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『ハローサマー、グッドバイ』/マイクル・コーニイ

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)

こういうタイトルの作品は、いまの季節にこそ読まなくっちゃね!とおもって買ってきた。少年と少女のさわやかな恋愛の模様を描きつつも、周りの世界――太陽の光を受けてきらきらと輝く、海辺の町――があれよあれよという間に姿を変え、最終局面を迎えていってしまう様を描いている。SF的な設定を手堅く生かしつつも、プロット的には恋愛が主軸になっているのが特徴的だ。

海辺の町が舞台で、少年と少女が主人公で…っていうと、『未来少年コナン』的なボーイ・ミーツ・ガールの甘酸っぱさが期待できそうなものだけれど、本作で描かれる恋愛は甘酸っぱいというより甘々過ぎな感じだ。なにしろ、主人公のドローヴ(♂)とブラウンアイズ(♀)の両想いフラグが物語冒頭からすっかり成立してしまっているので、読者はいまいちふたりに肩入れしにくいのだ。また、ドローヴは青臭く理想主義的な少年、って定番の感じでそんなに悪くはないものの、ブラウンアイズの造形は、おとなしい女の子ヒロインとして理想化するあまり、かなりのっぺりしてしまっているようにおもえた。

それに、物語の展開がこのふたりにとって甘過ぎる、というところもある。ドローヴは迫りくる大きな流れに対抗しようと奮闘する訳でもないのに、最終的には運よく救われてしまうし、同世代の友達との交流も、親や周囲の大人たちとの対立も、世界の急激な変化も、すべてこのふたりの純粋さ、正当性を強調するかのよう。雪に閉ざされてゆく世界は、ふたりの夏の思い出を美しいままに封じ込めるのだ…ってな具合の終盤の展開には、正直ちょっと香ばしいものを感じてしまった。要は、プロットのコントロールを重視するあまり、主人公たちが平面的になってしまっていて、魅力的でなくなってしまっているのだ。

そんないまいちなポイントがいくつかある本作だけれど、SF設定を生かした伏線の張られ方はきれいで、ラストの一文にまでしっかりと筋が通っている構成は美しかった。あと、主人公たちの愛やら想いやらでは世界はまるで動かない、ってところも、わりとクールでいいとおもったな。


『隣の家の少女』/ジャック・ケッチャム

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

最近映画化されたこともあって、何かと話題の『隣の家の少女』。まあ正直言って、おもしろい小説、たのしい読書というわけにはいかなかったけれど、一息で読ませてしまうような牽引力を持った作品だった。

解説で訳者の金子浩が書いている通り、この物語には”裏スタンド・バイ・ミー”的な要素が多分に含まれている。50年代アメリカの郊外の町には得体のしれない悪が潜んでおり、それがグロテスクで残虐な事件を巻き起こしていく、って設定からして、かなりスティーヴン・キング的だ。ただ、本作とキングの諸作とを大きく隔てているのは、悪の要素と対峙するための希望の光みたいなものがまったく示されていない、ってところだろう(キングの場合だと、善悪の対決が物語の主軸になることが多いようにおもう。対決の結果はどうであれ)。数少ない善玉キャラである主人公のデイヴィッドにしたって、性への好奇心、怖いもの見たさ、残虐なものにどうしたって惹かれてしまう無邪気さでもって、片足以上は悪の側に重心を置いてしまっているのだ。

“隣の家の少女”メグが虐待らしきものを受けている、とはっきりと認識しながらも、それに結びつく感情にフィルターをかけているかのようなデイヴィッドの語り口は少し不気味なくらいで、それがこの作品独特の味わい(じつに舌触りが悪い!)とリアリティとを生み出しているように感じられる。

彼女を助けようとするべきだったのか?葛藤があった。メグに魅力を感じていたし、好いていることに変わりはなかったが、ドニーとルースはずっと古くからの友人だった。そもそもメグは助けを必要としているのだろうか、とわたしは考えた。なんといっても、子供は叩かれるものだ。こづきまわされるものだ。これからどうなるのだろう、とわたしは考えた。(p.183)

もはやわたしにはどうにもできなかった。あるいはそう思っていた。

おかげでほっとした。

うしなったものがあるとしても――メグの信頼、さらにはたんにいっしょにいられなくなったこと――わたしはさして気にかけていなかった。となりの家できわめて異常な事態が起きたことはわかっていたが、しばらく距離を置いて、ひとりで考えを整理したかったのだろう。(p.184)

