タグ ‘ イタリア文学

『レ・コスミコミケ』/イタロ・カルヴィーノ

『レ・コスミコミケ』/イタロ・カルヴィーノ

「わしは、あらゆる時間・空間を超えて偏在してきた」と主張する、Qfwfqなる名前の老人を語り手とした短編集。Qfwfqによれば、彼は宇宙創世の頃に存在していたこともあれば、生物が水中から陸に上がりはじめた頃に生きていたこともあるし、はたまた、「ひらべったい、じくじくした、おまけに呑気な、軟体動物の単なる肉片」であったこともあるのだという。いや、それどころか、そもそも”もの”や”意識”だったのかどうかすら怪しげな存在であったことさえもあるらしい。そして、そんなわけのわからない存在であったところの彼がやってきたことはと言えば、宇宙のある点につけた「しるし」をライバルから守ろうと何億年ものあいだ追いかけっこを続けたり、空気も音も光も存在しない世界で不意に恋に落ちてしまったり、原子を使ったビー玉遊びで宇宙規模の熱戦を繰り広げたり、一億光年以上遠くの星に立てられたプラカードに書かれたメッセージに冷や汗をかいたり…とこれまた何でもあり。宇宙規模に広げられた大風呂敷のなかで、カルヴィーノ得意の言葉あそびが全編にわたって炸裂し続ける、SF風の題材を用いた知的おとぎばなし、という感じの作品になっている。

俺がとくに好きだったのは、他の短編と比べると抽象度や遊戯性が少なめで、センチメンタルな雰囲気のある、「恐龍族」。遥か太古の時代、わしは恐龍だったのだ~と語るQfwfqは、同胞の恐龍たちが次々とその生命を失っていった「大いなる死の時代」をたったひとりで生き延び、孤独のうちに長い歳月を過ごしていたが、ついに新生物との接触を図る決心をする…!という話。

初めて生き物を見かけたとき、わしは身を隠した。それは新生物の一群だった。小さいけれども強そうな個体だった。
「おーい、君!」彼らのほうでわしに気づいたのだが、そんなふうに呼びかけて来るその馴れ馴れしい態度に、わしはびっくりしてしまった。わしが逃げだすと、彼らは追っかけて来た。わしはもう何万年も昔から、自分の周囲に恐怖を捲き起こすということに慣れ切っていた。そして自分の引き起こす恐怖に他のものが示す反応に、かえってわし自身が恐怖を味わうことにも慣れていた。ところが今度は違うのだ。(p.171)

「何を思って逃げだしたりしたんだね?」と、彼らのうちのあるものが言った――「まるでさ、出たっていうみたいだぜ……恐龍かなんかがな!」すると、他の連中も笑いだした。それでもその笑い声のなかに、初めて不安のようなものの影が感じとれた。笑いながら、彼らはいくらか困ったようだった。そればかりか、また別のものは重々しい表情になって、こう言い添えたほどだった。「冗談にもそいつは言っちゃあいけないよ。お前は、やつらがどんなもんだか知らないんだ……」(p.171,172)

新生物たちは、恐龍などというものを見たことがないため、Qfwfqが恐龍であるという発想自体が浮かんでこないのだ。コミカルな描写のなかにも、悲しみが漂う。

初めのうちこそ、こんな風に「わし」は新生物に対して恐怖心を感じ、自分の正体がばれはしないかと冷や汗をかくものの、じきに彼らのうちに溶け込み、共に生活を営むようにさえなる。が、そこはやはり孤高の恐龍、やがて彼らに幻滅し、最終的には自らの足で彼らのもとを去っていくことになる。その後ろ姿には、帰るべき場所が永遠に失われた者の、そのアイデンティティが決して誰にも理解され得ない者の孤独と寂しさとが染みついてはいるのだけれど、しかし今後も「わし」がしぶとく生き続けていくだろうことは、読者にははっきりと感じられる…。


