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『イー・イー・イー』/タオ・リン

イー・イー・イー

大学を無事に卒業して一度はちゃんと就職したもののすぐに辞めてしまい、ドミノ・ピザでだらだらと働きながら、いかんともしがたい倦怠感や寂しさ、ネガティブ感をいつもいつももてあましているフリーターのアンドリュー@フロリダの物語。

物語といっても大したストーリーがあるわけではなく、基本的には彼の退屈な日常やぐだぐだな妄想が描かれているばかりなのだけど、そこにまったく唐突に熊やらイルカやらが登場してくるところがおもしろい。熊にイルカって言っても別にファンタジーな話になっているわけではなくて、彼らの役どころはいわゆるポストモダン的なインチキっぽさやシュールさを引き立てるところにあるような感じ。

熊もイルカもアンドリュー並にネガティブで厭世的なキャラクターではあるものの、彼らと出会うことでアンドリューの何かが大きく変化する、みたいなことはぜんぜんない。外部からの刺激は人を変えるきっかけにはなるかもしれないけれど、結局のところ人は自分自身で変わろうとしなければ決して変わらない、なんて事実を突きつけてくるようなちょっとシニカルな視線が常にあって、それが作品に乾いた味わいを与えている。

ウェイトレスがやって来る、二人の高校の時の同級生だ。アンドリューは彼女の名前が思い出せない。三人は互いに知らないふりをする。二人はさっさと注文し、彼女は戻っていく。彼女は前より太っている。そしてデニーズで働いている。彼女の人生は終わりだ。デニーズで働いているのがサラだったら、アンドリューは微笑んだかもしれない。アンドリューはドミノ・ピザで働いている。ピザハットのエッジが利いている版だ。辞めなくては。仕事みたいに人生も辞めてしまいたい。彼は人生が終わっている人々についての小説を書いていた。自殺はしない。誰も殺さず、バンドも始めず、自殺もしない。(p.44)

ただ、作品全体として皮肉っぽくありつつも、ネガティブの螺旋のことならよくわかってる、そういうのってみんなやっぱりあるんだよね、っていう温かな共感のトーンも同時にあって、時折こんなぐっとくる文章があったりもする。

その年、イルカたちは始終頭が重くて、横になりたがってばかりいた。横になってみても、何というか心理的には頭が重いままだった。人前で悲しみに襲われることもあった。そんな時はトイレの個室に逃げ込み、自分を抱きしめてひそかに鳴いた。「イー・イー・イー」週末になると、公園にひとりぼっちで出かけていった。イルカたちは滑り台のてっぺんに――カラフルに光るプラスティックに四方を囲まれた孤独な場所に腰かけていると、気持ちが研ぎ澄まされていくのと同時に、やるせなくて子どもになったみたいな気がした。そのまま居眠りをして、子供連れの母親にホウキで突き落とされ、眠ったまま滑り落ちていくこともあった。地面に到達すると恥ずかしくなり、家に帰ってベッドで横になった。悲しむことが運命づけられた年なのかもしれないと思うと、イルカたちはさらに悲しくなったが、うちひしがれ、へこみつつも、少し気分が楽になった。人生とは悲しいものなのだから、一度心ゆくまで味わうことも美しきかな。一年くらいは悲哀を受け入れてみよう。週末の夜はしょっちゅうそんなことを思って、夢を見ているような、そよ風に吹かれ、草原に咲いているピンクの花がイルカの夢を見ているような気持ちになった。この悲しみはまるで分け入るごとにまばらになるピンクの森のようで、しまいには何もない草原になり、イルカはそこをひとりぼっちで歩いていくのだ。(p.108,109)

地球とは岩に過ぎず、太陽は燃えている岩であり、人生とは小規模の災難で、調査や打開の対象となるには小さすぎるが、自然に消えてなくなってしまうほどには小さくはないものである。だから、消えゆくかすかな光の靄や、ドアや美しい顔の数々の中に人生は残っているのだ。(p.161,162)

正直言ってそんなによくできた作品だとはおもわないのだけど、俺はどんよりと落ち込んでいた時期に読んだものだから、ところどころでずいぶんぐっときてしまった。これはきっと、なんだかいろんなことがうまくいかなくてしょっちゅう鬱々と落ち込んでしまうアンドリューみたいな奴のための物語で、だから作品全体のクオリティはともかくとしても、俺はこういう小説がすきになってしまう。