読んでいてたのしい気分になるような物語でないことはたしかだけれど、読み終えたときには、デイヴィッド的なるものの居場所が自分のなかにあることも、また確実なことなのだろうとおもわないではいられなくなる。なぜって、自分にしたって、物語に引き込まれるようにして一息で、この物語を読んでしまわないでははいられなかったのだから。

 *

ところで、そんな胸の悪くなるような本書だけれど、一か所だけ、おもわず笑ってしまったところがある。スティーヴン・キングが寄せている解説のなかの、こんな一節だ。

実際、現役のアメリカ人作家で、ジャック・ケッチャム以上にすぐれた、重要な作品を書いている、とわたしが絶対的に確信できるのはコーマック・マッカーシーただひとりである。不遇なペーパーバック・オリジナルの作家に捧げるにしてはたいそうな褒め言葉かもしれないが、けっして誇大宣伝ではない。好むと好まざるとにかかわらず(実際、本書を好まない読者も多いだろう)、それは真実なのだ。(p.420)

むはー!キングテンション高いよ、高すぎる。たしかにマッカーシーは重要な作家に違いないだろうけど、いくらケッチャムをプッシュしたいからって、これはさすがに言い過ぎってものだろう。


『クリスマス・テロル invisible×inventor』/佐藤友哉

クリスマス・テロル invisible×inventor (講談社ノベルス)

昨年はじめて『フリッカー式』を読んで、そこから順番に鏡家サーガを読み進めていったのだけど、4作目のこれがいままでのなかでいちばん好きだな、とおもった。短いながらも登場人物たちの壊れっぷり、やけっぱちな感情の暴走っぷりは迫るものがあるし、小説の最後で物語を完膚無きまでに破壊してしまうそのやり口も、これまでの3作よりずっとラディカルだ。そして何より、全編にみなぎる怒りと寂しさ、破壊の衝動がすごい。こんな歪んでねじ曲がった、こんな率直な小説を書けるのはこの人だけだ、っておもわされてしまう。

僕が自分の作品で何度も言及したように、弱者は全員、自覚して死ななければならないのだ。(p.156)

はっきりと断言してみせる佐藤がこの後も書き続けている小説を、読まないわけにはいかない、とおもう。俺は『フリッカー式~』の感想には、作品を作品として成立させるところの切実さみたいなものがあまり伝わってこない…なんて書いていたけど、この『クリスマス・テロル』にあるのは切実さばかりじゃないか、とおもって、ぐっときてしまった。

あと、『クリスマス・テロル』の文庫版の解説では、この本が書かれた経緯について佐藤自身がていねいに状況説明をしていて、おもしろかった。『水没ピアノ』までは一向に重版がかからなくて、もうぶっちゃけ作家としてやってけないかも…とおもっていた、みたいな話をいちいち詳細に書いているのだ。まったく、ほんとにひねくれてるけど、すげえいいやつな気配がどこかしらにあるんだよなー、なんておもって、本屋で立ち読みしながらわらってしまった。

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『紫色のクオリア』/うえお久光

紫色のクオリア (電撃文庫)

ラノベ好きな友人がこれおもしろいよー、って言って貸してくれた一冊。渡された本の表紙を見て、まじかー、ちょっときついかな…とおもい、タイトルからはもじゃもじゃ頭の脳科学者の顔がおもい浮かんで、俺、きっとこの本と相性よくないよ…なんておもったのだけど、いやいや、これはたしかにおもしろい小説だった。

物語は、中学生の女の子マナブと、その親友の、自分以外の人間がみんなロボットに見えるって少女、ゆかりを中心に描かれていく。登場人物のキャラクターとか会話の感じ、ひとつの段落の短さ、文章のテンポのよさ、描写のぺらぺらっぷりなんかはまあラノベっぽい感じだとおもうのだけど、軽めのSF、って気分で読んでいる分にはとくにいやな感じはしなかった。

第一話では、彼女たちの中学校における日常風景のスケッチみたいなものを中心にストーリーが展開していく。これだけだと、小さな箱庭のなかで登場人物たちがちょこちょこ動くのがかわいらしくていいねー、っていうくらいなのだけど、第二話に入ると量子論やら並行世界やらって要素ががんがんに投入され、せっかく作り上げたその箱庭の平和を一気に粉砕、気がついたときにはなかなかダークでシリアスな雰囲気のSFになっている。この、物語の強引なブーストっぷりがすごい。とにかく展開がむちゃくちゃ早いのは描写が常に最小限だからなのだろうけど、その早さ、脇目も振らない感じが主人公であるマナブの心情とうまくシンクロしていて、読ませる。

