じることもできないのだ。また、物語の時間経過に従って、アンドレイと結婚したナターシャが次第に家庭内で専制的にふるまうようになっていく様が不気味に描き出されるけれど、これもまた、アンドレイを含めた主人公たちにとって、自らの力ではどうにも対処しようのない、とにかくどんどん悪くなっていく状況、というものとして扱われている。

『桜の園』のラネーフスカヤたちは、自分たちを待ち受ける運命に対して諦めを感じ、あえて何もしない道を選んでいるようにも見えたけれど、本作の主人公たちは、はっきりとはわからない何か大きな流れに対し、抗う術を知らず、ただただ押し流されていくことしかできないでいるようだ。背景で何が起こっているのか知ることのできない彼らは、自分たちを取り巻く状況に対して、こんな風に言葉を発することしかできないのだ。

マーシャ わたし、こう思うの――人間は信念がなくてはいけない、少なくも信念を求めなければいけない、でないと生活が空虚になる、空っぽになる、とね。……こうして生きていながら、何を目あてに鶴が飛ぶのか、なんのために子供は生まれるのか、どうして星は空にあるのか――ということを知らないなんて。……なんのために生きるのか、それを知ること、――さもないと、何もかもくだらない、根なし草になってしまうわ。(p.187)

イリーナ あたしはもう二十四で、働きに出てからだいぶになるわ。おかげで、脳みそがカサカサになって、痩せるし、器量は落ちるし、老けてしまうし、それでいてなんにも、何ひとつ、心の満足というものがないの。時はどんどんたってゆく、そしてますます、ほんとうの美しい生活から、離れて行くような気がする。だんだん離れて行って、何か深い淵へでも沈んで行くような気がする。あたしはもう絶望だ。どうしてまだ生きているのか、どうして自殺しなかったのか、われながらわからない……(p.230)

トゥーゼンバフ じつにくだらない、じつに馬鹿げた些事が、ふとしたはずみで、われわれの生活に重大な意義を帯びてくるようなことが、時にはありますね。相変わらずくだらん事だと高をくくって、笑いとばしているうちに、ずるずる引きずられて、もう踏みとどまる力が自分にはない、と思った時はすでにおそい。(p.257)

アンドレイ ああ、一体どこなんだ。どこへ行ってしまったんだ、おれの過去は?おれが若くて、快活で、頭がよかったあの頃は?おれが美しい空想や思索にふけったあの頃、おれの現在と未来が希望にかがやいていたあの時代は、どこへ行ったのだ?なぜわれわれは、生活を始めるか始めないうちに、もう退屈で灰色な、つまらない、無精で無関心な、無益で不仕合せな人間に、なってしまうのだろう。(p.258,259)

物語の背景にあるのは、不穏に動いていく時代の流れなのだが、彼らはそれをはっきりと見定めることができないでいる。ある者はそれに気づきもしないし、ある者は、あえて目をそらし、見なかったふりをする。そしてまたある者は、その流れの強さに圧倒され、ただ立ち尽くすことしかできない。だから、彼らの運命は悲劇的であるのに、そのふるまいは喜劇的なものになってしまうのだ。

そういう意味で、本作は三人姉妹の内面を描いたメランコリックなドラマであるのと同時に、現在というものを目隠しをつけたまま通り過ぎて行くことしかできない人間――自分の周囲や背景で何が起こっているのかは、いつだって事後的にしかわからない――というものへの乾いたまなざしを内包した物語であるということができるだろう。とどまることのない時の流れのなかで人間にできるのは、せいぜい、「たがいに寄り添って立つ」ことくらいなのだ。


『桜の園』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『桜の園』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

没落貴族のラネーフスカヤ夫人が、娘のアーニャと共に、5年ぶりに「桜の園」へと帰ってくるところから物語は始まる。6年前に夫と小さな息子を立て続けに亡くした夫人は、失意の内にパリへと逃亡、愛人のもとで暮らしていたのだ。ひさびさに帰還する領主を「桜の園」の人々は暖かく出迎えるが、彼らがそこで過ごすことのできる時間はほとんど残されてはいなかった。「桜の園」は借金のカタに競売にかけられることになっていたのだ。やれ困ったことだ、いったいどうしたものか、まったく昔はよかったよ…などと皆で語らい合っているうちに時は過ぎ、いよいよ競売の日が訪れる…!

