タグ ‘ アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

『星の王子さま』/アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(その2)

『星の王子さま』/アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

『星の王子さま』関連本もいろいろと読んできてしまったことだし、そろそろ自分のかんがえをまとめてみなくてはいけない頃合いだろう。今日は(その1)のエントリへの回答編というか、前回感じた疑問について、自分なりの答えを出していってみようとおもう。

 *

(その1)のエントリで、俺は、「本作で描かれるのは、「王子さま」を代表とする子供の素直さや純粋さの美しさ、そのかけがえのなさだと言っていいだろう」と書いた。…が、どうやら、そもそもこの前提自体が誤りだったようだ。語り手の「僕」が、「子どもならばわかる」「大人たちは忘れてしまった」的な物言いを連発しているものだからまぎらわしいことになっているのだけれど、改めてかんがえてみると、「王子さま」に「子供の代表」をやってもらうというのは、かなり無理があることのような気がするのだ。

例を挙げてみればわかりやすい。もし、「大人って、何が本当に大事なことなのか、ぜんぜんわかってないんだからなぁ…」などと、したり顔でため息をついてみせる子供がいたとしたらどうだろう。はたして、周囲の大人はその子のことを「子供っぽいな」とか「なんて純粋なんだろう!」などとおもうだろうか。どちらかと言えば、「なんて子供らしくない、可愛げのないガキなんだ!」と感じるのではないか。まあこれはちょっと極端な言い方かもしれないけれど、「王子さま」のかんがえ方やふるまいを、「子供」という概念の象徴のようなものとして扱うのは、やっぱり無理があるのだ。

だから、本作についてかんがえる上では、「純粋な子供」vs「汚れっちまった大人」という見立てをすること自体が正しくなかった、ということなのだろうとおもう。たしかに「王子さま」は「まったく、おとなってのは!」という態度をとっているけれど、それは彼が「子供」だからというよりは、彼が「王子さま」だからなのだ。「キノコだ!」というような発言の源にあるのは、彼の属性・立場というよりは、彼の人となり・パーソナリティといったものである、そうかんがえるべきなのだろう。

 **

さて、となると、本作で扱われているのは「子供というものの素直さや純粋さ」ではなく、「「王子さま」の素直さや純粋さ」だということになる。この違いは結構大きい。”型にはまった教訓話”と”血の通った物語”くらいの差はある。そして、そのようにかんがえなおしてみると、俺が以前気になっていた、作品全体に漂う「厭世的で、大人的なるものへの敵意を剥き出しにするような雰囲気」についても、あまり感情的に受け止めても意味がないのかもしれない、とおもえてくる。

なにしろ、「王子さま」の売りは、その素直さであり頑固さなのであるわけだし、そしてまた彼は物語の主人公として多分に成長の余地を残しているキャラクターなのだ。彼が「大人って、へんな人ばっかりだ!」と言っては断罪してしまうような態度をとったり、「君たちはありきたりのバラに過ぎない」などと平気で言い放ってしまえるのは、生来の残酷さをオブラートに包むことを知らない、悪い意味での子供っぽさの表出だと言っていい。自分の興味のあることだけが「大事なこと」だと平然と言ってのける「王子さま」は、イノセンスの塊ではあるにしても、決して完璧な人格者などではないのだ。

 ***

そして、「王子さま」のそんなラディカルさ、いささか潔すぎる性格を緩和する役割を果たしているのが、語り手の「僕」だということになるだろう。「僕」は、一向にこちらからの質問に答えず、自分の聞きたいことばかり聞いてくる身勝手で子供っぽい「王子さま」に対して、(それまでに登場した「大人」たちとは異なり)理想的な「大人」としてふるまってみせる。それは、「僕」と「王子さま」の精神的な類似性――「大蛇ボア」のなかの「象」が見える、というような――が自然とそうさせた、と説明づけることもできるだろうし、「自分のことを、他人はちっとも理解してくれない」と感じている、そんな孤独な魂同士が共鳴し合ったから、と言ってみることもできるだろう。あるいは、「王子さま」は子供時代の「僕」の分身/幻影のような存在であるからだ、とかんがえてみてもいいかもしれない。

