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「クロイツェル・ソナタ」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「クロイツェル・ソナタ」/レフ・トルストイ

嫉妬がもとで妻を刺し殺すに至った、ある貴族の男の告白。プロットとしては非常にベタなのだけれど、殺人にまで至った自身の心情を逐一綿密に辿っていく男の台詞によって、その一連のプロセスが特殊な事情によるものではなく、ある真理によって必然的に引き起こされたものであるかのように語られていくところがおもしろい。

男は、自身の結婚生活の破綻を経て、現在の婚姻制度やら愛やらといった観念などというものはそもそも幻想であり虚飾であり、そこにあるのは男と女の欺き合いでしかない、という考えを持つに至る。

ところで男性が女性をどのように見ているかということは、私たちは誰でも知っていますね。つまり『酒と女と歌』というやつで、詩人たちもおなじことを書いているじゃありませんか。(p.219)

近頃ではもう女性を尊敬するなどと主張するのが流行っています。女性に席をゆずったり、ハンカチを拾ってやったりする連中がいるかと思えば、女性があらゆる地位に就く権利、女性の参政権といったものを認める連中もいます。
でも、そうしたいろんなことをしてみせながら、女性に対する見方はまったく変わっていません。女性は相変わらず快楽の道具であり、女性の肉体は快楽の手段です。そして女性の側もそのことを承知しているのです。(p.220)

結婚だの愛だのというものは、性的衝動や支配欲を適当にデコレーションしているだけの、単なる幻影である。なあ、お前らだって本当はそんなことわかっているんだろう?というわけだ。

まあ非常に男性目線な理屈ということになるのだろうけれど、これが単なる口先だけの理論ではなく、この男――自身の幻想を完膚無きまでに打ち破られた男――の口から語られていることで、異様に迫力のある、リアリティ豊かでちょっと無視することのできない意見になっているというところは、さすがトルストイという感じだ。

私はもはや嫉妬することさえ自分に許しませんでした。第一に、もう嫉妬の苦しみは味わいつくして休息を必要としていたからですし、第二に、妻の断言したことを信じたかったし、また信じていたからです。しかし嫉妬していないとはいえ、晩餐会のときと音楽が始まる前のパーティーの前半を通して、私はやはり彼に対しても妻に対しても自然な態度はとれませんでした。私は相変わらず二人の動きや目つきをじっと観察していたのです。(p.286)

何を考えても、全部あの二人のことに結びついてしまうのです。私はひどく苦しみました。
一番苦しいのは、分からないこと、疑っていること、半信半疑の状態でいることでした。つまり妻を愛したものか憎んだものか、判断がつかないのが一番苦しかったのです。いまだに覚えていますが、苦しみのあまり一つの考えを思いつき、それが大いに気に入ったものです――それは外に出て線路に横たわり、汽車に轢かれて一挙にけりをつけるという考えでした。そうすれば少なくともこれ以上、迷ったり疑ったりしないですむでしょうから。(p.302)

男の台詞によって語られていく各シーンが、独占欲や性愛にまつわる感情のままならさを生々しく映し出していることで、本作は単なる禁欲主義小説、説教臭い道徳話に陥らず、人間を真正面から描いた、普遍的な作品になり得ているようにおもう。昼メロ的なプロットではあるけれど、その主人公のひりひりとした心情は、痛いくらいに生々しく感じられるのだ。


「イワン・イリイチの死」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「イワン・イリイチの死」/レフ・トルストイ

舞台は19世紀ロシア。世俗的な成功を手にした中年裁判官、イワン・イリイチという男がふとしたきっかけで病に倒れ、数ヶ月の苦しい闘病の末に死んでいく…という一連の流れを描いた物語だ。

イワン・イリイチという男は、ごく平凡な性格と人生観とを持った主人公である。「賢く覇気があって好感の持てる、品のいい」若者だった彼は、「気楽で、快適で、陽気で、つねに上品で周囲に祝福されるような暮らしぶり」を追求し、それを得ることに成功する。仕事で出世し、素敵な女性と結婚し、家庭を築き、豪華な邸宅を手に入れ、ときどき息抜きに友人たちとカードをしたりもする…何事につけてもうまくやるコツを心得た、世渡り上手な人物というわけだ。彼の価値観は、現代の日本人の価値観と何も変わらない。彼の人生は、言ってみれば「成功者」のそれだといっていい。

