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『オズワルド叔父さん』/ロアルド・ダール

『オズワルド叔父さん』/ロアルド・ダール

ダールの長編。オズワルド叔父さんなる男――「鑑定家、陽気なお人好し、蜘蛛と蠍とステッキの蒐集家、オペラ愛好家、中国磁器の権威、女たらし、それにたえて偉大なる姦夫でなかったためしはない」男――がいかにして巨万の富を築くに至ったか、についての物語だ。若きオズワルドは、スーダン産のブリスター・ビートルなる甲虫から超強力な媚薬を作り出せることを知り、それを使ってひと儲けすることに成功する。それだけでは飽き足らない彼は、媚薬を使ってヨーロッパ中の国王、ルノアールやモネ、プッチーニ、プルースト、フロイト、バーナード・ショーなどといった超一流の男たちから精液を回収、これを冷凍保存し、売り捌くことで億万長者になってやろうともくろむのだが…!

上記の通り、プロットは無駄に壮大でどこまでもばかばかしい、お下劣で人を食ったほら話という感じなのだけれど、ダールのリズミカルで快適な文体は読んでいてひたすらにたのしい。精液奪取のアイデアやその実践の顛末が延々とコミカルに語られているだけなのだけど、完全に頭をからっぽにして読んでしまえる。

だからもちろん、この物語には教訓もなければ人生において役に立つ何らかの知識などといったものもない。あるのは、セックスと嘘と金、美酒・美食とそれにまつわる情熱のみ。ひたすら下品な題材だけを扱っているのに全編通して軽妙洒脱でニヤッと笑える、まさにエンタテインメントってこういうことね、と言いたくなる作品だった。

生涯のこんな若い時期でさえ、わたしが興味を抱くのは新しい女性だけだ、とすでに心に決めていた。二度目はいけない。探偵小説を再読するようなものだ。次に何が起こるのかちゃんとわかっている。つい最近、マドモアゼル・ニコルを再訪問して、この習慣を破ったという事実はちょっと事情がちがう。それは単に、ブリスター・ビートルの粉を試すためになされたことなのだ。ところで、女は一度だけという原則は、わたしが人生で厳しく遵守しているもので、変化を好むすべての行動的男性に勧めていることである。(p.75)


『ソーラー』/イアン・マキューアン

『ソーラー』/イアン・マキューアン

ちび、でぶ、はげでジャンクフードと女が大好き、ノーベル賞を受賞する知性の持ち主だけれど、人に心を開くことは決してなく、己の欲求にだけはとにかく忠実な50代の男、マイケル・ビアードとソーラー発電を巡る物語。まあ、ブラックコメディ、と言っていいだろう。彼は言ってみれば超俗物でひたすらに卑小、自堕落でせこくて倫理観のない、意地汚いだめだめな男なのだけれど、その俗っぽさ、卑小さ、汚さ、だめさというのは誰しもがそれなりに持ち合わせている――少なくとも俺自身はじゅうぶんに持ち合わせている――だめさをかき集めて大盛りにしてみましたといった感じのもので、俺はビアードのふるまいに「おいおい…」って突っ込みを入れつつも、我が身を振り返っては少なからず苦い気分になったりもしたのだった。

近年のマキューアン作品の例に漏れず、本作もかなりクオリティが高い。鋭い観察眼と精密な文章が生み出すいじわるでブラックな笑いとその痛々しさというやつはもうとにかく洗練されまくっており、どんなにばかばかしいシーンであっても、上手いなーって感心しないではいられないくらいなのだ。たとえば、こんなところ。列車の座席で、ベアードがポテトチップスを食べようというシーン。