「じゃあきみも、ほんとにのどが渇いてるの?」僕はたずねた。
だが王子さまは、答えなかった。そしてただこう言った。
「水は、心にもいいのかもしれないね……」
僕は意味がわからなかったが、口をつぐんだ……王子さまにあれこれ聞いてはいけないことが、よくわかっていたからだ。
王子さまは、疲れていた。すわりこんだ。そこで僕も、そばにすわった。しばらくしんとしたあとで、王子さまがまた言った。
「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね……」
僕は「ああ、そうだ」と答えると、あとはもうなにも言わずに、月に照らされたやわらかな砂の起伏を見つめた。(p.115)

「地球の人たちって」と王子さまが行った。「ひとつの庭園に、五千もバラを植えてるよ……それなのに、さがしているものを見つけられない……」
「見つけられないね」僕は答えた……
「だけどそれは、たった一輪のバラや、ほんの少しの水のなかに、あるのかもしれないよね……」
「ほんとうだね」僕は答えた。(p.121)

「王子さま」と「僕」との対話は、ほとんどが一方的な「王子さま」の独白のようでもあるけれど、たぶんそうではない。「王子さま」は、やはり、彼の話をきちんと聞いて、受け止めてくれる「大人」というものを必要としていたのではないか。自分の心の内をさらけ出し、吐き出すことで気持ちを整理し、本当に大事なことが何なのかを再確認する。そして、そんな自分のかんがえを静かに聞き入れ、受け入れてくれる存在にゆだねる。そうすることでようやく、「王子さま」の決心――バラのために星に帰る選択をする――は彼自身にとって本当に意味のあることになったのではないか。上の引用部のようなところを読んでいると、俺にはそんな風におもえてくるのだ。

つまり、「王子さま」の成長の最終ステップは、(彼がどの程度自覚していたかはわからないけれど、)自分のかんがえを他人に伝え、理解してもらう、ということにあったのではないか。それによってはじめて、彼のふるまいは一人よがりなものでなくなったのではないか。また、「王子さま」の前で「僕」を理想的な「大人」たらしめているのは、人の話に静かに耳を傾け、それを受け入れる能力だったのではないか。そうかんがえてみると、なかなかしっくりくるような気がするのだ。

 ****

…ずいぶん長くなってしまった。俺のとりあえずの結論としては、以下のような辺りに落ち着くことになりそうだ。

  1. 「王子さま」は「子供」の代表ではない。
  2. 「王子さま」の一途なパーソナリティは魅力的ではあるが、それは完璧ということとは違うし、彼は理想的な人間/理想的な子供として描かれているわけでもない。
  3. 「僕」と「王子さま」との対話には、「大人」と「子供」の間における理想的なコミュニケーションの一様態が表されている。
  4. つまり、本作の美しさは、”過去を振り返ってみたときに発生するノスタルジア”だけにあるのでない。それだけではなくて、「王子さま」が「僕」との対話を通して成長し、その上で最終的な決断を下すというところにもまた、見落とすことのできない美しさがある。

こうやってまとめてみるとずいぶん当たり前で面白みのない結論だし、やっぱり、”3.”と”4.”はちょっと無理がある気もするけれど、多少はすっきりできたかな、とはおもう。いや、もちろん、他にも読み方はいくらでもあるだろうし、とくにこれが「正しい」「正解の」読み方だみたいな主張をするつもりもない。こんな風にかんがえると、俺が(その1)で書いたような違和感にはある程度説明がつけられるし、まあそれなりに納得感がある、というだけのことだ。…いやー、それにしても、なかなか難しい本だね、これは。


