タグ ‘ フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

『貧しき人びと』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(その2)

『貧しき人々』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

マカールの発話のスタイル――他者の視線を内面化し、先取りした他者の言葉に絶えず反発しながら自分語りをする――や、その病的なまでの熱烈さというやつは、まさしくドストエフスキー独特のものだけれど、マカールというキャラクターの設定自体は、ゴーゴリ「外套」の主人公、アカーキー・アカーキエヴィチをベースとし、パロディ化したものだと言っていいだろう。(ふたりは、官位も仕事内容もまったく同じだし、生活水準も似たようなもの。アカーキーには、マカールのように強烈な自我が与えられていない、というのがいちばん大きな違いだろうか。)

ゴーゴリは、「外套」において、ひたすら即物的な描写を連ねていくことでプロットの悲劇性を削ぎ落とし、それを乾いた笑いに変えてしまっていた。まあなにしろゴーゴリというやつは、自分の創り出した作中人物に対して、まるで容赦のない男なんである。ドストエフスキーは、作中でそんな「外套」をマカールに読ませ、憤らせてみせる。

それに、いったいなんのためにこんなものを書くのでしょうか?こんなことがなんの必要があるのです?読者のだれかが代りにこのわたしに外套を作ってくれるとでもいうのですか?新しい靴でも買ってくれるというのですか?とんでもありません、ワーレンカ、さっと読みとばして、つづきを見たいというのが落ちですよ。(p.132)

あの連中も、あの失敬な当てつけ専門の三文文士どもも方々歩きまわって、わたしどもが足をちゃんと敷石について歩いているか、爪先だけで歩いているか、などと観察しているんですよ。そして家に帰ってから、某省に勤める九等官某は靴の先から足の指がむき出しになっており、肘のところも破けている――などとこまごま書きとめて、そんなくだらない代物を出版しているのです……わたしの肘が破れていたって、それがどうしたっていうんだ?いや、こんな乱暴な言葉をつかって失礼ですが、ワーレンカ、貧乏人にもこんなことについては、きみに処女の羞恥心があると同じように、羞恥心があるのだ、ということを申し上げておきましょう。だって、まさかきみは、乱暴な言葉を使って失礼ですが、衆人環視のなかで裸になんかなりはしないでしょう。それとおんなじことですよ。貧乏人だって、あいつの家庭生活はどんなだろうなどと、自分の小部屋を覗きこまれたくはないのですよ。(p.148,149)

かわいそうなくらいに純粋で素朴なマカール。「外套」を読んでも、まさに自分のことが書かれているとしかおもえないのだ(自分の原型なのだから当然だ!)。読者としても、そんなマカールにちょっぴり同情してしまいそうになる。

しかし、本作は、単に貧しき人々にひたすら同情的なだけの、センチメンタルな悲恋の物語というわけではない。マカールとワルワーラの関係を少していねいに見てみれば、それは明らかだ。

マカールは日々の暮らしすら困難を極める生活をしているのにも関わらず、ワルワーラへの恋心で見境をなくし、あちこちに借金をつくりながら彼女にお菓子やら花やらを贈り続ける。ワルワーラさんワルワーラさん、って、もう彼女に夢中でしょうがないのだ。前回のエントリで引用したような長尺かつ暴走気味な手紙を、自分よりだいぶ年下の女の子に送り続ける彼は、もうほとんどワルワーラのことを神格化してしまっているようですらある。

けれど、ワルワーラはもともとマカールに対して恋心を抱いてはいないようだし(彼女は、あくまでも”庇護される者”としての立場を貫こうとしているように見える)、マカールの高すぎるテンション、むちゃ過ぎる金の遣い方に若干引き気味になっていることも少なくない。

あなたはまるっきりお金なんかお持ちではなかったのに、ふとしたことからあたくしが困っていることをお聞きになり、それに心を動かされて、月給を前借りしてまであたくしを助けようという気を起こされ、あたくしが病気になったときにはご自分の服までお売りになってしまったのです。今ではそれがすっかりわかってしまいましたので、あたくしはそれをどう受取ったものか、どう考えたらよいのか、今なおわからないくらい苦しい立場においこまれました。ああ!マカールさん!あなたは同情の気持と肉親としての愛情に動かされてなさった、あの最初のお恵みだけで止めておいて、その後の無駄使いをなさってはいけなかったのです。マカールさん、あなたはあたくしたちふたりの友情を裏切りなさったのです。だって、あなたはあたくしに打明けてくださらなかったんですもの。(p.135)