体を起こし、前かがみになって肘をテーブルに突くと、両手で顎を支えて、数秒間、英国国旗の下で漫画の動物が跳ねている、銀色と赤と青のけばけばしい袋を見つめた。なんとこどもじみていることか。こののぼせ上がり。あまりにも弱く、あまりにも有害な、過去のあらゆる誤りと狂気の、欲しいものをすぐに手に入れなければ気がすまない、あの性急なやり方の小宇宙。彼は両手で袋を取ると、上部を引き裂いて、揚げ油と酢のじっとりとした匂いを解き放った。実験室で巧妙にコピーされた、街角のフィッシュ・アンド・チップスの店の匂い、懐かしい記憶と欲望と国民性を髣髴させる匂いだった。国旗は熟慮した上で選ばれたにちがいない。彼は親指と人差し指でチップスを一枚だけつまみ出すと、袋をテーブルに戻して、座席の背にもたれかかった。彼は快楽を真剣に味わう男だった。この場合のこつは薄片を舌のまんなかに置くこと、そして、ちょっと味がひろがるのを待ってから、舌でポテトをギュッと口蓋に押し上げて砕くのだ。硬いぎざぎざの表面が柔らかい肉に微細な擦り傷をつけ、そこに塩と化学調味料が染みこんで、あの軽い、一種独特な快感=苦痛が生み出されるというのが彼の理論だった。(p.153,154)

アホらしいったらない描写だが、この後もっとアホらしい展開が、このすばらしく精緻な文体で延々と続けられることになる。

マキューアンは、「おもしろい」より「すごい」、「感動する」より「感嘆する」という感じの作品が多い、言ってみればちょっとスノビッシュな作家だけれど、コメディである本作においても、物語全体を通してひねった問いかけがいくつも仕掛けられており、そのブラックな笑いは登場人物たちだけでなく、読者の側までを容赦なく抉っていくようなところがある。

たとえば、読者は、物語を読み進めながら、ビアードについて、「倫理観がなく、問題から目を背けてばかりいる、自分勝手な男だ」と感じることになるけれど、ふとした瞬間に、「そういう自分は、エネルギー問題や地球温暖化のことを、ビジネスのチャンスだとか金儲けだとか、自己実現のための利用対象としてはかんがえておらず、それらの問題から目を逸らしたことなどまったくない、と言い切ることができるだろうか??」という疑問にぶつかることになる。…もちろん、そんな風に言い切ることのできる人間など、地球上のどこにもいないだろう。なにしろ、作中でベアードが述べている通り、「人類全体では、強欲が美徳に勝って」いるのだから。

欲望を抑えられないでいるのは、そして、向き合うべき問題から目を逸らさずはいられないのは、ひとりベアードだけというわけではなく、人類皆、誰しもがそうなのではないかね、とマキューアンは皮肉っぽく笑っているようだ。


『ハムレット』/ウィリアム・シェイクスピア

『ハムレット』/ウィリアム・シェイクスピア

本作の何よりの魅力は、やはりハムレットというキャラクターの「底の知れなさ」にあるだろう。テキストからは、ハムレットの心情の奥底の部分、ハムレットを突き動かす本当の動機、ハムレットに取り憑いた狂気の真正さ、などといったものを明確に推し量ることができないのだ。読者は、ハムレットのふるまいから、冷徹さや酷薄さ、大胆さ、公正さ、探究心、愛情、狂気などなど、さまざまな要素を読み取ることができるけれども、それらを中心のところで結びつけるような、ハムレットという人物の「性格」なるものを見出すことはできない。「ハムレットとはXXである」と端的に定義することは、誰にもできないのだ。

そして、そんな定義不可能性は、ハムレット以外の人物にも共通している。各登場人物たちのふるまいの元となる心情についても、物語の最後までその動因が明らかになることはないのだ。幽霊はなぜクローディアスを殺せとハムレットに告げたのか?(そもそも、本当に告げたのか?)クローディアスは兄殺しの罪に本当に良心の呵責を感じていたのか?(感じていたとすれば、それはどの程度のものだったのか?)ガートルードは事件の真相をどこまで知っていて、何をおもっていたのか?オフィーリアが壊れてしまった理由は何なのか?レイアーティーズが今際の際にハムレットに陰謀の全貌を語ったのはなぜか?ホレイショーはどんな気持ちでことの顛末を見届けたのか?