『「星の王子さま」物語』/稲垣直樹

『「星の王子さま」物語』/稲垣直樹

前回前々回のエントリで取り上げた『星の王子さま』解説本はどちらも物足りなかったので、図書館からさらに5,6冊、同系統の本を借りて来て、ひと通り読んでみた(今年のGWは、ほとんどこれで終わってしまった…)。基本的にどの本でも、「作品の書かれた背景」、「作中で利用されている技法」、「メタファーの解説」、「扱れているテーマとその受容のなされ方」、「サン=テグジュペリの他作品との比較」などといった内容が扱われていたのだけれど、これは!っていうような提言のなされているものはほとんどなかったし、そもそもテキスト読解自体が粗雑なものも結構多く、はっきり言って質の低いものが多いように感じられた(なかには、読者をなめてるだろこれ、というようなレベルの本もあった)。また、全体的な傾向として、伝記的事実に依拠し過ぎな作品読解が多いようにもおもえた。うーん、残念。

まあそういうわけで、読んだ量のわりに得るところのあまりなかった『星の王子さま』解説本たちだったけれど、この『「星の王子さま」物語』は情報がぎゅぎゅっと凝縮してまとめられているところが素晴らしいし、新書だから値段も安いしで、どれか一冊だけということなら、ひとまずこれがおすすめと言えるのではないかとおもう。

 *

本書は、平凡社ライブラリーで『星の王子さま』の新訳を出している稲垣直樹による、『星の王子さま』とサン=テグジュペリに関する解説本だ。『星の王子さま』本体に関する分析はもちろん、サン=テグジュペリに関する伝記的事実、その他の長編作品に関する考察なんかもひと通り行われているし、基礎知識を得るためにはじゅうぶんな一冊になっている。ひとまず、『星の王子さま』周辺の情報をざっと知りたい、ということであれば、本書はそれに相応しいだろう。(特に、第四章「文体とナレーションの技法」では、原典”Le Petit Prince”の文章における時制の特徴について詳細な解説がなされており、内容が濃い。)

他の解説本にまったく登場しない独特な内容としては、おまけのようにつけ加えられた感じの、第十一章「日本へのインパクト」が挙げられる。ここで稲垣はごくあっさりとではあるが、サン=テグジュペリ及び『星の王子さま』の宮崎駿への影響について語っており、なかなか興味深かった。

たとえば、『天空の城ラピュタ』のエンディングテーマ、”君をのせて”の歌詞(宮崎駿が書いている)が、『星の王子さま』を想起させる、なんて話。

「あの地平線 輝くのは どこかにきみを かくしているから」
「たくさんの灯が なつかしいのは あのどれかひとつに きみがいるから」

『星の王子さま』を読んだ人なら、おお、言われてみればたしかに!影響っていうか、もうそのままじゃんね!っておもえるだろう。


『星の王子さまとサン=テグジュペリ 空と人を愛した作家のすべて』

星の王子さまとサン=テグジュペリ 空と人を愛した作家のすべて

ムックというか、編集本というか、まあそういった感じの一冊。「『星の王子さま』をめぐって」、「サン=テグジュペリ、その人となり」、「サン=テグジュペリの仕事」、の3章構成になっており、全部で18人の書き手の文章が収められている。情報量はそれなりに多いけれど、正直言って、全体的なテキストのレベルは微妙な感じだ(なぜこれを再録する?っていうようなクオリティの文章がちらほら含まれている)。『星の王子さま』のテキストを読んだ上での所感・感想、というようなタイプの文章は、冒頭に収められている小原信の「『星の王子さま』について」くらいだったので、それについて軽くメモを取っておく。

小原の主張も、大筋は『星の王子さまの世界 読み方くらべへの招待』の塚崎と同じようなものだと言っていいだろう。『星の王子さま』で扱われている問題は、既に過ぎ去った子供時代のものなどではない。『星の王子さま』を読むと、誰しもが子供時代へのノスタルジアを感じ取り、ああ、あのころはピュアだったよね…純粋だったあの頃をおもい出させてくれてありがとう、なんて言って本を閉じてしまうわけだけれど、そんな読み方はぜんぜん「大人」ではない。ノスタルジアを嗅ぎとって、よかった、いい本だった、といって終わらせてしまうのではなく、「王子さま」の問題意識をアクチュアルなものとして、いままさに自分がその渦中にいる問題として、かんがえ続けていく必用があるはずだ…というようなことである。

