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『愛その他の悪霊について』/ガブリエル・ガルシア=マルケス

『愛その他の悪霊について』/ガブリエル・ガルシア=マルケス

混み入って重層的な物語構造が用いられることの多いガルシア=マルケスの小説のなかでは、比較的シンプルでロマンティックなたたずまいの作品だ。タイトルがかっこいいね。

物語の舞台は、中世のラテンアメリカ。主人公のシエルバ・マリアは、12歳の侯爵令嬢、女王のマントのように長い長い髪の持ち主である。幼い頃から親にまったく構ってもらえず、黒人奴隷たちのあいだで育ったおかげで、そのふるまいは野性味溢れて自由奔放、ヨルバ語を自在に操り、意味不明な歌を歌ってばかりいる。そんなシエルバだが、ある日、街の市場で狂犬に噛みつかれしまう。そうして、この子がわけのわからんふるまいをするのはじつは狂犬病のせいなのではないか、いやいやむしろ、悪魔が憑いているせいではないか、という話になり、修道院に幽閉されてしまうことになる。彼女を「悪魔祓い」するべく、カエターノ・デラウラ神父が遣わされるも、神父には彼女に悪魔が憑いているとはおもえない。やがて、カエターノとシエルバは少しずつ心を通わせていくのだが…!

…というわけで、プロットの骨組み自体はお決まりの悲劇、おとぎばなしのような感じだ(もちろん、ふたりのあいだで徐々に育まれていく”禁じられた愛”が成就することはない)。だが、そこはガルシア=マルケス、さまざまなサブキャラクターやサブプロットによって、ラテンアメリカ的な猥雑さや毒気、悪臭といったものを絶えず作中に充満させることで、物語に強烈な個性を与えている。たとえば、シエルバ・マリアの父であるカサルドゥエロ侯爵は「寝ている間に奴隷たちに殺されるのではないかという植民地貴族独特の恐怖ゆえ、暗闇ではほとんど眠ることもままならない」人物だし、母である混血女のベルナルダは登場するシーンではたいてい半裸か全裸で、その下半身の貪欲さはといえば、「兵営をまるごと相手にできるほど」であったりする。彼らそれぞれのエピソードも、性欲や血の匂いや信仰といったもののエキスをぎゅっと濃縮したようなハイテンションなものばかりで、いちいちおもしろい。

そんな濃厚で猥雑な世界観を持った本作だけれど、基本的な方向性としては、やはり「悲劇」であるので、作中で描かれるいずれのエピソードにも、幸福な結末がもたらされることはない。ただ、マルケスの他の作品と同様、古典的で夢見るような香りが満ち溢れる瞬間があり、本作のようなシンプルな物語においては、それはとくに忘れがたい印象を残す。

シエルバ・マリアは傷口を見たがった。デラウラが包帯をはずすと、彼女は炎症のまわりの紫色の腫れに、まるでおき火にさわるように、人差し指でかすかに触れ、そして初めて笑った。
「あたしってほんとにひどい子ね」と彼女は言った。
デラウラは福音書ではなくガルシラーソからの引用で答えた――
「汝、大いにするがよい、耐えられる者が相手なら」。
彼は何か巨大な、取り返しのつかないことが自分の人生において起こり始めているというとっさのひらめきによって、自分の中に火が灯されるのを感じた。(p.112)


『族長の秋』/ガブリエル・ガルシア=マルケス

マルケスの代表作といえば、やはりノーベル文学賞受賞の『百年の孤独』ということになるのだろうけれど、作品の濃密さやイメージの強烈さ、文体のパワフルさ、ボリューム感ということでいえば、『族長の秋』もそれに勝るとも劣らないレベルの傑作だといえるだろう。物語の大枠はごくシンプル。カリブのとある国の独裁者が死に、その長い長い治世を終える。ハゲタカが群がり、牛たちが行き交うようになった大統領府の建物に押し入った人々は、そこであり得ないほど高齢の大統領の遺体と対面する。やがて物語は過去にさかのぼっていき、複数の語り手が自在に出入りするような形で、大統領にまつわるさまざまなエピソードが語られていく…!

今作についても、やはり文体のことに触れないわけにはいかないだろう。『百年の孤独』と同様、この小説にも、”退屈なつじつま合わせ”や”精緻な風景描写”、”読者と小説との接続をスムーズにするための手続き”などといったものは、ほとんど存在しない。あるのは、とめどなく溢れ続けるイメージたちと、無限に続くかとおもわれるような物語の生成運動ばかりであって、何ともとりとめがないのだ。また、物語の語り手にしたって、あるときは”全能の神の視点”、あるときは”カリブのとある国の民衆”、はたまたあるときは”大統領に寄り添った形の3人称”であり…という感じにひとときも落ち着くことがなく、これまた混沌、雑然としている。けれど、小説自体が決して読みにくくならないのは、作品の主軸になっているのがあくまで物語であり具体的なエピソードであるためだろう。本作におけるマルケスの文章自体は、むしろリーダブルなものだといっていい。*1

