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『また会う日まで』/ジョン・アーヴィング

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「また会う日まで」、この本は3週間くらい前に吉祥寺のブックスルーエで見つけて、「あ、アーヴィングの新刊出てたんだっ!!買わねば!」とおもって買ったんだけど、ちょうどその日はみうらじゅんのサイン会をやっていて。店に入ってすぐの、2階に上がる階段のところにけっこうな列ができていて、つい俺も、「え、みうらじゅん来てるの?いいなー」なんて『みうらじゅんマガジン vol.2仏像ロック』買っちゃうところだった。

『仏像ロック』を買わずにすませたのは理由があって、このアーヴィングの新作、上下巻に分かれているんだけど、1冊2400円もするわけ。まあ、海外文学のハードカバーなんて高いのがあたりまえだけど、にしてもやっぱり高い!そしてアーヴィングだけあって(彼は、やたらめったら長い小説ばっかり書くので有名)ボリューム感がはんぱない。ジョン・アーヴィングの小説の魅力のひとつは、この延々と続く物語を時間をかけて読んでいくなかで得られる、独特のカタルシスにあるとおもうんだけど、今回もまた上下とも500ページを越える大長編だし、まちがいなくいろんな意味でおなかいっぱいになる。そういうことが読む前からよく分かっていたので、俺は万難を排して――というのは、積読してある本たちをなんとか処理して、ついでにドイツ語の予習も就活用の読書もすべていったん忘れることにして――この小説にとりかかることにしたのだった。

とても長い小説というのは、あたりまえだけど、読むのに時間がかかる。何日もその作品世界に出たり入ったりをくり返すことになる。けれど、感想っていうのはいったんその小説を読み終え、その作品世界を出たあとで、読後の印象として語らざるを得ないものだ。読み終えた地点からその小説を振り返っても、そこには、読んでいたときのこころの動きとかかんがえっていうのは、完全には残っていない。だから、アーヴィングみたいな長い作品について語るのってむずかしいよなー、っていつもおもう。それはもちろん、長い小説に限った問題ではないのだけど、やっぱりこれだけ長いとねー。訳者あとがきによれば、今作はアーヴィングのいままでの長編のなかでも最長とのこと。

アーヴィングの小説のテーマは、昔から(『ガープの世界』、以降)すごく一貫している。時間の流れを描くことだ。そのディケンズ的に長大な物語のなかで、登場人物たちは、時とともに何度も浮かび上がってくる、過去の傷や因縁と対峙しなくてはならない。世界も、そこに生きる人の人生というのも、人の理解できる範囲になんて、とても収まりきらないもの。人はそれらをなんとか理解しようともがくけれど、その結果はというと、悲劇的にもなれば、同時に喜劇的にだってなりうる。しかし、そのようにハードな生のなかでも、ユーモアやポジティブ感をもって、確かな豊かさを見出していくことはできるはず。毎回のように反芻されるのは、そんなテーマだ。

「勇気があるっていうのは、起こったことを受け入れるってこと――なんとかがんばって乗りこえるってことだよ」(『未亡人の一年』)

もう少しで現実になったかもしれないこと、なるべきだったことにこそ、真実は宿るものである。(『ピギー・スニードを救う話』)

このあたりが、アーヴィングの哲学、倫理感であるだろうとおもう。そしてこの倫理観は、本作にもばっちりと織り込まれている。

主人公、ジャック・バーンズの半生を描くこの物語では、彼の幼いころの体験、その記憶がとても重要な意味をもつ。時の流れのなかで、彼がどのように生きるのか、そしてその生のなかで、過去とはいかなる意味をもったものになっていくのかが描かれる。自らの過去や、周囲にある過去の存在にたいして注意深くなり、さまざまな声――各々がすきなように状況を語る――に耳を傾けるなかで、自分のありかたを検証し、再構成していく。そのような、過去の記憶がまずは形作られ、後にはそれと対峙していくプロセスが、長い長い物語になっている。

アーヴィングの小説は、いつもシニカルでありつつ感傷的だけど、それは本作でも変わらない。シニカルさと感傷というのは、つまるところ同じものの表裏なのであって、お互いがお互いを引き立てるような働きをする。そして、このような長編小説において、それらがもっとも強く読者のこころに訴えかけてくるのは、やはり時の流れが感じられるときだ。かつては輝いていたものが、色褪せていることに気がつくとき。幼いころたいせつにしていたものが、じつは自分のおもっていたのとは、まったく違う意味合いをもっていたのだとわかるとき。昔はすこしも理解できなかったことが、受け入れられるようになったとき。読者はこの壮大な、というか、ひたすら長い物語につきあうなかで、否応なしに時間の経過を経験することになり、その読書に割いた時間の長さは、まちがいなく、作品中に流れる時の流れのリアリティを、より強固なものにする。読者が時の流れを実感するときには、センチメンタル過剰で陳腐になるかもしれない物語も、たしかな説得力をもつことになる。

集積していく過去や、時の流れを感じずにこの小説を読むことはできないし、その長さや重さはときにくどくどしく、単調なものにもなりうるけれど、そういった要素を含むことではじめて見えてくるような豊かさというものが、確実にある。登場人物の経験のプロセスが、逐一、しつこいくらいに描かれる中で、結論に至るまでの道が、こころを動かすようなちからをもってくる。わくわくしながらストーリーを追い、ページを繰っていくなかで、そういう、なんだかあたりまえのことを実感する。