『ザ・ロード』/コーマック・マッカーシー

ザ・ロード

何らかの理由によって破壊しつくされ、荒廃しきった近未来の世界を舞台に、父と少年、2人のあてのない旅のようすが描かれる。マッカーシーの小説ってわりと宗教的っていうか、神とか運命のような人知を超えたところにある力について触れられていることが多いとおもうのだけど、SF的な設定の今作は、近未来の神話のような形の物語になっている。

植物は枯れ、数少ない生存者は略奪や殺戮を繰り返し、空を覆う灰によって太陽の光すら失われた世界をとぼとぼと歩き続ける親子には、何の希望も与えられていない。明日の食料を見つけられるかもはっきりしなければ、寒さに凍えてしまうかもしれないし、いつ追い剥ぎや人肉を喰らう野蛮人の襲撃を受けるかもわからないわけで、小説内の描写や会話はおしなべて暗く、どんよりとしている。一文一文には詩的な美しさもあるのだけど、そこにはことごとく絶望って気分が押し込められているようで、読んでいてなんとも息苦しくなる。

この道には神の言葉を伝える人間が一人もいない。みんなおれを残して消え去り世界を一緒に連れていってしまった。そこで問う。今後存在しないものは今まで一度も存在しなかったものとどう違う?(p.29)

親子2人に与えられているのはそんな光のない世界であり生であるわけで、だから彼らはもう死んだほうが楽に決まってる、もう死んでしまいたい、と何度もかんがえる。だが彼らが自らの手で命を断とうとすることは、最後までない。それはなぜか?っていうのが、俺が小説を読んでいて何より気になったことだった。状況はあまりにも彼らに不利過ぎるし、希望のかけらも、希望の残りかすすらもこの世界には存在していないようなのに、なぜだろう?未来への希望がまったくないところでも、人は生き続けることができるのだろうか??

明確な答えなどあるはずもないのだけど、彼らがその極限状況の旅路のなかで保ち続けている、”火を運ぶ”というイメージがそのひとつのヒントになっているようにはおもえる。

パパと一緒にいたいよ。

それは無理だ。

お願いだから。

駄目だ。おまえは火を運ばなくちゃいけない。

どうやったらいいかわからないよ。

いやわかるはずだ。

ほんとにあるの?その火って?

あるんだ。

どこにあるの?どこにあるのかぼく知らないよ。

いや知ってる。それはお前の中にある。前からずっとあった。パパには見える。(p.252,253)

“火”とはいったい何なのか。ここで父親は、お前のなかにある、パパには見える、なんて断定してはいるけど、じっさいのところ彼に”火”が見えているわけではない。どんな比喩的な飛躍をもってしても、そんなもの――人を温めてくれるもの、赤々と燃え上がるもの、生命力に満ちたもの、ものを動かす原動力になるようなもの――を見出せるような状況ではないのだ。それでも、彼は何度も何度も少年に言い聞かせる。あきらめちゃだめだ、泣いたらだめだ、もう死ぬなんておもったらだめだ、と。

彼の言葉には、自分自身を鼓舞するための試み、自分に対する言い聞かせ、といった意味合いがあったに違いない。けれど、そこには同時に、神無き世界における、やぶれかぶれな信仰の形があるようにも感じられる。いや、信仰というよりは信念というか、不安と苦痛に満ちた真っ暗な道を照らすためにどうしても必要な何かを探そうとする意思、それなしではやっていけない生きるよすがのようなものを言葉で無理やりながら産み出そうとするおもい、とでも言ったらいいだろうか。

そんな意志、そんなおもいを運ぶことができる、あるいはそれを誰かに受け渡すことができるかもしれない、と未来も希望も根拠もないところでとにかく信じてみること、それがこの冷たく灰に覆われた世界を照らす唯一の”火”になっているんじゃないだろうか。そして、それは逆にかんがえれてみれば、”火”を完全に見失ってしまったときにこそ人は自らの命を断とうとする、ということであるのかもしれない。


『流れよわが涙、と警官は言った』/フィリップ・K・ディック

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

タイトルのかっこよさに負けず劣らず、内容もじつに素晴らしいディックの74年作。ある朝、TVスターの男(ジェイスン・タヴァナー)が目を覚ますと無名の一般人になっていた、っていういかにもSF的な世界の話であり、その男を追う警察本部長(フェリックス・バックマン)が愛を見出していく、きわめてセンチメンタルな物語でもある。ディックのハードな人生のなかでも相当に辛く苦しい時期に産み出された一作らしく、物語全体が陰鬱で不安げなトーンに包まれている。