本作でまずおもしろいのは、誰も本気で「桜の園」を守りたい、とはおもっていなさそうなところだ。いや、正確には、「桜の園」を守るための具体的な行動を誰ひとり取ろうとしない、というところだ。ラネーフスカヤも、その兄ガーエフも、娘のワーニカとアーニャも、それぞれにいろいろな気持ちを抱えてはいるものの、その気持ちをどうにかするための何の行動も起こそうとはしないのだ。

だから、全編に渡って描かれていくのは、彼らの無為なおしゃべりやだらだらした日常の様子、ということになる。ガーエフは本棚の前で昔日を偲んで演説をぶち、トロフィーモフはアーニャに向かって明るく光り輝く未来予想図を語ってみせる。ラネーフスカヤは借金を抱えていながら派手な金遣いを改めるでもないし、古くから「桜の園」を仕切ってきた老従僕のフィールスは、ボケが進んでギャグ担当のようになってしまっている。彼らの思い出語りや思いつきのアイデア、うわさ話や空想や思想などなど、空虚な言葉たちが舞台上を数多く飛び交っていくことになるわけだけれど、肝心要のことには誰も手をつけようとしないのだ。

そうして、「桜の園」は、ただひとりこの状況に対してアクティブに動いた人物、新興商人のロパーヒンによって買い取られることになる。ラネーフスカヤたちが「桜の園」を去るエンディングは、ひとつの時代の黄昏を象徴的に描いているとも言えるだろうし――ロパーヒンは、先祖代々農民の家系だったが、農奴解放によって新たな階級として不意に現出した人物である――、もはや状況をどうにかしようという気力やモチベーションを失ってしまった人々は、ただただ流されるに任せてこれからも生きていくのだろう…という未来を予感させるものになってもいる。

 *

とはいえ、トロフィーモフとアーニャについては、これから新しい時代へと踏み出していく希望に満ちた若い世代である、という読み方もできなくはないだろう。トロフィーモフはアーニャに理想と幸福を力強く語ってみせるのだし、じっさい、俺も高校生の頃に本作を読んだときは、そんな風に感じていたものだった。トロフィーモフのこんな台詞をノートにメモしていたのを覚えている。

もしあなたが、家政の鍵をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。(p.72)

ただ、今回読んで感じたのは、彼についてもまた、観念の世界のロマンティックな響きに憧れを抱いてるばかりの愚か者、憂うばかりで何も行動することのないインテリ、という風に読むことができるよな、ということだった。アーニャにしても、そんな彼のことをどこまで本気で信じているのかどうかはっきりとしない(というか、うんうんそうねそうねって、聞き流しているようにも読める)。そんな風にかんがえてみると、作品全体に漂う、薄ら寒い感じがより強化されるような気もする。まあ、昔と比べると、作品のセンチメンタルな側面よりも、メランコリックなイメージの方が強く印象に残った、ということだ。

もっとも、これはどちらが正解というような話でもないだろう。トロフィーモフには、両方の側面――若さゆえ、インテリゆえの未来への希望と、まさにそれゆえの愚かしさ――が与えられれいるのだ。それはたとえば、以下のようなやりとりを見てみるとわかりやすい。

トロフィーモフ 領地が今日売れようと売れまいと――同じことじゃありませんか?あれとはもう、とっくに縁が切れて、今さら元へは戻れません。昔の夢ですよ。気を落ち着けてください、奥さん。いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです。

ラネーフスカヤ 真実をねえ?そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか目が霞んでしまったみたいで、何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけれど、でもどうでしょう、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら?あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも、元をただせば、まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿されているので、怖いものなしなんだからじゃないかしら?(p.84,85)

