タグ ‘ ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

「ネフスキイ大通り」/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

『狂人日記 他二篇』/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

画家のピスカリョーフと中尉のピロゴーフが連れ立ってネフスキイ大通りを歩いていると、ふたりの美しい女が目に入る。ピスカリョーフはブルネットの女が、ピロゴーフはブロンドの女が気に入り、それぞれに後をつけていく。ブルネットの女はじつは娼婦だが、ピスカリョーフは彼女の内に理想の女性を見たようにおもい、彼女を「淪落の淵から救い」出そうとひとり奮起するものの、叶わず、悪夢的な妄想を繰り広げた挙句、自殺してしまう。ブロンドの女はドイツ人の人妻で、ピロゴーフもやはり彼女を手に入れることはできないが、彼はとくにそのことでおもいわずらうこともなく、まあいいか、と、ピローグをふたつ食べるうちに忘れてしまう…。

本作は、ざっくり言えば、「ネフスキイ大通りへの大仰な賛歌」→「ピスカリョーフの悲劇」→「ピロゴーフの喜劇」→「ネフスキイ大通りについてのまじめぶった警告」という4つのパートで構成されており、ゴーゴリの「語り」も、各パート毎にそのテイストを異にしている。ピスカリョーフが体現するのは精神性や内省、純粋さに由来する脆さであるため、そのパートでは彼の内面に寄り添うような語りによって幻想性が強調されている。また、ピロゴーフによって表されるのは肉体性、現実主義、即物的な楽観性といったものであるため、彼のパートにおいては内面的な要素はほとんど排除される。プロットも、基本的にシンプルなリアリズムに則って進行していく。

そして、「賛歌」パートははこんな具合に饒舌で大仰だし、

どこへ行ったって、ネフスキイ大通りでおたがいに出会ったときほど上品に、うち解けて挨拶しているところはない。ここでは諸君は、唯一無二の微笑、芸術の絶頂とも言うべき微小に出会われることだろう、つまり、ときには満足のあまり蕩けてしまいそうな、そんな微笑、ときには、ふいに自分を草よりも低いものと考えて頭をさげ、またときには、自分を海軍省の尖塔よりも高く感じて頭を高くあげる、そんな微小に出会われることだろう。ここで諸君はなみなみならぬ上品さと自尊心とをいだいて音楽会のことやら、お天気のことを語りあっている人々をも見うけるだろう。そこでは諸君は無数の玄妙不可思議な性格や現象に出会うだろう。創造主よ!ネフスキイ大通りでは、なんと変わった性格の人々に出会うことであろう!(p.13,14)

「警告」パートはこんな風に皮肉っぽい。

しかし、なによりも不思議なのは、ネフスキイ大通りに起こる出来事である。おお、このネフスキイ大通りを信じてはいけない!わたしはそこを通るときには、いつも自分のマントにしっかりとくるまって、行きあうものにまったく目をくれないように努めている。すべてが欺瞞であり、すべてが幻であり、すべてが、見かけとはちがうのだ!諸君はりっぱな仕立てのフロックコートを着て、ぶらついている紳士を、かなり裕福だとお思いだろうか?けっしてそんなことはない、彼にとってはそのフロックコートがその全資産なのである。(p.70)

そういうわけで、ピスカリョーフ的なるものとピロゴーフ的なるものは、ネフスキイ大通りの表の顔と裏の顔、これらはひとつところに混在しているのです!という感じに物語はまとめられるわけだけど、うーん、どうも俺にはこの作品のおもしろさがよくわからなかった。70ページ足らずの短編のなかで色調が次々に変化していくところはそれなりに興味深いものの、個人的に美点として挙げられそうなのはそのくらい。おそらく、書かれている内容がことごとく「風刺的でユーモラス」な紋切り型に見えてしまう、というのが原因なのだとおもう。描写にはバルザック的な細かさ、執拗さがあるのに、その細かさにしても「別にどうでもいい」と感じてしまうというか…。(もしかしたら、単にゴーゴリを読むのに飽きてきてしまっているだけなのかもだけど…。)


『査察官』/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

『鼻/外套/査察官』/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

『査察官』はゴーゴリの戯曲だ。今作も、この本に納められている他の2編と同様、落語調で訳されている。

舞台はロシアのとある田舎町。市長をはじめとする町の有力者たちは、ペテルブルクから査察官がお忍びでやって来るらしいとの情報を得て、ぴりぴりと過ごしている。なにしろ、日頃から職務怠慢し放題、不正行為もやりたい放題、どこを叩かれてもほこりが出てくる状態なのであって、しっかり査察なんかされた日にはもう大変なことになってしまうのだ。そんな中、どうも査察官とおぼしき若い男が宿屋に泊まっている、との噂が流れてくる。フレスタコフという名のその男、じつは単なるギャンブル好きの低級官吏で、プライドが高いだけのほら吹き兄ちゃんだったのだが、そのやたらと調子のいいトークに乗せられた町の人たちは、すっかり彼のことを査察官だとおもい込んでしまう。市長らはここぞとばかりに、フレスタコフにおもてなし攻勢をかけるのだが…!

