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『トムは真夜中の庭で』/アン・フィリッパ・ピアス

『トムは真夜中の庭で』/アン・フィリッパ・ピアス

これは素晴らしかった!児童文学として非常に高いクオリティを持った小説だけど、大人になってからでも、いや、これはむしろ大人になってからの方がよりたのしめるタイプの作品であるかもしれない。

せっかくの夏休みだというのに、弟のピーターがはしかにかかってしまったせいで、トムはひとり、おじさんのアパートに預けられることに。おじさんおばさんのトークは退屈だし、部屋は狭くて息が詰まりそう、おまけにここには庭すらない!アパートが気に食わないトムは、だんだんいらいらしてきてしまう。だが、そんなある夜、ホールの柱時計が「13回」鐘を鳴らしたようにおもった彼がこっそり外へ出てみると、そこには、夜明けの灰色の光に照らされた美しい庭園が、ひそやかに広がっていたのだった。

こんな素敵な場所が、真夜中にだけ現れるなんて!毎晩「真夜中の庭」を訪れるようになったトムは、そこに流れる時間がヴィクトリア朝時代のものであること、また、彼が訪れるたびに、時間の流れ方が少しずつ異なっているらしいことなどを理解するようになる。やがてトムは、庭園でひとりの少女と出会い、友達になるのだが…!

少女とすっかり仲良くなり、「真夜中の庭」でいつまでも過ごしたいと願うようになるトムだけれど、ヴィクトリア朝時代を生きる少女にとってのトムは、”何年かに一度、数時間だけ現れる、自分だけに見える霊的な存在”であり、ふたりが体感する時間はばらばらである。トムにとっては夏休みの毎夜のことが、少女にとっては何年越しかのできごとであり、トムはいつでも少年のままだが、少女はトムが会いに行くたびに少しずつ大人になっている。ふたりの関係性は、決して永遠たりえず、少しずつずれていってしまうのだ。

…というわけで、これはいわゆる時間系SFの設定を使った、ごくシンプルなファンタジーだと言っていいだろう。ただ、「真夜中の庭」や個々の人物の描写のこまやかさが、ストーリーの持つノスタルジアの感覚――時間というものの無常さや、それと裏表にある美しさ――をぐっと引き立て、この物語を忘れがたいものにしている。

トムが庭園のなかへ足を踏みいれていったのは、朝になるまえの、シーンとしずまりかえった、この灰いろの時間だった。トムが階段をおり、ホールを通って、庭園へ出るドアのところにいったのは真夜中だった。しかし、トムがドアをあけて、庭園へ足を踏みいれたときには、それよりも時間はずっとすぎていた。夜どおし、月の光に照らされてか、あるいはくらやみにつつまれて、目をさましつづけていた庭園は、ながい夜の寝ずの番につかれはてて、いまうとうととしているところだった。
庭園の緑は、夜露にぬれて灰いろになっていた。朝日がさしてくるまで、色彩はみな消えさっているのだ。空気はじっと動かず、木々はみなその場にうずくまっていた。一羽の鳥が鳴いた。と思うと、芝生のすみに立っている背のたかいモミの木から、ぶざまなかっこうをした羽のかたまりがとびたって、一瞬、下におちたかと思われたが、すぐに舞いあがり、吹いていもしない風に乗って翼をひろげ、もっと遠くの方にある別の木に移っていった。――フクロウだった。いかにも、ひと晩じゅう目をさましつづけていたものらしく、羽をさかだてて、ねむそうにしていた。(p.63,64)

「トム、そのときだよ。庭もたえずかわっているってことにわたしが気がついたのは。かわらないものなんて、なにひとつないものね。わたしたちの思い出のほかには。」(p.335)

あらゆるものは、時の流れのなかで変化していく。永遠に続くものなど何ひとつなく、すべてはやがて風化し、消え去り、見る影もないほどその姿を変えてしまう。それを止めることは誰にもできない。けれど、人の記憶のなかにあるものだけは、確実にその人のものだ。その記憶を捨て去らずにいること、折にふれておもい返すこと、大切にすること、それだけが、その記憶に力を与え、記憶のなかのものを生き続けさせるために、人ができることなのだろう。


『初夜』/イアン・マキューアン

初夜 (新潮クレスト・ブックス)

タイトルの通り、とあるカップルの初夜を描いた中編。近年のマキューアン作品の特徴といえば、流れるような文体にきめ細やかな心理描写、かっちり構築されたプロット、いかにもイギリス人って感じのアイロニーなんかが挙げられるとおもうけれど、本作でもその旨味はじゅうぶんに味わうことができる。

時は1962年のイングランド。婚前交渉がまったくないまま初夜を迎えることになったエドワードとフローレンスだったが、ほんのささいなことからすれ違いが起きてしまう。ふたりがそれぞれに抱えた過去や出会いのシーンをところどころに挟み込みながら、物語はじわりじわりと展開していくのだが…!