彼らの台詞は、たしかにそれぞれにとっての「真実」を語っているけれど、しかし問題は、言葉によって、自分のおもっているまさにその感じ、というのを丸ごと相手に伝えることは不可能だし、相手のそれを心から理解することも決してできはしない、ということだ。ラネーフスカヤにはそれがわかっているけれど、若いトロフィーモフには、そのような「真実」はまだピンとこない、というわけだ。(自分は「真実」なるものを正しく見定めることができる、というかんがえ自体が、若さゆえに持ち得る希望であり、愚かさでもある。)

そんな「真実」は、虚しく、悲しいものだけれど、でも、そもそもコミュニケーションというものはそんなものである、とチェーホフはかんがえているようだ。だから、こんな風に互いのもとにまで決して届くことのない言葉たちがどこまでも空回りし続けることで、悲喜劇的な舞台の空しさはひたすらに高められていくことになる。エンディングで悲しげに鳴る、弦の切れた音は、そんな物語の最後にいかにもふさわしいと言えるだろう。

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…ただ、俺としては、こういう結論に落ち着いてしまうと、少し不満というか、居心地の悪さを感じることになる。何と言ったらいいか…。

チェーホフは、ラネーフスカヤたちの愚かさや悲しみを、あえて醒めた目で見つめ、悲劇ではなく喜劇として描き出そうとしている。そこから生じるのはメランコリックで乾いた笑いであり、どこへ向かうこともなくただ消えていくしかない、いわく言いがたい情感だ。

ラネーフスカヤたちは、自らの運命に対し、それぞれじつに劇的な言葉を発するけれど、劇的ということはつまり、それらはいずれも通俗的で凡庸な、お定まりの台詞、紋切り型に過ぎないということでもある。おまけに、そんな風に揃って凡俗な彼らであるのに、互いにしっかりと気持ちが噛み合うということだけは決してあり得ず、それぞれの「真実」を胸に抱えたままばらばらに生きていく他ない。人間とは、どこまでも月並みで、情緒に流されやすく、互いに分かり合うことのできない、愚かな存在である、それはなんと悲しく、滑稽で、憂鬱であることか!

…というのが、チェーホフがこの物語に込めた想いだった、ということになるのだろうか?そうであるとすれば、それに対して、どんな感想を述べることができるだろう?うん、それはそうだよね、まったく笑っちゃうよね…としか言いようがないんじゃないか?本当にそれだけでいいのか??…何ていうか、俺はそんな風におもってしまうのだ。


『オネーギン』/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

『オネーギン』/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

プーシキンの有名な韻文小説。この岩波文庫版では散文として翻訳されているので、ふつうの小説として読むことができるようになっている。あらすじは以下の通り。

 *

若くして叔父の財産と土地とを引き継いだオネーギンは、社交界の寵児として享楽的な日々を過ごすが、やがてすべてに飽き、無為で退屈な日々を送るようになる。田舎に隠棲した彼は、自分より少し年若い詩人、レンスキイと知り合う。レンスキイはオネーギンの隣家の娘、オリガに夢中で、オネーギンを彼女の屋敷へ連れて行く。オリガの姉のタチヤーナは、突然現れた都会の男、オネーギンを一目見るなり恋に落ちる。小説好きで夢見がちな性格のタチヤーナは、思いの丈を打ち明けた熱烈な恋文を書き、オネーギンに渡すが、オネーギンは自分はあなたに相応しい相手ではない、と彼女を拒絶する。

ある日、オネーギンはふとした気まぐれから、舞踏会でオリガを誘い、レンスキイの目の前で彼女と踊ってみせる。怒りに駆られたレンスキイは、オネーギンに決闘を申し込む。オネーギンは申し出を断ることもできず、レンスキイと決闘し、結果、彼を撃ち殺してしまう。このことで自棄になったオネーギンは、家を離れ、放浪の生活を始める。その後、タチヤーナはオネーギンの家を訪れ、彼が書き込みを残した本を貪り読む。タチヤーナは、ついに彼がどういったかんがえの人物であったかを本当に知るに至る。