何よりぐっときたのは、マナブが物語をブーストさせる動機のところで、やっぱり人を何より強く駆り立てるものっていうのは、失われたものへのおもいだとか、そのものを失ってしまったことへの後悔だとかそういうものなんだな、って改めておもった。失われた親友の命を取り戻す、っていうただそれだけのために、彼女は無限の並行世界を駆け巡ってはとにかくもうどんなことでもする。彼女のやることは本当にむちゃくちゃもいいところで、小説としても破綻すれすれのところを行くような感じがあるのだけど、底のところにある気持ちが一途だから、どうしたって心動かされてしまう。うんうん、わかるよ、そういう気持ちは、なんておもってしまったりもする。

あたしは確かに、ゆかりと同じモノを見ることはできない。

でも、よく考えてみれば、それはゆかりだけではなく、天条とも、両親とも、同じ目を持つ人間であっても変わらないのだ。結局のところ人間は、そういうふうにできているのだ。たとえ同じ瞳を持っていても、『赤いりんご』に感じた『赤さ』を他人に伝えることはできないし、他人が感じた『赤さ』を知ることもできない、交わらない存在として。/

放っておけばいつまでも、どこまでも、交わることのない存在で、だからこそ、お互いに手を差し伸べる。互いを引き寄せようとする。そうしなければ平行線は、近づくことすらできないから。放っておいては交わらない――だからこそ、自ら手を伸ばす必要があって、だからこそ、手を伸ばしたいと、伸ばしてほしいと、近づきたいと、願う――(p.107)

この辺りが作品を貫くモチーフになっていて、ハードな展開になっていっても、他者と近づきたい、繋がりたい、っていう純粋な願いが底のところにあるのがいい。


『バルタザールの遍歴』/佐藤亜紀

バルタザールの遍歴 (文春文庫)

佐藤亜紀のデビュー作。ナチが台頭しつつある二大戦下のヨーロッパを舞台に、オーストリアの没落貴族にしてひとつの肉体を共有する双子、メルヒオールとバルタザールの物語が語られる。肉体はひとつでも、とにかく2人は双子であるので、たとえば二重人格というのとはちょっと違う。メルヒオールの一人称で書かれた地の文章が、いきなりバルタザールに割り込まれたり突っ込まれたりして、その独特な感覚がおもしろい。

メルヒオールが寝ている間に書いておこう。まったく、ひどい文章だ。ここまで五十頁ばかりの間に、一体何回「今にして思えば」をやったことか。ひとごととは言え顔の赤らむ思いだ。確かに現代文学の到達点は君には無縁だろうが、それにしても、もう少し書きようはある筈だ。現代社会に生起する複雑な事象を、ディケンズの時代ではあるまいし「今にして思えば」「神ならぬ身には知る由もなかった」で括ってしまうのには無理がある。ましてそれが自分の身に起こったとなっては。気をつけ給え。自分のことを書こうという時には感傷的になってはならない。書いている側の精神衛生にも悪いし、読み手にはもっと悪い。君が「今にして思えば」をやる度、私は居心地が悪くて落ち落ち飲んでいられなくなる。(p.65)

やがて二人でカフェに出掛けるとき、バルタザールはノートと鉛筆を持っていくようになった。いつもの席に着くと、給仕が葡萄酒のグラスを持ってくる。バルタザールはノートを広げる。私は左手でグラスを、バルタザールは右手で鉛筆を持ち、私は過去を出来るかぎり遠ざけに掛かり、バルタザールは手元に引き寄せて検分し、書き付けた。傍目から見れば、葡萄酒を飲みながら何か書き付けている男であって、これはウィーンのカフェにあっては――おそらく世界中どこのカフェでも、ごくありふれた人物にすぎないだろう。いささか飲みすぎるのは確かにしても。しかし、この人物の中で極限に至る明晰さと人間に可能な限りの酔眼朦朧が併存しているなどと、誰に想像できただろう。(p.105)

上の引用部はちょっとユーモラスだけど、酒に溺れまくりの双子のことばはだいたいが厭世的、退廃的で、小説全体にもその感覚がしっかりと浸透しているところがいい。意匠のこらされた文章はうつくしいし、細部にまで徹底された雰囲気づくりに関しては、もうほとんど完璧なようにもおもえる。加えて、ストーリーはテンポよく、すいすいと進んでいってくれるので、だるい感じもなく、エンタテインメントとしてしっかりたのしませてくれる。ファンタジーな設定と歴史的な題材とがきれいに組み合わさっているのも、読んでいて気持ちがいい。

舞台になったヨーロッパの現代史に関心のある人、“堕落”とか“退廃”なんてことばに、おおっ!ってなる人にはきっとたのしめる小説なんじゃないかとおもう。


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