誰も彼もがひどく饒舌なのに、外野には、本当のところは決してわからない。作品の主題や、作者の主張や、登場人物たちを駆り立てる目的意識などといったものは、全部まるごと闇のなかにあるのだ。それは崇高な中立性とでも呼ぶべきものである。『ハムレット』というテキストから、人間性や道徳、善悪の観念、社会的有用性といったものについての見解や価値判断といったものを見出すことはほとんど不可能だと言っていいだろう。

それは別な言い方をすれば、読み方によっていかようにも解釈が可能で、しかもどのような解釈であっても受け入れることのできてしまう懐の深さがある、ということでもある。何とも謎の多い、不思議な作品だ。

そしてもちろん、台詞回しは素晴らしい。物語終盤のハムレットの台詞なんて、びりびりするほどかっこいい。

前兆などというものを気にかける事はない。一羽の雀が落ちるのも神の摂理。来るべきものは、いま来なくとも、いずれは来る――いま来れば、あとには来ない――あとに来なければ、いま来るだけのこと――肝腎なのは覚悟だ。いつ死んだらいいか、そんなことは考えてみたところで、誰にもわかりはすまい。所詮、あなたまかせさ。(p.207)


『ヴェニスの商人』/ウィリアム・シェイクスピア

『ヴェニスの商人』/ウィリアム・シェイクスピア

どうも最近だと、「シャイロックという人物の深みが…」とか、「シャイロックという人物の悲劇性が…」とか、「シャイロックという人物はユダヤ人のステレオタイプなどといったものではなく…」といったような、シャイロックの被抑圧っぷりに注目したシリアスめな解釈、現代的なヒューマニズム重視の解釈がなされることの多いようにおもえる『ヴェニスの商人』だけど(もちろん、ユダヤ人には目がないってのか?のシークエンスは、周到に計算された、目の覚めるようなクライマックスのひとつであることに疑いはないとはいえ)、ひさびさに読み返してみると、いやいや、やっぱりこれはあくまでも喜劇的な感覚というのがベースにある作品なんだな…と俺は感じた。

作品の基本的な構造としては、アントーニオ側の原理(友愛、慈悲、共同体的なもの)vsシャイロック側の原理(契約、資本、経済的なもの)というものがあるのだけれど、アントーニオが裁判で最終的に勝利できるのは、”友愛”や”慈悲”の力によるものではない。ポーシャという身内の人間が活躍するところはたしかに”友愛”的だけれど、彼女がここで利用するのは、「証文の不備」という”契約”の力、すなわちシャイロックの側の原理なのだ。

この二律背反な感じがおもしろい。シャイロックの仕掛けた罠をかいくぐる上では、アントーニオたちの信ずる”友愛”や”慈悲”といったものはじつはまったくの役不足であって、シャイロック側の理論を利用することではじめて勝利が得られるようになった、というわけだ。

また、裁判が無事に終わった後、ポーシャとネリッサは、それぞれの夫から「誓いの指輪」を回収することに成功する。このエピソードは、喜劇としての本作の最後の盛り上がりに向けて機能するわけだけれど、彼女たちが夫から指輪を奪うために利用する理屈というのもまた、「あなたは何でもくれると言ったくせに、やっぱりこの指輪だけはダメだというのは不正直ではないか」という、重箱の隅をつつくようなシャイロック側の原理に属するものなのだ。

そうして、物語のエンディングにおいて、指輪は”共同体”の原理のもと、夫たちへと無事返還され、作品はたのしく幕引きとなる。この指輪のエピソード自体は、アントーニオたち共同体側の勝利を祝うジョーク(あえてシャイロック側の原理を使った、軽いおふざけ)として見るのが自然だと言えそうな気がするけれど、シャイロック側原理による共同体原理側への静かなる侵食、としてかんがえてみても、ちょっとおもしろいかもしれないなー、なんておもったりもした。