当時のここは、大統領府というより、むしろ騒々しい市場だった。人びとは、回廊でロバの背中から野菜や鳥かごを下ろしている、はだしの使用人たちを搔きわけて歩かねばならなかった。お上の慈悲という奇跡を期待しながら階段の下で丸くなって眠っていたけれど、腹をすかせた名付け子を連れた女たちの上を、それこそ飛び越えていかねばならなかった。花瓶のなかで一夜を過ごした花を新しいものと取り替えたり、床を磨いてみたり、バルコニーでカーペットをはたく枯れ枝の拍子に合わせて、はかない恋の歌などをうたったりしている、口の悪い愛妾たちが捨てる汚れ水を、器用に避けていかねばならなかった。それだけではない。メンドリがデスクの引き出しのなかに卵を産んでいるのを見つけて、一生を保証された小役人どもが大騒ぎをし、淫売と兵士たちがトイレのなかで用事をすませ、小鳥たちが鳴きくるい、のら犬どものが謁見の間でいがみ合いをおっぱじめるという、そんなありさまだった。いったい誰が誰なのか、さっぱり見当がつかなかった。扉が開きっぱなしのこの館がいったい何様のものなのか、それさえ定かではなかった。この途方もない混乱のなかでは、政府の中枢がどこに存在するのか、それを突き止めることは不可能だと思われた。しかも大統領府のあるじは、この市の凄まじい騒ぎにみずから加わるばかりか、それをあおりたて、思いどおりに操ってもいた。(p.16,17)

…とはいえ、作品の全編に渡って、ひたすらこんなテンションの文章が連ねられていくのは、やはりかなり異様ではある。そのあたりが、本作がいまいちマイナーな扱いを受けている理由なのだろう。

大統領の影武者は、己のアイデンティティを根こそぎ奪われた末に暗殺され、大統領が恋した女は、日蝕のさなかに闇に溶け込んで消える。大統領の腹心の将軍は、裏切りの罰として丸焼きにされ、大統領の母は、生きながら腐りゆく奇病に倒れる。大統領のただひとりの妻は、反乱分子の手で生きたまま犬に噛み殺され、大統領のもとで唯一権勢を振るった男は、血の粛清を繰り広げ、政敵の首を毎日いくつも大統領府に送りつける。作中で描かれるエピソードのすべてが、申し分なくむちゃくちゃで、残酷で、神話的な美しさに満ち満ちている。

*1:たとえば、マルグリット・デュラスの『ラ・マン(愛人)』のように、”抽象的なイメージの連なり”が主軸となっているタイプの小説というのは、なかなかリーダブルとは言いがたいようにおもう。そういった作品は、物語が読者の頭のなかで構築されるまでに、読者に大きな負担を強いるためだ。


『百年の孤独』/ガブリエル・ガルシア=マルケス

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

きっかり10年ぶりに通読。やっぱり、最高におもしろい小説だった!一文一文のおもしろさ、各文の繋がりのおもしろさ、全体の構成のおもしろさ、破天荒なイメージのおもしろさ、物語そのもののおもしろさ、その全てに感嘆し続けることのできる、ひたすらに幸福な読書だった(あと、俺は物語の細部をほとんど覚えていなかった!)。

本作のあらすじを語ることは難しい。が、その骨組みだけをシンプルに抜き出すならば、マコンドという名の架空の村を舞台とした、100年間、5世代に渡るブエンディア一族の生き様を描いた物語、ということになるだろう。彼らを主人公にものすごいスピードで語られていく無数のエピソードは、どれもひどく現実離れした残酷さと美しさとを併せ持っており、そのあきれるほど途方もないスケール感は、ほとんど神話的な印象をすら感じさせるほどのものだ。そして、それを描き出すのが、非常に豊かなイメージを湛えた、ガルシア=マルケス独特のリズミカルで色彩的、官能的な文章なのだけれど、とにかくこの、物語の幻想性、神話性と文体の豊穣さとのマッチングが素晴らしい。ああ、この文章でしか、この百年の孤独の物語は語り得ない…!と読者がおもわず確信してしまうような、しびれるような一体感があるのだ。

『百年の孤独』におけるガルシア=マルケスは、ものすごい美文家というわけではないし、信じられないほどの構成力を持った作家というわけでもなければ、誰も扱ったことのなかった新しいスタイルの使い手というわけでもない。ストーリーテリングの手法なんかは、むしろ古典的なタイプだと言ってもいいくらいだろう。だが、ここでは、超現実的なエピソード、豊かな文体、登場人物たちの濃厚すぎるキャラクター、執拗に繰り返される決まり文句、全体に仕掛けられたからくり…といった、作品を形づくるあらゆる要素たちが相互に依存しながら、まさに”この物語を語る”という一点のみに奉仕していくことで、小説全体に圧倒的な推進力を与え、信じられないほどのエナジーをみなぎらせている。『百年の孤独』がこれだけ特別な作品になっている理由のなかでも最大のものが、この、形式と内容との有機的な絡まり合いによる相乗効果だと言うことができるだろうとおもう。

長い歳月が流れて銃殺帯の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。(p.12)

この、恐ろしいくらいにパワフルな小説の、一度読んだら決して忘れられない、比類のない書き出しがこれだ。はじめて読むときは、ぎしぎしと軋むようにしか読めないけれど(…ん?と、読み返してしまうかもしれない)、一度通読した読者は、もはやまったく違った深い感慨を抱いてこの一文を読むことになる。


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