上記のようなプロットを持った本作は、喜劇のフォーマットに沿って描かれたごくオーソドックスな戯曲だと言えるだろう。極端にデフォルメ、類型化されたキャラクターたちがハイテンションでまくし立てるなかで、ひとつの勘違いをもとにどんどん騒ぎが大きくなっていってしまい、さいごにパンッ!と弾ける、という流れである。内省的なところなんてみじんもないし、勢い重視でがんがんに盛り上がっていく、パワフルな展開をたのしめばいい作品だ。

以前に「外套」のエントリでも書いたけれど、本作でもゴーゴリはことさらに社会的不公正を告発するようなつもりはないらしい。ごく自然に嘘をついたり賄賂を送ったりする登場人物たちはいずれも器が小さく、ひたすらに平凡で卑小。もちろん、ヒーロー性などといったものを持ちあわせているはずもないのだが、そんな彼らの姿を描き出すゴーゴリの筆致はそのことに何の評価も下そうとしているようには見えない。ただ、彼らの卑小な姿を細かく細かく描いていくことで、作品全体に異様な濃密さを注入し続けるばかりなのだ。

そんな本作について、ナボコフは、『ニコライ・ゴーゴリ』のなかでこんな風に述べている。

事実、この戯曲全体が(幾分『ボヴァリー夫人』のように)さまざまな種類の低俗さを特別のやり方で交ぜ合わすことから成っている結果、そこから生ずる驚くべき芸術効果とは(あらゆる傑作の例に洩れず)そこで何が言われているかではなく、それがいかに言われているかに、つまり、冴えない断片の燦爛たる結合法に由来している。ある種の昆虫の羽において、見事な色彩効果が鱗粉の色素にではなく、その配列と屈折力に由来するように、ゴーゴリの天才が相手どるのは、算定可能な化学物質の内在的な質(文芸批評家の言う「現実の生活」)ではなく、物質的諸現象の有する擬態能力であり、これら諸現象は再創造された生のほとんど触知不可能な微粒子によって構成されているのである。(『ニコライ・ゴーゴリ』/ウラジーミル・ナボコフ 平凡社ライブラリー p.91)

うーん、「燦爛たる結合法」っていうのは、どうなんだろうな…。言いたいことはわかるけれど、どうも俺には、ナボコフの褒め具合はちょっと度が過ぎているようにおもえてしまう。


「鼻」/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

『鼻/外套/査察官』/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

ある朝、床屋のイワン・ヤーコヴレヴィチがパンをナイフで切り分けていたところ、何だか固くて白っぽいものが入っている。いったいこれは何だ?と恐るおそる指で触ってみると…!

「かたい!」
そんなふうにひとりごとを言った。
「いったい何だろうね、これは?」
指を突っ込んで引っぱり出してみるってえと、……これがなんと、鼻ッ!……イワン・ヤーコヴレヴィチは二の句がつげない。目をこすって、もう一度さわってみますが――やっぱり、鼻ッ。正真正銘、掛け値なしの、どこからどう見たって、どう転んだって、鼻ッ!(p.11)

「鼻ッ!って言いたいだけじゃね?」っておもわず突っ込みたくなるようなシーンだけど、こんな風に、パンのなかから鼻が出てきたり、鼻が外套を着てペテルブルグの街を闊歩していたり、鼻が鼻の元の持ち主に向かって、「私とあなたとは何の関係もないと思いますが」なんて言い放ったり、とにかく鼻にまつわるもろもろのシュールな展開が繰り広げられていくのが、この短編「鼻」である。