いや、うーん、やっぱり違うかな。単に、ポーシャのように十分に”友愛”と知恵とを併せ持った人物であれば、シャイロック側の原理でも使いこなすことができるよ、というだけの話なのかも。…ま、ともあれ、こうしてちょっとかんがえるだけでじつにいろいろな解釈が引き出せてしまうところがシェイクスピアのおもしろいところだと言えるだろう。


『ジェイン・エア』/シャーロット・ブロンテ

『ジェイン・エア』/シャーロット・ブロンテ

『ジェイン・エア』を読了。何年か前に途中まで読んで放置してしまっていたのだけれど、今回は一気に最後まで読み切ることができた。孤児のジェインが長じて教養を身につけ、その意志の力で自分の信じる道を行き、幸せを手に入れる…という、ビルドゥングスロマンと少女小説のあいのこのようなプロットを持った作品だ。

 *

主人公、ジェインの魅力は、何といってもその意志力の強さだろう。文字通り自分の意志の力ひとつで人生と格闘し、運命を切り開いていくその姿は、とにかくかっこいいとしか言いようがない。ジェインの意志力は、物語冒頭では不幸な生い立ちからの脱却への志向として、中盤では愛の探求として、終盤では神との関係性の誠実さの追求として描かれていくけれど、そこで一貫しているのは、彼女の真摯さ、妥協や中途半端を決して許さない、ほとんど頑なとも言えるくらいの克己心といったものである。彼女は、どんな状況にあっても、自分の信じる価値の追求を決して止めることがないのだ。

そんな生真面目過ぎる性格の持ち主であるジェインは、身の回りの人物はもちろん、社会一般における通説や、男性的な思考、上流階級の価値観などといったものについても必ず自身のフィルターを通して検証し、その価値を査定してみせる。そして、その分析は自分自身に対してもまったく容赦がない。たとえば、こんなところ。

私は明日にも鏡を自分の前に置き、どんな欠点もそのままに、どんな目ざわりな線にも、どんなに不細工な部分にも手心を加えずクレヨンで写生し、その下に、「金も有力な縁故もない不器量な家庭教師の図」と書くことにきめた。
つぎに、前から絵の道具箱にしまってあった小さな象牙の板をだし、パレットにいちばん鮮やかでいちばん美しい色を混ぜあわせ、いちばん柔らかな駱駝の毛のブラシで私に想像できるかぎりの美しい顔を細心の注意を払って描き、フェアファックス夫人から聞いたとおりのブランシュ・イングラムの顔をそこに実現することにした。それにはなるべく柔らかな色調を用いたうえ、漆黒の大きな巻毛も、東洋人のような大きな眼も忘れないつもりだった。その眼のモデルにまたもやロチェスターさんのことが思いだされたが、泣いたり、感傷的になったり、未練がましいことはいっさい許されないのだった。ただひたすら常識と、新たな決心を失わないようにするだけだ。(p.223)

「金も有力な縁故もない不器量な家庭教師の図」って、もはやギャグみたいなことになっているけれど、ジェインはこういうことを完全に自分自身の「新たな決心」のためだけに行うのだ。こういうところを読んでいると、彼女の真摯さ、生真面目さというのは、彼女の高いプライドから生まれたものなんだな、ということがよくわかる。これほどまでに自尊心が強く、自分の理性と感情とをコントロールしようという意志を剥き出しにしている物語のヒロインというのは、なかなか珍しいんじゃないだろうか。

 *

そんなジェインのお相手となるのが、ロチェスターである。彼らは、立場や年齢こそ離れているけれども、その内実は同類と言ってもいい程によく似通っており、それがゆえに惹かれ合う。プライドの高さはもちろん、頭の回転のスピードや既存の価値観に対するかんがえ方、相手への心の開き方などといったものが互いに酷似しているのだ。

たとえば、彼らの会話は、自身の感情を真正面からぶつけ合う言葉のキャッチボールというよりは、皮肉や反語に包んだそれを相手の手の届くぎりぎりのところに放ってみせる、きわきわのラリーのようだが、それをたのしげに続けられてしまうのは、彼らが互いのことをよく理解し、コンテクストを共有することができているためだ。また、物語終盤ではジェインとロチェスターの力関係が逆転するようなできごとが起こるけれど、そのことがふたりにとって何の問題にもならないのは、互いの自立心、独立心といったものの度合いがよく似ているためだ。

