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『ブリングリング』

『ブリングリング』

ずいぶん以前に、早稲田松竹にて。LAに暮らす裕福な家庭の子供たちが、夜な夜なセレブの空き家に忍び込み、窃盗を繰り返す…という、本当にそれだけの話(実話)を描いた作品。「シャネルのバッグが欲しいの」→「そういえば、リンジー・ローハンは今晩パーティに出ているはず」→「リンジー・ローハン 住所」でネット検索→家はここか、じゃあひとつ戴きに行っちゃいますか→クラブで知り合いに自慢:「今日はリンジーん家からパクってきたわー」「まじ!?ウケるんですけどー。てか、それ超クールじゃない?」、って流れを繰り返すばかりなのだ。

彼らを駆り立てていたものは、つまるところ何だったのか?観客には最後までわからない。物欲、スリル、セレブのライフスタイルなるものへの憧れ、自己顕示欲、友達付き合い…まあいろいろな要素が組み合わさっているのだろうけれど、それでもやっぱり、こんなにも割に合わない、こんなにも無防備で無邪気なふるまいを、ハイティーンの子たちが繰り返すというのはなかなか腑に落ちないもので、俺は見ていてふしぎな気分にさせられたのだった。

まあ、ざっくりと解釈することはできなくもない。たとえば、この事件は、セレブ文化の影響力の強さと、SNSによる自己アピール文化の強さとの相乗効果によって生じたものだ、と説明してしまうことは可能だろう。友人や知人により強烈に自分をアピールし、承認を得たいとおもう気持ちは、SNSカルチャーに強く取り込まれたティーンならばそれなりに自然なものだろうし、強くアピールするには何よりもクールなもの(=セレブ)に自分がなってしまえばいい、ということになる。おまけにセレブはうんざりするほど大量のモノを持っていて、しかも自分の近所で家を留守にしている…そうなれば、こういう犯罪にまで手が伸びていってしまうこと自体は、まるで理解に苦しむようなものではない、とかんがえることができるだろう。

ただ、本作ではそういった彼らの心情や背景となるようなエピソードは(おそらく意図的に)描かれていない。だから、彼らが自らの行為を反省したりして、ひとつ大人への階段を登ったりするような場面はまったく出てこないし、内に秘められた本心なるものを――そんなものがあるとすればだが――匂わせるようなこともない。とにかく彼らは、省察や重さや悲壮感とは無縁なのだ。本作のカメラは、先のことなど何もかんがえず、ふらふらと悪さをしては遊び回る彼らの姿を、空虚で軽薄で、きらきらしていて、どこか孤独を感じさせる、弱い少年少女として映し出しているばかりなのだ。


『マリー・アントワネット』

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]

DVDで。いやー、この雰囲気はソフィア・コッポラならではだろう。透明で涼しげで軽やかでおしゃれで、でもその底のところにはどうにもできない程のけだるさ、倦怠感がある、っていうこの感覚が味わいたくて俺はソフィア・コッポラの映画を見ている気がする。自分がひどく疲れていたりするときでも、すっと作品世界に入って行けたりするところが特にいい。

物語的には、マリー・アントワネットがフランスに嫁いでから処刑されるまで、っていう定番のストーリーをなぞっているだけなのだけど、作中で延々と描かれているのは彼女の感じるえも言われぬさびしさや倦怠感ばかり。えっと、そういやこれってフランスの話なんだよね?とかおもっちゃうくらい、いわゆる歴史もの、大河ドラマ的なな匂いがしない。ここまで派手な舞台を使ってここまで地味な内面を描こうって大胆さは、さすがソフィア!って感じだ。

80年代UKロックがめいっぱい使われたサウンドトラックはわくわくするし(The Cure”Plainsong”→New Order”Ceremony”って流れは熱かった!)、きらびやかなのだけど過剰にゴージャスにはならない、パステルカラーの画面も見ているだけでたのしい。マリー・アントワネットを演じるキルスティン・ダンストは、他のソフィア映画の主人公たち同様、キュートで儚げで素直でちょい天然で退屈していて素晴らしい。しっかりと狙いと方向性を持った、とてもいい映画だった。


『SOMEWHERE』

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吉祥寺バウスシアターにて。これはよかった!展開らしい展開がほとんどない映画なのだけど、ある美意識がたしかに全編を貫いている感じが、この作品を挑戦的で素晴らしいものにしている。ハリウッド俳優のジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)とその娘、クレオ(エル・ファニング)の静かな交流の物語。

作品の肝は完全に主人公ふたりの演技にかかっているのだけど、彼らは非常に繊細な演技を見せてくれている。とくに監督の美意識を代表しているのが、ダコタ・ファニングの妹、エル・ファニングだろう。彼女は11歳の女の子らしく無邪気でとってもキュートなのだけど、ダコタとは違った、なんとも言えない繊細さがあって、そこがこの作品にぴったりとはまっている。彼女の持つ朝露ばりの透明感こそが、作中で描かれる父と娘の穏やかなひとときを儚く、かけがえのないもの、いま、この一瞬でないと感じることのできないようなきらめきに満ちたものにしているようにおもった。

ジョニーとクレオとは親子な訳だけど、ふたりの関係はいわゆる”親子関係”という言葉から想像されるそれとは少し異なっているように感じられる。彼らは互いに気を許しているし、互いに相手をおもいやることもできているけれど、激しい感情をぶつけ合うことは決してない。そのせいか、彼らの関係にはどこか一線が引かれているような、かりそめのものであるかのような、何かが起これば簡単に壊れてしまいそうな脆さが見受けられる。ジョニーの横顔はいつもどこか哀愁を帯びているし、クレオに対する親密さの表現にしても、どこか慎重なところがある。また、クレオはジョニーの内に潜んだ不安定さに気がついているようにも見える。

作中で扱われているそれらの問題に関して、明確な解決策が提示されるようなことはない。主人公たちの悩みや問題がドラマチックに取り扱われることは最後までなく、映像もどちらかと言うと意味から切り離されているような感じだ(ほとんど無意味に長いようなシーンもいくつかある)。そうして辿り着くエンディングは、作品全体を包み込んでいる、いわく言い難い倦怠感、そこはかとない疎外感のもやもやを突き抜けて一瞬だけ見える切れ間のような、静謐なオープン・エンディングになっている。


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