雰囲気がなんだか不安げなのと同様に、この小説は構成そのものもふわふわとしていて、おぼつかない感じがある。物語を牽引していく主人公は第一部の主人公たるタヴァナーのようなのだけど、読み進めていくうちに主題が少しずつバックマンの方へとずれていってしまうのだ。それはしかし、構成がうまくいっていない、ということではない。そうではなくて、2人の視線が交錯するカオスのなかでそのどちらもが相対化されるというか、もやもやとした不安定な物語のなかから2人が抱えるやっかいさのその双方ともを抱き止めるような情感が溢れ出てくるようになっている。

そんな暗くおぼつかない物語世界のなかで取り扱われているのは、まあ端的に言って、愛の問題だ。

作中において、愛とはいつか必ず失われるもの、あるいは、損なわれ、失われてからはじめて見出せるもの、として扱われている。人は誰かを愛し、また、愛されるかもしれない。時間をかけて自分と他者とのあいだに気持ちを繋げるための橋のようなものを架けることができるかもしれない。そうして自分のこと以上に相手のことを大切におもったり、相手の感情を自分のものと同じくらいリアルに受け止めることができるようになるかもしれない。だが、それはいつか必ず失われるのだ。どのようにして形作られた愛であっても、最後には何も残らない。消えてしまう、まるではじめから何もなかったかのように。

「だれかを愛し、やがて彼らは去る。ある日家に帰ってきて、身のまわりのものを荷づくりしはじめる。そこできみはきく。”いったいどうしたの?”って。彼らは”ほかにもっといい話があるんでね”そう言ってきみの生活から永遠にさようならだ。それからあと死ぬまできみは与える者はだれもいないのにその大きな愛情という塊りを抱えてまわるのさ。そしてもしその愛情を注ぐ相手が見つかったとしても、同じことがもう一度起こるんだ。」(p.180,181)

「愛していなければ悲しみを感じることはできないわ――悲しみは愛の終局よ、失われた愛だものね。あんたはわかってるのよ、わかってると思うわ。でもあんたはそのことを考えたくないだけなの。それで愛のサイクルが完結するのよ。愛して、失って、悲しみを味わって、去って、そしてまた愛するの。ジェイスン、悲しみというのはあんたがひとりきりでいなければならないと身をもって知ることよ。そしてひとりきりでいることは、生きているものそれぞれの最終的な運命だから、その先にはなにもないってことなの。死というのはそういうことなの、大いなる寂寥ってことよ。」(p.183)

それはどうしようもなく寂しいことだし、辛いことでもあるけれど、でもそれはやはりどうしようもないくらいに真実なのだ。物語の最後、そのことに気づいたとき、警察本部長のフェリックス・バックマンは失われたもののために涙を流すことになる。

男が泣くのはなぜか?/男はなにかが、生きているなにかが失われたときに泣くのだ。病気の動物が、もう回復の望みがないと知ったときに泣く。子供の死。男はそのためにも泣くことができる。しかし、物事が哀れをさそうからではない。

男は未来や過去を思って泣いたりはしない。現在を思って泣くのだ。それでは現在とはなんだ?(p.346)

自分のしっている現実を失ったタヴァナーと、愛するものを失ったバックマン。2人が対置されることによって、愛というもののはかなさ、生きることの寄る辺なさが映し出される。愛は必ず失われるが、愛がなければ生もまたない。失われるとわかっていてもなお求めずにはいられない、そんな人の姿をディックは慈しむように描き出している。


『移動祝祭日』/アーネスト・ヘミングウェイ

移動祝祭日 (新潮文庫)

パリで過ごした若かりし日々のことを回想しつつ綴った、ヘミングウェイの遺作エッセイ。奥さんとつつましいながらも幸福な暮らしを送っているようすや、パリの街の描写がもうひたすらに輝きまくっていて、とにかく眩しいとしか言いようがない一作だ。

ただ、作家たちとの交流や、小説を書くことについてのさまざまな試行錯誤なんかにもページの多くが割かれているのだけど、我が強く、プライドの高そうな主観たっぷりの文章はやっぱりいかにもヘミングウェイって感じで、身近にいたらきっとあんまり仲良くなれないんじゃないかって気もする――俺は作品のなかで人の悪口を言ったり、人間性を貶めたりするような作家が基本的にすきじゃないのだ――し、全体的に”いまにしておもえば~”的ノスタルジアが濃厚すぎるような気もして、ちょっとのりきれないところもあった。

