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『自発的隷従論』/エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ

『自発的隷従論』/エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ

「なぜ、多くの民衆は、人間の本性とも言える自由を放棄してまで、たったひとりの苛虐な圧政者のもとに隷従するのか?」という不可思議な事態の原因が考察されている一冊。考察といっても、何らかの客観的な指標に基いて論が展開されているわけではなく、古典文学や哲学書、歴史書などから自由にエピソードを引用しながら、著者の考えが提示されていく、という感じであるので、タイトルのごつさから想像されるよりずっと読みやすいものになっている。

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まず、ラ・ボエシは、こんな風に素朴に疑問を提示してみせる。

仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、ひとりを相手にして勝てなかったとしても、それはおかしなことではあれ、まだありうることだろう。だが、百人が、千人が、ひとりの者のなすがままじっと我慢しているようなとき、それは、彼らがその者をやっつける勇気がないのではなく、やっつけることを望んでいないからだと言えまいか。臆病によるのではなく、むしろ相手を見くびっているから、嘲っているからだと言えまいか。また、百人の、千人の人間ではなく、百の国、千の町、百万の人が、その全員のなかでもっとも優遇されている者すらも隷従と奴隷の扱いを強いているたったひとりの相手に襲いかからないのを目にした場合、われわれはそれをなんと形容すればよいだろう。これを臆病と言えるだろうか。(p.14,15)

一体いかなる災難が、ひとり真に自由に生きるために生まれてきた人間を、かくも自然の状態から遠ざけ、存在の原初の記憶と、その原初のありかたを取りもどそうという欲望を、人間から失わせてしまったのだろうか。(p.30)

臆病でなければいったい何なのか。ラ・ボエシはこれを、「自発的隷従」と名づけてみせる。上記のように、ただひとりの圧政者をどうしても退けることができない状況というのは論理的には存在しないわけであるから、民衆の隷従というのは外部から強制されたものではあり得ず、あくまでも自発的なものだということになるはずだ、ということだ。民衆は、隷従と自由のどちらかを選択する権利を自らの手の内に持っていながら、しかし、あえて自ら自由を放棄し、軛につながれている、自らの悲惨な境遇を受け入れるばかりか、進んでそれを求めているのだ、とラ・ボエシは述べる。

であれば、民衆が圧政を逃れ、自由を取り戻すために必要なのは、隷従はしないと決意すること、ただそれだけであるはずだ。では、なぜ民衆はそのような簡単な判断能力をすら失ってしまっているのか?隷従への執拗な意思は、どのようにして彼らのなかに根を深く下ろすに至ったのか??ラ・ボエシは、こんな風に説明する。

たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、軛のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。(p.35)

人は、手にしたことがないものの喪失を嘆くことは決してないし、哀惜は袂のあとにしか生まれない。また、不幸の認識は、つねに過ぎ去った喜びの記憶とともにあるものだ。
たしかに人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである。(p.43)

たしかに自由というのは人間の本性であるに違いないが、しかし、不自由な状態を自然なものとして受け入れてしまうということ、そして、そんな「自発的隷従」状態が簡単に習慣づけられてしまうということもまた、人間の本性である、ということだ。たとえ不自由な状態であっても、それを「自分にとって自然なもの」ということにしてしまえば、もうそれ以上思考する必要はないわけだし、逆に自由を望み、現状を打破して自由を手にするためには、やっぱりそれなりのエネルギーが必要になる。だからこそ私たちは、自由な生き方をしている人の姿に輝きを感じたり、それをうらやんだりもするけれど、しかしそれでいて自分の「自発的隷従」的な生き方を変えようとすることは滅多にない…そういうことなのかもしれない。


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