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『番茶菓子』/幸田文

『番茶菓子』/幸田文

幸田文のエッセイ集。3,4ページの掌編が集められたもので、ちびちび読んでいくのがたのしい一冊だ。内容的には、日常雑記的なものや思い出語りが大半で、どれもごく淡々としているのだけれど、その淡々とした感じ、その時々の気分や想いというのをきちんと言葉に落としている感覚というのが、読んでいて心地よかった。

とはいえ、さすがは明治生まれの人のエッセイ、使われている言葉がよくわからん、というような箇所もそれなりにあったりする。たとえば、こんなところ。

カナキンの黒紋附裾模様という子供儀式用のできあい紋附があって、元日や天長節などの式日にはそれを着せられたものだったと、古い話をすれば、いまのお嬢さんがたは噴きだすかあっけに取られるかするにきまっている。第一いまはカナキンというもののことをあまり云わない。新モスよりずっと目がつんでいる薄手な木綿なのだが、糊気が強いせいか木綿のくせにいやに冷たく寒い布である。それを黒紋附に染めて、袖と裾へぞんざいな捺染で菊に水仙とか松に流れとかが、けちくさくちょんぼりと置いてある。たいがいはけばけばしい紫の、それもカナキンの裾まわしがついていて、御大層なことには白ガナキンの下着つきである。私のなどは合赤の三枚がさねになっている始末だから、まことにごそっぽい着物である。いくら小学一二年の豆みたいな子供だって、そこは女の子の本性だから、カナキンずくめのまっくろけは怨めしかった。(p.57,58)

「紋附」は紋付袴の紋附だからたぶん式用の和服のこと、「天長節」はたしか天皇誕生日のこと…っておぼろげな記憶を引っ張り出してきながら読んでいくことになるわけだけど、読み進んでいっても「カナキン」が何なのかはよくわからない。ヒントになりそうな「新モス」も不明だし、「ごそっぽい」というのもなんとなく雰囲気はわかるような気がするけれど、やっぱりピンとこない。着物の素材のことで、木綿の布で、おそらくはごそごそした感じのする、まああんまりイケてる素材ではないらしい、ぐらいのことはわかるのだけど、それ以上のことはよくわからない。

あるいは、こんなところ。

「お見舞いだから」と云うと、「――いずれは、と思います。そのときも一度お借りしたいんです。ですから」と云う。白のブラウスの襟が黄いろくなっていて、腕の陽焼けに老人斑がぽつぽつしている。はげしい夏されを感じ、けれどもまたそんなことを云うと娘にたしなめられると思った。
想い出というものには、事がらに附随して季感が残るものと、季感が強く残っていて事がらを忘れずにいるのと、両方あるとおもう。これは附随して残った鮮明の夏されの季感である。(p.31)

こっちは、言葉自体はわからないけれど、雰囲気はよくわかる、というパターンだ。「夏され」なんて言葉はまったく聞いたことがない――手元の辞書にも載っていない――わけだけれど、この文章からは、夏の強い光やじっとりとした暑さに疲弊していくその感じが、なんとなく伝わってくるようである。

まあそんな風に、わかんねえなーとかなんとなくわかるかなーとかおもいつつ(ときどき辞書を引いてみたりしつつ)、戦後間もない東京下町の雰囲気になぜかノスタルジアを感じたりしながら、このつらつらと書かれた掌編たちを読んでいくのは、なかなかおもしろいのだった。


『ソウル・マイニング 音楽的自伝』/ダニエル・ラノワ

『ソウル・マイニング 音楽的自伝』/ダニエル・ラノワ

カナダはケベック州出身のミュージシャン/プロデューサーである、ダニエル・ラノワの自伝。幼少期における音楽への目覚め、ショーバンドでのドサ回りの日々、兄のボブと設立した自前のレコーディングスタジオでエンジニアとしての素養を身につけるまで、などといった回顧録定番のエピソードはもちろん、ブライアン・イーノとの出会いや、U2、ディラン、ネヴィル・ブラザーズ、エミルー・ハリス、ウィリー・ネルソンらと行なってきた作業の様子なども描かれている。全編に渡って彼の音楽やレコーディングに対する信念やこだわりが感じられる文章になっているので、ラノワのソロ作品やプロデュース作品を聴いたことのある人ならば、それなりに興味深く読むことができるだろう。

