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『スローターハウス5』/カート・ヴォネガット・ジュニア

ヴォネガットの長編第6作目。作中、過去の作品の主要なキャラクターたちがたびたび顔を出していることからも明らかであるように、いままでの集大成といった趣の作品である。取り扱われるモチーフは、ヴォネガット自身が体験したという、第2時大戦中のドレスデン爆撃。この、語るための言葉を見出すのがきわめて困難な体験を小説という形態に落とし込むために、物語は”痙攣的時間旅行者”――自分の誕生と死とのあいだに存在するあらゆる時点に、自らの意志とは無関係にタイムスリップし続ける――なる体質の男、ビリー・ピルグリムを主人公に語られることになる。

そういうわけで、本作における物語の時間・空間の軸というやつはまったくもって一定しない。あるときは戦時中のドレスデン、あるときは現代のイリアム、またあるときははるか彼方のトラルファマドール星といった具合に、さまざまな時空におけるエピソードが、ぐちゃぐちゃな順番でいきあたりばったりに語られるのである。読者は、ビリー・ピルグリムと共に、あらゆる瞬間、あらゆる時間が同時に存在する、というよくわからない感覚を味わされることになるのだ。

あらゆる時間が同時に存在しているとなると、すべてのものごとは、いままさに発生している(と同時に、すでに起きてしまっている)、ということになる。だとすれば、その世界には何者による「意思」も入り込む余地などないのではないか?という疑問が浮かんでくるだろう。これに対し、作中、”すべての時間を同時に見渡すことのできる世界観を持った生物”であるところのトラルファマドール星人は、ビリー・ピルグリムにこう語っている。

すべての時間とは、すべての時間だ。それは決して変ることはない。予告や説明によって、いささかも動かされるものではない。それはただあるのだ。瞬間瞬間をとりだせば、きみたちにもわれわれが、先にいったように琥珀のなかの虫でしかないことがわかるだろう(p.104)

「もしわたしがこれまで多くの時間を地球人の研究に費やしてこなかったら」と、トラルファマドール星人はいった、「”自由意思”などといわれても何のことかわからなかっただろう。わたしは知的生命の存在する三十一の惑星を訪れ、その他百以上の惑星に関する報告書を読んできた。しかしそのなかで、自由意思といったものが語られる世界は、地球だけだったよ」(p.105)

われわれは瞬間瞬間において、琥珀のなかの虫でしかない。すべての物事はただそのようにあるのみで、それはもはやそのように決定づけられてしまっている、というわけだ。なんとも運命論的な考えかたである。

そのため、なかば必然的に、作中に登場するキャラクターたちは皆、このような特徴を持つことになる――。

この小説には、性格らしい性格を持つ人物はほとんど現れないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人びとの大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである。(p.194)

作中、執拗なまでにリフレインされる「そういうものだ。」(So it goes.)という文言は、すべてはすでに決定されており、変えることなどできない、という感覚のなかから、ほろりとこぼれ落ちるようにして発せられる台詞だといえるだろう。生きるとは、人間であるということは悲しいことだ。愚かなことだ。空しいことだ。 だがそれは、「そういうものだ。」と、ヴォネガットはほんの少しだけ微笑みながら、しつこいくらいに繰り返してみせるというわけだ。


「アウルクリーク橋の出来事」/アンブローズ・ビアス

アウルクリーク橋の出来事/豹の眼 (光文社古典新訳文庫)

米ジャーナリスト/作家だったビアスの、おそらくは唯一有名であるとおもわれる作品が、この短編、「アウルクリーク橋の出来事」だ。ある男が橋の上に立っている。周囲には銃を携えた兵隊が多くおり、男の首には縄がまかれている。どうやら彼はこれから絞首刑になるようだ…。という舞台設定のこの物語は、そこからほんの一歩だけ進んだところで唐突に終了する。たった10数ページのシンプルな短編だけれど、たしかにこれは、ほとんど完璧に均整のとれた、刃物の鋭さをもった作品であるようにおもう。*1

短編なのでやはり細かいポイントに目がいってしまうのだけど、ごく短い文章をテンポよく積み上げていき、ふとしたところでその足場を外してしまう、というようなところがうまい。たとえば、こんなところ。