「それはあなたが私よりも年とっていらっしゃるとか、私よりも経験がおありになるとかいうことだけで私に命令する権利がおありになるとは思いません。あなたがその年と経験をどんなふうにお用いになったかでその事はきまるんですから」
「ふむ、おみごと。しかし私は自分の年と経験でろくなことをしていないんですからそのご意見を受け容れたくありませんね。それじゃあなたは目上とか、目下とかの問題は別として、たまには私があなたに命令することに起こったり感情を害したりしないで従ってくださいますか」
私は笑顔になって、ロチェスターさんというのはふしぎな人だ、私にその命令に従わせるために年に三十ポンド払っているのを忘れているようだと思った。(p.184)

彼らの似方というのは、精神の構造が似ているとか、魂の相似形であるとか、そういったある種宿命的な似方であるため、彼らはふたりの間にいくつも現れる障害を乗り越えてしまうことができる、というわけだ。こういった辺りは、恋愛のひとつの理想形、という感じだろうか。

 *

そういうわけで、ジェインのキャラクターもおもしろければ、ロチェスターとの恋愛模様もおもしろくて、全体的に読みどころの多い『ジェイン・エア』だったけれど、俺がいちばん素晴らしいとおもったのは、物語のごく序盤で描かれる、「忍耐の教理」と宗教のもたらす心の平穏とを体現してみせる小さな信仰者、ヘレン・バーンスのエピソードだったような気がする。ヘレンの強さは、ジェインの強さとはまったく異なる方向性を持ったものだけれど、それだけに、ジェインの目には彼女の姿がとても美しく映るのだ。ちょっと長いけれど、俺の好きなところを引用しておく。

そうして私はその高い椅子の上に立たされたままでいた。教室の真中にただ立たされるのさえがまんできないと言っていた私が台の上に立たされて皆の目にさらされるというもっと恥ずかしい目に会っているのである。私はなんとも説明のしようがない感じになっていたが、さまざまな感情が一時に湧き起こり息がとまりそうになって喉が塞がりかけたちょうどそのとき、一人の女の子が私のそばを通って私を見あげた。その眼にはなんというふしぎな光があったことだろう。それはなんともいえない感情を私の胸に喚び起こし、私はそれでどれだけ元気づけられたことだろう。何か一人の殉教者、あるいは英雄が、奴隷か罪人のそばを通っただけでその哀れな人間に勇気をあたえたようなもので、私は自分の気持ちを抑え、頭を持ち上げ、椅子に立っている姿勢を正した。ヘレン・バーンスはスミスさんのところに何か仕事のことで聞きに行き、それがつまらないことだったので叱られて、また自分の席にもどっていったのだったが、私がいるところを通りすぎるときにまた笑顔になって私を見あげた。それはなんという笑顔だっただろう。私はいまでもそれを覚えていて、その笑顔には知性と真の勇気が輝いていた。それはヘレンの特徴のある目鼻を、痩せた顔やくぼんだ灰色の眼を天使のそれに近づけていたが、そのとき、ヘレンは「だらしがない」と書いた腕章をさせられていて、その一時間ばかり前に帳面に何かを写していてインキで染みを作ったというのでスキャッチャードさんに、翌日の昼の食事はパンと水だけだと言われたのだった。人間にはだれにでも欠点があるもので、澄みきった月の表にいくつかの影が見える。スキャッチャードさんのような人の目にはそういう些細な欠点ばかりが見えて、ヘレンの笑顔はわからないのだった。(p.88,89)

こういうの、ベタだけどすごくいいんだよなー。涙がちょちょぎれそうになる。ジェインの宗教観、神との関係というのは、本作のプロット全体に大きく関わってくるものだけれど、そのいちばん最初の影響源とも言えるヘレンのキャラクターは、とても魅力的だ。


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