たとえば、ピーター・ガブリエルの”Sledgehammer”についてのエピソード。

「スレッジハンマー」では、あらかじめ決められていたアレンジ通りの演奏が終わったあと、長く楽しいジャムに突入していった。本当に信じられない出来の自然発生的なボーカル・アドリブが、ピーターに「降りて」きた。そのなかには歌詞になっていないものや、意味をなさないものもあった。単に楽しいだけの「飛び跳ねて踊ろう」的な歌詞だ。たとえば「俺はずっとリズムに『エサ』をやってきてるんだ」、「俺に見せてくれたら、俺も見せてやる」、「これは俺が踊り込むための新しいヤツだ」などだ。(p.119)

ピーターとローズ、私はこの勢いに屈した。このなんでもありのダンスパーティ、新たな熱狂、誰でも参加可、家族も友人も、家ごと持って来い、再生、生きることへの祝福。「スレッジハンマー」のビデオを見ればそれがどんなものかだいたいわかるだろう。想定していなかったこのジャムの部分が、この曲の中で私の一番のお気に入りとなった。私は前半部分を切って、狂ったパーティのような最後の部分が曲に入るようにした。(p.119)

“Sledgehammer”って、まさに「狂ったパーティのような」曲だとおもうけれど、そういった要素はいったんテイクが録れた後の自由な雰囲気のなかで生み出されたものだった、というわけだ。こういう裏話的なエピソードがいろいろ読めるのはたのしい。

俺はラノワの関わった作品の「音像の立体感や深度」、「各音のバランスの良さ」なんかが好きなのだけれど、本書には音量や音のバランスとその効果についての文章も多く含まれている。たとえば、「単一音源」と題された章で、ラノワはこんな風に書いている。

私のこれまでの作品の中で気に入っているのは、すでにバランスがよく取れているミュージシャンや歌手のグループを、スナップショットのように録音したものだ。エミルー・ハリスの『レッキング・ボール』は、その一つの例だ。部屋の中で、楽器の音がボーカルより大きくなることは絶対になかった。人間による演奏という音源はバランスが取れているので、モノラルのマイクを一本しか使わなくても、聞いて心地よいバランスが得られる。(p.214)

最近私は、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの録音に感動した。このとても古い録音が、私に単一音源の感動を与えてくれた。レコードを聞いているというより、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの前に自分が立っているように感じた。ギターにはダークさがあり、声にはビブラートがかかっていたが、これら二つの要素は一体化していた。これら二つの音は、パフォーマンスの環境によって、すなわち、部屋やバックポーチ、天候などによってブレンドされていた。(p.214)

「スナップショット」的でシンプルな録音を成功させることができれば、マルチマイクやマルチトラックを用いた要素分離的な方法よりも、音の実在感や理想的なバランスを得やすいだろう、という主張だ。ラノワのプロデュース作品に邸宅や古い建造物をレコーディングスタジオとして利用したものが多いのは、こういった理由によるものなのだろう。

また、そうして録音した音源にアレンジを加える際には、以下のようなことを意識していたりする、とラノワは書いている。

この段階での私の作業は、すでに存在しているモチーフの細部を反復、強化、拡大することでしかない。サンプリング・マシンを使って一部を採取するが、その際に、これをどんなふうに曲に戻して新しいテクスチャーを得るのかを想定していかなくてはならない。(p.77)

これは皮膚移植や、実験室におけるドナーの細胞分裂、洋服のモチーフの拡大といったプロセスと同じようなものだと考えると面白いだろう。たとえば、あるドレスに花のパターンがある場合、これに同じ花模様のポケットをつける感じだ。でもこの際、ポケットの花は二〇倍くらいの大きさに拡大するのだ。ポケットだけ見ていれば、これが同じパターンだとは気がつかないだろうが、色調(トーン)や色には関連性が感じられる。(p.77,78)

この引用にもあるように、ラノワは自身のことを外科医や科学者に例えてみせることが多い。音楽と直感的に対峙するだけでなく、しつこいくらいに研究を続け、精緻な分析を行い、改善すべき点を炙り出し、適切な編集を行い、それによって新たな価値や美しさを見つけ出そう、という態度が重要だというわけだ。このような資質や性格が彼を一流のプロデューサーたらしめているのかな、という気がする。


