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『また会う日まで』/ジョン・アーヴィング(その2)

アーヴィングの『また会う日まで』の主人公、ジャック・バーンズの幼い頃からの口癖に、「おー」というのがある。ジャックの「おー」は、周囲の世界に対する驚きや、自分の働きかけとはほとんど関係なく世界が動いていくことへの無力感みたいなものを表現しているようにおもえるのだけど、彼は大人になってからも何かにつけて、「おー」と言い続ける。そのようすは、かわいらしいようで若干うざったくもあるし、どこかもの悲しさを漂わせてもいる。

「ごめん」と、ジャックは言う。「国境でのことは、ほんとに悪かった」

「もう忘れたわ。時間はかかったけど、忘れた。もっと忘れられないこともあるしね」

「おー」

「それしか言えないの?」

「ごめん」

「子供が欲しくないって言われたことだけじゃないのよ。あなたって人は、お父さんの遺伝子を悪者にしてるだけなの。それでもって一人の女と長続きしないんだわ」(上巻・p.472)

で、きのう久々にスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読み返していたんだけど、

われわれが他の人々とともに住むこの世界に、人間の悪がどれほどの苦しみを引き起こしているかを意識し、その意識を拡大させられることは、それ自体よいことである。悪の存在に絶えず驚き、人間が他の人間にたいして陰惨な残虐行為をどこまで犯しかねないかという証拠を前にするたびに、幻滅を感じる(あるいは信じようとしない)人間は、道徳的・心理的に成人とはいえない。

或る年齢を超えた人間は誰しもこのような無垢、このような皮相的態度、これほどの無知、あるいは健忘の状態でいる権利を有しない。(p.114)

なんて文章があって、あー、ジャック、ソンタグに説教されるだろうなー、なんておもったのだった。

いや、まあ、ソンタグのことばがジャックに直接当てはまる、ってわけじゃない。大人になってからのジャックは、人間の悪にそうしょっちゅう幻滅を感じているわけでもないし、全くの無知でも皮相的な態度でいるわけでもない。もちろんぜんぜん無垢ってこともない。それに、物語の中盤以降で発せられる「おー」は、どこか自虐的なニュアンスを含んでいるいるような気がしなくもない。だけど、いい大人になっても、ついつい――まるで、「また四歳の子になったように」――「おー」なんて口にしてしまうジャックを見たら、きっとソンタグはイラっときて、ひとことふたこと言ってやりたくなるんじゃないかなー、とか、そんなことをちょっとかんがえたりしたのだった。

また会う日まで 上 他者の苦痛へのまなざし


『また会う日まで』/ジョン・アーヴィング

また会う日まで 上 また会う日まで 下

「また会う日まで」、この本は3週間くらい前に吉祥寺のブックスルーエで見つけて、「あ、アーヴィングの新刊出てたんだっ!!買わねば!」とおもって買ったんだけど、ちょうどその日はみうらじゅんのサイン会をやっていて。店に入ってすぐの、2階に上がる階段のところにけっこうな列ができていて、つい俺も、「え、みうらじゅん来てるの?いいなー」なんて『みうらじゅんマガジン vol.2仏像ロック』買っちゃうところだった。

『仏像ロック』を買わずにすませたのは理由があって、このアーヴィングの新作、上下巻に分かれているんだけど、1冊2400円もするわけ。まあ、海外文学のハードカバーなんて高いのがあたりまえだけど、にしてもやっぱり高い!そしてアーヴィングだけあって(彼は、やたらめったら長い小説ばっかり書くので有名)ボリューム感がはんぱない。ジョン・アーヴィングの小説の魅力のひとつは、この延々と続く物語を時間をかけて読んでいくなかで得られる、独特のカタルシスにあるとおもうんだけど、今回もまた上下とも500ページを越える大長編だし、まちがいなくいろんな意味でおなかいっぱいになる。そういうことが読む前からよく分かっていたので、俺は万難を排して――というのは、積読してある本たちをなんとか処理して、ついでにドイツ語の予習も就活用の読書もすべていったん忘れることにして――この小説にとりかかることにしたのだった。