数年後、放浪の旅から戻ったオネーギンは、モスクワの舞踏会に顔を出す。と、そこには見違えるように美しく成長したタチヤーナの姿があった。彼女はすでに結婚し、社交界で注目を集めるほどの女性になっていたのだ。オネーギンはとうとう彼女に恋をすることになる。恋文を何度も送りつけ、ついには彼女の家にまで押しかけ、思いの丈をぶちまける。だが、タチヤーナはすでに人妻、私は操を守るつもりなのでお帰り下さい、とオネーギンに告げるのだった…。

 *

本作の主人公、エヴゲーニイ・オネーギンは、19世紀ロシア文学によく登場する「余計者」の原型、と言われているけれど、その造形はいまでもじゅうぶんに興味深いものだ。知識だけはあるが、それを生かすための興味や活力、指針といったものを持っていないがために、ただただ流されるように生きてしまう…というその姿は、いまでも違和感なく受け入れられる。彼は決していいやつではないけれど(というか、ここまで鼻につくところばかりの主人公というのも、なかなか珍しいだろう)、俺なんかはそのだめだめな姿に共感してしまったりもする。

物語の最終章で、そんなオネーギンがタチヤーナに詰め寄り、冷静になりなさいと諭されるシーン、ここで交わされるやりとりは、何とも格好悪くも、リアリティに満ちたものだ。何事に対しても関心が持てず、何をしていても満たされず、ただただ無為な生活を送っていた男、決闘を持ちかけられても、それを回避する術をかんがえることすらせず、ただ流れに任せて友人を殺してしまった男、まだまだ若いのに、すっかり老成してしまったかのように見える男であったオネーギンだが、ただ恋に落ちてしまうことで、それら「余計者」的な性質が一掃され、みじめで情けない、喪失感でいっぱいの「女のいない男たち」の一員になってしまった、というわけだ。

誰にとっても無縁であり、何一つ束縛を受けなかった僕は、こう考えたのです。――自由と安らぎは幸福に代り得る、と。ああ、何という間違いだったでしょう、どんな罰を受けたことでしょう!(p.171)

「女のいない男たち」にとって、自由や安らぎは幸福のための助けにはならない。彼の空虚を埋めることができるのは、彼の求める女だけなのだ。かつては無感動な「余計者」であったオネーギンも、ここではその洗練も無気力も鬱屈も、すべて投げ出し、「感情の奴隷」としてただ懇願することしかできないのだ。

とはいえ、この場面に至っても、タチヤーナのオネーギンへの想いが完全に失われてしまっているわけではない。なにしろ、彼女は、オネーギンへの愛をはっきりと口にしてさえみせるのである。そういう意味では、これはオネーギンとタチヤーナ、ふたりの想いがすれ違う、それぞれにとっての人生の悲劇の物語ということもできるだろう。彼らのどちらにとっても、相手に対して抱いたその感情が、自らの人生のなかで最も激しく強大な吸引力を持っていたがゆえに、その感情が発生したまさにその瞬間に、相手にそれを伝えずにはいられなかったのだ。たとえそのタイミングがまったく適切なものではなかったとしても、たとえそれが自らの幸福の助けにはならないとわかっていたとしても。


「クロイツェル・ソナタ」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「クロイツェル・ソナタ」/レフ・トルストイ

嫉妬がもとで妻を刺し殺すに至った、ある貴族の男の告白。プロットとしては非常にベタなのだけれど、殺人にまで至った自身の心情を逐一綿密に辿っていく男の台詞によって、その一連のプロセスが特殊な事情によるものではなく、ある真理によって必然的に引き起こされたものであるかのように語られていくところがおもしろい。

男は、自身の結婚生活の破綻を経て、現在の婚姻制度やら愛やらといった観念などというものはそもそも幻想であり虚飾であり、そこにあるのは男と女の欺き合いでしかない、という考えを持つに至る。