まあそれはわかる。それはわかるのだが、じゃあ「大人」ならば、どうかんがえていけばいいのか?まず、あなたはどうかんがえているのか?ということになると、小原の結論はずいぶんあやふやものになってしまう。

じぶんはかつて子どもだったが、いまはもう子どもではない。そうおもうだけで、じつはまだ大人になっていないということがわかっていないひとが多すぎるのだ。
そういうひとは、ここで、いのちあるものの持つ、弱さ、不安、よるべなさを認めて、あえてそこに、踏みとどまる必要がある。
大人にはそれらをもうすぎた過去のこととして、おさらば、できているわけではないのだ。
きょうもまた、新しい問題を前にしてとまどい、ほほえむのだが、そこにひとを惹きつけるあどけなさやひかりがみつかれば、それでいいということなのだ。
少なくとも、重荷はすべて取り払われてしまったわけではない。(p.13)

大人というのは、きょう何とか凌げたとしても、その問いがまだ終わらない時間を生きていくひとである。
それらのことが、もはや過去のこと、もう済んだこととして済ませてしまえるのではなく、まだ進行中の問題として、渦中のなかに依然として身をおく覚悟をとりつづけながら生きるひとである。
そうして、あすまた、次の新しい問題に対決しなければならないのである。
それゆえ、いまかかえている問いから目をそむけず、踏みとどまること、耐え凌いでいく力をもつことが肝要なのである。そこに問題が潜んでいることを知りながら、大人として、そこから目を背けることなく、見据えながらも、いままた新たに生きていこうとする。(p.13)

こういう言い方は、それなりに「文学的」なのかもしれないけれど、内容と言えるものがほとんどない。『星の王子さま』で扱われているテーマはあなたの問題でもある、決してあの本は過去を懐かしむだけのキュートな一冊ではないんですよ、しっかりと向き合いなさい、と言っているだけだ。でも、そんなのは本を読めば明らかなことだ。聞きたいのは、そのもう一歩先の話だよ!とおもってしまった。


『星の王子さまの世界 読み方くらべへの招待』/塚崎幹夫

『星の王子さまの世界 読み方くらべへの招待』/塚崎幹夫

前回のエントリで書いたように、俺は『星の王子さま』をどうもうまく読めていないな…というおもいが拭えなかったので、この本を手にとってみた。タイトルの通り、『星の王子さま』を精読し、作品理解を深めましょう、という一冊だ。物語の細部についていちいち突っ込んだ検討が行われているので、読書中に何かしらの疑問を持った人は、かんがえるためのヒント集として本書を役立てることができるんじゃないだろうか。

…とはいうものの、本書でなされている作品解釈は、正直ちょっと駆け足すぎるものが多いように感じられた。冒頭のエピソードで描かれる、「ゾウを呑み込むウワバミ」が、当時のドイツの軍事行動を指している(どちらもまさに6ヶ月おきに起こっている!)だとか、3本のバオバブは日本・ドイツ・イタリアを表している(早めに芽を摘んでいなかったがために、いまや地球は危機に貧しているではないか!)だとか、風刺される6つの星の大人たちの描写はそれぞれ政治家やら芸術家やらを表象するもので、その描写には大戦期の大人たちの無力さや無関心、身勝手さへの怒りが込められているだとか、王子の星に咲く一輪のバラはサン=テグジュペリの妻、コンスエロを彷彿とさせるだとか、死を賭してバラのために星に帰ろうとする王子のふるまいは、本書を書き終えた後のテグジュペリ自身の行動ともぴったり合致する(彼は、故国フランスのために飛行機での出撃を繰り返し、ついに帰還しなかった)…なんてことをハイペースで言い切られてしまうと、ウェイウェイウェイウェイ、ちょっと待っておくんなさいよ、って気分になってしまう。

