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『アメリカを占拠せよ!』/ノーム・チョムスキー

『アメリカを占拠せよ!』/ノーム・チョムスキー

チョムスキーの新刊。オキュパイ・ウォール・ストリート運動をはじめとする、昨今の市民運動に関連したインタビュー集で、内容的にはとくにむずかしいことも言っていないし、繰り返しも多い。気軽に読むことができる一冊だ。

チョムスキーによれば、オキュパイ運動とは、一部の階級への異様な富の集中という事態に対して初めて起こった、持続的な反対運動である。そしてその大きな成果は、「議論の枠組みを変化させた」ことであり、「”自分以外のことはすべて忘れて富を増やせ”というイデオロギー、成長主義、大量消費といった現在主導的になっている思考法へのNoを鮮烈に示した」ことである。

オキュパイに関する報道は、雑多な様相を呈しています。当初はじつに素っ気なく、この運動に関わる人々をゲームか何かに興じる愚かな子供のようにからかう論調でした。しかしその後、報道は変化した。実際にオキュパイ運動は目覚ましく、華々しいとすらいっていい成功をもたらしましたが、その本質は多くの論点をめぐる議論の枠組みそのものを変えたことにあります。前々から多少知られてはいても、隅に追いやられ隠されていた事柄が、今は堂々と前面に押し出されてきた――「九九パーセントと一パーセント」のイメージはその一例でしょう。さらには、過去三〇年ほどの間に不平等が著しく拡大し、富が全国民の〇.一パーセントに集中したという劇的な事実も。(p.95)

運動に関わっている人々は、ただ自分のためにそうしているのではない。おたがいのため、より大きな社会や未来の世代のためなのです。絆やつながりが生まれつつある。これを強く維持したまま、より大きなコミュニティへと持ち込めれば、ときに暴力的な形をとる弾圧が避けられないとしても、たしかな防壁ができるでしょう。(p.100,101)

オキュパイ運動は、「いま、何が起こっていることを理解すること」の重要性を広くアピールすることには、ひとまず成功した。これからは、イメージやスローガンを頒布するだけではなく、実際にさまざまな要求を通すこと――金融取引税の導入や、企業の法人格剥奪、労働者による工場の買収など――や、相互のサポートからなる、直接民主主義的なコミュニティを継続的に拡大していくことが求められていくようになるだろう。そのときに必要とされるのは、革命のリーダーなどではない。求められ、必要とされるのは、まさに「おたがいのため」に社会を変えていこうとする意志であり、それをひとりひとりがキープし続けることである。チョムスキーはそれを、この小さな本のなかで繰り返し言い続けている。


『新自由主義―その歴史的展開と現在』/デヴィッド・ハーヴェイ(その3)

新自由主義化の第一の達成は、1979年以降のサッチャーとレーガンとに帰せられるのが通例だろう。彼らは、自分たちの改革を、選挙という民主主義的な手段によって実現したわけだけれど、では、彼らはいったいどのようにして多くの民衆から政治的同意を取りつけることに成功したのだろうか?

新自由主義は、ケインズ主義や福祉国家主義への反発を契機に拡大した、という話は前回ノートにとった通りだ。つまり、公共の福祉を充実させること、社会的公正を目指すことなどとは逆の方向、すなわち、息苦しく不自由な規制の緩和、資産運用の自由、ビジネス環境の充実、労働過程におけるフレキシビリティの増大といったアイデアの魅力を力いっぱい引き出すことこそが、新自由主義のアピール方法だった、ということになる。そこで重要なキーワードとして機能するのは、「新自由主義」の名の通り、「自由」という概念、なかでも「個人の自由」というやつである、とハーヴェイは言う。

新自由主義思想の創始者たちは、人間の尊厳や個人的自由という政治理念を根本的なもの、「文明の中核的価値」であるとした。(p.16)

新自由主義的思考の主な特徴は、個人の自由は市場と商取引の自由により保障されるという前提に立っていることである。この前提は他のすべての国に対するアメリカの姿勢を長年特徴づけるものだった。(p.18)

個人の自由という価値観と社会的公正という価値観とは、必ずしも両立しない。社会的公正の追求は社会的連帯を前提とする。そしてそれは、何らかのより全般的な闘争、たとえば社会的平等や環境的公正を求める闘争のためには、個人の欲求やニーズや願望を二の次にする覚悟を前提とする。(p.62)

「個人の自由」とはあまりにも甘美な響きを持つ言葉であり、あまりにも共鳴されやすい。それは「大衆への扉を開くためのエリートたちの押しボタン」として、ありとあらゆるものの正当化のために利用することができてしまい、その誘惑に抗うのは難しい。そして、そんな強固な正当性を持った「個人の自由」をどこまでも根源的なものとして重視する新自由主義のレトリックは、社会的平等や環境的公正といったものへの要求とは相容れない…というわけだ。個人の自由と社会的公正との両立というのは、古くからおなじみのテーマではあるけれど、資本蓄積危機を目前にしながらシンプルで明快な解答が見つかるような問題ではない。となれば、個人の自由を神聖視しようとする人々を新自由主義の囲いのなかに取り込んでいくのは、そう困難なことではなかっただろう。