『潜水服は蝶の夢を見る』/ジャン=ドミニック・ボービー

『潜水服は蝶の夢を見る』/ジャン=ドミニック・ボービー

閉じ込め症候群(Locked-in syndrome (LIS))となり、左目以外はまったく動かすことのできない状態になってしまった男による、「左目のまばたき」によって書かれたエッセイ集。映画版を見たのはずいぶん前のことだけれど、ふとおもい立って原作の方も読んでみると、こちらも非常に真摯な作品に仕上がっていて、なかなかよかった。

閉じ込め症候群というのは、脳底動脈閉塞によって脳幹の特定部分に障害が発生することで引き起こされる症状だ。このとき、人は四肢麻痺となり、言葉を発することもできなくなる。まばたきや眼球の上下動によってでしか、他者との意思疎通が取れない状態になってしまうのだ。意識や思考など、知的機能は正常であるにも関わらず、身体を動かすことに関してはほとんど不可能、というわけだ。

そのような、きわめて厳しい立場におかれたボービーだけれど、本書における彼の筆致はあくまでも軽やかである。「執筆」時、彼は、編集者が病室を訪れてくる前にあらかじめ文章をかんがえておき、暗記していた(即興で作る文章というのはなかった)とのことだが、たしかにここに収められた文章はいずれも非常に冷静なもので、メランコリーを感じさせこそすれ、自己憐憫に溺れているようなところはほとんどないと言っていい。

たとえば、「グレヴァン蝋人形館」という章。夢のなかで、ボービーは蝋人形館を訪れる。展示されている蝋人形たちに妙に見覚えがあるぞ、とおもうが、それはじつは皆、病院で彼の治療に携わる人間たちの姿なのだった。

初め僕は、恐怖を覚えた。自分が閉じ込められている牢獄の看守たちに、取り囲まれてしまったような気がした。あたりにいるのはすべて、おぞましい陰謀を遂行している邪悪な人間たちのような気がした。そしてその恐怖は、次第に憎悪へと変わっていった。僕が恐怖の態度を表していたにもかかわらず、僕を車椅子に乗せる時に、彼らが腕をねじ曲げたこと、一晩中テレビをつけっぱなしにしていったこと、苦痛でたまらない格好のまま僕を放置したことなどが、次々浮かんでくる。何分かの間、いや何時間か、僕は心の中で、彼らを抹殺していった。
しかしその激しい怒りも、時の流れとともに、やがて静められていった。そしてとうとう、私服で立っている彼らが、困難で微妙な使命を彼らなりになんとか果たそうとしている、なつかしい顔なじみのように思えてきた。僕達が背負った十字架が、あまりに重くて肩にめり込み、痛む時、その十字架を、持ち上げ、立て直すこと。それが彼らの使命なのだ。(p.132)

あるいは、「日曜日」という章。療法士たちの現れない日曜日は、まったくのひとりでいる時間が多い。TVがうるさいのを消すこともできなければ、書棚に並んだ本に手を伸ばすこともできないし、鼻の頭にとまったハエを追い払うことすらも叶わない…という内容だ。

こちらでは止まったままのように思える時間が、向こうでは熾烈な競争をしているかのように駆け抜けていくとは、いったい、どのようなパラドックスなのだろうか。すっかり小さくなってしまった僕の宇宙では、時間は引き延ばされ、逆に月日は稲光のように過ぎてゆく。もう、八月とは。友人たちも、その妻たちも、子どもたちも、今頃は夏休みの風に吹かれて、皆あちこちに飛んでいっているのだろう。僕は目を閉じ、心の中で、彼らの夏の居場所を順々に訪ねてみる。少し胸を引き裂かれもするが、それはしかたあるまい――。
――ブルターニュ。自転車に乗った子どもたちの一群が、輝くような笑顔で、市場のほうから帰ってくる。何人かはすでに十代の難しい時期に入っているが、シャクナゲの咲くこの道では、誰もが再び、無垢な自分を見いだすことができるのだ。今日はこれから、ボートで小島を一周する予定。小さなエンジンは、水の流れに懸命にさからっていくだろう。誰かがボートの先端に腹這いになり、目を閉じ冷たい水に手を浸して、その流れを感じ取ることだろう。(p.121,122)

彼は、どんなに辛くみじめな思いをしたとしても、決してユーモアやエレガンスを失わないでいよう、ということを、どこかの段階で己に厳しく課すようになったのだろうか。あるいは、あまりにも過酷な状況に追い詰められてしまったがために、そのような強さや勇敢さを発揮することを余儀なくされるようになった、ということなのだろうか。まあ、どちらであったとしても、本書に収められているのがひとりの美しい人間の姿だ、ということには変わりはないだろう。