男は目を閉じ、せめて妻子のことを考えて死のうとした。朝日が川の水を黄金色に染め、やや下流の岸辺に霧が這っていて、砦があって、兵隊がいて、流木が行く――というようなことがいまは邪魔になっている。そして、また一つ、よけいなことが気になった。妻子を思っていたい心の中に、割り込んでくる音がある。聞こえないことにはできないが、さりとて正体がわからない。高く響く音である。鍛冶屋の槌音のような、と言ってもよいだろう。いったい何なのだ。はるかに遠いのか、すぐ間近なのか、どちらにも聞こえる。規則正しく繰り返しているが、ゆっくりした鳴り方は弔鐘にも似ていた。一度なってから次に鳴るまでに男は焦れた。なぜか気がかりなのだった。音の絶え間がだんだん延びていくようで、その遅れが狂おしい。だが間遠になるほどに音は冴えた。ナイフの先で耳を突かれるようなのだ。叫び出しそうになるのが怖かった。このとき男が聞いていたのは、懐中時計の音である。(p.15,16)

途中から不意に文章のテンポが上がり、畳みかけるようにして男の感じる緊張と恐怖とが描き出されていくわけだけど、最後の一文、「このとき男が聞いていたのは~」には、きりきりと強まってきたテンションを不意に緩めるような、どこか突き放すようなニュアンスがある。はじめは”男”に寄り添っていたはずの視点が、最後に急に離れてしまうことで、不気味な余韻を響かせるのだ。結果、読者は空中に放り出されたような、肌がざわつくような不安を覚えることになる。

この、”緊張→放り出し”のパターンは、作中何度も繰り返される。本短編は3章立てになっており、各章の内容は、

・1章:首に縄を巻かれた男とその周辺のようす。男の心情

・2章:男が首に縄を巻かれるに至ったきっかけとおぼしき出来事の描写

・3章:男が死の直前に見た白昼夢→男の死

という感じになっているのだけど、各章の終わりはどれも冷徹かつ唐突で、最後の一文はどれも必ず上記のような寄る辺のなさ、心細さを醸し出すようになっている。「アウルクリーク橋の出来事」は、ビアスの他の作品に比べるとホラー的、幻想的な要素は少なめなのだけれど、こういったテクニックが、作品全体をどこか不穏で異様な、忘れがたいものにするのになかなか大きな役割を果たしているようにおもう。

*1:そうそう、先日読んだ『国のない男』のなかでも、ヴォネガットは、本作について、「まさにアメリカ的天才の完璧な見本で、デューク・エリントンの「ソフィスティケイテッド・レディ」やベンジャミン・フランクリンが発明した燃焼効率のいいフランクリン・ストーブに匹敵する。」(p.20)と書いていた。まあでも、これはさすがにちょっと褒めすぎなんじゃないかって気もする。


『国のない男』/カート・ヴォネガット

国のない男

先日見た、映画『ドラゴン・タトゥーの女』のなかに、ちらりと一瞬だけ『国のない男』が映し出されるシーンがあって(たしか、ダニエル・クレイグが家のなかで寒そうにしながら読んでいた)、あ、そういえばこの本、ずいぶん前に買ったのに、積読にしちゃってたな…とおもい出して手にとった。ここ数年、本を読むペースがものすごくゆっくりになってしまったせいで、家の本棚に占める積読本の割合がどんどん大きくなってきており、こういう機会に目についたものを読んでいかないと、なかなか未読の山が減らないのだ。

本作は、ヴォネガットの遺作となったエッセイ集。2005年、彼が82歳のときの作品だ。内容も文章も、いつものヴォネガット節――文明や環境破壊への批判、アメリカの現状への率直な怒り、皮肉っぽさと裏表にある愛情のこもったまなざし、決して下を向くことのない強さと全てを包み込んでしまうようなユーモア――で、ヴォネガットの代表作を読んだことのあるような人ならば誰でもたのしめるであろう一冊になっている。

ふせんを貼りたくなるようなページがいっぱいある本だったけれど、俺がとくにぐっときたのは次の一節。ヴォネガットのおじさん(「父の弟で、ハーヴァード出身で子どもがなく、インディアナポリスでまっとうな生命保険の営業をやっていた。本好きで、頭がよかった。」)の話だ。

おじさんの、ほかの人間に対するいちばんの不満は、自分が幸せなのにそれがわかっていない連中が多すぎるということだった。夏、わたしはおじといっしょにリンゴの木の下でレモネードを飲みながら、あれこれとりとめもないおしゃべりをした。ミツバチが羽音を立てるみたいな、のんびりした会話だ。そんなとき、おじさんは気持ちのいいおしゃべりを突然やめて、大声でこう言った。「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」

だからわたしもいま同じようにしている。わたしの子どもも孫もそうだ。みなさんにもひとつお願いしておこう。幸せなときには、幸せなんだなと気づいてほしい。叫ぶなり、つぶやくなり、考えるなりしてほしい。「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」と。(p.139.140)