この”初夜”で起こる事件そのものは、ちょっとした失敗談、どうでもいい笑い話にしか過ぎないようなものだ。けれど、ふたりそれぞれの抱えるプライドやコンプレックス、性格の差異などが互いに影響し合うことで、事態は取り返しのつかない方向へずるずると進行していってしまう。

自分がじつに哀れむべき行動をとっていることはわかっていた。だが、生き延びるため、ぞっとする一瞬から逃れるために、彼女は掛け金を吊り上げ、次の約束をして、なんの助けにもならないのに、自分がそれを待ち望んでいるかのような印象を与えなければならなかった。最終幕はいつまでも延期できるわけではなく、その瞬間はすでにそこまで迫っていたが、愚かにもみずからそこに向かっていた。彼女はルールに異議をとなえることのできないゲームにはまっていたのである。どんな理屈からエドワードの先に立って、彼を引っ張り、部屋を横切って、ベッドルームのひらいたままのドアへ、狭い四柱式のベッドとぴんと張られた白いベッドカバーへ向かうはめになったにせよ、いまさら逃れる術はなかった。そこに着いたらどうするつもりかはわからなかった。(p.36,37)

自分がすらりと言う声が聞こえた。「失敗は見ればわかるわ」だが、彼女はそんなことを言うつもりではなかった。こんな残酷さはすこしも彼女らしくなかった。ただ第二バイオリンが第一バイオリンに応答しただけだった。(p.141)

マキューアンの意地の悪さが存分に発揮された精密な心理描写によって、物語の悲喜劇性はいやがおうにも高まっていくわけだけど、基本的には数時間の出来事である”初夜”自体はさらりと終わってしまう。ただ、この物語には短いエピローグがつけ加えられており、過ぎてしまった出来事を振り返るその視線こそが、読み手に強い情感を呼び起こすような仕掛けになっている。これがまあ、じつに上手い。ドライな分析がウェットな描写に変化する、その瞬間は本当に感動的だ。

六十代に入ってからも、後退した白髪に健康的なピンク色の顔をした、このがっしりした長身の男は、長時間歩きまわるのをやめなかった。彼の毎日の散歩コースには依然として菩提樹の並木道が含まれており、天気がいいときには、ぐるりと輪をえがくルートをたどって、メイドングルーヴの共有地の野の花を眺め、ビックス・ボトムの自然保護地区で蝶を見て、橅の森を抜けてシピル教会――いずれそのうち彼もここに埋葬されるはずだった――まで戻った。ときおり、橅の森の奥の小道の分岐点に差しかかると、あの八月の朝、彼女はここで立ち止まって地図を見たにちがいない、とふと思ったりした。すると、わずか数メートルと四十年離れたその場所で、一心になって彼を見つけようとしている彼女の姿が鮮明によみがえった。あるいは、ストーナー渓谷を見下ろす場所で足を止めて、彼女はここに立ち止まってオレンジの皮を剥いたのかもしれないとも思った。(p.164)

きっと誰しも経験があることだとおもうけれど、かつてどんなに希望に満ちて輝き、強く確かにおもえたものであっても、本当に些細な、取るに足らないような出来事によって完全に損なわれてしまう、ということがある。そして、一度損なわれ、手からこぼれ落ちてしまったそれを取り戻すことは、決して叶わない。「どうして?」と問うてみたところで、そこには明確な答えなどなく、人は誰しも、ただただ立ち尽くし、後悔する他ない…。マキューアンの筆致は、そんな残酷な真実を優雅に美しく描き出しているようにおもう。


『灯台守の話』/ジャネット・ウィンターソン

灯台守の話

これはすごくよかったなー。全編に漂う、凍える夜や小さな光、静かな海のイメージが印象に残る、素敵な小説だった。舞台はスコットランド北西部。寒々しく、何もないような荒涼とした土地で、母を亡くした少女シルバーは盲目の灯台守の老人、ピューに引き取られる。灯台で光を守るかたわら、ピューはシルバーに無数の物語を語って聞かせていくのだったが…!

