タグ ‘ エッセイ・随筆

『回送電車』/堀江敏幸

『回送電車』/堀江敏幸

「書店では置き場のない中途半端な内容で、海外文学評論の棚にあるかと思えば紀行文の棚に投げ入れられていたり、エッセイや詩集の棚の隅でに寄せられているかと思えば都市計画の棚に隠されていることもあるといったぐあいで、書店という特定の路線上にあってなお分類不能な」本ばかりを書いてきたという堀江敏幸による、タイトル通り「回送電車」的な一冊。(と言ってもまあ、少なくとも本書については、エッセイ、という呼び方で間違いはないかとおもうけれど。)

堀江の本ははじめて読んだのだけど、まあなにしろ文章の上品なところと、場面を描く手つきの的確さが尋常でないとおもった。たとえば、こんなところ。

小学生の女の子たちが、縄跳びに興じている。数メートルほどの長い縄の両端をふたりの少女が握り、それをゆっくりまわして作りあげた見えないバリアの内側へ、わきからひとりずつ、膝を軽く折りながら間合いをはかって飛び込み、別世界の中央で小刻みに足裏を調整して、トン、と一度、あるいはトン、トンと二度小さく跳ね、着地するやいなや今度は真横に身体をはじいて重力圏から抜けだしていく。( p.78)

近所の小学生を描くにしてはちょっと端正すぎ、美しすぎな気もするけれど、でも、憧れてしまうようなかっこよさのある文章だ。

あと、おもわず共感というか、うまいこと言うなーと感心してしまったのが、以下のところ。堀江は、ある本の序文に書かれた『マルテの手記』についてのちょっとした文章を読んだときに、いくつもの知識や感覚がひと繋がりになるような感覚を覚えたのだという。

モディアノが『マルテの手記』に寄せた文章は、ペーパーバックにしてわずか三頁ほどでしかない。しかしこの三頁のおかげで、ユルスナール、リルケ、モディアノ、カヴァフィスという鎖が、私のなかでしっかりと結ばれたのだ。それまでに同種の体験がなかったわけではないけれど、行き当たりばったりに進めてきた読書が、ある触媒を得て有機物のようにひろがっていく快楽を、ほとんど一瞬のうちに凝縮して味わうことができたのは、それがはじめてだったと思う。好みに合わせて淘汰されてきた作家たちの交響を、知識としてではなく官能的な出会いの記憶として身体に刻み込むこと。発見の瞬間を胸の奥に貯蔵し、熟成させ、そしてよみがえらせること。それが肝要なのだ。「身体よ、忘れるな……」とは、読書のために用意された詩句だといっても過言ではないのである。(p.123)

「行き当たりばったりに進めてきた読書が、ある触媒を得て有機物のようにひろがっていく快楽を、ほとんど一瞬のうちに凝縮して味わう」。こんな格好いい表現でかんがえたことはなかったけれど、こういう感覚って、アドレナリンだか何だか、脳汁がどばどば出てくるような、まさに身体的な快感なんだよなー、とおもう。こういう快楽を求めて本を読んでいる、っていうところは、少なからずあるような気がする。(しかしなんだろうね、俺の表現のこの安っぽさっていうのは…。)


『服は何故音楽を必要とするのか? 「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽たちについての考察』/菊地成孔

『服は何故音楽を必要とするのか? 「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽たちについての考察』/菊地成孔

雑誌『ファッション・ニュース』に掲載された、

「ファッション・ショーに召還された音楽」を「ウォーキング・ミュージック」と仮称し、各メゾンの服とショーの演出との関係を分析しつつ、なぜ服飾には音楽が必要とされるのか?を探るアルケオロジックな。そしてコンタンポランなこの連載(p.57)

をまとめたものが本書。菊地お得意の饒舌過ぎな文体が、ファッション・ショーにおける「ウォーキング・ミュージック」の役割と影響について考察していく、たのしい一冊だ。

この「ウォーキング・ミュージック」というのは、ファッション・ショーのランウェイ上をモデルたちがウォーキングする際に流される音楽のことを指している。それらのほとんどは、ハウス・ミュージック、つまりもともとはダンスのために作られた音楽なのだけれど、ファッション・ショーという舞台で二次的に使用され、「ウォーキング・ミュージック」としての役割を与えられた瞬間に、特別な意味作用を持つようになる、と菊地は語る。「ダンス」音楽が「ウォーク」に使用される。そんな倒錯が、音楽にある種の属性、何らかのスペシャリティを付与している、というわけだ。

では、「ウォーキング・ミュージック」の持つ特別な意味、影響力とは、いったいどのようなものであるのか?菊地は、こんな風に説明してみせる。

例えば私の知るかぎり、クラブでパーティが行われる時、最も踊り狂う職種。というのはファッション関係者、特にモデルとデザイナーです。プロのダンサーは言うに及ばず、DJを含む音楽家、俳優、弁護士、医師、政治家、作家、サラリーマン、ありとあらゆる人々をハイにするダンスフロアという空間の中でも、彼女らの盛り上がりぶりは群を抜いているように思えます。これは何ででしょうか?(p.104,105)

