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『モモ』/ミヒャエル・エンデ

『モモ』/ミヒャエル・エンデ

十数年ぶりに再読。全体的にバランスの取れた、かなりクオリティの高い作品だと感じたけれど、と同時に、これほど作品の「テーマ」について語ろうとするのが難しい作品というのもそうそうないな、とおもった。

ある孤児の少女が、街外れにある円形劇場の廃墟に住み着く。モモと名乗る彼女は、「人に耳をかたむける」能力に秀でており、彼女に話しかけることで、人々はみな自分の意志をはっきりと持つことができるようになるのだという。そんなモモのもとに、灰色の男たちが姿を現す。彼らは「時間貯蓄銀行」の外交員であり、時間を節約し、その分の時間を「時間貯蓄銀行」に預ければ利子によって何倍もの時間を得ることができる、などと言っては街の人々を誘惑しているのだ。時間を銀行に預けるようになり、時間の倹約に追い立てられるようになった人々は、生きるよろこびや意味さえも見失ってしまうようになる。モモは、友達たちの時間を取り戻すべく、「時間どろぼう」たる灰色の男たちとの戦いに向かうことになるのだが…!

Amazonのカスタマーレビューなんかを見てみると、どうやら本書の読まれ方には大きくふたつの流れがあるようだ。ひとつは、「これは、効率化ばかりを追求する現代資本主義社会への警鐘である。我々は、進歩発展を希求するあまり、時間から疎外されてしまっているのではないか…」と言い、「『モモ』は、日々の生活の忙しさに追われて大切なものを見失ってしまった大人のための童話である」とするタイプ。もうひとつは、「モモで扱われている「時間」とは「貨幣」の謂である。エンデは利子という仕組みに対してメタファーを用いて反論しているのだ…」と言って、地域貨幣論なんかと結びつけて語るようなタイプだ。(こちらのタイプは、エンデ自身の貨幣に関する著作や発言をやたらと重用する。)

これらの主張の内容自体が間違っているとはおもわないけれど、「テーマ」こそが作品の本質であるかのような錯覚を抱かせる物言いであるという点、そして、物語世界に内包された独特のリアリティや、作品を読んだときの心の動きといったものをまったく無視してしまっているという点において、これらはどちらも、陳腐で退屈、平板な意見だと言わざるを得ないのではないかとおもう。もっと言ってしまうと、こういった「解釈」というやつは、単に、「ミヒャエル・エンデが『モモ』の世界を創造する上で前提とした設定や世界観にリアリティがあって、そうだよなーって納得できた」というだけのものであって、作品そのものとはほとんど無関係なものではないか?とすらおもう。

とはいえ、このような「解釈」(「作者のメッセージは…」、「エンデが言わんとしていることは…」)ばかりが横行する原因というのは、やはり作品の側にもあるはずだ。そうでなければ、『モモ』について書かれた解説や感想のどれもがこれほど同じように退屈になるはずがない。おそらくだけれど、『モモ』という物語は、全体的に寓意が勝ち過ぎているのだ。灰色の男たちと時間の花、「生産性」を求める時間の倹約家たちと「人の話にじっくり耳を傾ける」モモ、若者のジジと老人のベッポなど、各関係がかっちりと計算され過ぎているというか、構図が明確過ぎるというか…。そのために、作中に登場するあらゆる要素が”何かの表象”として読めてしまい、読者の「解釈」を誘発する(「解釈」しないではいられなくなる)のではないか…そんな気がする。

もちろん、ファンタジーというジャンルにおいては、作中に登場するあらゆる要素が”何かの表象”のように見えてしまうこと、あるいは、”何かの表象”として機能していることが多いだろう。だが、本当に優れたファンタジー作品においては、ある要素が”何かの表象”であるように感じられたとしても、じっさいのところ”何の表象”であるのかはよくわからない、という幻惑的な感覚が常につきまとっているものではないだろうか。『モモ』にはそういった夢幻性、多面性といったものはあまり感じられないようにおもう。もっとずっとシンプルで、図式的、構築的なのだ。


「マーリオと魔術師」/トーマス・マン

「トーニオ・クレーガー」/トーマス・マン

1920年代、ファシズムの支配下にあったイタリアを舞台とした中編。ドイツ人の語り手一家はイタリアに休暇に出かけるが、どうにも居心地がよくない。街全体に妙な空気の滞留があり、リラックスできないのだ。そんなある夜、彼らはチポッラという魔術師のショーを見に出かけることにする。チポッラは不気味なルックスとよく回る舌、そしてある種の催眠術を用いて、たくみに観客の意思や感情を操っていく。人を小馬鹿にしたような尊大な態度のチポッラに対し、はじめこそ反発心を抱いていた観客たちだったけれど、次第に彼の手腕に心奪われ、彼の命令に従って動くことに喜びをすら見出すようになっていく。そんななか、町のレストランのウェイター、マーリオが舞台に呼び出されるのだが…!