ところで男性が女性をどのように見ているかということは、私たちは誰でも知っていますね。つまり『酒と女と歌』というやつで、詩人たちもおなじことを書いているじゃありませんか。(p.219)

近頃ではもう女性を尊敬するなどと主張するのが流行っています。女性に席をゆずったり、ハンカチを拾ってやったりする連中がいるかと思えば、女性があらゆる地位に就く権利、女性の参政権といったものを認める連中もいます。
でも、そうしたいろんなことをしてみせながら、女性に対する見方はまったく変わっていません。女性は相変わらず快楽の道具であり、女性の肉体は快楽の手段です。そして女性の側もそのことを承知しているのです。(p.220)

結婚だの愛だのというものは、性的衝動や支配欲を適当にデコレーションしているだけの、単なる幻影である。なあ、お前らだって本当はそんなことわかっているんだろう?というわけだ。

まあ非常に男性目線な理屈ということになるのだろうけれど、これが単なる口先だけの理論ではなく、この男――自身の幻想を完膚無きまでに打ち破られた男――の口から語られていることで、異様に迫力のある、リアリティ豊かでちょっと無視することのできない意見になっているというところは、さすがトルストイという感じだ。

私はもはや嫉妬することさえ自分に許しませんでした。第一に、もう嫉妬の苦しみは味わいつくして休息を必要としていたからですし、第二に、妻の断言したことを信じたかったし、また信じていたからです。しかし嫉妬していないとはいえ、晩餐会のときと音楽が始まる前のパーティーの前半を通して、私はやはり彼に対しても妻に対しても自然な態度はとれませんでした。私は相変わらず二人の動きや目つきをじっと観察していたのです。(p.286)

何を考えても、全部あの二人のことに結びついてしまうのです。私はひどく苦しみました。
一番苦しいのは、分からないこと、疑っていること、半信半疑の状態でいることでした。つまり妻を愛したものか憎んだものか、判断がつかないのが一番苦しかったのです。いまだに覚えていますが、苦しみのあまり一つの考えを思いつき、それが大いに気に入ったものです――それは外に出て線路に横たわり、汽車に轢かれて一挙にけりをつけるという考えでした。そうすれば少なくともこれ以上、迷ったり疑ったりしないですむでしょうから。(p.302)

男の台詞によって語られていく各シーンが、独占欲や性愛にまつわる感情のままならさを生々しく映し出していることで、本作は単なる禁欲主義小説、説教臭い道徳話に陥らず、人間を真正面から描いた、普遍的な作品になり得ているようにおもう。昼メロ的なプロットではあるけれど、その主人公のひりひりとした心情は、痛いくらいに生々しく感じられるのだ。


「イワン・イリイチの死」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「イワン・イリイチの死」/レフ・トルストイ

舞台は19世紀ロシア。世俗的な成功を手にした中年裁判官、イワン・イリイチという男がふとしたきっかけで病に倒れ、数ヶ月の苦しい闘病の末に死んでいく…という一連の流れを描いた物語だ。

イワン・イリイチという男は、ごく平凡な性格と人生観とを持った主人公である。「賢く覇気があって好感の持てる、品のいい」若者だった彼は、「気楽で、快適で、陽気で、つねに上品で周囲に祝福されるような暮らしぶり」を追求し、それを得ることに成功する。仕事で出世し、素敵な女性と結婚し、家庭を築き、豪華な邸宅を手に入れ、ときどき息抜きに友人たちとカードをしたりもする…何事につけてもうまくやるコツを心得た、世渡り上手な人物というわけだ。彼の価値観は、現代の日本人の価値観と何も変わらない。彼の人生は、言ってみれば「成功者」のそれだといっていい。

そんな「成功者」だったはずの彼だが、病に倒れ、己の死が迫り来るのを自覚したとき、いままで積み上げてきたいっさいのもの――地位や名誉、金や権力、友人や家族、自尊心や虚栄心――が、まったく無価値で無意味なものだとしかおもえなくなってしまう。自分はいったいいままで何をしてきたのだろう?いままで何を歓んでいたのだろう??そんな風にしか感じられなくなってしまうのだ。これほど恐ろしいことはない。何しろ、自分の人生の最終コーナーにまで至って、いままでのすべてが無意味だったと悟ってしまったのだ。悟ったところで、もはや何の取り返しもつかないのだ。