塚崎の「解釈」が全体的に誤りだとか、どれもこれも無意味な決めつけに過ぎない、と言うつもりはないけれど、なかなか強引なところはあるようにおもえるし、そもそもこういった、「AはBを表している」、「CはDの象徴である」式の「解釈」というのは作品を貧しくしこそすれ、豊かにすることはほとんどない、というのがまあ俺の意見である。

とはいえ、他人の読解の仕方について理解を深めようとおもうのならば、心を落ち着けて読んでいくのが肝要だ。なにしろ、本を読む上でもっとも大切なのは、ここには真実が書かれている、真理が書かれている、本当のことが書かれている、と信じることなのだ。まずは信じることからはじめなければ、豊かな実りが得られることはまずないし、信じることで得られるものの方が、疑って斜めに構えていることで得られるものよりも有意義なものなのだ、大抵の場合は。

そんな風に自分に言い聞かせ、冷静になって本書の主張を整理してみると、その肝の部分は、「『星の王子さま』は子供や童心を神秘化するものでもなければ、その純粋さを何の理由もなく讃えようとするものでもない」、という辺りになりそうだ。子供や子供的なるものを賛美するためのあいまいな言葉によって、多くの作品解釈・理解がきわめて底の浅い、大雑把なものになっている、というわけだ。これは、俺にとってはちょっと興味深い指摘である。なにしろ、まさしく俺の前回のエントリは、そういった「子供の心の美しさ、素晴らしさの賛美こそが本作の主軸となっている、という読み方に対して異を唱えようとする人はそうそういないだろう」、というかんがえを前提としていたからだ。

塚崎は、こんな風に語っている。

わたしはいまこの書物を、現下の世界の危機にどこまでも責任を感じて思いつめる一人の「大人」の、苦悩に満ちた懺悔と贖罪の書であると受け取っている。他方、人びとのいっているところから判断すると、彼らはこの書物を逃避か、免罪か、ナルシシズムの書物と、どうやら理解しているらしく思われるのである。
「童心教」とでも名づけるべき信仰が、怠惰な精神と共謀して、あえていわせていただくならば、作品そっちのけのこのいい気な読み方をはびこらせているように思える。実際、「童心」という、あいまいで神聖なことばを恭しく唱えておきさえすれば、あらたかな偶像『星の王子さま』から、手に入れることができない承認と免罪符はない、というかのようなぐあいにことが運ばれている。(p.4,5)

汚れのない「童心」をもちつづけていた著者は、人びとの心のなかに生き残っている「童心」に訴えることを期待して、この書物を書いたのだという説明も同様に好評を得ている。この場合、重点はもっぱらわれわれに残っている「童心」というところに移される。この手続きによって、厚顔な錯覚にすぎなくても、「童心」が残っていると申し立てることができるかぎり、だれでも容易に自分を著者のがわに置くことができることになるからである。ほかならぬ当人が告発されているのだが、他のものに罪を負わせることさえできるようになるのである。
この書物に無邪気に感動したふりを装うだけで、心で見なければ見えないという肝心かなめのものを、自分だけは読みとりえたような気分にもなれるのだからこたえられない。(p.5,6)

彼らが動揺を見せないでいるのは、子供向けの本である以上子どもを賛美したものでないはずはない、という信念に支えられているからである。彼らは、この書物の啓示を先どりして伝えているつもりで、子供そのもの、子供時代、子供に属するものを、手当たりしだいに最も断固として称えることに熱中している。しかし、彼らには気の毒だが、サン=テグジュペリには子供を無条件に礼賛するルソー的趣味はない。(p.26)