ランウェイを一定の速度で歩き、立ち止まり、ポーズして写真を撮られ、ターンしてまた歩き去る、そしてそれを、何度も繰り返す。という行為は「音楽とまったく無関係でもない動き」であると同時に「決して音楽にノッてはいけない」、つまりはかなり抑圧的な仕事/日常であり、同時にシック、エレガンス、スタイリッシュな仕事/日常なのです。(p.105,106)

ファッション・ショーにおいて、モデルたちが音楽にぴったり合わせてウォーキングするということは、(基本的には)あり得ない。なぜなら、もし、そのようなスタイルでウォーキングがなされたとすれば、それは「ウォーク」というよりむしろ「行進」、「ダンス」、あるいは「マスゲーム」のようなものになってしまうだろうからだ。ファッション・ショーで求められるべきもの――シックであること、エレガントであること、スタイリッシュであること――の達成のためには、モデルたちは、音楽とほんのちょっとだけズレたまま、つかず離れずの微妙な状態を保ったまま、ランウェイをウォークしなければならない。ファッション・ショーをファッション・ショーたらしめるためには、彼女たちは音楽に身を任せる快感から疎外されている必要がある、というわけだ。

ファッション・ショーとは、こうしたジレンマ、抑圧を構造化したものであり、「ウォーキング・ミュージック」とモデルたちとのあいだに生ずる関係の不自然さ、歪みこそが、その独自の美しさに繋がっている。そしてまた、そのちょっとしたズレから生じる微かな効果といったものは、ほとんどの場合、あくまでも無作為的なものである…。まあ、菊地の主張をまとめると、こんなところになるだろうか。

上記のような論が一段落した後は、シーズン毎の各コレクションについての所感/雑記、という感じの文章が続いていく。内容的には若干古いけれど(04年~09年のショーの話が中心)、ファッション・ショーか菊地の文章のどちらかに興味があれば、なかなかたのしく読めるだろう。個人的には、ランバンの音楽監督、アリエル・ウィズマンと菊地が「Sparks最高だよねー!」って意気投合するところがおもしろかったな。


『LIFE PACKING 未来を生きるためのモノと知恵』/高城剛

『LIFE PACKINGー未来を生きるためのモノと知恵』/高城剛

他人の持ちものや、愛用の道具について聞かせてもらうのはおもしろい。それはきっと、彼/彼女がそのモノを選択するに至った、その人なりの理屈や思い入れといったもののなかから、その人ならではの性格や嗜好や生活信条といったものを見出すことができるようにおもわれるからだ。だから、そのおもしろさというやつは、他人の批評や感想を聞かせてもらうことのおもしろさ、あるいは、他人の日記やブログを読むことのおもしろさにも、ちょっと似ている。

本書は、ぶっとんだライフスタイルでおなじみの高城剛が、海外をあちこち飛び回る放浪生活を営んでいく上で、これだけはどうしても外せない!と選びに選び抜いたグッズの、コメントつきカタログといった趣の一冊だ。高城の生き方は大抵の人にとってきわめて特殊に感じられるようなものだし、ここで紹介されている道具たちもなかなか独特なものが多いようにおもえるけれど、この本のおもしろさというのもやはり、グッズ紹介のなかから、高城自身の人生に対するかんがえ方や、世界に対する向き合い方といったものが浮き彫りになってくるように感じられるところだと言えるだろう(グッズのなかには、もちろん、彼のトレードマークたる「半ズボンスーツ」も含まれている)。

高城は、こんな風に書いている。

今から5年ほど前、自分の持ち物の99%を処分しました。明確な理由はありませんでしたが、長年住んだ渋谷や原宿がつまらなくなってしまったことが、ひとつのきっかけだったと思います。(p.2)

未来の見えない消費社会は、よいエンディングを迎えないだろうとも感じていました。自分の身の回りを見ても、履かないコレクタブルなスニーカー、必要のないフィギュアやガジェットが山積みになり、当時、神宮前にあった60畳を越える家の隅々まで埋め尽くしていたのです。それはまるで「20世紀の残骸」のようでした。
そこで僕は、「モノ」を辞め、資本主義世界最大の街である「東京」を辞め、もう一度、放浪者に戻ることが次の時代を見極める術になると考え、まず、自分の持ち物の90%を一気に処分したのです。(p.2,3)

先日のエントリでは、作家のポール・オースターが25年も同じタイプライターを使い続けている話を取り上げたけれど、本書で扱われているのは、オースターのようなメンタリティのほとんど真逆を行くような、効率化と洗練を極めるためのライフスタイルだと言えるかもしれない。断捨離とかなんとか言っても、ここまで極端にやれる人はそうそういないだろう。「持ち物の99%を処分」なんて、ふつうはおもいつかないし、おもいついても実行できるようなことじゃない。そういうところには、素直に憧れてしまう。