そんな「成功者」だったはずの彼だが、病に倒れ、己の死が迫り来るのを自覚したとき、いままで積み上げてきたいっさいのもの――地位や名誉、金や権力、友人や家族、自尊心や虚栄心――が、まったく無価値で無意味なものだとしかおもえなくなってしまう。自分はいったいいままで何をしてきたのだろう?いままで何を歓んでいたのだろう??そんな風にしか感じられなくなってしまうのだ。これほど恐ろしいことはない。何しろ、自分の人生の最終コーナーにまで至って、いままでのすべてが無意味だったと悟ってしまったのだ。悟ったところで、もはや何の取り返しもつかないのだ。

「生きるって?どう生きるのだ?」心の声がたずねた。
「だから、かつて私が生きていたように、幸せに、楽しく生きるのだ」
「かつておまえが生きていたように、幸せに、楽しく、か?」声は聞き返した。そこで彼は頭の中で、自分の楽しい人生のうちの最良の瞬間を次々と思い浮かべてみた。
しかし不思議なことに、そうした楽しい人生の最良の瞬間は、今やどれもこれも、当時そう思われたのとは似ても似つかぬものに思えた。幼いころの最初のいくつかの思い出をのぞいて、すべてがそうだった。(p.120)

今の彼、つまりイワン・イリイチの原型が形成された時代を思い出し始めるや否や、当時は歓びと感じていた物事がことごとく、今彼の目の前で溶けて薄れ、なにかしら下らぬもの、しばしば唾棄すべきものに変わり果てていくのであった。(p.121)

自分では山に登っているつもりが、実は着実に下っていたようなものだ。まさにその通りだ。世間の見方では私は山に登っていたのだが、ちょうど登った分だけ、足元から命が流れだしていたのだ……。そしていまや準備完了、さあ死にたまえ、というわけだ!
さて、これはいったいどういうことだ?なぜこうなったんだろう?こんなことはありえないじゃないか。人生がこれほど無意味で、忌まわしいものだったなんて、おかしいじゃないか。(p.122)

己の死と正面から向き合わざるを得なくなったとき、その人間はどこまでも孤独でいるしかない。誰がどんな言葉をかけてこようと、何をしてこようと、結局のところ、死ぬのは私であってあなたではないのだし、そもそも、人間は他人の痛みや恐怖を真に共有することなどできないのだ。

そんな孤独なイワン・イリイチにとっての唯一の慰めとなるのが、召使いのゲラーシムと、中学生の息子の存在である。彼らだけが、まもなく死を迎えようとするイワン・イリイチの境遇に同情し、哀れんでくれたのだ。哀れみが孤独を解消してくれるわけではないけれど、彼らの世間ずれしていない素朴な感性は、「子供をあやして慰めるように、優しく撫で、口づけして哀れみの涙を流してほしかった」イワン・イリイチに、ちょっぴり安らぎを与えることができたというわけだ。

そういう意味では、本作は、死を目前にした男の回心と救済を描いた、教訓物語であるということができるかもしれない。本当の幸福についてとくにかんがえることなく過ごしてきた世俗的な男が、その生の終わりに、己の価値観を粉々に打ち砕かれた末、最後の最後でやさしさや同情、慈しみといった感情の美しさを認識する…といったような。

だが、私たちはイワン・イリイチの生を教訓として、後悔のない生き方をすることなどできるのだろうか?彼は死の間際、本当に最期の瞬間になってようやく「光」を見出すわけだけれど、それはあくまでも、「死」を全うし、すべてが失われゆくまさにその瞬間だったからこそ見出すことのできた「光」だったのではないだろうか?

「死」をリアルなものとして感じることのできない私たちでも、このような作品を読んで、イワン・イリイチの気づきに感動したり、彼の恐怖を疑似体験することはできる。だが、本を閉じた後、自分にとっての本当の幸福――迫り来る死を前にしても揺らぐことのない、生きるよすがとなり得るもの――とは何なのか、はっきりと見つけ出すことなど、果たしてできるのだろうか?「人生の最良の瞬間」、「もしも取り戻せるならばもう一度味わってみたいような、なにか本当に楽しいもの」は幼年期にしかなかった、とイワン・イリイチは回想しているけれど、どこまでも世俗的な存在たる私たちが、「なにか本当に楽しいもの」を見つけるには、いったいどうすればよいのだろうか??その答えは、この本のなかにはない。


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