『考える練習』/保坂和志

『考える練習』/保坂和志

保坂和志のインタビュー集。編集者との対談形式になってはいるものの、ほとんど保坂がひとりでしゃべり続けているので、まあインタビュー集という言い方で間違いはないんじゃないかとおもう。保坂の近頃の小説以外の作品はだいたいどれも同じような内容なのに(おまけに、小説について書かれた3部作と比べると、内容的にはだいぶ薄めなのに)、新刊が出ているとついつい買ってしまうのだけど、それはきっと、この人の文章を読んでいると、勇気が湧いてくるような感じがするからだ。そして、彼の文章がそんな感覚をもたらしてくれる理由のひとつとしては、下記のようなことが挙げられるんじゃないかとおもう。

作品もそうだけど、考えも、予感とか手触りとか洞察は、科学的、論理的な根拠に優る。それで面白いのは、そういう根拠なく自分でパッと思いついたこととか、個人的に喋ったり、自分で考えたりしていることでも、やがて同じことを言っている言葉に出会うんだよ。
ニーチェだったり、フロイトだったり、老子だったり、誰だったりといろいろなんだけど、本当に自分が考えたのと同じ言葉に出会う。どんな突飛だと思うことでも、絶対、誰かが言っている。
そういうものに出会うと、がっかりするんじゃなくてホッとする。ちょっと考えると自分の独創性が否定されてがっかりするように思うかもしれないけれど、「こんなこと思ってるのは自分ひとりなのか」という不安というか、確信が持てない感じがあるもんなんだよ。だから、言った本人は不思議に安心したり、ホッとしたり、自信を持ったりする。こんなことを思っているのは自分ひとりなのかなって考えているそのときは不安定なんだけど、必ず何年か以内に出会う。
それはもっと冷めた言い方、人の足を掬うような言い方をするやつに言わせれば、じつはその前に一度出会っているんだけど、そのときには自分の関心がそっちに向いていなかったから、そのフレーズをスルーしていて、でもやっぱり頭に残っているから、それをまるで自分の考えのように言ってたっていう理屈になる。
それでも自分にはスルーしたという意識はないわけだから同じで、こんなことを考えているのは自分ひとりかな、みたいな確信が持てない感じが続く。
いや、確信とは違うかな。確信がほしいわけじゃないから、やっぱり不安定なんだよね。ユラユラしている。でも、同じことを言っている言葉に出会うと、そこで安心してカチッとする。だから、こんなことを考えているのは自分ひとりかな、みたいな不安定な状態っていうのは不安に思う必要はないんだ。(p.278,279)

保坂の本を読むことは、俺にとってはまさにこういう「同じことを言っている言葉に出会う」経験だよなー、という気がする。そして、本を読んでいてもっとも快感を得られる瞬間のひとつは、こういう経験ができたときのことだとおもう。


『孤独な散歩者の夢想』/ジャン=ジャック・ルソー

『孤独な散歩者の夢想』/ジャン=ジャック・ルソー

あなたがいまひどく落ち込んだ気分、みじめでひとりぼっちな気分、もうどうにでもなれ、ってやぶれかぶれな気分になっているのならば、『孤独な散歩者の夢想』を手にとってみるといいかもしれない。この本を書いたルソーというじいさん(64~66歳)は、きっといまのあなたよりももっと孤独で、誰からも愛されず、誰からも必要とされていないと感じていて、強烈な自己憐憫に浸っている男だから。

まず、冒頭からしてこうなのだ。

この世にたったひとり。もう兄弟も、隣人も、友人も世間との付き合いもなく、天涯孤独の身。私ほど人付き合いが好きで、人間を愛するものはいないというのに、そんな私が、満場一致で皆から追放されたのだ。繊細な私の心を最もひどく痛めつけるにはどんな仕打ちがいちばんいいのか、奴らは私への憎悪を極限まで募らせながらさんざん考えたのだろう。(p.9)

すごい言い分である。どんなに心のなかでおもったとしても人に言ってはだめなこと、というのがあるけれど、これはまさにそれだ。いくら本当のことであったとしても、こんな言い方で、いったい誰が同情してくれるだろう、って話である。