あなたはあたくしがあなたの不幸の原因となったことを、あたくしに悟られまいと気を使ってくださいましたが、今度はご自分の行いで二倍の苦しみをあたくしに与えてくださったわけですのよ。ねえ、マカールさん、あたくしは今度のことではほんとにびっくりいたしました。ああ、あたくしの大切な方!不幸は伝染病みたいなものですわね。不幸な者や貧しい人たちはお互いに避けあって、もうこれ以上伝染させないようにしなければなりません。あたくしはあなたが以前のつつましい孤独の生活では一度も経験なさったことのないほどの不幸をあなたに持ってきたのでございます。それを思うと、あたくしは苦しくて、死にそうですわ。(p.137)

ねえ、さすがにちょっと重すぎますわマカールさん、ってところだろうか。

そんなワルワーラについて、清水正は、『ドストエフスキー『白痴』の世界』で、こんなことを書いていた。

ワルワーラは女街のアンナ・フョードロヴナや淫蕩な地主貴族ブイコフに一方的に屈服したのではない。彼女は自分の過去の「汚辱をそそぎ」「名誉を取り戻す」ために(ということは、ワルワーラがすでにブイコフと関係があったということであって、彼女を処女と見做した評論家こそいい面の皮である)、また「貧困と欠乏と不幸」から逃れるために正式にブイコフの結婚申し込みを受けているのである。ワルワーラの貧困ひとつ取ってみても、よくよく頭を冷やして考えてみなければならないのだ、何しろ彼女は貧困であるにも拘らず女中フェードラと一緒に暮らしていたのであるから。以上のことから彼女はブイコフ一派に屈したというよりは、自分の内なる<ブイコフ>(虚栄・名誉・贅沢、確固たる生活の保証等)に屈したといえる。(『ドストエフスキー『白痴』の世界』/清水正 鳥影社 p.94,95)

ワルワーラと地主貴族ブイコフのあいだに「関係があった」かどうかは、作中には明確な記述がないので、「いい面の皮である」ってのはいくらなんでも駆け足過ぎ、言い過ぎだとおもうけれど、後半部分については俺もおおむね賛成だ。ワルワーラはブイコフに連れ去られたのではない。彼女は、彼女の意志でマカールを捨て、ブイコフを選び取っているのだ。

まあそういうわけで、彼女の選択は、”貧しさが愛するふたりを引き裂く、悲劇の結末”と見ることができるのと同時に、”なんだかんだで打算的・実際的な女による、現実的な判断”であると解釈することもできる。もっとも、打算的・実際的にならざるを得ない原因というのはやはり貧しさにあるわけで、彼女の心情にはこれら双方のニュアンスが含まれている、くらいの言い方がより正確なところかもしれない(たとえば、彼女自身としては打算的なつもりなど少しもないのかもしれない)。マカールの自意識とその発露の形もややこしかったけれど、ワルワーラの気持ちも、またややこしい。テーマ、プロット、形式のどの切り口からでも多層的な読みが可能になっているのがドストエフスキー作品の特徴だけれど、その特徴はこのデビュー作からじゅうぶんに発揮されているということができるだろう。


『貧しき人びと』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(その1)

『貧しき人々』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

ドストエフスキー、24歳のときのデビュー作。作品のボリューム的には、まあ中編といったところだろうか。主人公のマカール・ジェーヴシキンはペテルブルクのぼろアパートに暮らす、貧しい中年の小役人。同じアパートの向かいの棟には、お針子をして糊口をしのいでいる、天涯孤独で病弱な若い娘、ワルワーラが住んでいる。無学で小心、善良で、貧乏をなめつくしている彼らは、お互いの境遇を気にかけながら苦しい生活を続けていたのだったが、ある日突然、ワルワーラと地主貴族との縁談が持ち上がる。マカールの懇願にも関わらず、ワルワーラは縁談を受け入れ、彼のもとを離れていくのだった…!