前回のエントリで、俺は『星の王子さま』で描かれているのは、「汚れっちまった大人への嫌悪感」であり、「大人が子供時代を振り返ってみたときにだけ見出すことのできる、純粋な子供というイメージの美しさに対するノスタルジア」だとおもえる、と書いた。俺はどうやら塚崎言うところの「厚顔な錯覚」からは逃れているようだけれど、かといって、彼のように「一人の「大人」の苦悩に満ちた懺悔と贖罪」を感じ取れたわけではない。塚崎の”子供礼賛派”への攻撃はとどまるところをしらないけれど、まあそこは置いておくとして、では、「懺悔と贖罪」に繋がる要素はいったいどんなところにあるのか。

「王子さま」の最後の決断について、塚崎はこう述べている。

安全なところできれいごとをいうだけなら、だれにでもいえる。危険を十分に知り、こわさに思わず後ずさりしながら、しかし自分自身との戦いに勝って、自分に責任のあるバラのところへ帰っていった王子の姿は、想像しうる最もりっぱな生き方であると飛行士には思われた。/飛行士は最高の友人、人間のなかの真の人間を失ったことを知る。王子は、逃避的大人が都合のよい愛玩物として思い描くような子供ではない。(p.46)

私は『星の王子さま』を読み返すたびにいつもしみじみと思う。<もう読み飽きるほど読んだはずのこの本を読み返して、ぼくは相変わらず涙が出るほど感動してしまうのだが、それも、この本が単に詩的、哲学的、文学的にすばらしいというだけの本ではなく、この本のなかには作者の死の決意と、親しい人たちへのひそかな訣別が秘められているからなのだ。死の決意に裏づけられた、人類の未来への懸命な祈りの書だからだ>(p.61)

なるほど、この主張にはなかなか説得力があるようにおもえる。なにしろ、『星の王子さま』という作品が感動的なのは、「王子さま」の最後の決断が、まさにこれしかない、と感じさせるような決断であるからなのだ。塚崎の意見からすれば、『星の王子さま』に書かれているのは、逃避や免罪符やノスタルジアの生暖かい感覚などではない、人間としての責任を引き受けるということの重みであり、その人生を懸けた決断の力強さなのだ、ということになるわけだ。おそらく、この作品の物語から、暖かさや優しさの要素ばかりを汲み取ってばかりいると「厚顔な錯覚」をするように、「王子さま」の最後の決断の重大性に意識を向けると塚崎のような感じ方になる、ということなのだろう。


『星の王子さま』/アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(その1)

『星の王子さま』/アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

およそ10年ぶりに再読。世界的大ベストセラーの本作は、形式こそ童話であるけれど、完全に大人に向けて書かれた、大人のための物語だ。子供がこれを読んでも、ほとんどおもしろさを感じることはできないんじゃないか…とすらおもえてしまうくらい、作品の目線は大人の方を向いている。有名な冒頭の献辞で、サン=テグジュペリはこう書いている。

この本を、こうしてひとりのおとなにささげたことを、子どものみなさんは許してほしい。なにしろ大事なわけがある。この人は、この世でいちばんの僕の親友なのだ。もうひとつ。おとなだけれど、なんでもわかる人なのだ。子どものために書かれた本でさえ。(p.5)

それでもみなさんが納得してくれないなら、この本は、昔子どもだったころのその人に、ささげるということにしたい。おとなだって、はじめはみんな子どもだったのだから。(でもそれを忘れずにいる人は、ほとんどいない。)(p.5)

本作は、「子どものために書かれた本」のような体裁をとっているけれど、やっぱり、「子ども」に向けて書かれてはいない。サン=テグジュペリはこれを、あくまでも「かつて子どもだった、大人」に向けて書いているのだ。

…さて、そんな大人向け童話であるところの『星の王子さま』が、きわめて完成度の高い、古典としての風格をじゅうぶんに持った作品だということに異論のある人はそうそういないだろう。なにしろ、作中で提示されるイメージがいちいち非常に鮮明で、そのどれもが読者に忘れがたい印象を残すのだ。「王子さま」の星や、そこに咲くただ一輪のバラ、「僕」が描いた羊や、バオバブの木、砂漠に沈む夕日など、童話というフォーマットを選択することで余計な装飾が省かれているためか、どのひとつをとっても、剥き出しのまま迫ってくるような力強さを持っている。「僕」と「王子さま」の別れのシーンなんかは非常に感動的だし、同じ砂漠の場面を描いた2枚のイラストなんて、うるっとしてしまうほどだ。