自分の外にあるものは、もはや私に何の関係もない。この世には隣人も仲間も兄弟もいない。まるでどこかよその惑星から落ちてきた異星人のような気分だ。まわりにあるもの何を見ても、つらく悲しくなってしまう。私に触れるもの、私を取り囲むもの、どれに目をやろうとも、私はそこに人々の侮蔑を感じて憤り、痛みを感じて苦しくなる。だから、これまで私が無益と知りつつ、苦しみながら執着してきたものたちを、もう心から一掃してしまおう。ひとりで過ごす残りの人生、もう慰めも希望も平穏も自分のうちにしか求めようがないのだから、自分のことだけ考えて生きるしかない。いや、そうしたいと思っている。(p.18,19)

ため息まじりに思う。私はこの世で何をしただろう。生きるために生まれたのに、生きた証も残さずに死ぬ。少なくとも、私に咎があったわけではない。私をおつくりになった神様のもとに帰るとき、私は善行の貢物をもっていくことはできない。奴らのせいで善行をなしとげる機会を失ってしまったからだ。(p.28,29)

私のような目にあえば、誰しも性格が変わって当然ではないだろうか。ここ二十年の経験から分かったことだが、生まれながらにもっていた私の心の良い部分は過酷な運命、そして私の運命を支配する人々のせいで、自分を傷つけるもの、他人にとって有害なものへとゆがめられてしまった。善行を誘うような状況が示されても、私の目にはそれが罠にしか見えない。裏に何か悪意があるようにしか見えないのである。(p.134)

…どうだろう、ちょっとイラっときただろうか?それとも、あーなんかわかるかも、こういう気分になることってあるよね、とおもっただろうか?まあ、少なくとも、これほどまでに自分の気持ちに正直な文章って、なかなか書けるものではないだろう。こじらせ具合で言えば、ドストエフスキー『白痴』のイッポリート君や、太宰治『人間失格』の葉蔵なんかといい勝負という感じだが、ただ、これはもう晩年を迎えたじいさんが書いた文章だ、ってところに妙な迫力があるような気もする。

さて、こんな懐疑、極端な被害妄想からスタートする本書の「夢想」だけれど、章が進んでいくにつれ、ルソーの心境は徐々にある種の悟りの境地、自己充足可能な諦念の境地へと向かっていくようになる。植物採集と過去の甘美な記憶の回想のなかに安らぎを見出し、私が生きていくにはこれだけがあれば十分だ、他のものはもう知らん、とかんがえるようになっていくのだ。それは世捨て人としての満足、完全な傍観者としての満足ではあるが、しかし、「孤独な散歩者」としてしか辿り着くことのできない美の境地であるように見えないこともない。

とはいえ、やはりルソーも人の子、社会からの評価、知り合いのあいだでの評判をまったく気にしないで居続けることなどできはしない。そのため、本書の文章は、内省と諦念の表現のなかに、自己弁護・自己正当化の含みを持ったものとなっている。それはひとことで言ってしまえば、「私の道徳律が正しい。社会や世間のそれは欺瞞である」という内容だ。恐るべき迫害者たちに取り囲まれたこの私が心の平穏を保っていられるのは、私が正しい道徳律の持ち主であり、それに従って生活しているからである、どうだねわかったかね、なんて、あれやこれやと手を変えながら主張しているわけだ。こういう辺りは、読んでいてちょっといらいらさせられてしまう。あーもうわかったわかった、あんたは間違ってないよ、大丈夫だよ、って言ってしまいたくなる。

まあそういうわけで、全体的にネガティブで言い訳がましく、しかしそれでいてなかなかに戦略的で均整のとれた哲学エッセイ、それが本作だと言えるだろう。ルソーらしい美文もあるので、彼の気分にある程度共鳴できる精神状態のときならば、それなりに興味深く読めるはずだ。

(もちろん、こういう作品を読んだからといって、読者の孤独な状態が回復したり、孤独な気分が満たされたりするわけではない。せいぜい、ああ、ルソーみたいに歴史に名を刻んだ大人物でも、気が滅入っているとこんなしょうもないことを延々と書いちゃったりするんだな…なんて緩く共感できる程度だろう。だが、ひたすらネガティブアイロニックな気分になっているときには、その程度の微かな共感というのもそれなりに貴重なものなのだ、くらいのことは言ってみてもいいのではないかとおもう。)


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