『供述によるとペレイラは……』/ アントニオ・タブッキ

供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

しばらくまえに『インド夜想曲』を読んだときから、タブッキのふわふわと心地よい文体のことが気になっていて、『供述によるとペレイラは……』にも手を出してみた。本作におけるタブッキの文章は、ゆったりとして、装飾や比喩表現も控えめ、ほとんど簡素ともおもえるようなものなのだけれど、品がよくてなめらかで、なんだか読者をうっとりとさせてしまうような力を持っている。そのため、プロット的にはふつうのリアリズムであるにも関わらず、作品全体には、どこか遠くのなつかしい場所の幻影を眺めているかのような、夢見るような感覚が満ち満ちているのだ。詩的ってまさにこういうことね…って唸らされてしまう、すばらしい小説だった。

物語の舞台は1938年の夏、ポルトガルのリスボン。主人公は新聞記者のペレイラ、急な階段を上がっただけで息をきらせてしまうような肥満体のおっさんである。彼は、新聞社の文芸部でフランス小説の翻訳などをちびちびと行い、昼ごはんには香草入りのオムレツを食べ、レモネードを飲み、夜は死んだ奥さんの写真にきょうのできごとを語りかける…という静かな生活を送っていたのだけれど、ふとしたことである青年を原稿書きのバイトとして雇うことになる。若気の至りのかたまりのような青年に対し、そこはかとない親しみをおぼえるペレイラだったが、彼の送ってくる原稿は反ファシズムの強烈な匂いがするものばかりで、とうてい新聞に掲載できるようなしろものではない。そんな青年に若干うんざりしつつも、ペレイラはなし崩し的に政治活動に巻き込まれていくことになるのだが…!

青年はファシズムに対する抵抗運動にのめり込んでいるので、物語は少しずつきな臭さを増していくことになるのだけれど、作品の主軸は政治的な部分にあるわけではない。本作で取り扱われているのは、ペレイラというひとりのおっさんの、たましいの遍歴、再生の物語なのだ。…といっても、とくに劇的な事件が次々に発生するというわけではない。作中で発生するイベントとしては、ペレイラが、何人かの人物と出会い、彼らとどこか瞑想的/哲学的な会話を交わす、というくらいなのだ。

浴槽に水がいっぱいになるのを待って、そのなかに浸った。水に浸っているあいだ、彼はながいこと腹をなでていた。それから、じぶんにむかって、いった。ペレイラよ、以前のおまえは、こんなみじめな暮しをしてはいなかったな。そして体をふくと、パジャマを着た。それから玄関に行って、妻の写真の前に立つと、いった。今夜、モンテイロ・ロッシに会う。どうしてぼくは、あいつをクビにして、そのまま知らんぷりをしないのか、わからない。あいつはじぶんで問題をつくっていおいて、それをぼくのせいにする。そこまではわかったのだが、きみはどう思う?ぼくはどうすればいいのだろう。妻の写真は遠くを見るような表情で、彼にほほえみかけた。(p.67)

とつぜん、彼はアントニオ神父に会って話したくなった。彼になら、じぶんにはなにか悔むべきことがあって、それがなんであるかはわからないながら、じぶんが犯した罪を悔やむことに、郷愁をおぼえているのかもしれない、などと、打ち明けることができそうな気がした。いや、悔恨という考えそのものが、ただ気持よかっただけかもしれなかった。(p.97)

いくつかの出会いと別れのなかで、ペレイラは自分の内にいつしか生まれていた、ある感情に気がつくことになる。彼は長いあいだ、その感情をどう取り扱えばいいのか、その感情とどう向きあえばいいのかがわからないでいるのだけれど、物語の最後、悲劇的なクライマックスの訪れとともに、それを自らのものとすることになる。そんなペレイラのたましいの再生は、派手なアクションや、天才的なひらめきや、高らかに吹き鳴らされるファンファーレなどといったものとはまったく無縁な、ごくささやかな、地味な決断ではあるのだけれど、タブッキの美しい文章で描かれるそれは、作中でたびたび描き出されるリスボンの風景のようにきらきらとした輝きを放っており、読者の胸に忘れがたい印象を残すことになる。


Calendar

2015年10月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

Archive