作品は全編にわたって、マカールとワルワーラの手紙のやり取りのみで構成されている。いわゆる書簡体小説というやつだ。この形式の作品の例にもれず、本作も大枠としては、”手紙を通して男女の感情の機微を描いた作品”だと言っていいだろう。「手紙に書かれていることだけだが読者に知らされること」という構造を利用して、肝心な出来事を省略したり、主人公たちの感情の揺れ動きの原因をあえて明言しないことで読者の興味をひいたり、ということができるのがこの手法の大きな特徴だけれど、そこはドストエフスキー、手紙に込められた熱量がいちいち半端じゃないし、主人公たちの心理状態はなかなかに複雑、単なる書簡体小説の枠組みに収まりきらないような、多層性を持った作品に仕上げてきている。

マカールは、他人の噂や嘲笑的な視線をやたらと気にする、ほとんど被害妄想的な性格の持ち主だが、その原因は、彼の貧しさに由来する劣等感や羞恥心にあると言っていい。現実世界の自分にまるで自信が持てず、他人を恐れてばかりいる彼が唯一熱中するのが、ワルワーラという想い人への手紙なのだ。

ああ、ワーレンカ、ワーレンカ!今度こそ罪があるのはきみのほうですよ、きみはきっと良心の呵責を受けるでしょう。きみのお手紙でわたしはすっかり理性をかき乱され、当惑してしまいました。でも、今ようやく暇ができたので、わが心のなかを顧みて、自分のほうが正しかったのだ、絶対に正しかったのだと悟ったのです。わたしは自分のやったふしだらなことをいっているんじゃありません(あんなことは、あんなことは問題じゃありませんよ!)。わたしがいいたいのは自分がきみを愛したということなんです。しかも、きみを愛することがわたしにとっては少しも無分別なことではなかった、決して無分別なことではなかったということです。きみはなんにもご存知ないんです。(p.140,141)

ワルワーラさん!わたしの可愛い人!わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました!わたしは破滅しました。きみも破滅しました。きみもわたしと一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅してしまったんです!それはわたしのせいです、わたしがきみを破滅に導いたのです!わたしは追い立てられ、軽蔑され、笑いぐさにされています。女主人さんはもう頭ごなしにがみがみと怒鳴りつけるようになりました。きょうも一日じゅうわたしのことをさんざん怒鳴りちらして、鉋屑ほどの値打ちもないように、こきおろす始末です。晩にはラタジャーエフのところで、誰やらがきみあてのわたしの手紙の下書きを声高々に読みあげました。それはわたしが書きあげたものを、うっかりポケットから落した代物です。みんながよってたかってそれは冷やかしました!わたしたちのことをさんざんはやしたて、笑いころげました、あの裏切り者どもめ!(p.175)

こんなところなんて、もうテンションがすごいことになっている。マカールは、外面的には貧相で誰にも注目されることのない、まったくの日陰者、持たざる者なわけだけれど、その内面はこんなにも繊細で偏執的、激しい自尊心や承認欲求が渦を巻く、きわめて興味深いものになっているのだ。

そんなクレイジーなマカールの発話について、ミハイル・バフチンは、以下のように述べている。

ドストエフスキーはその処女作において、彼の全創作にとってきわめて特徴的な発話の文体、すなわち他者の言葉を先取りしようという緊張した意識によって規定された発話の文体を作り上げようとしている。処女作以降の創作におけるこの文体の意義は、実に巨大なものである。主人公たちのきわめて重要な告白的自己言表には、自分についての他者の言葉、自分についての自分の言葉への他者の反応が先取りされ、それに対するきわめて緊張した姿勢が染みわたっているからである。/『貧しき人々』では、こうした文体の<<卑屈な>>バリエーション、つまり、びくついておずおずとあたりを気遣い、挑戦心を胸の内に押し殺しながら、痙攣に身をよじらせているような言葉の錬成が、すでに始まっているのである。(『ドストエフスキーの詩学』/ミハイル・バフチン ちくま学芸文庫 p.416)

その本質とは、意識と言葉のあらゆる要素内における二つの意識、二つの視点、二つの価値観の交錯と切断であり、いわば原子のレベルにまで至る二つの声の遮り合いなのである。(『ドストエフスキーの詩学』/ミハイル・バフチン ちくま学芸文庫 p.428)