ただ、俺としては、今回再読しているあいだじゅう、どうも違和感というか、妙な居心地の悪さのようなものを感じてしまって。この場を使って、ちょっと自分のかんがえを整理してみたいとおもう。

 *

本作で描かれるのは、「王子さま」を代表とする子供の素直さや純粋さの美しさ、そのかけがえのなさだと言っていいだろう。「かつて子どもだった、大人」であるところの読者が心打たれるのは、「王子さま」の心の持ちようがきわめて純粋であるためだ。その純粋さとは、大人が「以前、自分もそのような純粋さを持っていたことがあるような気がする」ような、あるいは、「大人になってしまったいまとなっては、決して取り戻すことが叶わない、と感じられる」ような純粋さだ。ここまではひとまず間違いのないところだろうし、もちろん、俺としても、そんなテーマ、方向性をことさらに非難しようとはおもわない。

ただ、それを描くために、いちいち大人を身勝手なもの、滑稽なもの、醜いものとして「王子さま」に対置させるっていうのは、ちょっといただけないよな、フェアじゃないよなー、と正直おもってしまって。「王子さま」が地球にやって来る前に訪問していた、6つの星の大人たちの描写や、「王子さま」が「おとな」を非難する口調なんかからは、なんていうか、汚れっちまった大人への嫌悪感がひしひしと伝わってくるようで、やりきれない気分になってしまったのだ。

「おとなみたいな言い方だ!」
僕は、少しわれに返って、恥ずかしくなった。でも容赦なく、王子さまは続けた。
「きみはごちゃ混ぜにしてる……大事なこともそうでないことも、いっしょくたにしてる!」
王子さまは、本気で起こっていた。風にむかって、金色に透きとおる髪を揺らしながら。
「ぼく、まっ赤な顔のおじさんがいる星に、行ったことがある。おじさんは、一度も花の香りをかいだことがなかった。星を見たこともなかった。誰も愛したことがなかった。たし算以外は、なにもしたことがなかった。一日じゅう、きみみたいにくり返してた。『大事なことで忙しい!私は有能な人間だから!』そうしてふんぞり返ってた。でもそんなのは人間じゃない、キノコだ!」
「え?」
「キノコだ!」(p.37,38)

子供の素直さや純真さを称揚するのは簡単だし、また、それらを失くしてしまった大人を非難するのも簡単なことだ。でも、大人になってもそれら「大切なこと」を忘れないで、いつまでもおぼえているためには、おもい出すためには、どうすればいいのか?はたして、そのような大人は存在するのか??という疑問には、この物語はまるで答えようとしていないんじゃないか、って俺はおもってしまったのだった。もしそうであれば、『星の王子さま』が描いている美しさというのは、大人が”素直で汚れのない子供時代”という過去の幻影を振り返ってみたときに生じる、ノスタルジアの美しさにしか過ぎないんじゃないか?それはたしかに強く心を揺さぶる力を持っているのだろうけど、でもそういうのってなんていうか、物語の力を十分に活用しているとは言えないんじゃないか??…そんな風におもってしまったのだった。「大切なこと」を忘れてしまった大人に無垢な「王子さま」を対置する、って、構図としてはわかりやすいけれど、ちょっと説教臭くない?独善的な感じがしない?って。

 *

…まあ、だいたいこんな風に俺はかんがえたのだったけれど、どうもこの読みは生ぬるい、というか、この本の芯のところを捉えられていないような気がしてしょうがない。だいたい、子供の純真な心ってステキ、ってだけの本であれば、これほど評価されるはずがないのだ。


Calendar

2015年10月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

Archive