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『ザ・フューチャー』

『ザ・フューチャー』

渋谷アップリンクにて。小さなアパートに暮らすソフィー(ミランダ・ジュライ)とジェイソン(ハミッシュ・リンクレイター)は35歳同士、同棲して4年のカップルである。ある日、ふたりは怪我を負った野良猫を見つけ、動物シェルターに運び込む。怪我が治ったらうちで引き取ることにしよう!と盛り上がるのだが、担当医から「この猫、うまくすれば5年くらいは生きられそうですね」と聞かされると、急に焦りを感じてしまう。あと5年経ったら40歳。40歳なんてもう50歳みたいなものだし、その後はもう、人生の終盤戦じゃないか。いままでは「クリエイティブ」な生活を自由気ままに送ってきたつもりだったけど、本当にこのままでいいのか!?と焦る彼らは、猫を引き取るまでの30日のあいだに、何でも好きなように、自分のやりたいことを探してみよう、やってみようと試みるのだが…!

上記のような導入からは、ポップでちょっとほっこりしちゃうようなストーリー展開が予想されそうなものだけれど(猫の登場の仕方がまたキュートなんだ!)、本作が内包しているのはなかなかにシニカルでシビアな視線である。30日間のあいだに明らかになってくるのは、ふたりのやりがい溢れる未来予想図というより、彼らがそれぞれに抱いている不安や不満なのだ。

ソフィーの不安・不満というのは、おもに自意識の問題だと言うことができるだろう。彼女は、自分が”じゅうぶんに創造的でないこと”に(「30日で30のダンス」をつくろうとするが、まるっきりうまくいかない)、また、”女性としてじゅうぶんに認められていないこと”に、そして、”ふつうに家族を持って平凡な幸せを得る機会を逃しつつあること”に、不満を抱いているらしいことに気がつく。とにかく、何かを成功させなければ!と気ばかり焦るようになった彼女は、やがて、ある子連れの男と関係を持つようになる。男との関係には、特別な親密さというのは認められないけれど、どうやら、彼女は擬似的な家族のようなものをそこに見出そうとしているように見える。

一方、ジェイソンは、ふとしたきっかけで携わるようになった自然保護プロジェクト(苗木の訪問販売をする)を通して、自分の将来を暗示するような老人と出会い、これからの人生に思いを巡らせるようになる。老人との会話のなかで、ジェイソンは、まだまだ人生はこの先長い、終盤戦というより、むしろ、ようやく始まりの時期が終わろうとしているところなんだ、というような認識を、おぼろげながら持つようになる。

このように、ふたりはそれぞれに自分の望む未来をおもい描き始めるのだけれど、それらはしっくりと噛み合うことのないまま、物語は終わってしまう。シェルターに預けられた猫は、引き取られることもない。エンディングでは、「お互いを確認するための合図」と決めていたジャズナンバー(Peggy Leeの”Where Or When”)が流れるけれど、この先彼らがどうなるのか、はっきりと示されることはない。少なくとも現時点では、ふたりの間には憂いがあり、悲しみがある。果たされることのなかった約束があり、倦怠と諦念がある。彼らが再び同じ道を歩むようになるのかどうかはわからない…という感じにふわっと映画は終わってしまう。

そういうわけで、プロットとしてはなかなかにヘヴィでぬるま湯的状況を許さないようなところがあるものの、それを描き出す映像はいつもキュートかつファンタジック、っていう、なんだかふしぎなバランス感覚の映画だった。劇中で流れる、Beach Houseの”Master Of None”という曲の気怠くも夢見るような感じが、作品の雰囲気をすごくよく表していたようにおもう。


『いちばんここに似合う人』/ミランダ・ジュライ

『いちばんここに似合う人』/ミランダ・ジュライ

映画監督としても有名な、ミランダ・ジュライのデビュー作。16の短編が収められているが、どれをとってもアイデアはキュートで文体はポップ、しかしそこで描かれる心情というのはひりひりとするような痛みや孤独にまつわる切実な感情である、というところで一貫している。短めの作品が多くてさくさく読めてしまうけれど、どれもなかなかに強い印象を残す作品集だった。