好きなところはいろいろあるのだけど、まずは序盤のシルバーとピューとの会話の暖かさに、ぐっと引き込まれた。

「どうしていっつも一つのお話をするのに、べつのお話を始めるのさ?」

「そりゃあ、何もないところからひょっこり始まる話なんか一つもないからさ。親のないところに子が生まれないのとおんなじだ」

「あたしは父さんなしで生まれたよ」

「そして今じゃ母さんもなしってわけだ」

わたしは泣き出し、それを聞いてピューは悪いことを言ったと思ったのだろう、わたしの顔に触れて、涙をそっとなぞった。

「それもまた一つの話だ。自分を物語のように話せば、それもそんなに悪いことではなくなる」

「お話して、そしたらさびしくなくなるから。バベル・ダークの話をして」(p.34,35)

わたしはもうガクギョウがシンポする見込みがなかったので、頭を好き勝手にあちこちさまよわせることにした。青い舟で海に漕ぎだして、流木を拾うみたいにして物語を集めた。木箱、カモメ、メッセージの入った壜、膨れて腹を上にした、鳥につつかれて穴だらけのサメ、ズボン、サージンの缶詰が詰まった箱ーーわたしが何か見つけるたび、ピューは物語を聞かせておくれと言い、わたしは一生懸命お話を考えたり作ったりして、そうして冬の嵐が荒れ狂う夜は過ぎていった。(p.102)

小説の冒頭こそ、古きよき物語のはじまり、って雰囲気があるのだけれど、ページが進むにつれ、シルバーの人生はいくつもの物語がとぎれとぎれに映し出されるような感じで描かれるようになっていく。そこには明確なストーリー性のようなものはなく、むしろ、彼女の気分、感情の揺れがイマージュとして結晶したものが連なっていっているようだ。それは技法的には、具体性を欠くことによって読者の気分や感傷と共鳴させやすい、みたいな効果を醸し出しているようにもおもえるのだけど、ちょっとうがった見方をするなら、センチメンタル過剰で雰囲気重視な文体だ、なんて言えてしまうくらいのものだ。でも、ともすれば安っぽく、それっぽいだけの小説になってしまいそうな言葉たちが、心の奥底のほうにすっとタッチしてくるような瞬間がある。

これからわたしが語る物語は、わたしの人生の一部を語り、あとは闇の中に残したままにするだろう。あなたがすべてを知る必要はない。すべてなんていうものはどこにもない。物語それ自体が意味になるのだ。

人生が途切れ目なくつながった筋書きで語れるなんて、そんなのはまやかしだ。途切れ目なくつながった筋書きなんてありはしない、あるのは光に照らされた瞬間瞬間だけ、残りは闇の中だ。(p.144)

わたしはかつて救いようのないロマンチストだった。わたしは今も救いようのないロマンチストだ。わたしはかつて愛こそがもっとも価値あるものだと信じていた。わたしは今も愛こそが最も価値あるものだと信じている。わたしは幸せになることなど期待していない。どういう形であれ自分がいつか愛を見つけるなどとは思っていないし、たとえ見つけたとしてもそれで幸せになるとは思っていない。/愛は、たとえて言うなら自然の脅威だ――太陽のように強烈で、不可欠で、非常で、巨大で、途方もなく、温暖でありながら灼熱であり、生命をはぐくむいっぽうで大地を干上がらせる。そしてそれが燃えつきるとき、この地球も死ぬ。(p.209,210)

いや、こんなところだけ引用してみたところで、正直感動的でもなんでもない。でも、作中で、押し寄せるイメージの奔流にどっぷり浸りながらこんな文章に出会うと、それはもう深くうなずきたくなってしまうのだ。そんなところに、しっかりとした小説の力を感じる。

徹底的に感傷的で、物語とか愛とかへのまっすぐな信頼に貫かれた作品だけど、ついつい感傷的になってしまいがちなこんな季節にはぴったりだとおもった。凍えそうに寒い夜の暖炉の光のような、いつまでもくるまっていたいやわらかな毛布のような、そんな小説だった。


『闇の奥』/ジョゼフ・コンラッド

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

黒原敏行による新訳。ぞくぞくするような語り口が魅力的な、濃密でパワフルな中編だった。ベルギーによるコンゴの植民地化によって原住民とヨーロッパ人の双方が被ることになった不気味な変化を探ろうとする、ポスト・コロニアリズム的な小説として有名な本作だけど、それと同時に、得体のしれない力やべっとりとした恐怖、どういうわけか逃れることのできない狂気について扱った多くの物語の原型になっているのが感じられる作品でもあった。

コンゴで誰もを圧倒するような権力を誇っていたクルツだけれど、クルツが実際にどういう行動をとったのか、彼の何が人に強烈な感銘を与えたり恐れさせたりしたのか、といったことについて、具体的に語られていることはほとんどない。ただただ抽象的に、クルツってのはとにかく偉大で恐ろしいやつだ、って感じに書かれているところがほとんどなのだ。ふつうにかんがえれば、そんな恐いとか凄いとか無闇に連呼されてもな…、って、クルツという人物の実在感や小説としての説得力が減少していってしまいそうなものだけど、この作品においてはぜんぜんそんなことはなく、クルツ周辺の人々が彼のことを語るその言葉の熱量でもって、彼の人となりの不気味さ、どこか人を超えてしまっているイメージが立ち上げられていくのがはっきりと感じられる。