さすがバフチン、すばらしくエレガントでわかりやすいまとめ方だ。マカールの内に表現されている「びくついておずおずとあたりを気遣い、挑戦心を胸の内に押し殺しながら、痙攣に身をよじらせているような言葉」や、「二つの声の遮り合い」こそが、本作の中心で摩擦熱を発し、全体をドライブしているものだと言うことができるだろう。


“丸刈り謝罪メッセージビデオ”のこと

昨日あたりから、”AKB48のメンバーの女の子が、グループのルールであるところの「恋愛禁止」を破ったことの反省として、自ら頭を丸刈りにして、涙ながらに「ごめんなさい」と言うビデオ”の件がひどく話題になっている。AKBとかアイドルグループについての知識がほとんどない俺にとっても、この映像はちょっと衝撃的だったし、かんがえさせられるところもあったので、ここに所感を記しておくことにする。

 *

まず、映像を見たときの感想は、”丸刈り謝罪メッセージビデオ”だなんて、まったく、なんて醜悪なんだろう!ってものだった。こうしてひとりの女性を”見せもの”みたいにして辱めを与え、注目を集めようってやり方は、ビジネスの方法としてきわめて下品だし、人を不快にさせるものだ、とおもったのだった。

もちろん、人気アイドルであるところの彼女のふるまいには、かなりの量の金が紐づけられているはずで、だから「運営側」としてはじゅうぶんな計算を行った上で――たとえば、彼女の復活劇のプランを立てたり、精神的なダメージをケアするような方策なんかをじゅうぶんに用意したりした上で――こういう映像をネット上にアップしているのだろうとは想像される。それに、「運営側」の”ビジネスモデル”としては、こうして「不快だ」って意見が多数表明されること、多くの感想が述べられること自体が、この”事件”の注目度を高め、ひいてはグループの存在感を一層大きなものにすることになる、ってことまでがおり込み済みでもあるのだろう。

それはわかる。わかるけれど、でも、こんなやり口を推し進めている人たちは、いったいどういう感覚でいるんだろう?って、いやな気分になったのだった。「いやー、AKBってほんとに阿漕な商売ですね、欲望に直接的に訴えかける感じがやらしいですねー」(←俺はいままでこの程度の感覚だった)で済まされるレベルを、このできごとは、超えてしまっているように感じられたのだった。

 **

いやな気分になりながらも、落ち着いてかんがえてみると、次第に、”こんなやり口を推し進めている人たち”っていうのは、特定の個人や特定の組織、特定のファン層というよりは、大衆のこと、すなわち我々みんなのことであると理解するべきなのではないか、とおもわないではいられなくなってくる。だって、”こんなやり口”がまかり通るのも、AKB的な商法がこれほど成功しているのも、結局のところ、それらの消費者が存在しているからなのであり、また、そういった消費者の存在を許容している社会が存在するからなのだ。

つまり、じっさいに丸刈りを決意し実行したのが彼女自身であったとしても(あるいは、「運営側」の人間であったとしても)、その行為は、いわゆる”大衆の欲望”的なものを内面化した結果として行われたはずだ、くらいのことは言えるのではないか。そして、たとえば、「こうやって話題作りをすれば、みんなそれに飛びつくんでしょ」とかっていう意見というのは、別に「運営側」に限らない、我々みんなの意見である、とかんがえなくてはいけないのではないか。そんな風にもおもえてきたのだった。

でも、そうだとすれば、なぜこの映像は、これほどまでに不快な気持ちを呼び起こすのか?このできごとは、自分たちの欲望が(たとえ無意識的にであれ)もたらした結果なのではないのか??

 ***

そこまでかんがえたところで、ちょうど最近読んでいる、ドストエフスキーの『白痴』に、エリザヴェータ夫人のこんな台詞があったのをおもい出した。

「世間が誘惑に負けた娘をいじめると、あんたたちはそんな世間を野蛮で非人情だと考える。でももし世間を非人情だと認めるなら、そんな世間のせいで娘がさぞかし辛い思いをしてきただろうということも分かるはずじゃないか。もしその辛さが分かるなら、どうしてわざわざそんな娘のことを記事にして世間の前に引っぱり出し、しかも娘をいじめるななどと主張するんだね?正気の沙汰じゃない!虚栄心の塊さ!」(『白痴 2』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 河出文庫 p.227)