「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」…そうおもうことでこそ、幸せを感じることができる。幸せだと感じることこそが幸せ、というわけだ。ものすごくあたりまえのことだけれど、これより大事なことなんて、そうそうないんじゃないだろうか?そう、不幸なふりなんて、している場合ではないのだ。

あと、上の引用部だけど、夏→リンゴの木→レモネード→ミツバチが羽音を立てるみたいな、っていう一連の語の繋がりが生み出すイメージが素敵すぎる。「これが幸せでなきゃ~」っていう言葉にストレートに向かっていく感じが、とてもいい。

そうそう、ちょっと話はずれるけれど、最近読んだブライアン・トレーシーの『フォーカル・ポイント』にも、こんな記述があった。

個人も企業も、ビジネスで成功をおさめる出発点は「価値観の明確化」にある。

幸せで満ち足りた瞬間とは、心の奥にある信念や価値観と、現実の生活とが一致したときにあなたに訪れる。

高い成果をあげる人々は、自分が信じることや意図することを自覚していて、これらの価値あるものから目をそらすことはない。

逆に、幸せに恵まれず、目標達成できない人は、自分が大切にするべきものを理解しておらず、何をしたらいいのかを決められない場合が多い。そのためたいていの場合、自分の大切なものを台なしにしてしまい、ストレスを抱えることになる。(p.147,148)

自分の価値観、信念を明確に認識し、それに基づいて行動することこそが、目標の達成や本人の幸せに繋がっていく、ということだ。ヴォネガットのおじさんは(そして、ヴォネガット自身も、彼の子どもも孫も)、それを実践できていた人だったのかもな…などとおもう。

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『ユービック』/フィリップ・K・ディック

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

他の多くのディックの作品と同様、『ユービック』においても、世界のありようへの違和感、自分の周囲の世界がどんどん足元から崩れていくような、悪夢のような感覚が全体のムードを決定づけている。ただ、本作では、それに加えて、絶えず迫り来る死の匂い、不可避的な死の感触というやつがなんとも濃厚で、そこがこの作品独特の味わいになっているようにおもわれる。主人公たちが迷い込むことになる世界では、”時間の退行”とでも言うべき現象が発生しているのだけれど、この現象は、世界との不調和と死の近接、この双方の感覚を先鋭化し、強烈に印象づけるためのSF的アイデアとして機能していると言えるだろう。

作中、”時間の退行”現象は、2つのパターンで発現しているように見える。まず、ひとつめは、”世界全体の時間の退行”。主人公たちが存在している世界そのものの年代が退行していき、それに合わせて最新のテクノロジーがどんどん古いものに変化していってしまうーー例えば、テレビ受像機はダイヤル同調式AMラジオに、航空機はカーチス=ライトの複葉機にーーという現象。

で、もうひとつが、”主人公たちの身体の時間の退行”。これは世界全体の退行よりももっと急激に訪れるもののようで、主人公たちは「深い疲れを感じ」はじめると、もう間もなくその身体的能力が一気に退行していってしまい、超急激に老化・収縮してしまう(数時間の間に、「ほとんどミイラのように脱水されたもの」になってしまう)。こちらの現象は、主人公たちの身の回りにまでもある程度影響を及ぼしうるもののようで、手にしたタバコがぼろぼろとくずれてしまったり、コーヒーのクリームを開けると腐っていたり、などといった事態も引き起こす。どちらの現象も、いつの間にか時間が退行している…!?という感覚がなかなかに不気味だ。

この現象をどうにか解決するべく主人公たちは奮闘することになる訳だけれども、じつはここでは、現象発生のロジックというやつは、とくに重要ではない。もちろん、作中ではいちおうの回答が用意されているように見えるーー主犯は、半生者の少年、ジョリー・ミラー。それに、”過去に戻って選択し直すことができる”能力者であるパット・コンリーも、何かしらかの力を発揮していたようにおもわれるーーのだけれど、それはこの、”周囲の時間が勝手にどんどん退行していくし、おまけに、自分自身の時間までもいきなり退行してしまうかもしれない世界”の立ち上げにあたって必要とされた、差し当っての回答というやつに過ぎないのだとおもう(少年の力がどのくらいのものなのか、パットの能力がどの程度発揮されていたのか、なんかについては最後まで大して解説されないのだ)。あくまでも物語の主軸になっているのは、悪夢的な世界における自分自身と周囲の環境とのずれの感覚であり、不意に迫り来る死に対する恐怖心なのだ。

この迫り来る死、身体能力の急激な退行についての描写には、なんだか異様な迫力がある。クローゼットのなかでからからに干からび、ボロ布のようになった同僚の亡骸を見つけるシーン、あるいは、自らの死期を悟った人物が、トイレの個室にこもろうと必死で懇願するシーン。そして、物語のクライマックスともいえる、自らの衰弱を認識した主人公が、ひとりきりになることのできるホテルの部屋を目指すシーン。