クルツは豊かな才能を備えた人物だったが、そのすべての才能のうち、最も顕著で本当に存在感を持っていたのは、語る力、その言葉――表現する能力、人を混乱させ、啓蒙する、とびきり高尚でありながら卑しむべきもの、脈打つ光の流れ、あるいは見通せない闇の奥から発する欺瞞の流れだったんだ。(p.117)

『クルツさんのような人にとってこういう生活がどれだけ苦しいか、あなたは知らないんです』とクルツの最後の弟子である青年は声を強めた。俺が、『君はどうなんだ』と訊くと、『僕!僕ですか!僕は単純な人間です。偉大な思想なんてありゃしない。誰にも何も要求しません。よくまあ僕なんかと比べて……』感情が溢れすぎて言葉に詰まり、急にがっくりと力を落して、『もうわからない』と唸った。(p.145)

とはいえ、クルツが本当はどんな人物であるのか、どんなことをかんがえてあのような振る舞いをしていたのか、というところはやはり最後まではっきりとしない。読者はコンゴの闇の奥、クルツの闇の奥、語り手であるマーロウの闇の奥、時代の闇の奥をぼんやりと感じとることはできるものの、それを覗きこんでみたところではっきりとした何かが見つかることは決してない。闇はどこまでいっても闇でしかなく、人はその奥の奥を見通すことなどできはしないのだろう。

どうだ、彼の姿が目に浮かぶかい?話の筋道が見えるかい?何かわかるかい?俺は何だか君らに夢の話でもしているような気分だよ――虚しいことをしているようなね。というのも、夢の中身をどう語っても、夢の感覚は伝えられないからだ。あの馬鹿らしさと驚きと当惑と反感の混ざり合った感じ。何か信じがたいものに捉まってしまったという思い。それこそが夢の本質なんだが……(p.69)

……そう、それは不可能だ。どんな経験であれ、生で感じたままを他人に伝えるのは不可能だ――生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味であり――捉えがたい深い本質なんだが。不可能なんだ。人はみな独りぼっちで生きている――夢を見る時に独りぼっちなのと同じように……(p.69,70)

自分の感じたそのものを他人に伝えることは決して叶わない、そうわかってはいても、でもやっぱり語らずにはいられない。クルツと出会った人びとが彼のことを熱っぽく語ってしまうのは、自らの得た生の感覚、闇の奥で得体のしれないものに邂逅したというその真実を、どうにか言葉にして整理してしまいたい、という強烈な欲求があったからなのかもしれない。…って、俺はまるで小説内の人物たちが実在するかのような書き方をしちゃっているけど、なんていうか、いわゆるリアリティみたいなものとはまた別の、ふしぎな手応えを持った小説なんだよなー、とはおもった。切実さというか、本気な感じが一文一文に充満しているような。


『ひと月の夏』/J・L・カー

1920年の夏、イングランド北部の村にやって来た第一次大戦の負傷兵と村の人々との交流を描いた作品。負傷兵の青年は教会の壁画修復を仕事にしており、夏のひと月ばかりのあいだだけ村に滞在する。彼は壁画を復元したり村人の子供たちとたわむれたり、牧師の妻に恋心を抱いたりして過ごしては、少しずつ心の傷を癒していくのだった…っていう、まあ超シンプルかつ超ありがちな物語だ。

正直言って大した小説ではないとおもうのだけど(美しい小品、ってところか)、この作品には夏の美しい日々への憧憬がぎうぎうに詰められていて、それが俺にはちょっとぐっときてしまった。

ああ、あの頃………それから何年ものあいだ、ぼくはその幸せを忘れられなかった。音楽を聴いていて、ふっと昔に帰っても、思い出は何ひとつ変わってはいない。いつまでもつづいた夏の終わり。来る日も来る日もあたたかな天気がつづき、夜の訪れるころには呼びかわす人の声が聞こえ、闇の中に明かりのついた窓が点々と見え、夜明けには麦畑のざわめく音が聞こえて、収穫を待っている麦の匂いがする。(p.117)

いくら執拗に求めてみても、ぼくらには、かつては永遠に思えたものを二度と手にすることはできない。野原にぽつんと立っていた教会、鐘楼の床のベッド、なつかしい声、愛した顔――。すべては去って、あとはただその苦しみが消えてくれるのを待つしかない。(p.153)

「ああ、あの頃………」って、もう読んでいて恥ずかしくなるくらいにセンチメンタル過剰なのだけど、でも夏って季節が絶えず放ち続けるノスタルジアには、どうしたってそんな、恥ずかしさなんてかえりみないぜ、っていうような強烈さがあるのかもしれない、とはおもう。空の澄んだ青色とかそれに映える鮮やかな緑とか、むっとする空気とか蝉の鳴き声とか、そういうものだけで十分だ、っておもえるような高揚感がたしかに夏にはあって、そしてそれは、そんな季節を通り過ぎてしまった後ではひどく眩しく見えるものなのだろう。


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