「世間を野蛮で非人情だと認め」、「そんな世間のせいで娘がさぞかし辛い思いをしてきただろうということも分かるはず」であるにも関わらず、人は「わざわざそんな娘のことを記事にして世間の前に引っぱり出し、しかも娘をいじめるななどと主張」したくなってしまう。人間とは、そういった浅ましい欲望を持った生きものだ、というわけだ。まったくうんざりするようなことだけれど、”丸刈り謝罪メッセージビデオ”の話題の拡散の仕方を見てみれば、そして、自分自身がこの話題に対して取っている行動――まさにいま、こうしてブログにアップするための文章をせっせと書いている――を顧みてみれば、やっぱりこれはある程度本当のことであるようにおもえる。

自分自身がエリザヴェータ夫人の言っているような人間、「虚栄心の塊」であることを改めておもい知らされるからこそ、そして、自らの無意識下にある欲望の後ろ暗さをよくよく見せつけられるような気分になるからこそ、”丸刈り謝罪メッセージビデオ”は人をひどく不快な気分にさせるのかもしれない。そして、それについて何かを(たとえば、自己弁護的な何か、自分の倫理観を再確認するための何かを)言わずにはいられないような気持ちにさせるのかもしれない。そんなようなことを、俺はかんがえたりしたのだった。


「キリストのヨルカに召された少年」/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

12月になってからというもの、仕事がすっかりスーパーハードモードに入ってしまい、土日も含めてまじでほとんど仕事しかしていない生活である。まったく、なんかたのしいこととかないのかねー!とかおもいつつ、たまの気晴らしに電車のなかで青空文庫の短編を読んだりするのが、ちかごろの俺のつましいヨロコビ…というわけなのだけれど、気がついてみればもうクリスマス!ってことで、きょうはドストエフスキーの「キリストのヨルカに召された少年」についてちょっとだけ書くことにする。

ひとことで言うと、クリスマス・イブの晩に、ひもじさと寒さとで死んでしまう少年の話…って、もう、ロシアにはほんとにこういう話が多いのな!去年取り上げたチェーホフの「ワーニカ」も、クリスマス・イブの夜が舞台の、虐げられた子供の物語だったし、きっとこういうの物語がひとつの定型としてあるのだろう。本作も、きっちりとひな型をなぞっている感じの一編で、ストーリーや語り口にとくに変わったところはない。ドストエフスキーの作品だからといって、主人公の少年が社会や神へのうらみつらみについていきなり長広舌をふるい出したり、癲癇の発作で震え出したり、なんてことは起こったりしない。ま、マッチ売りの少女みたいな感じの、ごくごくオーソドックスでちょっぴりかなしい掌編というわけだ(少年は、死の間際に、巨大なクリスマスツリーとそこで幸せそうに過ごす自分と母親、大勢の子供たちの姿を幻視する)。

そこで少年は、自分の指が、そんなにいたいほどかじかんでいるのに気がついて、おいおい泣きながら、さきへかけだした。すると、またそこにも、ガラスの向こうに部屋があって、やっぱりクリスマス・ツリーが立っている。プラムのはいったのや、赤いのや、黄いろいのや、いろんなお菓子が並んでいる。その前には、りっぱな奥さんが四人すわっていて、はいってくる人ごとに、お菓子をやっている。入口のドアは、たえまなしにあいて、おおぜいの人が往来からはいって行く。少年はこっそりそばへよって、いきなりドアをあけて、中へはいった。それを見つけたときの、おとなたちのさわぎようといったら。みんなが、わめいたり、手をふりまわしたりする中で、ひとりの奥さんが、いそいでそばへよってきて、少年の手のひらに一円銅貨をおしこむと、自分でおもてのドアをあけて、少年を追いだしてしまった。

少年は、びっくりぎょうてんした。そのはずみに、銅貨がすべり落ちて、入口の石段でちゃりんと嗚った。まっかになった指はまげることができず、銅貨をにぎっていられなかったからだ。

これは、クリスマスの明るさ、暖かさに惹かれておもわず民家に近づいていった少年が、無情にも追い返されるシーン。ずいぶんあっさりと書いてあるし、いわゆるお定まりのシーンとも言えるとおもうのだけれど、ラスト一段落のあっさり感なんかはやっぱり切ない。