もちろん、作者がこの長い物語のなかで描き出していく答えとは、ときにシニカルでありつつも、前向き、肯定的なものだ(だいたい、いままでアーヴィングが登場人物の生を否定的に書いたことなんてあっただろうか!?)。いつもおだやかに共感する視点があって、物語にあたたかみがある。この小説は、そんな率直な肯定感がとても魅力的だし、そこにはなにしろ長い時間をかけて読むなかで検証されてきた説得力があるから、読んでいて勇気づけられもする。あー、やっぱ小説ってすげーよ!いいよ!!って、素直に言いたくなっちゃう作品だった。


『僕が戦場で死んだら』/ティム・オブライエン

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ベトナム戦争に従軍した経験を持つアメリカの作家、ティム・オブライエンが書くのは、いつも戦争についてだ。この処女作において語られる物語も、ベトナムでの経験がベースにあるものなのだろうけれど、とにかく印象に残るのは小説全体から立ちあがってくるリアリティ、説得力といったものだ。

1人の歩兵として、主人公は無意味としかおもえないような戦争をなんとかサバイヴしながら、いったい何が価値のあるものなのか、あるいは、価値があるとして、では価値とはいったいなにか、といったことについてかんがえることになる。だがもちろん、ハードな現実を前にしては、たとえば、勇気とはなんなのか、正しい行動などというものがあるのか、などといった疑問は、保持しつづけることすらむずかしい。そういった困惑や諦念、…いや、オブライエンの作品に諦念、ということばは似合わない。なんていうのかな、まあそういう自分の揺れるおもいが注意深く描かれている。冷静な筆致、ってやつかな。

オブライエンの文章は、何がいいとかわるいとか、どうあるべきなのか、といった問題に関する答えをはっきりと書くことはない。その代わり、彼は、ひたすらリアリティを提示することに執念を燃やしているようにおもわれる。オブライエン曰く、happening-history(事実歴史)よりも、むしろstory-history(物語歴史)を重視するということらしく、そういうことについてかんがえだすと、小説のリアリティとはいかなるものか??ということがやはり気になってくる。

まったく客観的で、歪められていないフィクションなどといったものは存在しない。いや、だからそういうのはノンフィクションでしょ、って言われそうだけど、ノンフィクションでも、ある人がことばを使って文章を書く時点で、やっぱりどこかに視点を設定しなくてはならないし、そうなればぜったいの客観性は担保され得ない。だから、リアリズムの小説であろうとノンフィクションであろうと、なにかしらの歪曲や誇張から逃れることはできず、でも人はふつうにそういった作品を“リアリティのあるもの”として読んでいくことになる。だから、リアリティを感じる小説、文章といったものがあれば、それはすべからく“人にリアリティを感じさせるもの”である。リアリズムとはあくまで語り方のひとつであって、それは読者に、読者が同意・賛成できるようなリアリティをよびおこすことのできる(あるいは、よびおこす、と考えられている)語り方なのだろう。

で、オブライエンの話に戻るけど、この『僕が戦場で死んだら』って、フィクションだかノンフィクションだかよくわかんないなー、ってはじめ読んだときにおもったんです。でも、かんがえてみるとそんなのは別にたいした問題じゃないんだろうな、ってことがわかってきた…、気がするので上のようなことを書いてみました。

さいごに、すこし引用してみる。

夢が教訓の種になるだろうか?悪夢に主題があるだろうか?われわれは目覚めて、悪夢を分析し、それをもとに自分たちの人生を歩み、結果として他人に助言を与えられるだろうか?たかが一歩兵が戦場で戦ったというだけで、戦争について何か重要なことを教えられるのだろうか?そんなことはできはしない。彼にできるのは、戦争の話をすることだ。

なるほどー、かっこいいー。というか、こういうふうに書かれると、やっぱりとてもリアルに感じるし、信頼できる作家だなー、っておもってしまいます俺は。


『暗闇のスキャナー』/フィリップ・K・ディック

暗闇のスキャナー (創元SF文庫)

この小説にあるのは、人は現実という巨大なシステムのなかの歯車のひとつにすぎない、という冷徹なまでの視線だ。ドラッグを飲んでトリップすることで、瞬間、ハードな現実から抜け出すことはできる。だが、ドラッグをきめまくった挙句にいきつく先は、死か廃人になるかの二択でしかなく、しかも廃人になっても歯車として利用されることから抜け出すことすらかなわない。そのような現実が、ひたすら虚ろな事実として描きだされている。

ディックの視線は、疎外者、不適応者としてのジャンキーたちに同情的ではある。その叙情感をベースにして、物語は進行していく。しかし、主人公の悲惨な現実崩壊のドラマにしても、やはりシステムの働きのなかであくまで人為的に仕掛けられたものであって、そこにはどのような意味でも、救いといえるような救いはない。

小説中に、台所の流しのしたで小さな骨のかけらを見つける、ごく短い描写があって、江國香織の『流しのしたの骨』をおもいだした。『暗闇のスキャナー』とはまったくかけ離れた、いっけんひたすら穏やかで、ゆったりとした世界のはなし。そこでは、流しのしたにある骨のイメージは、温かで平らかな世界のすぐしたにある、なんだかよくわからない冷ややかなものとして提示されていた。日常のなかに潜み、けっして解消されることのない不気味さ。ディックによる流しのしたの骨の描写は、どうしようもなく崩壊してしまった現実のなかで一瞬垣間見える、失われてしまった平穏や、生の温かみのイメージを浮かび上がらせていた。ちょっとセンチメンタルだけれど、世界を冷徹に描いていくなかでも、そうやって素直に切なさをさらけだしてしまう感じが、やはりディックの魅力だとおもう。

流しのしたの骨 (新潮文庫)


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