とても長い小説というのは、あたりまえだけど、読むのに時間がかかる。何日もその作品世界に出たり入ったりをくり返すことになる。けれど、感想っていうのはいったんその小説を読み終え、その作品世界を出たあとで、読後の印象として語らざるを得ないものだ。読み終えた地点からその小説を振り返っても、そこには、読んでいたときのこころの動きとかかんがえっていうのは、完全には残っていない。だから、アーヴィングみたいな長い作品について語るのってむずかしいよなー、っていつもおもう。それはもちろん、長い小説に限った問題ではないのだけど、やっぱりこれだけ長いとねー。訳者あとがきによれば、今作はアーヴィングのいままでの長編のなかでも最長とのこと。

アーヴィングの小説のテーマは、昔から(『ガープの世界』、以降)すごく一貫している。時間の流れを描くことだ。そのディケンズ的に長大な物語のなかで、登場人物たちは、時とともに何度も浮かび上がってくる、過去の傷や因縁と対峙しなくてはならない。世界も、そこに生きる人の人生というのも、人の理解できる範囲になんて、とても収まりきらないもの。人はそれらをなんとか理解しようともがくけれど、その結果はというと、悲劇的にもなれば、同時に喜劇的にだってなりうる。しかし、そのようにハードな生のなかでも、ユーモアやポジティブ感をもって、確かな豊かさを見出していくことはできるはず。毎回のように反芻されるのは、そんなテーマだ。

「勇気があるっていうのは、起こったことを受け入れるってこと――なんとかがんばって乗りこえるってことだよ」(『未亡人の一年』)

もう少しで現実になったかもしれないこと、なるべきだったことにこそ、真実は宿るものである。(『ピギー・スニードを救う話』)

このあたりが、アーヴィングの哲学、倫理感であるだろうとおもう。そしてこの倫理観は、本作にもばっちりと織り込まれている。

主人公、ジャック・バーンズの半生を描くこの物語では、彼の幼いころの体験、その記憶がとても重要な意味をもつ。時の流れのなかで、彼がどのように生きるのか、そしてその生のなかで、過去とはいかなる意味をもったものになっていくのかが描かれる。自らの過去や、周囲にある過去の存在にたいして注意深くなり、さまざまな声――各々がすきなように状況を語る――に耳を傾けるなかで、自分のありかたを検証し、再構成していく。そのような、過去の記憶がまずは形作られ、後にはそれと対峙していくプロセスが、長い長い物語になっている。

アーヴィングの小説は、いつもシニカルでありつつ感傷的だけど、それは本作でも変わらない。シニカルさと感傷というのは、つまるところ同じものの表裏なのであって、お互いがお互いを引き立てるような働きをする。そして、このような長編小説において、それらがもっとも強く読者のこころに訴えかけてくるのは、やはり時の流れが感じられるときだ。かつては輝いていたものが、色褪せていることに気がつくとき。幼いころたいせつにしていたものが、じつは自分のおもっていたのとは、まったく違う意味合いをもっていたのだとわかるとき。昔はすこしも理解できなかったことが、受け入れられるようになったとき。読者はこの壮大な、というか、ひたすら長い物語につきあうなかで、否応なしに時間の経過を経験することになり、その読書に割いた時間の長さは、まちがいなく、作品中に流れる時の流れのリアリティを、より強固なものにする。読者が時の流れを実感するときには、センチメンタル過剰で陳腐になるかもしれない物語も、たしかな説得力をもつことになる。

集積していく過去や、時の流れを感じずにこの小説を読むことはできないし、その長さや重さはときにくどくどしく、単調なものにもなりうるけれど、そういった要素を含むことではじめて見えてくるような豊かさというものが、確実にある。登場人物の経験のプロセスが、逐一、しつこいくらいに描かれる中で、結論に至るまでの道が、こころを動かすようなちからをもってくる。わくわくしながらストーリーを追い、ページを繰っていくなかで、そういう、なんだかあたりまえのことを実感する。

もちろん、作者がこの長い物語のなかで描き出していく答えとは、ときにシニカルでありつつも、前向き、肯定的なものだ(だいたい、いままでアーヴィングが登場人物の生を否定的に書いたことなんてあっただろうか!?)。いつもおだやかに共感する視点があって、物語にあたたかみがある。この小説は、そんな率直な肯定感がとても魅力的だし、そこにはなにしろ長い時間をかけて読むなかで検証されてきた説得力があるから、読んでいて勇気づけられもする。あー、やっぱ小説ってすげーよ!いいよ!!って、素直に言いたくなっちゃう作品だった。


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