ファシズム批判の書として、出版当初はイタリアで発禁となったという本作だけれど、チポッラの弁舌によって観客たちが少しずつ己の意思を放棄していくようすはかなり迫力がある。もちろん、なかには必死の抵抗を試みようとする人もいるのだけれど、チポッラのやり口は、観客ひとりひとりをどこか侮辱するような、相手の触れられたくないところを巧妙なかたちで突くようなところがあって、何だかひどく抵抗しがたいところがあるのだ。そして、気がついたときには、会場じゅうがチポッラの発する負のグルーヴに飲み込まれていってしまっている。

わたしの術で、あなた方を踊らせてみせましょう、というチポッラに、「私には踊る気がまったくないが」と悲壮な抵抗を試みた男性を描写した後に、語り手はこのように述べる。

この人が敗れたのは、闘争の姿勢が消極的なこと、つまり何かを「しようとしない」という方向だったからではないだろうか。何かを「しようとしない」といのでは、人間は気持ちの上で生きていかれないのだろう。つまり、生きるとは、何かを「しようとする」ことなのだ。何かを「しようとしない」ことと、もう自分からは何もしようとしない、つまり命じられた通りにすることとの間には、紙一重の差しかないのだ。その結果、自由という理念は行き場がなくなる。(p.210,211)

何かを「しようとしない」態度で闘争に打ち勝つことはできない、というわけだ。この作品の書かれた後に、ドイツでファシズムが蔓延することになるのはなんとも皮肉なことだけれど、たしかにここでのマンの指摘にはかんがえさせられるものがある。自由でありたければ、何かを「しようとしない」自由などというものに肩入れすべきではない。そうではなく、何かを「しようとする」べきだというわけだ。…このタイミングだと、なんだか、選挙なんかのことをおもい浮かべてしまったりもするね…。


「トーニオ・クレーガー」/トーマス・マン

「トーニオ・クレーガー」/トーマス・マン

トーマス・マンの小説って、いままでほとんどまともに読んだことがなかったのだけど、いやー、これは極めて均整の取れた、そしてなんとも若々しく美しい小説だった。高校生の頃に読んでいたら、本とかが好きで内向的で愚にもつかないことばかり延々とかんがえたりしていた当時の俺の心の奥深いところにまで、この物語はいともたやすく入り込んでしまったことだろう。そしてきっとしばらくのあいだ、マンのことを”人生の師”扱いするようになっていたに違いない。自伝的な要素が多分に組み込まれた、マン自身もおもい入れたっぷりだというこの中編を、20代なかばを過ぎつつある現在の自分としては、半分は”あの頃”を振り返って見るような甘ったるい感傷に浸りながら、でももう半分はやはり、この物語は自分のために書かれたんじゃないか、っていう、胸の奥がきゅんとするような、ちょっぴり素直で無防備な気持ちになりながら、読んだのだった。

本作のすばらしさというのは、主人公の内面を描き出す文章のクオリティの高さにあるだろう。自分勝手な疎外感や無力感、決して手に入らないものに対するあこがれ、「わかっていない」他人へのいらだちや蔑みの感情といったものは、トーニオ君に代表されるようなタイプの人間にとっては――そしてきっと、小説なんてものが好きな人間の多くにとっては――おなじみのものだけれど、それらの感情に寄り添いながらも精緻な分析は忘れず、突き放しながらも目を離しはしない…という感じの、マンの絶妙なバランス感覚が、文章の重心を自在にコントロールしており、それが読者の感情を揺さぶるのにきわめて有効に働いているのだ。

自分の中に躍動している楽しげな、それでいて哀しみを帯びたすばらしい創造の力。だがせっかくのその力も、自分が憧れてやまない人々にはあっけらかんと無視されてしまう……そう思っただけで、たまらなく悲しかった。だが、たとえ仲間はずれにされ、希望もなく、ブラインドの下りた窓に向かって、ひとりぼっちで佇み、悶々としながら外を見ているふりをしていようと、トーニオはやはり幸せだった。なぜなら、このとき彼の心は生きていたからだ。温かく、そして悲しく、インゲボルク・ホルム、君のために鼓動していた。自分を否定することに酔いながら、金髪で屈託がなく、溌剌としたその平凡な小さな存在を抱きしめていたのだ。(p.41)

