タグ ‘ ジョン・カサヴェテス

『ラヴ・ストリームス』

『ラヴ・ストリームス』

早稲田松竹にて。 結婚生活が破綻した後、破天荒な生活を送っていた弟(ジョン・カサヴェテス)のもとに、同じく結婚生活に破れた姉(ジーナ・ローランズ)がやってくる。ふたりはそれぞれに愛を求めて彷徨するのだが…!

ジーナ・ローランズは、『こわれゆく女』と同様、どこか精神を病んだ、エキセントリックな女性を演じている。そして、ジョン・カサヴェテスも、姉ほどではないにせよ、何かが決定的に欠落した人間として描かれているようだ。彼らの行動はとりとめがなく、まともな目的や目標があってふるまっているようには到底見えない。本能任せで行き当たりばったり、その場、その瞬間の感情だけに忠実なのだ。そんなふたりだから、どんなに必死に行動してみても、それが描き出すのは負のスパイラルでしかない。冒頭から不安定な彼らの精神は、2時間以上経っても、一向に安定の兆しを見せないのだ。

映画の終盤で大量の動物たちが家にやって来る辺りから、物語は一気にその夢幻性を高め、強迫観念と妄想が入り混じった、神秘的で圧倒的なムードを醸し出していく。とくに、ジーナ・ローランズが元夫と娘とを「30秒で笑わせる」と言ってプールサイドでギャグを連発するシーンは、不気味でもあり、物悲しくもあり、そして奇妙に美しくもあった。

狂気や妄想が爆発しているけれど、だからこそ大胆で、独特の輝きを持った映画だった。作中で語られ、各エピソードで描かれるように、主人公たちは「喪失感」を憂うけれど、その実はじめから「何も持ってはいない」。彼らは最初から最後まで、自分が求める人からの承認を得ることができないでいるのだ。持たざる者であるからこそ、彼らは強く真剣に「愛」なるものに憧れ、その止むことのない流れを自分のもとへ引き寄せようと不器用にあがき続ける。その姿は、どこまでも孤独を感じさせ、悲しいけれど、胸を締めつけられるような美しさを放ってもいる。


『こわれゆく女』

『こわれゆく女』

早稲田松竹にて。子供たちを実家に預け、ひさしぶりに夫婦ふたりで夜を過ごす予定だったニック(ピーター・フォーク)とメイベル(ジーナ・ローランズ)だが、急な仕事が入りニックは帰宅できなくなる。メイベルは夜の街を彷徨し、バーで捕まえた男を家に連れ込むのだが…!

神経症の妻を演じるジーナ・ローランズ、気が短くて思いやりがことごとく空回りする夫を演じるピーター・フォーク、このふたりの演技と彼らを映し出すカメラのねっとり感がとにかくすごい映画だった。作品全体を通して、張り詰めた空気というか、胃のなかにずうんと重いものが入っているような、なんとも重苦しく、嫌な気分が充満しているのが感じられる。スパゲッティの食事シーン、子供たちを迎えに行くシーン、家に招いた近所の子供たちをメイベルが歓待するシーン…どれも、見ているだけで胸が苦しくなるような感覚がある。

メイベルの神経症的なふるまいは時間の経過とともにニックに転移していくかのようで、映画の終盤におけるニックは、メイベルが前半で見せてきたような、ある種の強迫観念にとらわれているようにも見える。メイベルの「ウェルカムバックパーティ」で、「さあ、早く、リラックスして!」「ふつうに、たのしくやるんだ!」と目を血走らせて叫ぶニックは、ほとんど狂気の側に足を踏み入れているようでもある。

各シーンはどれもひたすらに重苦しくてやるせないのに、ニックとメイベルが互いに愛し合い、必要とし合っているのは明らかだし(ふたりは共依存的な関係にあるのだろう)、彼らの子供たちが両親を愛し、必要としているのもまた明らかだ。そんな切っても切れないような関係があってもなお、生きるということはひたすらに苦しい、あるいは、そんな関係があるからこそ、生は苦い…ということをこの物語は語っているようにおもえたけれど、でも、器用さゼロで直情的に想いをぶつけ合う彼らの姿は、俺にはなんだか眩しく見えたのだった。

おもしろいというような作品ではないし、何らのカタルシスが得られるわけでもない、救いのようなものもとくにない。はっきり言って見ていて疲れるし、なんともどんよりした気分にさせられる。ただ、この圧倒的にヘヴィな空気感と、それをきわきわの演技で伝える俳優たちの魂の凄絶さが感じられる作品だった。


Calendar

2015年10月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

Archive