心臓にズキンと激痛が走って、彼は体を二つに折った。もう一段上がろうとしたが、こんどは失敗した。足をつまずかせ、気がつくとそこにうずくまり、背を丸めて、ちょうどーーそうだ、と彼は思った。あのクローゼットの中のウェンディ。ちょうどこんなふうに背を丸めていたっけ。片手を伸ばして、彼は上着の袖口をつかんだ。そしてひっぱった。

布地がちぎれた。乾ききって脆くなった繊維は安物の仙花紙のように破れた。なんの強度もない……まるでスズメバチがこしらえたなにかのようだった。これで、もう疑いはなくなった。まもなく彼はある足跡を自分のうしろへ残していくことになるだろう。ぼろぼろになった布の切れはしを。ごみ屑の航跡がつらなる先は、ホテルの部屋、あこがれの孤独。向性に支配された最後の労苦の行動。ある指南力が、死に向かって、衰退と非存在に向かって、彼をうながしている。不吉な魔力が彼をつき動かしているーーその終点は墓場。

彼はもう一段登った。(p.279,280)

“ある指南力”、”不吉な魔力”と書かれているのは、死が訪れるその瞬間をひとりで孤独に受け止めたい、というほとんど本能的とも呼べるような欲求であるらしい。正直言って、俺にはこの感覚がいまだにぴんときていないのだけど、長々と描かれるこのシーンの持つ迫力は、些細な疑問など軽く吹き飛ばしてしまうようでもある。


『高い城の男』/フィリップ・K・ディック

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

フィリップ・K・ディックの1962年作。彼の作品のなかではわりかし有名な方だとおもわれる一冊だけど、俺は今回はじめて読んだ。物語の舞台は1962年のアメリカ。ただし、第2次世界大戦が枢軸国側の勝利に終わり、日独によって分割統治されているアメリカ、である。そこでは、もし連合国側が戦争に勝っていたら?という設定の小説(「イナゴ身重く横たわる」)が密かなブームを巻き起こしていたのだが…!

本作は群像劇のような体裁をとっており、アメリカ人、日本人、ドイツ人のさまざまな立場の人物たちが代わる代わる登場する。人種も身分もばらばらな彼らが、この世界に対する己の所見を語ることで、枢軸国側の勝利の結果、世の中がどのように変化したのかが少しずつ明らかになってくる…という構成がおもしろい。敗戦国アメリカでは易占がやたらと流行っているみたいだし、日本人はすっかり失われてしまった戦前のアメリカ文化に強い憧憬を抱いているようだ。そしてドイツは、テレビの普及よりも早く火星を植民地化しようと躍起になっているらしい。

なかでも、日本人に対して劣等感を覚えるアメリカ人、って描写が印象深い。日本-アメリカの関係は現実の裏返しになっているわけだけど、これはなかなか強烈だ。

ロバート・チルダンはぱっと顔が赤らむのを感じ、新しく注がれたばかりのグラスの上に背をかがめて、この家のあるじから顔を隠した。最初からなんというひどい失態を演じたもんだろう。大声で政治を論じるという、ばかなまねをやらかしてしまった。しかも、無礼にも異論を唱えたりして。招待者側がうまくとりなしてくれたおかげで、やっとこの場が救われたようなもんだ。わたしはまだ修行がたりない、とチルダンは思った。彼らはとても上品で礼儀正しい。それにひきかえ、わたしは――白い野蛮人だ。まちがいなく。(p.162,163)

事実に直面しろ。わたしはこの日本人たちと自分とがおなじ人間のように思いこもうとしている。だが、よく見るがいい――日本が戦争に勝ち、アメリカが負けたことに対する感謝の念をおれが口走ったときでさえ――それでもまだ共通の地盤はない。言葉の上の意味と、こうやってげんに対面した感じとは、はっきり別物だ。彼らは脳からしてちがう。魂だってちがう。よく見るがいい。(p.169)

まあ、こういうねちねちした心理描写が本作の読みどころだと言えるだろう。PKD作品ではおなじみの、真贋のモチーフなんかは全編通して繰り返し登場するものの、他の作品で見られるようなSF的なぴかぴかしたガジェットは出てこないし、自分自身やこの世界そのものの実在に対する不安だとか、表と裏とが何度もひっくり返されてくらくらときてしまうような酩酊感、といったものもあまり感じられない。そういう意味では、結構しぶめの、普通小説寄りな作品だとおもった。


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