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『イー・イー・イー』/タオ・リン(その2)

『イー・イー・イー』はシニカルかつセンシティブな雰囲気を持った小説だと先日書いたけれど、それと同時に、超くだらないオフビートでダウナーなギャグをちょいちょいかましてくる作品でもあった。もうほんとどうでもいいけど、でも妙におかしい、って箇所がいくつもあったのをおもい出したので、少しだけ引用しておく。

「皮肉っていうのは特権的なものだ」マークが口をきいた。「生き延びるために必死にならなくていい連中がそうなるのさ――生き延びるために何かする必要がなくて、『スティーヴ・ズィスーと原子力潜水艦』とかそんなタイトルの映画に四億ドル費やすようなやつが皮肉屋になるんだ」

「かもな」アンドリューは言った。「じゃあお前は人にどうして欲しいって言うんだよ」

「よく分からないけど」マークは言った。「こういうのはやめて欲しいんだ――ほら、今ってみんなが言うじゃない、”俺は落ち込んでいる、お前も落ち込んでいる、みんなで一緒に落ち込もうぜ”って」

「それいい映画のタイトルになるぜ」アンドリューは言った。「その映画俺は見たいな。お前もみたいだろ。なあ」(p.78,79)

なあ、って、もう、超どうでもいい会話だよこれ…。でもわらってしまう。それから、やっぱりちょっとわかるかも、ともおもってしまう。『スティーヴ・ズィスーと原子力潜水艦』ってのはたぶん、ウェス・アンダーソン監督の映画、『ライフ・アクアティック』(セウ・ジョルジが”Starman”をポルトガル語で弾き語りするシーンが最高!)のことを言おうとしてるんじゃないだろうか。あれは四億ドルもかかってないだろうけど。

「スティーブか」電話に出たのはスティーブの父さんだった。

「ああ」とスティーブは返した。

「母さんから聞いたが、わたしに会いにみんなで来るんだってな」とスティーブの父さんがいった。「五人全員で」

「あんたがこっちに来いよ」とスティーブ。

「ダメよ」とジャン。「パパは手が離せないのよ」

「ダメじゃないね」とスティーブは電話口の父親と目の前の母親、両方に言った。「あんたなら来させることが出来んだろ」

「エレンはどうした?」スティーブの父さんは聞いた。

エレンは背もたれの方に顔を向けてソファに寝そべっていた。鼻も、目も、口も、おでこもソファにめりこんでいた。スティーブはすばやくソファに行って彼女の上に座った。「俺の尻の下だけど、何か?」彼は父さんに言った。

「妹の上に座るんじゃない」スティーブの父さんは怒った。(p.125)

「鼻も、目も、口も…」って一文が、どうしても可笑しい。なんで可笑しいのかよくわからないし、じつはここなんかは、小説の流れからするとちょっとした悲しささえ感じられるシーンのはずなんだけど、いまこうしてキーボードを叩きながらも、俺は吹き出しそうになってしまう。

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『イー・イー・イー』/タオ・リン

イー・イー・イー

大学を無事に卒業して一度はちゃんと就職したもののすぐに辞めてしまい、ドミノ・ピザでだらだらと働きながら、いかんともしがたい倦怠感や寂しさ、ネガティブ感をいつもいつももてあましているフリーターのアンドリュー@フロリダの物語。

物語といっても大したストーリーがあるわけではなく、基本的には彼の退屈な日常やぐだぐだな妄想が描かれているばかりなのだけど、そこにまったく唐突に熊やらイルカやらが登場してくるところがおもしろい。熊にイルカって言っても別にファンタジーな話になっているわけではなくて、彼らの役どころはいわゆるポストモダン的なインチキっぽさやシュールさを引き立てるところにあるような感じ。

熊もイルカもアンドリュー並にネガティブで厭世的なキャラクターではあるものの、彼らと出会うことでアンドリューの何かが大きく変化する、みたいなことはぜんぜんない。外部からの刺激は人を変えるきっかけにはなるかもしれないけれど、結局のところ人は自分自身で変わろうとしなければ決して変わらない、なんて事実を突きつけてくるようなちょっとシニカルな視線が常にあって、それが作品に乾いた味わいを与えている。

ウェイトレスがやって来る、二人の高校の時の同級生だ。アンドリューは彼女の名前が思い出せない。三人は互いに知らないふりをする。二人はさっさと注文し、彼女は戻っていく。彼女は前より太っている。そしてデニーズで働いている。彼女の人生は終わりだ。デニーズで働いているのがサラだったら、アンドリューは微笑んだかもしれない。アンドリューはドミノ・ピザで働いている。ピザハットのエッジが利いている版だ。辞めなくては。仕事みたいに人生も辞めてしまいたい。彼は人生が終わっている人々についての小説を書いていた。自殺はしない。誰も殺さず、バンドも始めず、自殺もしない。(p.44)

ただ、作品全体として皮肉っぽくありつつも、ネガティブの螺旋のことならよくわかってる、そういうのってみんなやっぱりあるんだよね、っていう温かな共感のトーンも同時にあって、時折こんなぐっとくる文章があったりもする。

その年、イルカたちは始終頭が重くて、横になりたがってばかりいた。横になってみても、何というか心理的には頭が重いままだった。人前で悲しみに襲われることもあった。そんな時はトイレの個室に逃げ込み、自分を抱きしめてひそかに鳴いた。「イー・イー・イー」週末になると、公園にひとりぼっちで出かけていった。イルカたちは滑り台のてっぺんに――カラフルに光るプラスティックに四方を囲まれた孤独な場所に腰かけていると、気持ちが研ぎ澄まされていくのと同時に、やるせなくて子どもになったみたいな気がした。そのまま居眠りをして、子供連れの母親にホウキで突き落とされ、眠ったまま滑り落ちていくこともあった。地面に到達すると恥ずかしくなり、家に帰ってベッドで横になった。悲しむことが運命づけられた年なのかもしれないと思うと、イルカたちはさらに悲しくなったが、うちひしがれ、へこみつつも、少し気分が楽になった。人生とは悲しいものなのだから、一度心ゆくまで味わうことも美しきかな。一年くらいは悲哀を受け入れてみよう。週末の夜はしょっちゅうそんなことを思って、夢を見ているような、そよ風に吹かれ、草原に咲いているピンクの花がイルカの夢を見ているような気持ちになった。この悲しみはまるで分け入るごとにまばらになるピンクの森のようで、しまいには何もない草原になり、イルカはそこをひとりぼっちで歩いていくのだ。(p.108,109)

地球とは岩に過ぎず、太陽は燃えている岩であり、人生とは小規模の災難で、調査や打開の対象となるには小さすぎるが、自然に消えてなくなってしまうほどには小さくはないものである。だから、消えゆくかすかな光の靄や、ドアや美しい顔の数々の中に人生は残っているのだ。(p.161,162)

正直言ってそんなによくできた作品だとはおもわないのだけど、俺はどんよりと落ち込んでいた時期に読んだものだから、ところどころでずいぶんぐっときてしまった。これはきっと、なんだかいろんなことがうまくいかなくてしょっちゅう鬱々と落ち込んでしまうアンドリューみたいな奴のための物語で、だから作品全体のクオリティはともかくとしても、俺はこういう小説がすきになってしまう。


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