そうそう、タイトルにもなっている、”ヨルカ”っていったい何なのよ?とおもって調べてみたところ、どうやらこれは、子供たちのために開かれる、クリスマス/お正月パーティみたいなものであるらしい。大きなツリーのある広間に子供たちと両親たちとが集まって、仮装したり歌を歌ったりコンサートを聴いたり劇を見たりプレゼントをもらったりする、そういうパーティ。そもそもヨルカ(новогодняя ёлка)というのは、ロシア語でもみの木/クリスマスツリーのことを示す単語らしく、そこからこのパーティ自体も”ヨルカ”って呼ばれるようになったのだとか。あー、俺もとっとと仕事終わらせてヨルカ的な集いとかに行きたいね、まったくもう!


『地下室の手記』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

下級官吏である主人公は、長年勤めた役所を辞め、“地下室”と呼ぶアパートの一室に閉じこもっている。彼は外界との関わりを断って、ひたすら自身の内面を手記として書きつけていっているのだ。その思考は、自身の内面をぐるぐると回り、疑い、傷つけながら、しかし結局どこに行き着くでもないように見える。

諸君、誓ってもいいが、今書き散らしたことのうち、なに一つ、一語たりとも、俺は信じていないんだ!いや、そうじゃない、俺はたぶん信じてもいるのだが、同時に、なぜだかわからないが、自分がどうも下手な嘘をついているのではないかと、疑っているのだ。(p.76)

この小説の仮想敵になっているのは、作中の「二、二が四」に象徴されるような、合理主義的、功利主義的なかんがえかただと言っていいだろう。主人公は地下室の住人、強烈な個人として、そういった安易な理論や、集団主義的なものへと執念深く突っかかっていく。彼はとことん自意識過剰で傲慢、おまけに見栄っ張りな男なのだけれど、だからといって読者は彼を簡単に突き放すようにして読んでいくことはできない。というのも、この小説を読んでいくことは、どんな人の意識のなかにも互いに相反するさまざまな要素(善意と悪意、明るさと憂鬱、自信と無力感…)が共存しており、それらは常にきわきわの攻防を繰り広げているってことを――もう、否応なしに――突きつけられることであるからだ。ある人が地下室の住人のように「病的」ではないと言ったところで、それは、たまたまそれらの要素のバランスが保持されている、ということに過ぎない。それに、そんなのはその人のおもい込みであるかもしれない。

地下室の住人は、じつにいろいろなものを憎んでいる。世界全体の調和を憎み、単純な功利主義のニヒリズムを憎む。健康な「やり手タイプ」を羨みつつも憎めば、自身の低俗さや支配欲だって憎む。彼はそんな自分のことを病んでいる男、ねじけた根性の男だと言うけれど、しかしそれと同時に、彼は強い人間でもある。彼は安易に自身のもつ憎しみを正当化することなく、その激しい感情に対して、ほとんど愚直といっていいような態度で向き合っていく。それってなかなかできることじゃない。いや、でも、そんなことをしていれば病んでいくのは当然だ。

おまえはたしかに何かを言いたいのだろうが、臆病ゆえに、最後のひと言を隠している。なぜなら、それを言い切るだけの決断力がなくて、あるのはおっかなびっくりの図々しさだけだからだ。おまえは自意識がご自慢だが、二の足を踏んでばかりいるじゃないか。それというのも、おまえは頭は働いても、心が悪徳で曇っているからだ。清らかな心なしには完全な正しい意識はありえないものだよ。それにしても、おまえはなんてしつこくて強引なんだ、なんて見栄っ張りなんだ!嘘、嘘、嘘で塗り固めているじゃないか!(p.77,78)

まあ、じっさい彼はさまざまな理屈をこねて憎むものたちを否定してはいくのだけれど、否定否定の行き着く先は、結局自分自身の否定にまで至ってしまうような感があって。その様子はなんだか滑稽でありつつも、どうにも悲しくて、しかもそれが自分とは無関係だなんてとてもおもえないから読んでいてつらくなるけれど、でも、本当に“向き合う”っていうのはそういうことなのかもしれないなー、なんておもったりもした。


Calendar

2015年10月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

Archive