うっかり、「シュール」なんて書いてしまったけれど、じっさいのところ、これはシュルレアリスムの始まりより100年ほども前、1830年台の作品だ。なので、本作のテイストについては「シュール」以外の言葉で形容してあげたほうが適切だろう。でも、うーん、これが意外とむずかしい。なんだろうな、幻想的、ファンタジック、というのはちょっと違うし(神話的な要素とか別世界的なものへの憧憬は少しもない)、風刺的、というのもいまいちピンとこない(何をどう風刺しているのかはっきりしない)。だから…そうだな、これは、夢の論理を使って書かれた作品、なんて風に言ってみるのがいいのかもしれない。

夢のなかって、「たしかに”その人”だと確信できるのに、目の前にいる当人はまるで”その人”の姿をしていない」みたいなことがあったりするけれど、「自分の鼻が外套を着て歩いている」(その間、自分の鼻のあたりは「のっぺりして、つるつる」になっている)のを見ているときの感覚っていうのは、わりとそういう感じに近いんじゃないかとおもう。そういう意味では、本作を構成しているのは夢の論理であり、本作のリアリティを担保しているのは、夢のなかで感じられる類のリアリティだと言うことができそうだ。

ともあれ、まあ、これは単にむちゃくちゃな話として、シンプルにたのしんで読んでしまえばいいのだとおもう。鼻を男性器に見立てるようなフロイト的な読み方、ゴーゴリ自身に関する伝記的な事実から鼻に関する何らかのオブセッションを見出して関連付けてみるような読み方も可能だろうけれど、そういうのはあくまでも二次的な解釈であって、本作をたのしむ上でどうしても必要な要素ということにはならないはずだ。さらさらっと読めてしまう浦の落語訳は、そんな本作によく似合っている気がする。


「外套」/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

『鼻/外套/査察官』/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

先日エントリを書いた『貧しき人びと』のパロディ元である、ゴーゴリの「外套」をひさびさに読み返してみた。光文社古典新訳文庫に収録されているのは浦雅春の訳で、なんと全編が落語調の文章になっている。文章の軽妙さが”いわゆる古典っぽさ”を軽減している感はあるけれど、まあゴーゴリならこういうのもありだよね、っておもえるし、とくに違和感もなく読める。

アカーキー・アカーキエヴィチはまるで冴えない九等官の貧乏役人。仕事といえば浄書以外には何もできず、周囲からはいつもばかにされている。そんな彼だが、ある日一念発起、爪に火をともす節約生活の末、ついに外套を新調することに成功する。るんるん気分で出かけるも、なんと新調したその晩に追い剥ぎにあい、外套は奪われてしまう。警察に届けを出し、役人にも手を回してもらうよう嘆願するが、まるで相手にしてもらえないばかりか、なぜか逆に一喝されてしまう始末。アカーキーはショックのあまり発熱し、命を落としてしまうのだった。その後、街路には幽霊が出没、道行く人の外套を剥ぎ取るようになったのだという…!

プロットからすれば、じゅうぶん悲劇としてやっていけそうな物語であるにも関わらず、ゴーゴリは本作を滑稽譚として、ほとんどギャグみたいなものとして描いているように見える。なにしろ、登場人物が全員冴えない。まともな人物、小説の主人公たりえそうな人物がひとりもあらわれないのだ。極端な貧しさとしょぼさが主人公の資格にアカーキーを近づけてはいるけれど、彼が、『貧しき人びと』のマカールのようによくもわるくも心を揺さぶるような激しい独白をすることはない。彼はなにしろ清書だけやっていれば幸せ、もうそれだけで満足です、って人物なのであって、自分の貧しさや他人の視線なんかをいちいち憂いたり嘆いたりすることはないのだ。

どれだけ上司や長官が代わろうが、この男の居場所もポストも職務もかわらず、いつも筆耕のままなので、やがて人は、どうやらこの男、すっかりこのままの姿で、つまり文官の制服を着て、おでこに禿を作ってこの世に生まれてきたにちがいないと思い込んだとしても不思議はない。
役所でもこの男、歯牙にもかけられない。やっこさんが前を通り過ぎても守衛は腰もあげないばかりか、まるでただの蝿が玄関口をひょいと飛んでったくらいのもんで、目もくれようとしない。上司のあつかいときたら、愛想もへったくれもない。局長の補佐官などは、いきなりやつの鼻先にむんずと書類を突き出すばかりで、「清書したまえ」とも、「なかなかおもしろい仕事だぞ」とも言うわけでもない。礼儀正しい職場なら言うはずのやさしい言葉ひとつかけるでもない。やっこさんはといえば、こちらもちらと書類に目を走らせるだけで、誰が仕事を持ってきたのか、そんな権限があるのかすら斟酌する風もない。受け取るとすぐさま清書に取りかかるんであります。(p.73,74)