『わがタイプライターの物語』/ポール・オースター

『わがタイプライターの物語』/ポール・オースター

オースターは、ごく若い頃に友人から安く手に入れたタイプライターをいまだに使い続けている。聞く限りでは、コンピュータというやつはどうも信用ならないもののようだし(間違ったキーを押すと、原稿がいきなり消えてしまったりするっていうじゃないか!)、そもそも、手元にあるタイプライターに何の不満も感じてはいない。であれば、どうしてわざわざ仕事道具を変える必要があるだろう!というわけだ。

そんな偏屈おっさんオースター愛用のタイプライターに、どういうわけか魅入られてしまったのが、画家のサム・メッサーである。単にそのタイプライターのルックスが気に入ったのか、タイプライターとオースターとの関係性に物語のきらめきを見出したのか、それはよくわからないけれど、ともかく彼はオースターのもとをたびたび訪れては、もう何年ものあいだ、タイプライターの姿を描き続けているのだという。本書におさめられているのは、メッサーが描いた作品たちの写真と、オースターがそれらに寄せた、タイプライターにまつわるちょっとした文章だ。文章のボリュームはごく少ないので、エッセイというよりは画集という感じの一冊になっている。

メッサーの絵は、カンバスに油絵の具をたっぷりと載せたダイナミックで量感のあるもので、画面いっぱいに描かれたタイプライターの姿には、妙に生命力が感じられる。ずらりとならぶキーの部分は歯のようだし、ペーパーベイルスケールは瞳のよう、まるで静物という感じがしない。頑丈で無骨で、余計なことはなにもしない、放っておけば何の音も立てない、ただの古びたタイプライターが、どこかポップでワイルドな生き物のように見えてくる。カンバス上にはオースターもいっしょに描かれることがある。ぎょろりとした目つきが特徴的なオースターと、その手元にひっそりと佇むタイプライター。なんだか陰気なコンビだけれど、そこに情熱を共にする者同士のあいだにだけ生まれる独特の連帯感のようなものを見出そうとするのは、そう困難なことではない。

我々はマンハッタンに住み、ニューヨーク州北部に住み、ブルックリンに住んできた。一緒にカリフォルニア、メイン、ミネソタ、マサチューセッツ、ヴァーモント、フランスにも旅行した。その間、書くのに使った鉛筆やペンは数百にものぼるだろう。車も何台か所有したし、冷蔵庫も何台か持ったし、何軒かのアパートや家に住んできた。何ダースかの靴をはきつぶし、何十というセーターや上着を着古して、無数の腕時計、目覚まし時計、傘をなくしたり捨てたりしてきた。すべての物は壊れ、すり減り、その目的を失う。だがタイプライターはいまだ私とともに在る。二十六年前に所有していたものの中で、いまも手元にあるのはこれだけだ。あと何か月かしたら、それはぴったり私の人生の半分、一緒にいたことになる。(p.44)

ひとつの物を、それだけ長いあいだ満足して使い続けていられるなんて、なかなかあるものじゃない。人生の半分を共に過ごした道具、そんなものがあるというのは、ちょっぴり心強く、頼もしいことではないかとおもう。


『学び続ける力』/池上彰

『学び続ける力』/池上彰

ニュース解説の尋常でないわかりやすさでおなじみ、池上彰による、学ぶことに関するエッセイ。池上がいままでどんな風に勉強してきたのか、また、あのわかりやすい解説が生み出されるまで、彼の頭のなかではどんな思考が展開されているのかなどについて、やさしい筆致で書かれている。

内容的にとくに新味のある本ではないのだけど、池上のやってきたこと、心がけていること、というのがかなりオーソドックスであることには驚かされた。もちろん、アナウンサーとしての仕事をしながら英語や経済や法律をせっせと勉強するなど、彼が常人以上の努力を積み重ねてきているってことは確かなのだけれど、でも、その努力の内容にはとくに独特な/斬新なところはなく、何というか、ごくごくふつうなことばかりなのだ。ま、学問に王道なし、ってことだろうか。

しかし、そんな池上の”ふつうさ”から感じられるのは、彼の凡庸さというより、むしろ、彼の非凡さだ。本書では、「XXの発言を聴いて、私は~と思いました」という形式の文章がずいぶん目につくのだけど、池上は、東工大の学生たちの反応、テレビ・ラジオのニュースやバラエティ番組における共演者たちの発言などを繰り返し取り上げ、彼らの反応や発言の原因となる要素を毎回きちっと探っていっている。そういう態度を見ていると、あー、この人は、相手の思考について絶えず想像力を働かせ、そのロジックを把握した上で、どのように伝えるべきかってことをかんがえているから、ああいう解説ができるんだな…なんて、なんだか納得してしまうのだ。池上の解説の明快さは、彼の特殊な分析能力によるものというより、彼の思考のていねいさ、彼の”相手に伝わっていることを重視する姿勢”から生じているんだな、っていう、あたりまえといえばあたりまえのことが、なんとなく腑に落ちたような気分になる、そんな一冊だった。


Calendar

2015年10月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

Archive