読んでいてはじめに「おっ」とおもったのが、「水泳チーム」という作品。主人公の女性が、80歳オーバーの老人たちに「ボウル三つにぬるま湯を張ったの」を使ってアパートのなかで水泳を教える、というアイデア一発の、むちゃくちゃくだらない話なのだが、これがすごくおもしろい。

わたしは水には入らないでプールサイドに立ってるタイプのコーチだったけど、いっときも休むひまはなかった。偉そうな言い方かもしれないけど、わたしが水のかわりだった。わたしがいっさいを取りしきっていた。エアロビクスのインストラクターみたいに絶えず声を出していたし、きっちり同じ間隔でホイッスルを鳴らしてプールの端を知らせた。するとみんなそろってターンして、反対方向にむかって泳ぎだした。エリザベスが腕を使うのを忘れていれば、わたしはこう叫ぶ、エリザベス!足は浮いてるけど頭が沈んでる!するとエリザベスはしゃかりきになって腕を動かしだし、すぐにまた水平にもどる。(「水泳チーム」p.28,29)

「わたしが水の代わりだった」!声に出して笑ってしまいそうになる。ひねているし冷めたところだってじゅうぶんに自覚しているくせに、落とし所は必ずキャッチーなのが彼女の持ち味ということだろうか。あと、短いセンテンスの畳みかけによって生み出されるグルーヴ感がかっこいい。

他にも、「ロマンスだった」「何も必要としない何か」「ラム・キエンの男の子」「十の本当のこと」といった作品はかなり好みだった。微妙なフィーリングやちょっとした違和感といったものをぴったりする言葉に置き換えるのがうまくて、単純に読んでいてたのしいのだ。

バスルームの粉っぽい暖かさの中で、わたしは天にも昇る気持ちだった。急に一人きりになると、むちゃくちゃに暴れだしたいような気分になった。わたしはドアに鍵をかけ、鏡に向かって発作みたいに奇っ怪な動作をつぎつぎにやった。自分に向かって狂ったように手を振り、顔をゆがめてブキミで不細工な表情を作った。手を洗いながら、両手が子供になったみたいに、まず片手をあやすように揺すり、もう片方の手も同じようにした。それはワタシというものの突然の大噴火だった。科学的な用語で言うところの<最初で最後の打ち上げ花火>というやつだ。その感覚はすぐに過ぎ去った。わたしは小さな青いタオルで手をふくと、寝室に戻っていった。(「何も必要としない何か」p.104)

彼女が帰ったあと、わたしはリビングの真ん中に立って、いいわ、もう気の済むまでここにこうして立っていよう、と心に決めた。そのうちに飽きるだろうと思ったけれど、飽きないで、ますます悲しい気分になるばかりだった。手にはまだクロスを握りしめていた。もしこれを離すことができれば、また動きだせるような気がした。けれどもわたしの手は頑としてこの汚れた布を手放すまいとした。(「十の本当のこと」p.190)

どの短編でも、プロットや展開というのは結構ありがちだったりざっくりしていたりするのだけど、この語り手「わたし」の世界との対峙の仕方が独特というか、「わたし」の語り口のトーンが作品世界を一から立ち上げていくような感覚があって、そこが強烈な個性になっている。

まあそれにしても、全編に漂うおしゃれ感がすごかった。痛いところの突き方、ナチュラルなのに意外と隙のない感じ、冷静さといじわるさ、軽やかでまじめぶっていないところ、どこを切ってもアートっぽくて、しかしじゅうぶんにポップっていう、絶妙なおしゃれ感が溢れ出てくる。正直、そういうところは少し鼻につかないでもなかったけれど(個人的な好みとしては、もうちょっと青臭いところ、野暮ったいところがある方が親しみやすい気がする)、この世界はまさにこの人にしか描けない、と感じさせる、きわめてオリジナルで高水準な作品集だった。俺は、映画『パンチドランク・ラブ』や『恋愛睡眠のすすめ』、『ゴーストワールド』なんかをおもい出しながら読んだけれど、このあたりがタイプな人(それは俺のことだが…)にはまさにどストライクな一冊だとおもう。


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