「生きるって?どう生きるのだ?」心の声がたずねた。
「だから、かつて私が生きていたように、幸せに、楽しく生きるのだ」
「かつておまえが生きていたように、幸せに、楽しく、か?」声は聞き返した。そこで彼は頭の中で、自分の楽しい人生のうちの最良の瞬間を次々と思い浮かべてみた。
しかし不思議なことに、そうした楽しい人生の最良の瞬間は、今やどれもこれも、当時そう思われたのとは似ても似つかぬものに思えた。幼いころの最初のいくつかの思い出をのぞいて、すべてがそうだった。(p.120)

今の彼、つまりイワン・イリイチの原型が形成された時代を思い出し始めるや否や、当時は歓びと感じていた物事がことごとく、今彼の目の前で溶けて薄れ、なにかしら下らぬもの、しばしば唾棄すべきものに変わり果てていくのであった。(p.121)

自分では山に登っているつもりが、実は着実に下っていたようなものだ。まさにその通りだ。世間の見方では私は山に登っていたのだが、ちょうど登った分だけ、足元から命が流れだしていたのだ……。そしていまや準備完了、さあ死にたまえ、というわけだ!
さて、これはいったいどういうことだ?なぜこうなったんだろう?こんなことはありえないじゃないか。人生がこれほど無意味で、忌まわしいものだったなんて、おかしいじゃないか。(p.122)

己の死と正面から向き合わざるを得なくなったとき、その人間はどこまでも孤独でいるしかない。誰がどんな言葉をかけてこようと、何をしてこようと、結局のところ、死ぬのは私であってあなたではないのだし、そもそも、人間は他人の痛みや恐怖を真に共有することなどできないのだ。

そんな孤独なイワン・イリイチにとっての唯一の慰めとなるのが、召使いのゲラーシムと、中学生の息子の存在である。彼らだけが、まもなく死を迎えようとするイワン・イリイチの境遇に同情し、哀れんでくれたのだ。哀れみが孤独を解消してくれるわけではないけれど、彼らの世間ずれしていない素朴な感性は、「子供をあやして慰めるように、優しく撫で、口づけして哀れみの涙を流してほしかった」イワン・イリイチに、ちょっぴり安らぎを与えることができたというわけだ。

そういう意味では、本作は、死を目前にした男の回心と救済を描いた、教訓物語であるということができるかもしれない。本当の幸福についてとくにかんがえることなく過ごしてきた世俗的な男が、その生の終わりに、己の価値観を粉々に打ち砕かれた末、最後の最後でやさしさや同情、慈しみといった感情の美しさを認識する…といったような。

だが、私たちはイワン・イリイチの生を教訓として、後悔のない生き方をすることなどできるのだろうか?彼は死の間際、本当に最期の瞬間になってようやく「光」を見出すわけだけれど、それはあくまでも、「死」を全うし、すべてが失われゆくまさにその瞬間だったからこそ見出すことのできた「光」だったのではないだろうか?

「死」をリアルなものとして感じることのできない私たちでも、このような作品を読んで、イワン・イリイチの気づきに感動したり、彼の恐怖を疑似体験することはできる。だが、本を閉じた後、自分にとっての本当の幸福――迫り来る死を前にしても揺らぐことのない、生きるよすがとなり得るもの――とは何なのか、はっきりと見つけ出すことなど、果たしてできるのだろうか?「人生の最良の瞬間」、「もしも取り戻せるならばもう一度味わってみたいような、なにか本当に楽しいもの」は幼年期にしかなかった、とイワン・イリイチは回想しているけれど、どこまでも世俗的な存在たる私たちが、「なにか本当に楽しいもの」を見つけるには、いったいどうすればよいのだろうか??その答えは、この本のなかにはない。


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