けれど、だからこそ余計に、ヘミングウェイが言うところの”真実の文章”が立ち現れるようなその瞬間には、はっきりと熱が感じられる。たとえばこんなところ。

だが、ときには新しい短編にとりかかっても、先に進めない場合がある。そういうときは暖炉の前にすわって小さなオレンジの皮を絞り、汁を炎の先端にたらして、青い炎がはじけるさまを眺めてすごしたものだ。立ち上がってパリの街の屋根を眺めながら、こう自分に言い聞かせたこともある――”心配しなさんな。おまえはこれまでちゃんと書き継いできたんだ。こんどだって書けるさ。やるべきことは決まっている、ただ一つの真実の文章を書くこと、それだけでいい。自分の知っているいちばん嘘のない文章を書いてみろ”。で、私はどうにか一つの真実の文章を書き、そこからまた先に進む。あの頃、それはさほどの難事ではなかった。なぜなら、自分の知っている事柄、見たことがある事柄、他人が口にするのを聞いたことのある事柄を表現する真実の文章は、必ず存在したからである。(p.23,24)

あの、パパ・ヘミングウェイが、「あいつももう作家としてのピークは過ぎちゃったよねー」なんて周囲で噂されながらも(←たぶん)、自身の若い頃、創作のエナジーに満ち満ちていたころにおもいを馳せている。老いた身体に在りし日のみずみずしさをもう一度取り戻そうとでもするかのような、そんな気持ちの感じられる文章だ。「あの頃、それはさほどの難事ではなかった。」ってところには、ぐっときてしまう。

誰しもきっと、心のなかにずっと残っている暖かい記憶みたいな大切なものがあるとおもう。それを折に触れておもい出すことで、その温もりを感じることで、辛いときでもなんとかやっていくのだ。ヘミングウェイにとってのそんな大事な記憶っていうのはたぶん、若い日のパリでの時間だったんだろうなー、って感じさせる作品だった。そうかんがえると、主観たっぷりのこのエッセイが持つ輝きは、なんだかちょっと悲しい。


『老人と海』/アーネスト・ヘミングウェイ

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なんとなくヘミングウェイの文章が読みたくなって、実家から持ってきた文庫を開いた。もともとは親父の本なのだけど、妙なところに鉛筆で線が引いてあったりなんかして、ちょっとたのしい読書だった。

文章はあくまでもハードボイルドで、つまり登場人物が自分の内面を延々と語ってみたり、思索的な内容が直接に書かれたりすることはない。主人公である老人、サンチャゴのひとりごとや心理描写もごくシンプル。思考や感情をぐるぐると回してみせたり、言い訳がましいことを書いたり、っていうようなことも、もちろんない。とはいえ、それは叙情性、ウェットなところを引き立てるためのドライさである、っていうような部分は当然あって、だから時折見られるセンチメンタルな文章は独自の輝きを見せることになる。

とにかく風はおれの友だちだ、とかれは思う。そのあとで、かれはつけくわえる、ときによりけりだがな。大きな海、そこにはおれたちの友だちもいれば敵もいる。ああ、ベッドというものがあったっけ、とかれは思う。ベッドはおれの友だちだ。そうだ、ベッド、とかれは思う。ベッドってのはたいしたもんだ。打ちのめされるというのも気楽なものだな、とかれは思う、こんなに気楽なものとは知らなかった。それにしても、お前を打ちのめしたものはなんだ。

「そんなものはない」かれは大声でいった、「おれはただ遠出をしすぎただけだ」(p.110)

そうだな、打ちのめされるのなんて気楽なもんだよな、と俺もおもう。あと、ベッドってのがたいしたものだ、ってところにも強く賛同したい。

まあ、ものすごくすきな小説ってほどでもないんだけど、やっぱり上手いよなー、とは何度もおもわされた。巨大カジキと対峙するシーン、帰りみちのやるせない感じもちろんすごいんだけど、最初と最後のサンチャゴとマノーリンとの会話の場面が効いてるんだよなー。サンチャゴが海の上でひとり、「あの子がいたらなあ」、「あの子がついていてくれたらなあ」ってマノーリンのことをおもってひとりごちる場面がくる度に、俺はいちいち胸が締めつけられるような心地になっていた。そうだ、あの子がいてくれたら。あの子さえここにいてくれたら。


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