いや、この男、愛情を持って勤めにはげんでおりました。浄書をしているだけで、この男には自分なりの、なんというか、いろんな愉しい世界が開けてくる。法悦のさまがその顔にうかんでまいります。この男にはお気に入りの文字がいくつかありまして、その文字に近づいてくると、男はもう気もそぞろ、にたにたして、目をぱちくりしはじめる。そこに唇までが加勢するもんですから、男のペンが書きつける文字がその顔色から読めちまう。(p.75,76)

もちろん、本作でも貧しい人々や社会的不公正といったものがモチーフとして大きく取り扱われてはいるのだけれど、それらに対する目線はひたすらにドライ。そのニュアンスは到底”同情的”であるようには見えず、がんばってもせいぜい”風刺的”といったところ。全体的に、ゴーゴリの描写は非常に即物的なのだ。

そういうわけで、「外套」は、悲劇を悲劇たらしめる要素、悲劇性というやつが致命的に奪われてしまった物語であり、それだからこそのインパクトを持っている、ということができるだろう。この物語のエンディングには、メロドラマ性も、思想の激突も、悲しみの果てにある慟哭もない。あるのはただ、外套を奪いまくる幽霊の出現とその消滅、っていう、そんな地味過ぎるできごとの記録だけなのだ。


『貧しき人びと』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(その2)

『貧しき人々』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

マカールの発話のスタイル――他者の視線を内面化し、先取りした他者の言葉に絶えず反発しながら自分語りをする――や、その病的なまでの熱烈さというやつは、まさしくドストエフスキー独特のものだけれど、マカールというキャラクターの設定自体は、ゴーゴリ「外套」の主人公、アカーキー・アカーキエヴィチをベースとし、パロディ化したものだと言っていいだろう。(ふたりは、官位も仕事内容もまったく同じだし、生活水準も似たようなもの。アカーキーには、マカールのように強烈な自我が与えられていない、というのがいちばん大きな違いだろうか。)

ゴーゴリは、「外套」において、ひたすら即物的な描写を連ねていくことでプロットの悲劇性を削ぎ落とし、それを乾いた笑いに変えてしまっていた。まあなにしろゴーゴリというやつは、自分の創り出した作中人物に対して、まるで容赦のない男なんである。ドストエフスキーは、作中でそんな「外套」をマカールに読ませ、憤らせてみせる。

それに、いったいなんのためにこんなものを書くのでしょうか?こんなことがなんの必要があるのです?読者のだれかが代りにこのわたしに外套を作ってくれるとでもいうのですか?新しい靴でも買ってくれるというのですか?とんでもありません、ワーレンカ、さっと読みとばして、つづきを見たいというのが落ちですよ。(p.132)

あの連中も、あの失敬な当てつけ専門の三文文士どもも方々歩きまわって、わたしどもが足をちゃんと敷石について歩いているか、爪先だけで歩いているか、などと観察しているんですよ。そして家に帰ってから、某省に勤める九等官某は靴の先から足の指がむき出しになっており、肘のところも破けている――などとこまごま書きとめて、そんなくだらない代物を出版しているのです……わたしの肘が破れていたって、それがどうしたっていうんだ?いや、こんな乱暴な言葉をつかって失礼ですが、ワーレンカ、貧乏人にもこんなことについては、きみに処女の羞恥心があると同じように、羞恥心があるのだ、ということを申し上げておきましょう。だって、まさかきみは、乱暴な言葉を使って失礼ですが、衆人環視のなかで裸になんかなりはしないでしょう。それとおんなじことですよ。貧乏人だって、あいつの家庭生活はどんなだろうなどと、自分の小部屋を覗きこまれたくはないのですよ。(p.148,149)

かわいそうなくらいに純粋で素朴なマカール。「外套」を読んでも、まさに自分のことが書かれているとしかおもえないのだ(自分の原型なのだから当然だ!)。読者としても、そんなマカールにちょっぴり同情してしまいそうになる。

しかし、本作は、単に貧しき人々にひたすら同情的なだけの、センチメンタルな悲恋の物語というわけではない。マカールとワルワーラの関係を少していねいに見てみれば、それは明らかだ。

マカールは日々の暮らしすら困難を極める生活をしているのにも関わらず、ワルワーラへの恋心で見境をなくし、あちこちに借金をつくりながら彼女にお菓子やら花やらを贈り続ける。ワルワーラさんワルワーラさん、って、もう彼女に夢中でしょうがないのだ。前回のエントリで引用したような長尺かつ暴走気味な手紙を、自分よりだいぶ年下の女の子に送り続ける彼は、もうほとんどワルワーラのことを神格化してしまっているようですらある。