こうして無事に正当化された、「個人の自由」と自己責任理論とが大衆のあいだに広く知れ渡り、共有されるようになってはじめて、サッチャーやレーガンは――それまで決して主流ではなかった政治的・イデオロギー的立場をとっていたのにも関わらず――己の改革を断行することができるようになったというわけだ。

もっとも、そんな「個人の自由」の落とし穴については、もはや新自由主義的思考がコモンセンスにしっかりと浸透してしまっている現在においては、誰もが認識済みのことだろう。「個人の自由」は、個人に判断の選択権を与える代わりに、その選択の責任もすべて個人に還元する。つまり、万人に対して自由を強制しようとするような論理は、強者の論理、権力者の論理でしかないのだ。自由を強制できるのは強者だけであり、そこで語られるメリットも、それを肉づける論理も、やはり強者のためのものだ。情報や権力といったものが万人に対して完全に対等に配分されることなどあり得ないのだから、福祉の縮小や自由化の強制、個人の責任の重視といった新自由主義的理念は、階級権力者側への権力と富の集中をもたらすものとして機能する他ないわけだ。

そういえば、ノーム・チョムスキーは、『お節介なアメリカ』で、こんな風に書いていた。

過去の歴史的記録が明らかにしているのは、主権の喪失が常に自由化の強制――当然、この社会経済体制の権力者側に有利に働く自由化である――へとつながることである。ここ数年、この強要された体制は、よく「新自由主義」と呼ばれている。これはあまりうまくない用語である。こうした社会経済体制は、新しくもないし、また、少なくとも伝統的自由主義者が理解するところの概念からすれば、自由主義でもない。(『お節介なアメリカ』/ノーム・チョムスキー p.251)

 *

新自由主義的改革に民衆が同意する根拠として、「個人の自由」という言葉が誘惑の果実として機能していたということはわかった。では、新自由主義的理念が広がったその結果としてもたらされたものは、いったいどういったものなのか?もう少しだけ、見ていきたい。


『お節介なアメリカ』/ノーム・チョムスキー

お節介なアメリカ (ちくま新書)

チョムスキーがくりかえし批判しているのは、アメリカが9・11以降執拗におこなっている、中東地域への内政干渉(intervention)だ。そこでは「テロとの戦い」という旗印が掲げられてはいるけれど、この本を読むと、むしろアメリカ自身が、自ら定義した「テロ」に当てはまる行為をおこなっていることがよくわかる。なぜアメリカはそのようなお節介を続けるのか?どのような原理がアメリカをそのような行為に駆り立てているのか?という疑問に対し、チョムスキーはこう述べている。

アメリカの外交政策には明確なドクトリンがあり、これが西側のジャーナリズムや学界、政治評論家の間にまで浸透している。その主題は「アメリカ例外主義」である。アメリカには「超越的な目的」があるので、今も昔も他の大国とは違う存在なのだという主張だ。「超越的な目的」とは、アメリカが「国内」はもちろん世界各地でも「自由の平等を確立」するというものである。

このような「超越的な目的」をドクトリンに持つ立場――独自の強引な世界観に基づいて世界を形成しようとする――を、チョムスキーは「例外主義」として批判しているのだけれど、そこで、リチャード・ローティが『RATIO』の01号でこんなことを書いていたのをおもいだした。

私のように、我が国を左派的理想の勝利の象徴として描く物語を作る人々は、合衆国がそれらの理想を実現し広めるために活動する力を保持することを望んでいる。合衆国には他国に干渉する権利はないというチョムスキーに、われわれは同意しない。独裁者に支配された国を制圧してそれを民主国家に変えるために民主諸国の軍事力を使用することは、左派的視点から完全に擁護できるとわれわれは考える。侵攻に対するこの弁明は、とりわけ、ナポレオン、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東、アイゼンハワー、ニクソン、そしてブッシュによって、不当に使われてきたが、だからと言って、それは不当に使われるしかないというわけではない。

ローティの意見は理想主義的で「正しい」ものかもしれないが、チョムスキー的な視点からいえば、人がじっさいに政治に関わる際に、「正しさ」なんてほとんど問題にされていないじゃん、ということになるのではないかとおもう。政治が行われるときに重要になるのは、一望俯瞰することで見えてくる「正しさ」ではないし、政治とは、選択肢のなかで一体どれがベターなのか、ということを検討していく作業でしかない。だから、ローティのような主張はまちがってはいないけれど、実効性にかけるものだ、ということになるんじゃないか。

もっとも、いまアメリカのとっている選択とは、世界中の資源エネルギーの支配による権力・富の掌握へとまっすぐに向うだけのものであって、世界の大多数の人にとってベターな選択であるとはとてもいい難いものだ。そんなことは誰でも知っている。政治の「正しさ」なんてものについて議論することよりも、できるだけ大多数の人にとってのベターを探し、追求していくことの方が、きっとずっとたいせつだ。チョムスキーとかを読んでいると、そんなことをかんがえる。

別冊「本」RATIO 01号(ラチオ)


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