たとえば、こういうところ。トーニオの内面に寄り添うように語っていたかとおもえば、「なぜなら…」と、”全能の神の視点”から解説し、しかし次の瞬間には、「君のために鼓動していた」と、またトーニオに一気に接近する。そして今度は、トーニオが「酔っている」ことを指摘しつつも、その心情にはあたたかな理解を示してみせる。こうした重心の移動が、作中のメインテーマとして扱われる、”トーニオ君の自意識”というやつをグルーヴ感たっぷりに描き出すのに大きく貢献している。センチメンタルになったかとおもえば、冷静に考察し、落ち着いて描写していたかとおもえば、こみ上げるノスタルジアの奔流に身をさらしていたりする、というわけだ。こういった、甘辛の比率の絶妙さ――まあ、”青春小説”なので、甘いほう寄りではあるのだけれど――こそが、本作が読者の感情移入を幅広く受け入れる要因になっているのだろうとおもう。


『クラバート』/オトフリート・プロイスラー

クラバート(上) (偕成社文庫4059) クラバート(下) (偕成社文庫4060)

18世紀ドイツ、ポーランド辺りを舞台にしたファンタジー。1971年発表の作品だから、いわゆるファンタジー小説の黎明期に書かれた、古典というやつだ。家を持たず、放浪の生活を送っていた少年、クラバートは、ある日夢のなかで聞こえてきた声に導かれるようにして、人里はなれた水車場を訪れる。そこにいたのは魔法の力をもった親方と、その下で働く11人の職人たちだった。クラバートは職人見習いとなり、水車場で働きつつ魔法を教わるようになるのだが、時が経つにつれ水車場のシステムに疑問を抱くようになり…!というのがストーリーの導入部で、まあ、その先の展開にも予想外のところはほとんどない。

ただ、かなり、というか、ちょっと他にはないくらいしぶい作風で、そこがこの小説独特の魅力になっている。いろんなファンタジーを読んできた大人が読んでも、十分たのしめる小説だとおもう。というか、小学生とかが読むにはちょっとしぶ過ぎるかも、っておもったくらい。表紙もしぶいしね。

何がしぶいかっていうと、まず文章がしぶいし、物語の展開がしぶい。ケレン味が少ない、って言えばいいのかな、とにかく最近世間で量産されているファンタジーみたいな派手さは全くない。描かれるテーマは、生への欲望というか、生の意味を問い直すような、まあありがちなやつなんだけど、それが余計な装飾を廃した文体で書かれていて、そのシンプルさがなんだか感動を誘う。舞台になっているドイツとかポーランドとかチェコとか、その辺の国のイメージ(東欧的、なんて言われそうな薄暗さや寒々しさ、それと無骨な感じ)にぴったりな文体におもえた。

物語がクライマックスに近づくにつれ、文章のシンプルさ、語りの朴訥とした感じが効果的になっていくのだけど、例えばこんなところ。

「ことはあきらかだ」と、ユーローは言った。「輪の助けがあれば、いずれにしろおまえのほうが親方より優勢だよ。」

「でも、どうしてそうなるんだろう?」と、クラバートはたずねた。「あの娘に魔法が使えると思うかい?」

「おれたちの魔法とはちがう魔法だな」と、ユーローは言った。「苦労して習得しなければならない種類の魔法がある。それが『魔法典』に書いてある魔法だ、記号につぐ記号、呪文につぐ呪文で習得してゆく。それからもうひとつ、心の奥底からはぐくまれる魔法がある。愛する人にたいする心配からうまれる魔法だ。なかなか理解しがたいことだってことはおれにもわかる。――でも、おまえはそれを信頼すべきだよ、クラバート。」(下巻p.191)

こういうのって、ファンタジー小説では定番だろう。つまり、愛こそ真の魔法である、っていうようなことを発見するシーンな訳だけど、『クラバート』におけるそれは、こんな風にとてもあっさりと、必要最低限の言葉で描かれている。いや、もちろん、この部分だけを取り出してみたところでぜんぜん感動的でも何でもないんだけど、小説全体がこういう抑制された筆致で描かれていることで、無骨ながらも強い意志を持った物語というような印象を強くしている。地味なんだけど、盛り上げすぎないことでかえって切実さが染み出してくる、っていうか。その感覚はとても魅力的で、こういうところにファンタジー小説の古典としての強度があるのかもなー、なんてかんがえたりした。


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