けれど、ワルワーラはもともとマカールに対して恋心を抱いてはいないようだし(彼女は、あくまでも”庇護される者”としての立場を貫こうとしているように見える)、マカールの高すぎるテンション、むちゃ過ぎる金の遣い方に若干引き気味になっていることも少なくない。

あなたはまるっきりお金なんかお持ちではなかったのに、ふとしたことからあたくしが困っていることをお聞きになり、それに心を動かされて、月給を前借りしてまであたくしを助けようという気を起こされ、あたくしが病気になったときにはご自分の服までお売りになってしまったのです。今ではそれがすっかりわかってしまいましたので、あたくしはそれをどう受取ったものか、どう考えたらよいのか、今なおわからないくらい苦しい立場においこまれました。ああ!マカールさん!あなたは同情の気持と肉親としての愛情に動かされてなさった、あの最初のお恵みだけで止めておいて、その後の無駄使いをなさってはいけなかったのです。マカールさん、あなたはあたくしたちふたりの友情を裏切りなさったのです。だって、あなたはあたくしに打明けてくださらなかったんですもの。(p.135)

あなたはあたくしがあなたの不幸の原因となったことを、あたくしに悟られまいと気を使ってくださいましたが、今度はご自分の行いで二倍の苦しみをあたくしに与えてくださったわけですのよ。ねえ、マカールさん、あたくしは今度のことではほんとにびっくりいたしました。ああ、あたくしの大切な方!不幸は伝染病みたいなものですわね。不幸な者や貧しい人たちはお互いに避けあって、もうこれ以上伝染させないようにしなければなりません。あたくしはあなたが以前のつつましい孤独の生活では一度も経験なさったことのないほどの不幸をあなたに持ってきたのでございます。それを思うと、あたくしは苦しくて、死にそうですわ。(p.137)

ねえ、さすがにちょっと重すぎますわマカールさん、ってところだろうか。

そんなワルワーラについて、清水正は、『ドストエフスキー『白痴』の世界』で、こんなことを書いていた。

ワルワーラは女街のアンナ・フョードロヴナや淫蕩な地主貴族ブイコフに一方的に屈服したのではない。彼女は自分の過去の「汚辱をそそぎ」「名誉を取り戻す」ために(ということは、ワルワーラがすでにブイコフと関係があったということであって、彼女を処女と見做した評論家こそいい面の皮である)、また「貧困と欠乏と不幸」から逃れるために正式にブイコフの結婚申し込みを受けているのである。ワルワーラの貧困ひとつ取ってみても、よくよく頭を冷やして考えてみなければならないのだ、何しろ彼女は貧困であるにも拘らず女中フェードラと一緒に暮らしていたのであるから。以上のことから彼女はブイコフ一派に屈したというよりは、自分の内なる<ブイコフ>(虚栄・名誉・贅沢、確固たる生活の保証等)に屈したといえる。(『ドストエフスキー『白痴』の世界』/清水正 鳥影社 p.94,95)

ワルワーラと地主貴族ブイコフのあいだに「関係があった」かどうかは、作中には明確な記述がないので、「いい面の皮である」ってのはいくらなんでも駆け足過ぎ、言い過ぎだとおもうけれど、後半部分については俺もおおむね賛成だ。ワルワーラはブイコフに連れ去られたのではない。彼女は、彼女の意志でマカールを捨て、ブイコフを選び取っているのだ。

まあそういうわけで、彼女の選択は、”貧しさが愛するふたりを引き裂く、悲劇の結末”と見ることができるのと同時に、”なんだかんだで打算的・実際的な女による、現実的な判断”であると解釈することもできる。もっとも、打算的・実際的にならざるを得ない原因というのはやはり貧しさにあるわけで、彼女の心情にはこれら双方のニュアンスが含まれている、くらいの言い方がより正確なところかもしれない(たとえば、彼女自身としては打算的なつもりなど少しもないのかもしれない)。マカールの自意識とその発露の形もややこしかったけれど、ワルワーラの気持ちも、またややこしい。テーマ、プロット、形式のどの切り口からでも多層的な読みが可能になっているのがドストエフスキー作品の特徴だけれど、その特徴はこのデビュー作からじゅうぶんに発揮されているということができるだろう。


Calendar

2015年10月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

Archive